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本編
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ピピッ、ピピッ……。
目覚ましが鳴っている。
実咲は眠さをこらえて起きあがると目覚ましを止めた。
別れるはずだった雅貴と別れなかった気の重さ、そしてそれをどこかほっとして、うれしく思っている自分。目覚めたと同時に襲ってきた複雑な気分を紛らわすように、実咲は髪をかき上げてため息をついた。
今日から、バカげた雅貴のゲームが始まる。
今日は雅貴が研究室にまで顔を出すことはないはずだ。その事に少しほっとしながら、実咲は白衣に着替える。
「おはよ」
顔を上げると涼子がいた。
彼女は高校の頃からの友達で、実咲が気を使わず何でも話せる数少ない友達だった。大学は別れたのに、会社で一緒になり、付き合いはそろそろ十年近くなる。会社が一緒なのは偶然ではなく、就職難で右往左往してた頃に二年早く入社した彼女からうけてみないかと誘われたのだ。
「おはよ」
返すと、涼子は困ったように笑った。
「浮かない顔してる」
顔は笑っているが、実咲を心配している声だ。
「ま、ね」
苦笑気味に笑うと涼子がそのまま隣に来て小さい声で囁く。
「で、どうしたの? ていうか、どうなった?」
二日前雅貴の浮気現場を見たときに、唯一愚痴を漏らした相手が涼子だった。別れるつもりであることも全部話してある。
愚痴に付き合わせた上、心配までかけさせている。挙げ句の果てにその心配への返事が更に情けなくて実咲は曖昧に笑って小さくなりながら答えた。
「最悪なことに、別れてない。もう、ダメすぎ」
小さい声でコソッと答えると、涼子が顔をしかめて、頭を押さえた。
「なんでまた。辛くない?」
「けっこうね」
答えて、ため息をつく。
周りに聞こえないようにコソコソ話が続く。
「でもさ、どういう訳かあいつ、私が別れようって言ったのに、ひきとめたのよ」
「マジ?」
涼子が裏返りかけた声を出した。
「うん、マジで。もうさ、イヤなんだけど、それが嬉しくてさ、ダメだね」
笑うしかなくて笑うと、涼子も困ったように口元だけ笑いかけてきた。
「正直、ダメだと思うけど、仕方ないか、そんなことになっちゃったんなら」
「うん、そう言ってくれるとありがたい。涼子、今日の昼あいてる?」
「うん? グチ聞いて欲しい?」
先に言われて、実咲は笑ってうなずいた。
「そう。悪いけど私の精神安定剤になってちょうだい」
「高くつくよ?」
「お昼代?」
「もちろん」
涼子が笑って、実咲はまじめな顔を作って返す。
「承知いたしました」
「うそうそ」
軽口で話すうちに、朝礼の時間になり、二人は慌てて向かった。
「あのバカ、どうしようもない奴だとは思ってたけど、ホントにどうしようもない奴だね」
昼休み、実咲は喫茶店で昨日の出来事を涼子に話すと、彼女はあきれかえった様子でため息をついた。
「だよね」
「でも、そのどうしようもない男が好きな実咲も、どうしようもないよね」
「まーね」
実咲は笑いながら水を一口飲む。実咲は苦笑いをするぐらいしか返事が出来なかった。すると、涼子は少しきつい表情になり実咲に詰め寄ってくる。
「まーねじゃないよ、実咲。前から思ってたけどさ、何であんなんにあんたが引っかかるのよ。そりゃ井上君はかっこいいよ? 私だって、誘われたらふらふら~って行きたくなるのは認める。でも所詮遊びの相手としては、でしょ。あんたが本気になる価値が、わかんない」
心配してくれる涼子に、実咲は力なく頷いた。
「そうだよねぇ……。私も、そう思うんだけど。でもさ、雅貴は悪い奴じゃないのよ」
自分でそう言ってから、ため息が出た。
脳裏をよぎるのは、雅貴の笑顔。
「どこが!」
涼子が目をつり上げたのを見て、実咲は困ったように笑った。
「うん、だからね、女への態度はどうかと思うんだけど。人としては悪くないんだよ、ただ女にだらしなさすぎるんだよね」
その言葉に、涼子がむっとした様子で更に詰め寄ってくる。
「ということは、実咲にとってはダメな人間って事に変わりないじゃん」
「そこが問題なのよ」
あははは、と、実咲は笑って見せた。笑うしかない気分だった。
何で私は雅貴を弁護しているのだろう、と。
そんな気持ちがやりきれなかった。好きな気持ちっていうのは、こんなにもやっかいだ。ダメな奴だと思いながらも、人に言われるとかばいたくなってしまう。
涼子がため息をついて、真剣な顔をして実咲を見た。
「賭で付き合うなんて、そんなコト言うのは、本気だと思えないよ。絶対、いつか実咲が苦しくなるよ。意地をはって付き合ったりしない方がいいと思うんだけど」
涼子の言葉と、そして真剣に実咲を思う気持ちとが、胸に突き刺さった。
その通りだと実咲は思った。その通りだと思うのに、うなずけない自分が切なくて、情けなくて、涙がこみ上げそうになる。
「分かってる。分かってるけどさ、ダメなんだよ。嬉しいの。ひきとめられるなんて思わなかったからさ。別れなきゃって思ってるけど、ホントのホントは別れたくなくって……。ずっと一緒にいたいの。辛くなるって分かっててもさ、一緒にいたいんだ」
実咲は泣きそうになりながら笑う。
すると、困ったように笑った涼子がぽんぽんと背中をたたいた。
「うん、そうだね、そんなもんだよね。辛いのは実咲なのにね、ごめんね」
優しい声だった。涼子の気持ちが嬉しくて、今度は違う意味で涙がこみ上げてきた。涼子の言葉は正しい、実咲がそう感じているのも知っていて、涼子はそれでも実咲を思いやって尊重してくれている。
それが分かった。
うれしさに、実咲の頬がゆるむ。
実咲は目尻をぬぐって、涼子に笑顔を向けた。
「ううん、ありがと。涼子がさ、いてくれてよかった。甘えてごめんね」
「いいって。私は、実咲があいつと付き合うの、あんまり賛成しないけど、実咲が泣くのヤだしさ。いい方向に行けるように祈ってるから。迷惑とか思わなくていいからさ、いつでも愚痴っていいから」
「昼ご飯代払ったら?」
「そうそう、そこ重要」
ぷっと二人で吹き出す。実咲は涙を拭いながら笑った。
グチを交えながらもたわいない話をしていると携帯がなった。
着信を見て、実咲の手が止まる。それを見て察した様子で涼子が尋ねた。
「誰?」
「……雅貴」
今はまだ、雅貴と顔を合わせたくなかったし、声も聞きたくなかった。
顔を見れば、声を聞けば、また感情に流される。そして流される自分に嫌気がさすだろう。そして会いたくてたまらない自分を、嫌悪感を持って自覚させられるのだ。
「出なよ」
涼子の言葉に実咲は戸惑いながらも、出ないでいる理由を思いつかず覚悟を決めて電話にでた。
「はい」
『実咲? 今日、何時頃終わる?』
「今日はたぶん六時頃だと思う」
『じゃあ、その後どっか行こう』
断ろうか、実咲は一瞬そう考えたが、断ると「賭に付き合ってあげている自分」のスタンスが崩れそうに思えた。
遊んであげているのは、私の方。
雅貴にそう思わせたい。そんなくだらないプライドが実咲を突き動かした。
「わかった、終わったら電話する」
気がつくと、そう答えていた。断ることが屈辱に思えた。
電話を切ってから、とたんに後悔がこみ上げる。何をしているんだろう、と。くだらないプライドに振り回されても自分に良いことは何もないのに。
実咲はそんな自分に疲れてふっと息を吐くと、涼子が目の前で、しょうがないなぁというふうに、あきらめた様子でに笑っていた。
「思うようにしたらいいよ。実咲が望む方を私は応援するから。ダメだと思うのならそう言ってあげる。でも実咲が選んだのなら、私は実咲の選んだ方を応援するよ。それでもしがんばってもダメなら慰めるぐらいしてあげるから」
「うん、ありがとう」
涼子と話していると、実咲の目の前が開けて見えた。心が軽くなるように思えた。
涼子がいてくれて良かった。
そう思うけれど、改めてもう一度言うにはちょっと照れくさくて言えず、実咲はちょっとごまかして敬礼をしてみた。
「その時はよろしく。頼りにしてます」
「よろしい。その時の謝礼は忘れないように!」
涼子が胸を張って、実咲に会わせたまじめな低い声で答えた。
「昼食?」
実咲がくっと吹き出すと、涼子もぷっと吹き出し、顔を見合わせて笑った。
朝から重かった足取りが、喫茶店を出る頃には、だいぶ軽くなっていた。
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