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本編
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仕事が終わった。
それがたまらなく憂鬱に思えた。
憂鬱で逃げてしまいたいのに、会えないと寂しくなるだろう。仕事であれば、どちらの気持ちも抑えがきく。けれど会社の外に出れば、両方の気持ちにはさまれて身動きが取りづらい。
涼子とは部署が違うため終わる時間も違う。
実咲はため息をつき、ためらいながらスマホを取り出す。着信履歴に残る雅貴の名前。
やっぱり、忘れたふりして帰ろうか……。
一瞬悩んで、けれど結局かけてしまう。
呼び出し音を聞きながら、いっそ、電話に出ないで欲しいなどと考える。けれどすぐに呼び出し音がぷつっと途切れて雅貴の声が聞こえてきた。わずかな緊張感に、心臓がどくりとはねた。
『終わった?』
実咲の心とは裏腹に機嫌良さそうな雅貴の声。
「うん。今どこにいる?」
『そこから一番近いコンビニ。外にいるから』
「分かった。十分ぐらいで行く」
なんでもない会話にわけが分からないほど緊張した。実咲は切れた通話画面を見つめながら小さく息を吐く。
私はこんなに緊張しているのに、昨日の今日で、雅貴には何の変化もない。
そう思うと、更に自分が情けなく思えて、もう一度ため息をついた。
「こんなコトしてて、いいもんかな」
呟きながら重い足取りでコンビニに向かう。
見えてきたところで、雅貴がコンビニから少し離れたところに座り込んでいるのを見つけた。
何しているのか怪訝に思いながらも近づくと、足下に子犬が戯れているのが見えた。
またか。
実咲は苦笑した。
雅貴と親しくなったきっかけも、彼が捨て犬と遊んでいたのを見たときだった。
それを思い出して、わずかに懐かしさが込み上げた。
声をかける前に実咲に気づいた雅貴が、顔を上げてにこりと笑うと「よお」と軽く声をあげた。
「また捨て犬でも見つけた?」
「ていうかもらった。里親探してるって言うから」
子犬が差し出される。実咲はそれに逆らわず受け取ると、胸に抱いた。
「ちっちゃいね、生まれてそんなにたってないのかな」
「三ヶ月。子犬を人にやるのならそれまでは絶対に親元で育てるのが義務だって、説得しておいたから。そしたら三ヶ月になったらそっこーで連れて来やがった」
「なんで三ヶ月?」
「犬同士の社会性をつけるため。あんまりちっこいときに母犬から離したら、犬が自分を犬だって自覚しないんだってさ」
「へぇ。そんなのがあるんだ」
「売ってるヤツは、平気で三ヶ月以下のヤツを売ってたりするけどな。ああいうの見ると何かやりきれないよな。取り扱っている以上俺が知っている程度のことは知ってるだろうに。そんな常識より、子犬の時期に需要があるからそれを優先させて売るとか。命よりも売り上げ重視っていうの? そういう子犬を押しつけられる無知な飼い主からしても、良い迷惑だよな。まあ、飼い主が無知だから、ああいう商売の仕方が成り立つんだろうけど」
辛辣なことをなんでもない表情で言いながら、実咲が抱いている子犬に手を伸ばし、優しい目をして子犬の首を撫でた。
「雅貴、よく引き取る気になったね」
「二匹も三匹も一緒だろ」
苦笑しながら雅貴は実咲の腕から子犬を抱き取った。
「一回家帰るからさ、ちょっとつきあえよ」
「おっけ」
答えて、一緒に歩き始める。
あのときと一緒だな。
実咲は懐かしんでそっと笑う。胸に懐かしさが胸に広がっていた。
その既視感が実咲の気持ちをゆるめてしまったのか、雅貴と肩が触れ合った。これまでみたいにふれあうほどの距離で歩きたくないと気をつけていたのに。自分の気のゆるみを感じながら実咲はまたさりげなく距離をあけた。
なんでこのタイミングなんだろう。
子犬を抱いた雅貴を見て思う。
いっそのこと嫌いになりたいのに、今やたらと実咲の好きな雅貴の姿ばかり見せつけられているようだった。
好きだなんて思っちゃいけない。揺るみかけた気を引き締めた瞬間。
「そんなに離れるなよ。やっぱりまだ怒ってるわけ?」
一瞬、考えていることが知られたかのように感じて、実咲はどきりとした。
が、そんなわけはない。実咲は冷静になると、今度は雅貴の言葉にムカッときた。
何をバカなことを言っているのか、と。怒ってないわけがないじゃないか、と。
けれどそんな気持ちを抑えて実咲は笑ってみせた。
「怒ってるわよ」
本心をあえていつもの軽口のように言ってのける。昨夜は雅貴と一緒にいる誘惑に負けたけれど、ゲームというのなら上位に立つふりぐらいしてみせる。にっこり笑ってなんでもないふりをしてみせる。
「悪かったって」
実咲の笑顔を真に受けたのか雅貴はへらへらと謝ってきた。実咲はにっこり笑ったまま雅貴に挑戦するように視線を合わせた。
「まさか謝って許してもらえるなんて思ってないでしょ?」
「分かった。じゃあ、こいつを心ゆくまで触らせてやるから」
そう言って子犬が差し出される。
あっさりと自分の挑戦が予想外な方向に躱され、怒っていたのに、もう雅貴の言葉に揺らぎ始めている。
「もうっ」
実咲は思わず本当に笑って、再び差し出された子犬を抱き取ると、子犬にキスをしながらこれ見よがしに言った。
「おまえは、こんなダメ男になっちゃダメよ」
「お~い、実咲。それはちょっと失礼じゃないか?」
雅貴の言葉に実咲は「ふーんだ」と顔をしかめて見せ、頭の片隅で考える。
そうだ、女としてそばにいなければ、雅貴の隣はとても居心地がよかったんだ。
久しぶりに感じる居心地の良さに、張り付かせていただけだった実咲の笑顔が本当の笑顔に変わる。
いやになる。
実咲は心の中でつぶやいて、二人の間にある気安さや楽しさを感じながら、簡単にいらだちが消えた事を、自嘲した。
そして、苦々しい気持ちで思い出す。
雅貴とこんな風に軽口を言い合うの、私、好きだったんだよな。最近はこんな風に言葉を交わすことが少なくなっていたけれど。
軽口を交わすごとに、実咲の胸の中に以前の気持ちがよみがえってきていた。
「なにが失礼なわけ? ペットは主人に似るから、雅貴にだけは似ない方がいいに決まってるじゃない?」
ふふんと笑って言うと、ぷっと雅貴が吹き出した。
「違うって。よく見てみ。そいつ雌だから。失礼な奴だなぁ。こんなに美人なのに男扱いされて。な」
雅貴が実咲の腕の中の子犬を優しくなでて話しかける。子犬に近づけられた顔。けれど実咲の目の前にある雅貴の顔。一瞬どきりとする。
けれど雅貴の意識は子犬だけに向けられていて、期待混じりの警戒が無駄だったことに気づく。
そんな内心の恥ずかしさを振り払いながら、ふと思う。
そうだ、私は、雅貴のこんなところが好きだった。
動物が好きで、捨て犬に優しくて、里親を捜すために何軒もの知り合いに電話するような雅貴が。
よみがえる気持ちが、出会った頃の記憶を引き寄せた。
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