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囚心
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この苦しみは、実咲が感じていた苦しみだ。
そのことに気付いた雅貴は立ち尽くした。
俺は、この程度のことも考えていなかったのか。
深く息を吐く。そして頭を振るとまた歩き始めた。
言葉で言えばいい物を、わざわざ実演して。結局は嫌がらせだろ。
そう雅貴は心の中で悪態をつく。
凉子に罪悪感の矛先を向け、悪態をつくことで、雅貴は見たくない感情から目をそらせようとした。
俺は、浮気のつもりもなかった。実咲を傷つけるつもりもなかったんだ……。
誰にともつかぬ言い訳を心の中で繰り返しながら、雅貴は息をつく。
最後にキスをした女も、実咲と付き合っている間に関係を持った女性たちも、全部……。
言い訳が、次から次へとあふれてくる。
実咲と付き合っている間、どうしようもない苛立ちが常につきまとっていた。それを実咲にぶつけたくなかった。彼女たちはその苛立ちを紛らわせる相手にすぎなかったのだ。実咲に苛立ちをぶつけないためだった。浮気をしたつもりはなかった。二股をかけたつもりも。付き合っていたのは、大切にしていたのは実咲だけだった。
苛立ちをぶつけて実咲を傷つけないためだった。
『自分はずっとしてたくせに』
違う。
頭の中で響く凉子の声を拒絶する。
……違うんだ。
必死に言い訳を繰り返しても、脳裏をよぎるのは自分以外の男と笑う実咲の姿で。それを思うだけで苦しくなる自分を、付き合っていた当時の実咲の気持ちに置き換えて泣きたくなる。
けれど、実咲は、ずっと、こんな気持ちになっていたのだろうか。こんなにも……いや、自分のやったことを考えると、おそらくそれ以上に苦しんでいたのかもしれない。
雅貴の胸をどうしようもない苦しさが、重い、重い固まりとなって落ちてきた。血の気が引いたように、頭がくらくらする。
実咲は、この苦しさを我慢していたのか。俺が、そんな思いをさせていたのか。
謝りたいと思った。すがりついてでも、ごめんと、ひどいことをしたと。できる事ならば、今すぐにでも。
自分のしたことが、重くのしかかってくる。実咲にした仕打ちが、じわりじわりと、ひどい罪悪感となって、心を浸食する。
ずっと、分かっていたつもりだった。何が悪くて、何が実咲を傷つけたのか。けれど、それは雅貴自身の都合と、雅貴の目から見たものでしかなかったことに気付いた。実咲のことを考えているつもりで、自分の都合の良いフィルターだけを通して見ていた。実咲が、本当はどういう気持ちだったのか、考えているつもりだけで、全く目を向けていなかった。
気付いた事実に、息苦しさを覚える。
実咲がどれだけ苦しんでいたのか、彼女にどれだけひどいことをしたのかようやく見えてきた。
みさき。
声になることなく、彼女の名を呼ぶ口元から、音にならない吐息が漏れる。
けれど、それを、なんと言って伝えればいい。
ようやく目が覚めたとでも? 嫌な思いをさせた、もう二度としないから許して欲しいとでも?
散々彼女を傷つけてきた男の言葉としては最低だと言うことが、今なら分かる。
自分の言葉には、どこにも、信用できるだけの物がない。
言葉で丸め込んでも、きっと、彼女の信用は取り戻せない。彼女の目から見た自分の姿が、今は分かるような気がした。
付き合っている間に、何度も他の女性と関係を持ち、いたずらで浮気をほのめかすような人間を、どうして今更信用できるというのか。
会って話をすればやり直せると、今までは思っていた。それがとんだ思い上がりだったのだと、ようやく気付く。いや、確かに、うまくやれば実咲と、もう一度関係を始めることは可能だったかもしれない。
けれど、おそらくは涼子の言うとおりなのだろう。きっと、雅貴の都合で、口先と感情を逆手に丸め込んで無理矢理修復しても、関係はすぐに破綻する。
やり直したいと思っていた。何がなんでもと。
気付く直前の自分を思い出して、その愚かさが刃となって雅貴の胸を切り裂く。
やり直すためなら、どのくらい時間がかかっても良いと、何度でも謝ると、そう考えていた。
けれど、そんな事を考えることさえ愚かだったのだと思えた。今は、もう、やり直せる気がしなかった。
自分のした仕打ちは、謝って取り繕えるものではなかったのだ。
失ったのは愛情ではないのだ。信頼なのだ。
一度裏切られた信頼は、誠意を尽くすだけでは取り返せない。どんなに誠意を尽くしても「信頼を裏切った過去」があれば、必ず疑念の種が残る。
仕事柄、雅貴はその感情には人一倍思うところがあった。
ふと、涼子に以前言われた事を思い出す。
『ホント、井上くんって、自分の事しか考えてないよね。実咲がどう思うかを考えるときは、自分の思い通りに動かそうとするときだけ』
その言葉を聞いたとき、何を訳の分からないことをと思って、気にもかけていなかった。あのときは、自分なりに実咲の気持ちを考えているつもりだったから。
今思うと涼子の指摘が的を射すぎていて、溜息が出た。
確かに、今まで実咲を思い通りに動かそうとしていたのだ。
実咲の気持ちを考えているつもりになっていた。けれど雅貴の考えている実咲の気持ちとは、最終的に、自分の思い通りの結果に持って行くためのものだった。彼女の心や想いを無視した物だった。
胸の奥が、焼け付くように痛む。取り返すことの出来ない過去を前に、後悔がわき上がってくるのを歯を食いしばりながら受け止める。
苦しい。
雅貴は実咲との時間を思い返した。
大切だった。大切にしたかった。大切にしているつもりだった。彼女は最初から特別な存在だった。分かっていたのに、俺はそのための術を間違えた。
そして今までずっと間違え続けている。
大切にしたいのに。
けれど、その存在はもう既に自分の腕の中をすり抜けていってしまった。
自分がしていることが、どういう事かさえ分からずにいたが為に。
ようやく、涼子の言いたかったことが見えてきた気がした。
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