結婚の条件

真麻一花

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「お願いします……!」

 目に涙を浮かべて、今にも涙で歪みそうな唇をぐっと引き締め、彼女は男の薄汚れた服の裾を掴む。
 元々ズボンからずり出ていたシャツの端は男がわずかに動いたことで、半分が引っ張り出される。

「……離してくれ」

 弱り切った男が低い声で呻くように呟いた。彼女を見ないように顔は背けているが、その目の端には彼女の上目がちに見上げてくる瞳をとらえていた。

「嫌です、私、あなたの妻です」
「名前だけだろうが!」

 思わず叫んだ男に、彼女の方がびくりと震える。シャツを握る手もまた、震えていた。

「でも、行く、あてが……」

 震える声が男に縋り付く。

「すみま、せ、ん……」

 とうとうぽろぽろと溢れはじめた涙に、男は溜息をついた。

「ウチは、あんたんちの物置小屋よりも小さくて汚いんだ。とてもじゃねぇが、あんたには住めねぇよ」
「大丈夫です! 私、馬小屋でも普通に寝ることが出来ます」
「……馬小屋よりかは、マシだがよ……」

  だから、そういう問題じゃなくってだな……。
 とうとう男は頭を抱えた。
 本日、何度目かは、もはや不明であった。





 事の起こりはほんの二時間ほど前。
 結婚登録所に向かって二人は並んで歩いていた。薄汚い男と、いかにも良いところのお嬢様然とした女性は人とすれ違う度に振り返られるほどに目立っていた。
 それに気付いてはいたが格別それを気にすることなくアルミナは隣を歩くジェイクをちらりと盗み見る。
 彼が結婚をイヤイヤながらもうけてくれたことがとてつもなく嬉しかった。
 初めて見たときから、アルミナはこの人だと思っていた。
 彼女の目に映る男は、何度見ても本当にぼさぼさの頭で、ひげ面の小汚い装いだ。
 でも、鼻の形はとても綺麗だわ、と思う。そして何よりも印象的なのがその瞳。澄み渡ったスカイブルー。
 こんなにも薄汚れているのに、何故か彼には色気を感じる。アルミナは胸がきゅっと疼くのを、少し幸せな気持ちで感じ取っていた。

「俺の顔は、そんなにおもしろいかい、お嬢さん」

 突然横顔だった男がアルミナに目を向けて、呟いた。
 口元は笑って見つめているようだったが、その瞳は表情と違い、不快そうに睨み付けてくる。

「さぞかし珍しいんだろうな、こんな下々の堕落した男は」

 嘲るように向けられた言葉は思いもよらない物で、アルミナは必死に首を横に振った。

「堕落なんてしておりませんわ! もしジェイクが堕落していたら、今頃私のお金に飛びついていますもの!」

 そして、どこか不快さと困惑を現したように歪んだジェイクの顔を見つめながら、彼の胸元の服をきゅっと掴む。

「でも、確かにわたくしは、あなたの顔を見るのは楽しく思いましたわ。だって目元の鋭さも、その綺麗な瞳もとても美しいし、鼻筋も通って綺麗だし。これから旦那様になって下さる方のお顔ですもの。楽しまなければ損ですわ」

 と、真剣ながらも満面の笑顔で続けたアルミナに、毒気を抜かれたジェイクが空を仰いだ。

「……どれだけ、世間知らずだ……」
「世間知らずでも、人を見る目には自信がありますわ」

 アルミナは胸を張って言い切ると、呆れたジェイクの前にさっと回り込み、その手を取ってにこっと笑った。
 浮浪者に好意を体全体で表現しながらまとわりついているお嬢様の姿は、更に異様度を上げていた。
 けれどそんな事はどうでも良いアルミナは、ジェイクを見つめながら自分を物として扱う父親を思い出していた。あの男を見ていれば、思いやりのない人間という物がどういうものかがよく分かる。

 ジェイクはある意味、あの男とは対極にあると言っても良かった。物腰は荒いし、言葉遣いも汚いし、態度も悪い。でも、言葉の裏が、とてつもなく優しい。どうでも良いと言いながらも、こうしてアルミナの懇願を前に、情にほだされている。
 欲の深い人間も、心の冷たい人間も、アルミナは見たくないほどに見てしまった。だからこそ今、見た目などに惑わされることなく、大切と思う物が見える。
 ジェイクは自分の事をすぐに悪く言うが、決してそんな事はないとアルミナは思っていた。

 だって、この人の空気は、温かい。なぜだかあの男に引き取られる前の生活を思い出す。あたたかで、優しい人たちに包まれていた生活。優しい記憶の中のたくさんの笑顔。それはここに来て失った物。

 アルミナにとってジェイクのそばは、言葉を交わしたばかりとは思えないほどに心地よい物だったのだ。
 とはいえ、アルミナもそんな感情だけで行動しているわけではない。当初の目的はしっかりと覚えている。
 本当に、ジェイクの人物の好感度の高さは、思いがけない幸運なのだ。確かに欲張って自分が好意的に思える男性をとジェイクに頼んだのだが、最終的には結婚相手は父親の目から見て、最低な男でありさえすればよかったのだから。
 離婚すれば、醜聞も悪くなる。アルミナの結婚相手としての価値はそれだけで一気に下がる。ましてや相手の男は浮浪者のような男だ。そんな傷物になった娘など、父親であるあの男には何の役にも立たないときっと切り捨てられる。
 さぞかしあの男は腹立たしく思うだろうと思うと、アルミナは想像だけで溜飲が下がる思いがした。
 万が一連れ戻されたとしても、更に彼を愛している、彼以下だなどと父親が連れてきた相手を罵れば、浮浪者以下といわれた男はさぞかしそんな女は嫌がることだろう。例え父の娘という大きな魅力を持った娘でも。それでも結婚させられるなら、頭の弱い娘らしく父に離婚させられた男が愛しいと吹聴してやればいい。父も、心ない男もさぞかし外聞が悪かろう。

 アルミナは自分の想像が、おかしくて仕方なかった。
 結果自分がどんな目に合うかなど、考えるだけで恐ろしいが、とにかく嫌な物は嫌なのだ。まずは結婚話をつぶさなければいけない。
 それに、何より、ジェイクが相手ならば、間違いなく父が連れてくる男など足元にも及ばないと自信を持って言える。
 最近ではすっかりアルミナの心はすさみかけていたのだが、ジェイクの前にいると昔のような、思ったことを素直に言える、好きな物を好きと、嫌な物は嫌といえる、自然な自分で居られる気がした。
 ジェイクの手を握って二人で並んで歩くのは、とても幸せだった。


 一方ジェイクは、そんなおかしい状態を受け入れられるほどの精神的余裕など無い。決してこの状況に納得が行っているわけではないのだ。
 離れてこちらを見てくる野次馬を睨み付け、腹立ち紛れに「何か用か?」と低く尋ねる。薄汚れたちんぴらのすごみ方にしては、ずいぶんと迫力のあるその様子に、また周りの人間は素知らぬふりをして通り過ぎて行き始めた。
 その様子がこれまた腹立たしくジェイクは舌打ちをする。
 なのになんだかんだと言いながら断り切れずに、ジェイクは引きずられるような思いで、とうとう、結婚登録所にまで着いてしまった。

 たどり着くと、アルミナはジェイクの顔をじっと見つめてから、両手を組み合わせて顔と一緒にかわいらしくかしげると、にっこりと笑った。

「せっかくですから、身だしなみを整えましょう!」

 ジェイクの抵抗むなしく、またもやアルミナに押し切られる形で決定事項となった。ぼさぼさの髪にブラシが入り、切りそろえられ、髭をすっきり剃られて、妙に首から上だけずいぶんとすっきりして戻って来たジェイクに、アルミナが目を輝かす。

「ジェイク、素敵ですわ! 先ほどまでの姿も野性的で悪くはなかったのですが、新郎らしくなりましたもの!」

 ジェイクの両手を取って嬉しそうにアルミナ言うのを、彼は怒ったようにも見える表情で見下ろす。彼は眉間に皺を寄せて顔を逸らしたが、代わりに、アルミナが握っていたはずのジェイクの手が、今は強くアルミナの手を包み込むように握り返している。
 アルミナはそれを嬉しく思いながら、彼に引かれるようにして、結婚登録に向かった。
 そしてつつがなく……アルミナの気分としてはずいぶんとあっさり結婚登録が終わり、晴れて二人が夫婦になったのを確認したときだった。

 二人の婚姻を証明した証書の写しをトランクに入れようとしてアルミナは固まった。

「……ジェイク、私のトランク、どこへ行ったのでしょう……」

 血の気が引いて、呆然として、涙も出なかった。
 アルミナが無一文になった瞬間だった。





 そして冒頭に戻る。

「お願いします……!」

 アルミナがジェイクに一緒に住ませてくれと頼み込む。
 やってられるかとジェイクがアルミナから体を引いた。
 思い起こせば、とんでもない状況が更に輪をかけてひどくなっていた。


 アルミナが浮浪者のような男ジェイクに結婚を申し込んだのは、ほんの数時間ほど前だ。そしてどういう訳だかその勢いに押されてジェイクはそれを承諾することになった。一年は優に暮らせる報酬と引き替えに。
 そしてその後、アルミナは大叔父の元へ行く予定であったのだが、そう上手く話は進まず、アルミナの全財産が入った大きなトランクは結婚の手続きをしている間に盗まれ、彼女はこの後先立つ物がない故にどこにも行けなくなってしまった。
 二人の間に残ったのは、二人の結婚を証明する証書のみ。
 アルミナは目的をひとまずのところ果たしたが、ジェイクは報酬をもらうことすら叶わず、挙げ句の果てに家出少女を嫁に迎え、居着かれようとしている……つまり、間違いなく、ただ貧乏くじを引いただけとなったのである。

「帰れ!」
「嫌です、無理です、おいて下さい!!」
「ふざけるな!」
「ふざけてません……! あなたのそばにいたいんです」
「冗談ぶっこくな!」
「この上なく本気です!」

 打てば響くような歯切れの良さで、ジェイクの怒鳴り声にアルミナがこの上なく真面目に返して行く。
 ジェイクの怒鳴り声がとうとう悲鳴に変わった。

「冗談の方がもっとマシだ!」
「どっちなんですか!」

 アルミナの叫びと一緒に涙目で真剣に縋り付かれ、ジェイクはのけぞった。

「……冗談にしておいてくれ……」

 とうとう「頼む」とまで続けたが、アルミナは「いやです」の一点張り。ついに彼女は、ジェイクの家にまで押しかけたのであった。

「冗談じゃねぇぞ」

 椅子に座って、ぐったりとするジェイクのすぐそばで、ほっとしたようににこにことしているアルミナがいる。
 この汚く狭いジェイクの家にまでとうとう着いてきて、そして中を見てもひるむことなく居着いている。
 ジェイクは頭を抱えて溜息をついた。

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