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第25話 ヴェイリスとラディリス
しおりを挟むなぜかエレノアたちが訪れたのは貴族用の厨房である。
初めて訪れたスカーレットはおずおずと足を踏み入れたが、エレノアにとっては心地よく過ごせる場所の一つである。
エレノアの突然の来訪に、アレッタが驚きの声を上げる。
「どうしたんだい? お嬢さん。今日は大人数だね。あれ、もう一人綺麗なお嬢さんを連れて来たねぇ」
「えぇ、そうなの。皆で『聖なる甘味』を作ろうと思って」
「え! どうしましょう、私、自信がありません……」
「マーサ! 申し訳ありません。コールマンさま」
正直なマーサの言葉にエレノアはくすりと笑う。
実際には、ペトゥラもスカーレットも同じような思いでいるのだろう。不安げな表情を浮かべている。
「コールマンさま!」
「あら、リリーさん。あなたも聖なる甘味作りに参加することになったのね」
「はい! その、コールマンさまのご教示のおかげです!」
青い目をキラキラ輝かせて話すリリーの後ろで、グレースがエレノアに目礼をする。
今日は菓子作りの日ではないはずだが、二人も明日以降の確認のため厨房に訪れていたのだ。
「お二人ともこのあとのご予定は何かある? よかったらお時間を頂けないかしら?」
「はい! 私はあります」
「私もこのあとは急ぎの用事はありません」
そんな二人ににこりと微笑みを返したエレノアは、皆を見回す。柔らかな微笑みを称えたエレノアがどんなことを考えているのかはわからない。カミラ以外の者たちは戸惑いながら見つめ返す。
「皆さん、『聖なる甘味』作りにご協力頂けませんか?」
「えっと、マドレーヌをお作りになるんですか?」
「えぇ、貴族向けのマドレーヌを作りたいんです」
「え? 『公爵令嬢のマドレーヌ』を私たちがですか?」
貴族向けのマドレーヌ、通称「公爵令嬢のマドレーヌ」だが、面と向かって言われてみるとなかなかに気恥ずかしい。エレノアはそんな内心を表情には出さないように、微笑みを皆に向けた。
「ですが現在、注文は頂いておりません」
「えぇ、だからこそ作ったマドレーヌをお世話になった方々にお贈りするのよ。私もクーパー侯爵令嬢も、貴族のお知り合いはけっして少なくないはずよ。兄や父の力も借りるつもりでいるの」
注文が途絶えている「公爵令嬢のマドレーヌ」、だからこそエレノアも時間は十分にある。この作成を皆で行い、その味を普及することで地道に評価を変えていこうとエレノアは考えたのだ。
だが、その言葉に表情を暗くしたのはスカーレットだ。事件のこともあり、自身の貴族としての伝手にも力にも不安を感じられた。
「わたくしはコールマンさまと違って、人望もありませんし、家族も頼れません。お力になれるか……」
「では、お世話になった方はいらっしゃる?」
「それは……ですが、わたくしの作った菓子に不安を覚えるかと」
罪を犯したときから、人々はあっという間にスカーレットの周囲から距離を取った。皆、侯爵家という身分に近付いてきただけ、友人ではなかったのだという事実はスカーレットをさらに孤独に追いやった。
だが、エレノアは事もなげに笑う。
「あら、それは私も同じことだわ。でも、毒の有無も安全性も魔法で確認できるでしょう? 問題ないわ。お菓子に簡易なお手紙を添えて、お贈りしましょう――それとも、何もしないで諦めてしまうのかしら?」
その言葉にスカーレットはハッとする。これはエレノアから与えられたチャンスなのだ。正道院に入っても孤立し、心を閉ざしていたスカーレットにエレノアは手を伸ばしてくれた。
確かに正道院で出来ることは限られる。だが、何もせずに現状を受け入れてしまえば、相手の思う壺、悪意に屈したことになる。
スカーレットは気持ちを奮い立たせて、エレノアに向き合う。
「お世話になった方ならおります。その方々に、ご迷惑をおかけしたお詫びの手紙とお菓子をお贈りしてみます」
「えぇ、ではお願いしますね。じゃあ、マーサたちはリリーたちと一緒に菓子作りをして貰えるかしら」
「はい。かしこまりました」
「よろしくお願いいたします」
こうして、マーサたち使用人とアレッタたち調理人、平民研修士であるグレースとリリーたちと共に、エレノアは「公爵令嬢のマドレーヌ」作りに乗り出す。
スカーレットはその様子を眺めながら、自分に出来ることは他に何かないかと真摯に考えるのだった。
魔法オーブンの使い方には不慣れなエレノアは、調理人に頼んで調整をして貰った。菓子作りにのみ活かされるエレノアの魔法を、まだこの場で行使するわけにはいかない。
何より菓子作りという楽しみを、魔法で済ませてしまってはもったいないとエレノアは思うのだ。
実際、不慣れなペトゥラやエヴェリンに少しアドバイスすると、彼女たちは懸命にエレノアの言葉に耳を貸す。その熱心さは菓子の出来栄えにも影響した。マーサやリリーは綺麗に焼きあがったマドレーヌに目を輝かせる。
そんな彼女たちの姿にエレノアもまた刺激を受ける。
エレノア一人で調理するときでは、得られない楽しさもそこにはあった。
「うわぁ、美味しそうですね……!」
「だめよ、マーサ。これは貴族の皆さんにお贈りするものなのだから」
「もうわかってるわよ、リリー」
どうやら年の近いマーサとリリーはあっという間に親しくなったようだ。
貴族のメイドと平民研修士という垣根を越えて、気さくに話し合う二人の様子を皆、微笑ましく見つめる。
だが、距離が縮まったのはマーサとリリーだけではない。
共に調理をすることで、この場にいる者たちの距離は自然と近付いたのだ。
綺麗に焼き上がり、あとはアイシングの砂糖などで飾り付けをするだけのマドレーヌ、それを作ることだけがエレノアの目的ではなかったのだろう。
そう、今変えなければならないのは外の世界の出来事ではない。
この正道院内の貴族と平民の垣根、それをエレノアは変えようと動き出したのだとカミラを始め、その考えにここにいる大人たちは気付いたのだ。
「コールマン公爵令嬢……」
グレースが震えそうになる声でエレノアに呼びかけると、彼女は紫の瞳を輝かせて微笑む。
「ね? お菓子を作るのって素敵なことでしょう?」
そう微笑む姿は自然で柔らかく、 高位貴族としてではなく、一人の人間としての魅力に溢れている。
エレノアの在り方が周囲の人々の心を変えていく。
自然にごく当たり前のように、影響を与えていくエレノアの姿を、カミラは眩しく誇らしく思う。
だが、この場で最も影響を受けたのはスカーレットだろう。
身分も仕事も異なる者たちが協力し合い、一つの菓子を仕上げていく。その中心にいたのは公爵令嬢であるエレノア・コールマンなのだ。
「……わたくしには、何が出来るのかしら……」
そんな彼女の小さな呟きは、片付けの音や会話の中でかき消されていくのであった。
*****
自室へと戻ったエレノアは、兄カイルへの手紙を綴る。
今日作ったマドレーヌを知人に振舞い、その評判を高めて欲しいこと。そして、スカーレットとクーパー家に起きた状況を書いていく。
本来はクーパー侯爵家とヒギンス伯爵家の問題であったが、正道院内にまでその問題を持ち込み、尚且つ正道院の活動に影響を及ぼしたヒギンス伯爵家の行為は目に余るものがある。
既に事態は、二つの家の問題ではなくなっているのだ。
書き終えた手紙に目を通し、問題がないか確認するエレノアにカミラが訪問者を告げる。
「スカーレットさまがお一人で?」
「はい。お一人でいらして、伝言を申し付かっております。実は――」
カミラがそっと、エレノアにスカーレットからの言付けを口にすると、紫の瞳が大きく揺れる。伝えられたスカーレットからの言葉に驚いたエレノアだが、微笑みを浮かべて頷くと魔法鳥に手紙を託し、空へと飛ばす。
星明かりの中、白い魔法鳥が夜空を飛ぶ姿を、エレノアは祈るような思いで見送るのだった。
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