ケーキの甘い夢

啓日

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ケーキの甘い夢

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あるお家にケーキがありました。丸いケーキです。生クリームに覆われて、お月様より真っ白でまん丸なホールケーキ。キラキラ輝くルビーの冠みたいに苺が載っています。生クリームの下にはふわふわスポンジの生地が積み重なっています。スポンジとスポンジの間にはこれまた真っ白な生クリーム。その中にも真っ赤な苺が収まっています。まるで小さな心臓が幾つも並んでいるかのよう。
 ケーキは切り分けられてそのお家の子供たちに食べられるところでした。その内一切れは思いました。“切られたくなんてなかったのに”“きれいなまん丸だったのに”“中の苺は誰にも見せたくない宝物だったのに”“どうして切り分けてしまったの”“どうして……” “どうして……” “どうシテ……” “ドォシテ……”

****

 食べられたくないケーキは、お皿を蹴ってその家から逃げ出しました。日差しの強い暑い日でした。
“明るいのはいいけれど、ちょっと眩しすぎるわ……クリームのドレスが融けちゃうからもっと光を弱くしてちょうだい”
ケーキはお日様にお願いしましたが、ケーキがいる地面とお日様が輝くお空との間にはそれはもう大変な距離がありますから、ケーキのお願いはお日様には届きませんでした。ケーキは日陰を探しながら、これからどうしようか、どこへ行こうか考えました。ケーキはとにかく誰にも食べられたくないという気持ちでいっぱいいっぱいでした。そこでケーキは誰の手にも届かないところへ行くことにしました。
“お日様より高いお空の向こうなら誰にも食べられないし、お日様にクリームが融かされることもないかもしれない……”
ケーキは空高くを目指して歩き続けます。歩いているうちにクリームが少しずつ剥がれて中のスポンジが剝き出しになっていくのがケーキには堪らなく嫌でした。家から飛び出した時はふわふわしっとりだったスポンジは、ボソボソでゴワゴワのスカスカになってしまいました。色も明るいお月様色だったのに、埃やゴミがくっついて踏みつけられた銀杏のようなくすんだ黄色のスポンジになってしまったのもケーキにとっては苦々しくて辛くて悲しいことでありました。ルビーのようだった苺も欠けたり穴が空いたりしているだけでなくカビだらけになってしまいました。しかもケーキはお日様の当たらない道を自分で選んで歩いていましたが、お日様の光が届かないところというのは一般的には暗くてジメジメしていてケーキが出会うにはあまり望ましくない虫やらネズミやらがいるものです。


****

“ご覧よ、白いんだか黄色いんだかよく分からないものがコソコソ歩いてきたよ”
“あれはケーキだよ。ケーキにしては埃やらカビやらをくっつけすぎて、とてももう食えたもんじゃないけれど”
ネズミたちが暗い路地裏に入り込んできたケーキを見つけてヒソヒソ話し始めました。ネズミたちの会話はケーキにも聞こえています。“食べてほしいなんて頼んだ覚えはない”とケーキは心の中で憤慨しましたが無視して歩き続けました。ヒソヒソはまだ続きます。
“汚いね”
“汚い”
“ゴミまみれでカビ臭くて僕たちみたいだね”
“ケーキのくせにね”
“ケーキじゃなくてネズミの仲間なのかな”
“まさか。尻尾がないよ。尻尾がないくせに僕たちの仲間なわけないよ”
ケーキはズンズン歩きます。
“どうしてケーキが外を出歩いているのかな。ケーキは家の中で人間に食べられちゃうものじゃないのかい?”
“あんなに汚いケーキを食べたがる人間なんていないよ”
“汚いから外にいるのかい? 外を歩いて汚くなったんじゃなくて”
“じゃあ捨てられたんだろうね。ひどい味で食べてもらえなかったんだよ”
“ちょっといいかげんにしてちょうだい”
ネズミたちのヒソヒソに我慢ならず、ついぞケーキは割り込みました。身なりが汚らしくなってしまったことは、どうしようもないけれど本当のことなので黙って聞いていました。しかし、“捨てられた”という言葉を聞き流すことはできなかったのです。ケーキが家を捨てたのです。ネズミや虫や人間やその他の誰がなんと言おうとケーキは捨てられていません。ケーキ“が”捨てたのです。何度でも言いますが捨てた側はケーキの方なのです。少なくともケーキはそう信じています。だからネズミたちに言ってやりました。
“私は捨てられたんじゃなくて、私の方からあの家を捨てたのよ。食べてもらえなかったんじゃなくて食べられたくなかっただけ”
ケーキの言葉を聞いたネズミたちはキュゥキュゥと笑い始めました。
“ケーキのくせに食べられずに逃げてきたのかい?”
“食べられるためのケーキなのに?”
“ケーキである意味がないね”
“出来損ないケーキだ”
“意味無しケーキだ”
ネズミたちは笑いすぎてとうとうお腹を抱え始めました。笑い声もキュゥキュゥという甲高い声からギュウッギュゥッという古い家屋が軋むような声に変わってきました。
“ケーキが皆が皆、切り刻まれてフォークで突き刺されて食べられてお終いしなきゃいけないなんておかしいわ”
“そんなこと思うなんておかしなケーキだな”
“切られるのもイヤ、刺されるのもイヤ、そもそもケーキのくせに食べられるのがイヤ。おかしなイヤイヤケーキだ”
“…………”
ケーキはもうネズミたちと話し続けるのが煩わしくなってきました。
“あなたたちとこれ以上話していても時間の無駄。私は行くわ”
“僕たちは君におしゃべりしてほしいなんて頼んでいないよ”
“そうだよ。君が勝手に自分の時間を無駄にしたんだろう?”
“本当は僕たちに食べてほしくて気を引くためにわざわざ割り込んできたんじゃないの?”
“確かに、人間には賞味期限切れどころか腐ってしまったカビの塊だろうけど、僕たちにとってはまぁまぁましな晩御飯だからね。”
“食べてあげよう。”
“食べてあげるよ。”
ネズミたちは恐ろしいことを言い始めました。この時のケーキの気持ちが皆さんにわかりますか。食べられたくないとケーキは何度もそう言ったのにネズミたちはお構いなしに、それどころか“食べてあげる”と善いことをしているかのように迫ってくるのです。言葉が通じているのに気持ちが全く通じ合えないなんてことがあるのがケーキには不思議で、そして怖くてなりませんでした。
 ケーキはもう力いっぱいに逃げ出しました。あんまり必死に逃げるもんですからクリームが所々落ちてしまいました。カビも一緒に落ちたのでケーキはまぁよしとしました。ネズミたちが追いかけてくる気配はありませんでした。追いかけてまで腐ったケーキを食べるつもりはなかったのでしょう。振り返るとネズミたちが暗がりの地べたに這いつくばって元々ケーキが身に着けていたクリームを汚い舌でチョロチョロ巻き取る姿が見えました。追いかけてこないのならそのまま逃げてしまえばいいのですが、ケーキは少しの間何をするでもなく置かれたようになってしまいました。置物になってしまったケーキにはもう目もくれないネズミたちが地べたに落ちたクリームには血眼になっています。どういうわけかケーキは自分のスカスカのスポンジがもっとスカスカになったような気持ちにさせられました。
 ネズミから逃げ出してスカスカになりながらもケーキはお空の向こうを目指し続けました。お月様の灯りを頼りに夜道をそそっと歩んでいきます。ケーキはお日様よりお月様の方が好きでした。お日様の光は眩しいしねちっこいし、それに――もうほとんど剥がれ落ちてしまったので気にかける必要もないのですが――クリームを融かしてしまうのでケーキは実を言うと少し迷惑だと思っていました。お月様はお日様ほどギラギラしていない、サラサラした滑らかな光ですからケーキも心穏やかに歩くことができるのです。それに、ケーキはお月様をお友達だと思っていました。
“あんなにきれいな真ん丸だったのに夜毎に切り取られてしまって……”
ケーキが家を飛び出した日の夜、お月様は真ん丸の満月でした。ケーキが旅をしている間に少しずつ欠けていき、今では半分しか残っていません。きれいな真ん丸の形から切り取られてしまった姿。切り取られて欠けてしまう苦さをケーキは知っています。同じように欠けてしまっても、真っ暗な夜空でサラサラ輝くお月様も自分の気持ちを分かってくれるに違いないとケーキは信じていました。ケーキは小さく切り取られたまま汚い地面を一人で歩き続けて心もスカスカになってしまったもんですから、夜毎に欠けてしまうお月様とお話がしたくてなりませんでした。
“今は地べたで見上げているだけだけれど、きっともうすぐ同じ高さで……、だから待っていて……”
ケーキは心の中でお月様と約束しました。お月様と会うためにケーキはとりあえず高い山を探し続けました。寄ってくる蛾やら蠅やらの虫どもを払いながら、ケーキはどうにかこうにか山の麓に辿り着きました。見上げると切り出された崖の岩々がお月様の光をテラテラ浴びていました。
 崖路を登り続けるのはとても大変そうでしたが、ケーキは“えいっ”と山の中へ踏み出しました。葉っぱは落ちてくるし、砂利は付き纏ってくるし、苺の冠――もう腐りきってフワフワカビが覆って白い部分と、傷ついてコーヒーみたいな黒っぽい茶色に変色した部分ばかり――は重力に引っ張られて落っこちそうになるしでケーキはクサクサ嫌な気持ちになりましたが、“自分で決めた道なのだから“と自分に言い聞かせて、前を見据えて時には上を見上げて歩き続けました。枝葉のお陰でお日様の光がギラギラ照りつけてこないのは良いことでした。
 ケーキが登山を始めて何日か経ちました。地図もコンパスも無いのでどっちに歩けばいいのか分からなくなったり崖から時々落っこちそうになったり枝に突き刺さりそうになったりしながらも、ずっと頑張って登ってきました。歩き続けてクタンクタンになったケーキがぽそっと座り込んで一休みしていると、突然ダサァっという音を連れて鋭くとんがった影が木々の枝の隙間を通り抜けて降ってきました。カラスでした。とんがっているように見えたのは嘴だったようです。カラスはケーキの方にほんの一瞬だけちらりと目をやりましたが、すぐに足元の木の実に目を向けました。カラスがカツンカツン嘴で木の実をつつく音が響きます。カツンカツン……カツンカツン……カツンカツン……。器用に木の実に穴を開けて中身を食べるカラスを静かに見ていたケーキはなんだか無性にムカムカとした感覚に襲われました。
“ねえ、ちょっと”
“なんだよ”
木の実をせっせと食べながら、面倒くさそうにカラスは返事をしました。目玉をクリクリ回して次の実を探しています。しかしケーキの方には目を向けません。カラスの態度は余計にケーキをムカムカさせました。
“私が先にこの場所にいたんだけれど”
“知ってるよ”
“ならどうしてひとこと声をかけないの。それにお話しするときはこっち見なさいよ”
文句を聞いてカラスはぐるりんと頭を振ってケーキの方に顔を向けました。そして一声。
“ガァ”
そのまま下を向いてまた木の実を食べ始めました。ケーキはブルブル震えながら文句を続けます。
“私の場所に断りもなくやってきてその態度は何なの”
“この山はみんなの居場所だ。権利書でもあるんなら話は別だがね。そら、見せてみろよ”
“権利書なんてなくても私が先にいたんだからここは今は私の場所なの。失礼しますとかお邪魔しますとか挨拶ぐらいしなさいよ”
“お前はこの山に元々いる虫や鳥たちにちゃんと断ったのか”
“この山に入ってから鳥なんて見てないわ。虫だっていないわよ”
“そんなわけあるか。鳥の糞だってあっちこっち落ちてるし、小さな羽虫がお前の周りをブンブン飛んでるぞ”
確かにカラスの言葉の通りでした。ケーキはてっぺんまで登りきることに集中していて鳥の糞にも小さな虫たちにも気付かなかったのです。
“ヤダ、ちょっとどっか行ってよ”
“ガァガァ。先客に対して失礼だぞ”
“不気味な笑い方しないで”
“俺様の笑い方なんか今は関係ないね。はぐらかすなよ。失礼失礼。ガッガッガァッガァー”
“……。勝手に近づいてきて群がる虫なんかに失礼も何もないわよ”
“ガァガァ。大体よ、俺様はここにしょっちゅう来るけどお前みたいなの初めて見たぜ”
“お月様が半分の晩からこの山にいるわ”
“俺様はもっと前からこの山を飛び回ってるね”
“嘘よ”
“嘘なもんカァ”
“嘘に決まってる。私を不安にさせて騙して最後は食べてしまうつもりなんでしょう?”
そこまで言ってケーキは硬い嘴でつっつき刺された自分の姿を想像してしまい恐ろしくなりました。怯えるケーキをよそにカラスは素っ頓狂な声をあげました。
“カァー? お前、食べ物だったのカァ?”
“ケーキなんだから食べ物よ。そんなことも知らないの?”
“ケーキが食べ物なのは知ってるさ。お前がケーキだなんて初耳だね。確かによく見るとカビの隙間から汚いクリームやらボロボロのスポンジやら……。しかしとてももう食えたもんじゃない……”
“なんですって?
“腐ったケーキ食うほど俺様は飢えちゃいないんでね”
“私は頑張ってここまで歩いてきたの。冷蔵庫で寝て、ただ食べられるのを待ってるだけの他のケーキと一緒にしないで”
“カァー。分かった。お前が麓で噂の意味無しケーキカァ。”
ケーキはびっくりしました。せっかく山の高い所まで歩いてきたのに、かつて路地裏でネズミたちから投げつけられた言葉を再び聞くことになってとても嫌な気持ちです。
“他のケーキだってお前みたいな意味無しケーキと一緒にされたくないだろうさ”
“意味無しケーキじゃないわ”
“食べられないまま腐ったケーキに何の意味があるのカァ?”
“どうして私が食べられなきゃいけないの?”
“そりゃケーキが食べ物だからさ。そんなことも知らないのカァー?”
“もう知らないッ”
ネズミたちと話している時よりもムカムカしてきたので、ケーキは立ち去ることにしました。ケーキはカラスではなくお月様とお話ししたいのです。後ろから“そうカァ、知らないのカァー”というカラスの鳴き声が響いてきました。

****

 カラスを置いてズンズン歩き続けてまた何日か過ぎたある夜のこと。お月様とお星様たちの光にほんのりと照らされて、木々の隙間から少し開けた空間があるのがわかります。木々を通り抜けるとそこは崖っぷちでした。ケーキは辺りをふるっと見回しました。今歩いてきた方角には細い木が林だか森だかを成しているだけ。前も左右もどの方角にもこの崖っぷちより高い所は無いようです。そうです。とうとうケーキは山のてっぺんに辿り着いたのです。黒い夜闇をチラチラ飾るたくさんのお星様たちの真ん中に、白い光の糸がちょろんと垂れていました。その蜘蛛の糸みたいな光がお月様であることはケーキにはすぐに分かりました。糸くずのようになるまで欠けてしまったお月様は山のてっぺんでも遠い所に見えましたが、麓にいた時よりは近くにいるように見えましたので、
“お月様……、お月様……”
ケーキは思い切って声をかけてみました。すると、
“……。どなたですか?私を呼ぶのは……?”
お月様からお返事が降りてきました。お月様の声は丁寧に織られた絹織物のようなシャラシャラの声で、ケーキはもう弾んでしまいそうなほどに嬉しくなりました。ボソボソのスポンジがふんわりに戻ったような気がします。
“私はケーキです、お月様。山のてっぺんにいます”
“ああ、そこですか。何かご用でしょうか?”
お月様の話し方の上品なこと。ケーキはすっかりふわふわの心持ちになりました。
“お月様、私はお月様とこうしてお話をするために山道を登り続けてきたのです”
“まぁ、そうですか。それは大変だったでしょう”
“ええ、ええ、それはもう。私はただお月様に会いたい一心で家を飛び出して歩きまわっていただけなのにネズミやカラスが意地悪なことを言ってくるし虫は寄ってくるし……。でもお月様に会いたい、おしゃべりしたいって強い気持ちを持っていたおかげでここまで来ることが出来たんです。”
お月様が労ってくれるのでケーキはつい嬉しくなって、ここまで登ってくるまでにあったことをポンポン言い募ってしまいました。
“それはよく頑張りましたね……。けれど、どうしてそんなに私とお話なさりたいのですか……?”
“それは勿論、私たち、お友達ですもの”
“えぇっ。私たちはお友達なのですか?”
“あ、その、私はお月様とお友達だと、いえ、お友達になりたいとそう思っているのです。その……、お月様は……、私とお友達になるのが嫌ですか?”
お月様があんまり驚くもので、ケーキは自分の態度が少しばかり一方的だったかもしれない、お月様に嫌われてしまったかもしれないと不安になってきました。
“いいえ、決して嫌ではありません。お友達が増えるのは私にとっても喜ばしいことです”
“まぁ、それなら良かった。私たちきっとお互いの苦しさを分かり合えるって思っていたの”
“苦しさ……ですか……?”
“ええ、きれいな真ん丸だったのに切り取られて変な形にされてしまったでしょう?”
“切り取られて……?”
“そう、私は一度だけでしたけど、お月様は毎晩毎晩削られ続けてもうそんな糸くずみたいにされてしまって……”
“糸くずですって?”
お月様の声がちょっとだけひやっとしました。ケーキは続けます。
“ねぇ、お月様。私は人間に包丁を入れられてね、そのせいで中の苺は丸見えだし、そうそう、この苺はね誰にも見せたくない宝物だったのよ。みんなが見ていいのは冠にしてる上の苺だけのはずだったの。ああ、ごめんなさい。私ったら自分のことばっかり……。お月様は一体誰にそんな風に刻まれ続けてるんですか? もしかしてお日様に融かされて……?”
“いいえ。お日様の光で私は融けたりしませんよ”
“では誰に切られて……”
“誰にも”
“え”
その答えはケーキには到底納得できるものではありませんでした。だって実際にお月様は毎晩欠けています。今は真ん丸ではありません。しかしお月様は続けます。
“何か誤解があるようですが……、そもそも私は切り取られて欠けているわけではありません”
“でも、毎晩少しずつ……”
“私はお日様から分けてもらった光を毎晩少しずつ放っているだけです。私はお日様ほどたくさんの光を持ちきれないのでいつも真ん丸ではいられないのです。それで全く光らない夜の後、また少しずつお日様から光をもらって真ん丸に戻るのです。”
“真ん丸に戻る……?”
ケーキは唐突に自分が焦げてしまったような感覚に襲われました。スカスカのスポンジも、もうほんの少しこびりついているいるだけのクリームも、腐ってしまった中の苺も上の苺も全部お日様より熱い炎で焦がされてしまったような気持ちです。ケーキは焦げ焦げしながらお月様に尋ねました。
“……お月様はもう一度真ん丸になれるのですか?”
“一度と言わず何度でも。これまでもそうしてきましたし、これからもそうするでしょうね”
“……そう……ですか……”
ケーキはお月様と話していても楽しくなくなってしまいました。それでもどうしても気にかかることがあったのでまた尋ねました。
“お月様がまた真ん丸に戻れるなら……、私は……? 私ももう一度真ん丸に戻れるでしょうか? どうすれば元のきれいな真ん丸に……?”
この瞬間もケーキはまだほんのわずかに――自分に残ったクリームと同じくらいわずかにですが――ケーキが真ん丸に戻る方法をお月様が教えてくれるのではないかと期待していました。
“切り取られたケーキの切れ端が元の丸い形に戻る方法ですか? 私にはわかりませんね。そんな方法あるわけないと思いますけれど……”
お月様の言葉は相変わらず丁寧で柔らかな感じです。しかし織物のような温もりはいつの間にか無くなって、ひんやりしていました。きれいで柔らかくて、でもひんやり。ケーキの周りだけ雪が降り積もっているみたいな、そんな気持ちになりました。ケーキはもう焦げ焦げ、ひやひやしながらそこで置物のように押し黙っているよりほかありませんでした。
“…………。”
お月様が雪のような声をかけます。
“どうかしましたか?”
ちゃんと返事をしないのは失礼なのでケーキは何か答えようとしましたが、歯切れの悪い相槌を打つことしかできません。
“あの……、その……”
“はい?”
“いえ、何でもありません”
“そうですか……?”
ケーキはお月様を見上げているのが苦しくなってきました。だからと言って前と左右を見ても崖っぷち、後ろの林道は鬱葱としていて不気味な感じなのでじっと足元の地べたを見つめていました。地べたを見つめてケーキはこれまでのこと、そしてこれからのことを考えました。“頑張って歩いてきたのに……”“お月様に会いたくて会いたくて、そしてようやく会えてお話しできたのに……”“お月様とおしゃべりしてもあまり楽しくない……”“これじゃ何のためにクリームを落としてカビだらけになったの……?”“何のために……”“ナンノタメニ…………”“コレカラドウスレバ…………?”そこまで考えて思い出しました。そもそもケーキはお月様に会いたくて家を飛び出してきたわけではありません。ただ食べられたくなかっただけです。歩いてきたのも山を登ったのも高い高いお空の向こうに行きたかったからです。何もお月様と仲良しになる必要があるわけでも一緒にいる必要があるわけでもないのです。お月様よりもお日様よりも高い所に、誰の手にも届かない高い所に行って食べられないようになればそれでいいはずです。そこまで思い出してまたケーキはふわふわウキウキしました。
“お月様、お月様……”
“ああ、びっくりした。何ですか? 急に静かになったのでもう眠ってしまわれたのかと思いました”
“ごめんなさい。でもどうしても最後に一つだけお聞きしたいのです”
“何でしょうか?”
“お空の向こうへ行くにはどうしたらいいでしょうか? お日様よりも高いお空の向こうに私は行きたいのです。そのためにずっと歩き続けてきました。誰にも食べられないように、誰の手にも届かないように……”
“まぁ、そうでしたか。ですが申し訳ありません。私にはお日様より高いお空の向こうへ行く方法は分かりません。カラスやコウモリに乗せてもらっても……、とてもそんな高くは飛べないでしょうね……”
“でも……”
ケーキは食い下がります。
“でもお月様はそんなに高い所にいらっしゃるではありませんか。お月様はどうやってそんな所に辿り着いたのですか?”
“私は初めからここにいるのですよ”
お月様の答えはケーキをすっかりスカスカにしてしまいました。お月様が元の真ん丸に戻るだけでもどうしようもなく焦げ焦げひやひやするのに、地べたから飛び立ったわけでなく初めからお空高くにいたなんて信じられませんし、信じたくありませんでした。
“それにしても……。食べ物であるはずのケーキが食べてもらいたくないとは珍しいこともあるものですね。でも大丈夫ですよ”
“……何が大丈夫なんですか?”
“あなたは食べられたくないからお空に上がりたいのですよね? あなたほど腐ってしまったら誰も食べたいとは思わないし手を伸ばそうなんて考えませんよ。どうぞ安心なさい”
“ああ……”
もう食べられることを恐れなくてよい。それが分かった途端のことです。ネズミやカラスと話していて嫌な気持ちになったこととか、お空の向こうを目指して前向きな気持ちで奮い立たったこととか、お月様と会って嬉しくなったこととか、そのお月様とのおしゃべりが辛くなってしまったこととかのたくさんの思い出が、ケーキのスカスカの部分をほんの一瞬だけ埋めました。
“…………。…………。”
“どうされましたか?”
“…………。…………。…………。…………。”
“安心して、眠ってしまわれたのですね。おやすみなさい”

****

 夜が明けて昼になって夕方が来て、また夜になりました。お月様がお休みの晩です。そして次の夜、またお月様が糸のような細い光を夜空に垂らしました。また夜が明けて昼と夕方が来て…………。それが繰り返されてケーキが家出した晩と同じ、真ん丸満月の夜が再びやってきました。お月様とあのカラスが何やらお話しています。
“こんばんは。カラスさん”
“こんばんは。お月様”
“ちょうど良いところに飛んでいらっしゃいました。お願いしたいことがあるのですよ”
“何ですカァ?”
“急がなくていいんです。朝になってからで構いません。大地のアリさんたちに頼みたいことがあって……”
“カァー。なんとお伝えすれば宜しいですカァ?”
お月様がカラスを通じてアリたちにお願いしたのはこんなことでした。



“崖の下のゴミを持っていって下さい”
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