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悪役令息(泣き虫)は心惹かれる
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ふと、鳥のさえずりが耳に届いた。
庭の奥、朝露に濡れた茂みのあいだから、数羽の小鳥たちが枝から枝へと軽やかに跳ねるように飛び移っている。羽ばたく音、小さな囀り、それらが風に運ばれ、優しい調べとなってフェリクスの鼓膜を撫でていく。
彼は静かにその音に耳を傾けながら、アーチェの言葉を胸の中で何度も、何度も繰り返していた。
「今のままの、あなたでいてほしいな」
たったひと言。
それはまるで羽根のように軽く、けれど触れた場所にふわりと温かな痕跡を残していくような──そんな不思議な言葉だった。
聞いた瞬間にはすぐに言葉が出なかった。けれどその一言は、彼の胸の奥深くに確かに届いていた。
じんわりと、目の奥が熱くなる。
そんな感情、もう長いこと忘れていた。何かに胸を打たれて、涙が滲むようなこと。
それは演技ではない、誰のためでもない、自分自身のための涙だった。
「……アーチェ嬢は、強いんですね」
気づけば、声がこぼれていた。
フェリクスの声はかすかに震えていて、自分でもそれに気づいて驚いた。
「え……?」
隣にいたアーチェが、ほんの少し首を傾げて、まっすぐにこちらを見つめ返してくる。驚きのこもったその瞳は、それでもどこか優しく、逃げる理由を与えてくれない。
「……自分を変えようって、言えるのは……すごいことです。僕は……ずっと、自分を出すのが怖かった。誰かに見せれば見せるほど、傷つく気がして……だから、仮面のままの方が楽だって……息が詰まるとか言ってるくせに、本当は、ずっと、そうやって逃げてたんです。でも……」
喉が詰まりそうになりながらも、必死に続ける。
「でも……あなたの隣にいると、少しだけ、勇気が出るんです」
声が細くなった最後の言葉に、アーチェはしばらく黙っていた。
その沈黙の中で、フェリクスは自分の鼓動がいやにうるさく響いている気がした。
やがて、アーチェは少しうつむいて、芝の上に爪先で円を描くように撫でた。
「……そんなふうに言われたの、初めて。フェリクス様に……そんなふうに言ってもらえるなんて、ちょっと……ううん、すごく嬉しいわ」
顔を上げた彼女の頬は、うっすらと赤く染まっていた。
その照れたような笑顔に、フェリクスの胸の奥がじんわりと温かくなる。
まるで春の日差しのように、やさしく、けれど確かな温度を持ったその微笑みに、言葉では言い表せない想いが湧き上がってくる。
──こんなにも、ただ誰かと並んで過ごすことが、穏やかで、心を満たすものだっただろうか。
風が頬を撫でる。
木々の枝が揺れて、葉と葉とが擦れる音が心地よいリズムを刻む。
小鳥の囀り、風のそよぎ、遠くで水の流れる音。どれもが、この静かな午後を彩る優しい旋律となって、ふたりの間に織り込まれていく。
言葉はなかった。
けれど、それでも充分だった。
黙って隣に座っているだけで、心がふんわりとほどけていく。
誰かと一緒にいて、こんなふうに心が安らいだことなど、今まで一度もなかった。
──リアとだって、こんなふうに穏やかな時間はなかった。
気づけば、思い返していた。
かつての婚約者との日々は、気を抜けばすぐに失望されるのではと、常に自分を取り繕っていた記憶ばかり。
完璧であろうとすればするほど、本当の自分から遠ざかっていった。
だけど、今は。
ほんの少し仮面を緩めただけで、隣の彼女は否定するどころか、静かに受け止めてくれた。
それが、どれほど救いだったか。
だからこそ、言葉が自然に溢れる。
「……アーチェ嬢」
「なぁに?」
呼びかけに、彼女はまた優しく笑ってこちらを見た。
その笑顔に、胸が跳ねる。心臓の音がドクンと一際大きく鳴り響き、喉までせり上がってくる言葉があった。
「僕、──っ」
何かを言おうとして──けれど、言葉は喉の奥で引っかかり、フェリクスは目を伏せてそれを飲み込んだ。
(……僕、おかしいのかもしれない。まだ……婚約破棄されて、三日しか経っていないのに)
それでも、胸の奥はごまかせなかった。
目の前の少女に、惹かれている。
それはきっと、恋と呼ばれるものだった。
リアに感じたものとは違う。これは、もっと深く、もっと鮮烈な感情。
彼女の優しさ、真っ直ぐなまなざし、透明感のある素敵な声──そのすべてに心を鷲掴みにされていた。
好きだ、と言いかけてしまいそうになる。
けれど、今はまだ言えない。
この気持ちは、焦らずに、大切に育てていきたいと思った。
きっと、伝えるべき時が来るはずだ。
その時には、仮面ではなく、本当の自分で。
ふと、小首を傾げるアーチェが楽しげに彼を見つめ、それからやわらかく微笑みながら立ち上がった。
「……もうすぐ、お昼ですね。ご一緒に戻りましょう?」
その手が、そっと差し出される。
フェリクスは迷わなかった。
戸惑いも、遠慮もなく、その手を取った。
アーチェの手は、小さな手だった。
けれど、驚くほどあたたかかった。
優しくて、力強くて、まるで光そのものに触れたような──そんな温もり。
握り返したその手の感触が、彼の胸の奥で、長いこと凍りついていた仮面を、そっと、優しく溶かしていくのを感じた。
庭の奥、朝露に濡れた茂みのあいだから、数羽の小鳥たちが枝から枝へと軽やかに跳ねるように飛び移っている。羽ばたく音、小さな囀り、それらが風に運ばれ、優しい調べとなってフェリクスの鼓膜を撫でていく。
彼は静かにその音に耳を傾けながら、アーチェの言葉を胸の中で何度も、何度も繰り返していた。
「今のままの、あなたでいてほしいな」
たったひと言。
それはまるで羽根のように軽く、けれど触れた場所にふわりと温かな痕跡を残していくような──そんな不思議な言葉だった。
聞いた瞬間にはすぐに言葉が出なかった。けれどその一言は、彼の胸の奥深くに確かに届いていた。
じんわりと、目の奥が熱くなる。
そんな感情、もう長いこと忘れていた。何かに胸を打たれて、涙が滲むようなこと。
それは演技ではない、誰のためでもない、自分自身のための涙だった。
「……アーチェ嬢は、強いんですね」
気づけば、声がこぼれていた。
フェリクスの声はかすかに震えていて、自分でもそれに気づいて驚いた。
「え……?」
隣にいたアーチェが、ほんの少し首を傾げて、まっすぐにこちらを見つめ返してくる。驚きのこもったその瞳は、それでもどこか優しく、逃げる理由を与えてくれない。
「……自分を変えようって、言えるのは……すごいことです。僕は……ずっと、自分を出すのが怖かった。誰かに見せれば見せるほど、傷つく気がして……だから、仮面のままの方が楽だって……息が詰まるとか言ってるくせに、本当は、ずっと、そうやって逃げてたんです。でも……」
喉が詰まりそうになりながらも、必死に続ける。
「でも……あなたの隣にいると、少しだけ、勇気が出るんです」
声が細くなった最後の言葉に、アーチェはしばらく黙っていた。
その沈黙の中で、フェリクスは自分の鼓動がいやにうるさく響いている気がした。
やがて、アーチェは少しうつむいて、芝の上に爪先で円を描くように撫でた。
「……そんなふうに言われたの、初めて。フェリクス様に……そんなふうに言ってもらえるなんて、ちょっと……ううん、すごく嬉しいわ」
顔を上げた彼女の頬は、うっすらと赤く染まっていた。
その照れたような笑顔に、フェリクスの胸の奥がじんわりと温かくなる。
まるで春の日差しのように、やさしく、けれど確かな温度を持ったその微笑みに、言葉では言い表せない想いが湧き上がってくる。
──こんなにも、ただ誰かと並んで過ごすことが、穏やかで、心を満たすものだっただろうか。
風が頬を撫でる。
木々の枝が揺れて、葉と葉とが擦れる音が心地よいリズムを刻む。
小鳥の囀り、風のそよぎ、遠くで水の流れる音。どれもが、この静かな午後を彩る優しい旋律となって、ふたりの間に織り込まれていく。
言葉はなかった。
けれど、それでも充分だった。
黙って隣に座っているだけで、心がふんわりとほどけていく。
誰かと一緒にいて、こんなふうに心が安らいだことなど、今まで一度もなかった。
──リアとだって、こんなふうに穏やかな時間はなかった。
気づけば、思い返していた。
かつての婚約者との日々は、気を抜けばすぐに失望されるのではと、常に自分を取り繕っていた記憶ばかり。
完璧であろうとすればするほど、本当の自分から遠ざかっていった。
だけど、今は。
ほんの少し仮面を緩めただけで、隣の彼女は否定するどころか、静かに受け止めてくれた。
それが、どれほど救いだったか。
だからこそ、言葉が自然に溢れる。
「……アーチェ嬢」
「なぁに?」
呼びかけに、彼女はまた優しく笑ってこちらを見た。
その笑顔に、胸が跳ねる。心臓の音がドクンと一際大きく鳴り響き、喉までせり上がってくる言葉があった。
「僕、──っ」
何かを言おうとして──けれど、言葉は喉の奥で引っかかり、フェリクスは目を伏せてそれを飲み込んだ。
(……僕、おかしいのかもしれない。まだ……婚約破棄されて、三日しか経っていないのに)
それでも、胸の奥はごまかせなかった。
目の前の少女に、惹かれている。
それはきっと、恋と呼ばれるものだった。
リアに感じたものとは違う。これは、もっと深く、もっと鮮烈な感情。
彼女の優しさ、真っ直ぐなまなざし、透明感のある素敵な声──そのすべてに心を鷲掴みにされていた。
好きだ、と言いかけてしまいそうになる。
けれど、今はまだ言えない。
この気持ちは、焦らずに、大切に育てていきたいと思った。
きっと、伝えるべき時が来るはずだ。
その時には、仮面ではなく、本当の自分で。
ふと、小首を傾げるアーチェが楽しげに彼を見つめ、それからやわらかく微笑みながら立ち上がった。
「……もうすぐ、お昼ですね。ご一緒に戻りましょう?」
その手が、そっと差し出される。
フェリクスは迷わなかった。
戸惑いも、遠慮もなく、その手を取った。
アーチェの手は、小さな手だった。
けれど、驚くほどあたたかかった。
優しくて、力強くて、まるで光そのものに触れたような──そんな温もり。
握り返したその手の感触が、彼の胸の奥で、長いこと凍りついていた仮面を、そっと、優しく溶かしていくのを感じた。
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