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閑話 醜悪令嬢の追想
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昼食をフェリクスと共に過ごしたあと、アーチェはそのまま庭園に残ることもせず、真っ直ぐに自室へ戻った。彼の隣にいるだけで胸の奥が熱くなる。ドキドキと高鳴る鼓動を押さえるように胸元にそっと手を添え、ゆっくりと、できるだけ音を立てぬように扉を閉める。
扉が閉まった瞬間、それまで背筋に貼りついていた緊張がぷつりと切れ、アーチェはその場にへなへなと崩れ落ちるように座り込んだ。ふわりと広がるスカートを押さえながら、ぎゅっと膝を抱える。何も言わずに傍に寄ってきた侍女のオリビアが、ため息まじりに眉を下げた。
「またですか……アーチェ様」
呆れとも心配ともつかない声色。アーチェはうつむいたまま、声を弾ませた。
「だって……フェリクス様、可愛いのよ……」
「そのお話はアーチェ様が八歳の頃から、耳にタコができるほど伺っております」
「オリビア冷たい……」
むくれながらそう言ったものの、頬は上気していて、浮かんだ笑みは拭えない。
そう──彼は、あの頃と何も変わっていなかった。
アーチェ・ロシェット。幼い頃から頭脳明晰、五歳で複雑な数式を解き、六歳には大人と変わらぬ論理構成の文章を書き上げた才女。
そんな彼女は、飛び級で王立学園へと入学を許された。周囲は十三歳前後の令息令嬢。思春期に差しかかった年齢の彼らにとって、六歳の少女――しかも、丸々と肥えていたアーチェの存在は、笑いの種でしかなかった。
それでも、彼女は平気なふりをしていた。泣かない。誰にも負けない。そう心に決めて、いつも胸を張って歩いていた。
そんな彼女に、唯一、偏見を持たずに接してくれたのが、リタウェル家の長男――ノア・リタウェルだった。凛として、優しく、品位と知性を兼ね備えた彼のことを、アーチェは心の中でこっそりと「先生」と呼んで慕っていた。
学園生活三年目、アーチェ九歳のとき。卒業生を祝う夜会が催された。参加するのは在学生、卒業生、そして彼らの親族。だが、アーチェの両親は当時、隣国との外交交渉に忙しく、娘の晴れ舞台に立ち会うことができなかった。
代わりにノアが、まるで兄のように彼女をエスコートしてくれた。新調したドレスに身を包み、精一杯の化粧を施した。丸い頬、たっぷりとした腕、豊満な体を隠すことはできなかったけれど、それでも美しく在りたいと願った。
けれどその願いは、たった一瞬で踏みにじられた。
夜会の途中、華やかなホールの隅で、数人の令嬢たちがくすくすと笑っているのが見えた。意識しないよう努めたが、耳に届いた言葉は酷く残酷だった。
「ノア様も物好きよね。あんな丸い子を連れてくるなんて」
「エスコートというより、荷物運びって感じ?」
顔が火照った。ノアの前では決して泣かないと誓ったはずなのに。逃げるように人混みを抜け、壁際の飾り棚に身を寄せた瞬間──ドレスの背中の糸が、ぷつりと音を立てて弾けた。
笑い声。嘲笑。どこからともなく起こった失笑の波が、全身を包み込んだ。悲鳴をあげることもできず、アーチェはただ逃げた。
泣きながら、学園の中庭へ駆け込んだ。石畳に膝をつき、体を丸めて、顔を手で覆った。
その時だった。ふわりと、肩に何かがかけられた。
顔を上げると、そこには見知らぬ少年が立っていた。ノアに似た金の髪、けれどもっと幼い。目の色が違う。アクアマリンの柔らかい光を湛えた瞳──
「泣かないで」
彼は、何のためらいもなく自分のジャケットを脱いで彼女にかけてくれていた。そして、ぽんとハンカチを手渡す。
「君は、素敵だよ」
たった一言。けれど、それはアーチェの人生を変えるほどの魔法だった。
初めて、自分の存在を否定されなかった。初めて、「素敵だ」と言われた。
それが、フェリクス・リタウェルとの最初の出会いだった。
あとになって、ジャケットにあったリタウェル家の紋章を見つけ、ノアに返しに行った時に教えてもらったのだ。あの少年がノアの弟、フェリクスだと。
それ以来──アーチェにとって、彼はずっと「ヒーロー」だった。
「……フェリクス様は、きっと忘れてるんだろうなぁ」
アーチェは膝を抱えたまま、頬をスリスリと擦りつけるように膝に顔を伏せる。脳裏には、今日の昼下がり、隣に座っていたフェリクスの照れた顔が浮かぶ。
──仮面を脱いだフェリクス様の方が、私は断然好きよ
思い返すたびに顔が熱くなった。あの一言を言うまで、どれほど心臓が跳ねたか。けれど、あのとき彼は、きちんと笑ってくれた。頬を赤く染めて、素直に照れた顔を見せてくれた。
「もう……好きが止まらないよぉ……」
情けない声でそう呟くと、侍女のオリビアが、手慣れた仕草で膝をトントンと叩く。
「アーチェ様、落ち着いてください。お茶をお淹れしましょう。カモミールにします?」
「……フェリクス様の匂いにして」
「それは無理です」
「ですよね」
ぱたりとベッドに倒れ込み、ふかふかのクッションを抱きしめる。ふわりと香るラベンダーの匂いが、ほんの少し心を落ち着けてくれる。
──大丈夫、まだこれから。焦らなくても、きっとゆっくり距離を縮めていける。
そのためには、もう少しだけ、自分に自信をつけたい。
「ダイエット、ちゃんと続けよ。……フェリクス様の隣に並べるくらい、きれいになってみせる」
そう呟いた少女の目は、真剣だった。過去に傷ついた少女は、未来のために歩き出す。
彼がくれた、最初の優しさを胸に抱いて。
扉が閉まった瞬間、それまで背筋に貼りついていた緊張がぷつりと切れ、アーチェはその場にへなへなと崩れ落ちるように座り込んだ。ふわりと広がるスカートを押さえながら、ぎゅっと膝を抱える。何も言わずに傍に寄ってきた侍女のオリビアが、ため息まじりに眉を下げた。
「またですか……アーチェ様」
呆れとも心配ともつかない声色。アーチェはうつむいたまま、声を弾ませた。
「だって……フェリクス様、可愛いのよ……」
「そのお話はアーチェ様が八歳の頃から、耳にタコができるほど伺っております」
「オリビア冷たい……」
むくれながらそう言ったものの、頬は上気していて、浮かんだ笑みは拭えない。
そう──彼は、あの頃と何も変わっていなかった。
アーチェ・ロシェット。幼い頃から頭脳明晰、五歳で複雑な数式を解き、六歳には大人と変わらぬ論理構成の文章を書き上げた才女。
そんな彼女は、飛び級で王立学園へと入学を許された。周囲は十三歳前後の令息令嬢。思春期に差しかかった年齢の彼らにとって、六歳の少女――しかも、丸々と肥えていたアーチェの存在は、笑いの種でしかなかった。
それでも、彼女は平気なふりをしていた。泣かない。誰にも負けない。そう心に決めて、いつも胸を張って歩いていた。
そんな彼女に、唯一、偏見を持たずに接してくれたのが、リタウェル家の長男――ノア・リタウェルだった。凛として、優しく、品位と知性を兼ね備えた彼のことを、アーチェは心の中でこっそりと「先生」と呼んで慕っていた。
学園生活三年目、アーチェ九歳のとき。卒業生を祝う夜会が催された。参加するのは在学生、卒業生、そして彼らの親族。だが、アーチェの両親は当時、隣国との外交交渉に忙しく、娘の晴れ舞台に立ち会うことができなかった。
代わりにノアが、まるで兄のように彼女をエスコートしてくれた。新調したドレスに身を包み、精一杯の化粧を施した。丸い頬、たっぷりとした腕、豊満な体を隠すことはできなかったけれど、それでも美しく在りたいと願った。
けれどその願いは、たった一瞬で踏みにじられた。
夜会の途中、華やかなホールの隅で、数人の令嬢たちがくすくすと笑っているのが見えた。意識しないよう努めたが、耳に届いた言葉は酷く残酷だった。
「ノア様も物好きよね。あんな丸い子を連れてくるなんて」
「エスコートというより、荷物運びって感じ?」
顔が火照った。ノアの前では決して泣かないと誓ったはずなのに。逃げるように人混みを抜け、壁際の飾り棚に身を寄せた瞬間──ドレスの背中の糸が、ぷつりと音を立てて弾けた。
笑い声。嘲笑。どこからともなく起こった失笑の波が、全身を包み込んだ。悲鳴をあげることもできず、アーチェはただ逃げた。
泣きながら、学園の中庭へ駆け込んだ。石畳に膝をつき、体を丸めて、顔を手で覆った。
その時だった。ふわりと、肩に何かがかけられた。
顔を上げると、そこには見知らぬ少年が立っていた。ノアに似た金の髪、けれどもっと幼い。目の色が違う。アクアマリンの柔らかい光を湛えた瞳──
「泣かないで」
彼は、何のためらいもなく自分のジャケットを脱いで彼女にかけてくれていた。そして、ぽんとハンカチを手渡す。
「君は、素敵だよ」
たった一言。けれど、それはアーチェの人生を変えるほどの魔法だった。
初めて、自分の存在を否定されなかった。初めて、「素敵だ」と言われた。
それが、フェリクス・リタウェルとの最初の出会いだった。
あとになって、ジャケットにあったリタウェル家の紋章を見つけ、ノアに返しに行った時に教えてもらったのだ。あの少年がノアの弟、フェリクスだと。
それ以来──アーチェにとって、彼はずっと「ヒーロー」だった。
「……フェリクス様は、きっと忘れてるんだろうなぁ」
アーチェは膝を抱えたまま、頬をスリスリと擦りつけるように膝に顔を伏せる。脳裏には、今日の昼下がり、隣に座っていたフェリクスの照れた顔が浮かぶ。
──仮面を脱いだフェリクス様の方が、私は断然好きよ
思い返すたびに顔が熱くなった。あの一言を言うまで、どれほど心臓が跳ねたか。けれど、あのとき彼は、きちんと笑ってくれた。頬を赤く染めて、素直に照れた顔を見せてくれた。
「もう……好きが止まらないよぉ……」
情けない声でそう呟くと、侍女のオリビアが、手慣れた仕草で膝をトントンと叩く。
「アーチェ様、落ち着いてください。お茶をお淹れしましょう。カモミールにします?」
「……フェリクス様の匂いにして」
「それは無理です」
「ですよね」
ぱたりとベッドに倒れ込み、ふかふかのクッションを抱きしめる。ふわりと香るラベンダーの匂いが、ほんの少し心を落ち着けてくれる。
──大丈夫、まだこれから。焦らなくても、きっとゆっくり距離を縮めていける。
そのためには、もう少しだけ、自分に自信をつけたい。
「ダイエット、ちゃんと続けよ。……フェリクス様の隣に並べるくらい、きれいになってみせる」
そう呟いた少女の目は、真剣だった。過去に傷ついた少女は、未来のために歩き出す。
彼がくれた、最初の優しさを胸に抱いて。
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