悪役令息(泣き虫)は優しい醜悪令嬢に保護されました!

のち

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悪役令息(泣き虫)はもう一人じゃない

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 書斎の扉が静かに閉じる音が響いた。ロシェット邸の東翼、重厚な机と棚に囲まれたこの部屋は、領地経営に関する実務の中心でもある。
 並べられた書類の山は、領地の日々の営みをそのまま映していた。税収の報告、農作物の収穫予定、各村からの要望や訴え。冬支度の計画に、道路整備の依頼。さらには王都からの書簡も数件。目を通すだけでも丸一日かかる量だ。

「……なるほど。水車の建て替えは来年に回すと、村の予算も回るな」

 フェリクスは机の前に腰掛け、すでに何枚もの書類に目を通しては、流れるように万年筆を走らせていた。背筋を伸ばし、視線はまっすぐ書面へ。淡々と、しかし確かな判断で、次々に処理を進めていく。
 書類に記された手書きの文字の癖、用語の使い方、末端の役人が抱える小さな不満の行間まで──フェリクスは一つ一つの文章から情報を拾い上げ、すでに全体の構造を把握していた。
 まるで、王都にいた頃のように。

(……懐かしいな。こういうのは、まだ覚えてる)

 かつて、宰相候補生として働いていた彼は、誰にも評価されない裏方の仕事を引き受け、ただひたすらに成果を積み上げてきた。だが今、その技術がようやく「誰かのために」使える場を得たのだ。

「セドリック様」

 ふと、フェリクスは顔を上げる。部屋の奥、窓際に立つロシェット辺境伯──セドリックが、組んでいた腕を解いてこちらを見ていた。

「この農地の灌漑案ですが……先月の水害地域と重なっており、土壌が安定していません。急がず、来春以降に持ち越した方がよろしいかと。代替として、既存の水路を拡張し、村の要望に応える形で妥協点を探る案を出しました」
「……ほう。君、本当にこれ、全部一人で?」
「はい」

 即答した後、フェリクスは少し眉をひそめた。

「王都にいた頃、似たような業務は……ずっとやっていましたから。あの時の癖が、抜けていないだけです」

 セドリックは感嘆の息を吐き、書類の文字に目を落とす。
 整った筆致。実用性を重んじながらも、冷たさのない配慮がにじむ文体。どれも読みやすく、判断しやすく、けれど軽率ではない。

(……こりゃ、相当鍛えられてるな)

 王都で宰相見習い──それは帝国の中枢を支える頭脳の一端。貴族社会の裏と表を見抜き、論理と配慮の綱渡りをする職務。表向き「泣き虫令息」と呼ばれていた少年が、こんな仕事をこなしていたとは──。

(この子、本当は──)

 セドリックが声をかけようとしたそのとき、軽やかな足音が扉の向こうから近づいてきた。

「失礼します」

 明るい声と共に、アーチェが銀の盆を手に入ってきた。湯気の立つ紅茶と、小さな焼き菓子。部屋の空気がふわりと柔らぐ。

「お二人とも、集中しすぎてないかと思って……」

 彼女の言葉は、次の瞬間で止まった。

「……え? これ、全部、終わったの……?」

 アーチェの視線が書類の山を追う。確かに先ほどまで積まれていた書類の半分以上が、処理済みのトレイに整然と収められている。残りの書類も、メモと修正案が添えられており、あとは確認だけ。

「……うそ。これ、普通は三日はかかるのよ?」

 ぽかんと口を開けたまま、アーチェがフェリクスの隣に立つ。その表情には驚きと、そして、ほんの少しの尊敬が浮かんでいた。

「ほんとうに、フェリクス様が?」
「ああ、すごく手際よくてな。提案内容も的を射てる。これは……王都仕込みか?」
「はい。……あの、昔……少しだけ、宰相見習いのようなことをしていましたので」

 言葉少なに答えながらも、フェリクスの目元には、うっすらと紅が差していた。誉められることに慣れていない──それでも、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じる。

「フェリクス様って、王都ではどんなお仕事されてたの?」

 ふいに、アーチェが紅茶を差し出しながら問いかけた。

「宰相見習いって……候補生、だよね? 私、よく知らないから、教えてほしいな」

 フェリクスはカップをそっと受け取り、湯気の向こうに視線を落とした。

「……候補生というより……そう名目だけで、実際には、下働きでした。資料の精査、草案の調整、貴族の要望の聞き取り、それに……面倒ごとの処理も、全部僕の仕事でした」
「そうなのね……」

 アーチェは静かに頷く。フェリクスは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

「でも、努力したら、きっと……認めてもらえるって、思ってたんです」

 その声が、ふと震えた。

「ちゃんと、成果を出せば、父が……一度くらい、褒めてくれるかもって……でも、全然……」

 息が詰まりかけるように、言葉が途切れた。

「……僕が何をしても、無視されて……兄がやれば褒められるのに、僕だと『生意気だ』って……」

 視線が机に落ちる。そのまま、ぽたりと涙がこぼれた。

「認めて、ほしかったのに……ずっと、ずっと……頑張ったのに……」

 紅茶のカップが小さく揺れる。涙が、震える唇の端を伝ってこぼれ落ちた。
 アーチェはゆっくりと椅子を引き、フェリクスの隣に立った。そして、何も言わずに、そっとその肩に手を添える。
 温かく、柔らかな掌だった。

「……頑張ったのね」

 アーチェの声は、小さくて、でも確かだった。

「こんなに頑張ったフェリクス様を……私はすごいと思うわ。もちろんお父様も……」
「ああ。お前は努力家で、アーチェの婚約者がフェリクスでよかったと誇りに思う」

 フェリクスは唇をかみしめた。何度も肩が揺れる。止めようとしても、涙は止まらなかった。
昔から泣き虫だったが、父の前だけでは泣けなかった。幼い頃から積もった涙。そのすべてが、ようやく解けていく。

「ここでは……そんなふうにしなくても、大丈夫よ」

 アーチェの手が、そっと背をなでる。

「あなたはこの家でなくてはならない存在よ。ちゃんと受け入れられているわ。私たちの、大切なひとよ」

 それはただの慰めではなく、まっすぐな「事実」だった。
 フェリクスの頬を伝う涙が、静かに、静かに、机の上に落ちていった。
 窓の外では、まだ冷たい朝の光が、少しずつ部屋の中に差し込んでいた。
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