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悪役令息(泣き虫)は陽だまりの中に
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フェリクスは、そっと瞬きをした。
まつげに残った涙が、頬を伝って静かに落ちてゆく。揺らぐ視界のなかで、彼はぼんやりと、自分の肩に触れるあたたかさを感じていた。
アーチェの手が、彼の背をそっと撫でている。
それは、触れた瞬間から心を解かすような、ひたすらにやさしい仕草だった。けれど──
(……こんなふうに、泣いてしまって……)
涙を流したことへの羞恥と後悔が、じわりと胸を締めつける。情けないと思われたのではないか。呆れられたのではないか。そんな不安が心の奥でざわついていた。
(また……弱いところを見せてしまった)
今なお、彼の心には父の影が色濃く残っている。
男は泣くな。甘えるな。弱さは恥だ。
そう言い聞かされ、叩き込まれてきた言葉たちが、まるで呪いのように彼を縛り続けている。
だが今、アーチェの手のひらから伝わるぬくもりは──そのどれとも違っていた。
「フェリクス様」
耳元に届いた声は、やわらかく名を呼ぶだけで、責める響きは一つとして含まれていなかった。
ただ、ただ、そっと寄り添うような優しさだけが、静かに満ちていた。
フェリクスは、おそるおそる顔を上げる。
涙に滲んだ視界の先に、アーチェがいた。
彼女は、ほんの少しだけ眉を下げて、それでも──やさしく、微笑んでいた。
その笑みを見た瞬間、胸の奥に、小さな痛みと、じんとした熱がともに生まれる。
「泣いてもいいの」
彼女の言葉は、まるで春の光のようだった。冷えきった心を、そっとあたためてくれる。
「……泣ける人って、ちゃんと人の痛みを知ってる証拠よ。私は、そんなあなたが……誇らしいって思う」
その一言に、フェリクスは息をのんだ。
そんな風に、自分を見てくれる人が、この世にいるなんて、思ってもみなかった。
「……でも、僕は……何も、できていなくて……っ」
かすれる声が喉に引っかかる。言い訳のような、弁解のような、整理のつかない感情がせり上がってくる。
けれど、アーチェはすぐに首を振って言った。
「できてるよ」
背中を撫でる手が、より一層やさしくなる。
「朝起きて、身支度して、お仕事を受けて。……今日だって、勇気を出して、書類を読んでたじゃない」
「そ、そんなの……当たり前のことで……」
「その“当たり前”が、できなかった日が、あったでしょう?」
その静かな問いに、フェリクスははっとした。
──確かに、そうだった。
少し前の自分なら、こんなふうに書斎に来ることすら、できなかった。
朝の光を見ることも怖かったし、誰かと会話をするのも、ただただ怯えていた。
けれど今は、ここにいる。
それは決して小さなことではないと、アーチェはまっすぐに伝えてくれた。
「……ありがとう」
やっとの思いでかすれた声が喉を通ったとき、アーチェはふっと笑みを浮かべた。
「うん」
そして、彼の前に小さな皿をそっと差し出す。紅茶の隣には、かわいらしく並べられた手作りのクッキー。
「じゃあ、泣き虫令息さまには、甘いお菓子でもどうぞ」
いたずらっぽく微笑みながら、彼女は言った。
「お砂糖多めで焼いたの。きっと元気出るよ」
フェリクスは少し戸惑いながら、皿の上のクッキーを見つめた。
甘いものは、昔からひそかに好きだった。
生前、母がよく焼いてくれたクッキーの味を、ふいに思い出す。兄と取り合った、あの微笑ましい日々。
──けれど同時に、それを「くだらん」と一蹴し、母を殴った父の姿も、胸をよぎった。
「……アーチェ嬢」
「フェリクス様、甘いものお好きでしょう? お庭で一緒にお菓子食べてるとき、すごくうれしそうだもの」
「……はい、好きです」
静かに、けれど確かに告げるその言葉。
好きを好きと言えるようになったのは──きっと、この家に来てからだ。
あの元婚約者に向けていた感情も、愛ではなかったのだと思う。
ただ、見捨てられたくなかった。自分を見てほしかった。
そうしなければ、父に価値がないとされてしまう気がして──
ふと視線を落としながら、フェリクスは小さな声で言った。
「……そうだったんだな……」
「ふふっ」
アーチェがくすりと笑う。
「フェリクス様が甘いものを食べてる時、ほんとに幸せそうで。……そうだ、この前、一緒にお菓子作るって言ったでしょ? 明日、焼いてみましょう?」
「え、明日ですか……!?」
「うん。絶対楽しいと思う。泣き虫令息が真剣にお菓子作ってるとこ、ちょっと見てみたいな」
それは、冗談めいた言い方だった。
けれど、フェリクスには、その何気ない一言が、心の奥に灯をともすようだった。
今の自分を、肯定してくれる。
それだけで、こんなにも胸があたたかくなるなんて。
気づけば、フェリクスの口元に、小さな笑みが浮かんでいた。
ほんとうに、ほんの小さな、けれど──本物の笑顔だった。
そして、その様子を書斎の机の前から見ていたセドリックが、静かに顎に手を添えながら、ぽつりとつぶやく。
「……ふむ。泣き虫で、甘党で、働き者。なんとも、将来有望な男じゃないか」
フェリクスが驚いたように顔を上げる。アーチェも、吹き出しそうになって肩を震わせた。
「ね?」
「……え、あの、セドリック様……?」
「ん?」
「将来有望って、それは……どういう……」
セドリックは一拍置いて、口元に愉快そうな笑みを浮かべた。
「……お前のことを、婿殿って呼ぶ日も、そう遠くないのかもしれんな」
その一言に、フェリクスの顔がぱあっと赤くなる。
アーチェは思わず口を押えて、ぷっと笑いを漏らした。
「せ、セドリック様、それはっ……!」
「おや、まだ心の準備が足りなかったか? こりゃあ、失敬」
茶化すような声には、どこかくすぐるような、けれどあたたかな響きがあった。
こうして──
外はまだ肌寒い朝のままだというのに。
ロシェット邸の書斎の中だけは、春の陽だまりのように、穏やかで、あたたかかった。
まつげに残った涙が、頬を伝って静かに落ちてゆく。揺らぐ視界のなかで、彼はぼんやりと、自分の肩に触れるあたたかさを感じていた。
アーチェの手が、彼の背をそっと撫でている。
それは、触れた瞬間から心を解かすような、ひたすらにやさしい仕草だった。けれど──
(……こんなふうに、泣いてしまって……)
涙を流したことへの羞恥と後悔が、じわりと胸を締めつける。情けないと思われたのではないか。呆れられたのではないか。そんな不安が心の奥でざわついていた。
(また……弱いところを見せてしまった)
今なお、彼の心には父の影が色濃く残っている。
男は泣くな。甘えるな。弱さは恥だ。
そう言い聞かされ、叩き込まれてきた言葉たちが、まるで呪いのように彼を縛り続けている。
だが今、アーチェの手のひらから伝わるぬくもりは──そのどれとも違っていた。
「フェリクス様」
耳元に届いた声は、やわらかく名を呼ぶだけで、責める響きは一つとして含まれていなかった。
ただ、ただ、そっと寄り添うような優しさだけが、静かに満ちていた。
フェリクスは、おそるおそる顔を上げる。
涙に滲んだ視界の先に、アーチェがいた。
彼女は、ほんの少しだけ眉を下げて、それでも──やさしく、微笑んでいた。
その笑みを見た瞬間、胸の奥に、小さな痛みと、じんとした熱がともに生まれる。
「泣いてもいいの」
彼女の言葉は、まるで春の光のようだった。冷えきった心を、そっとあたためてくれる。
「……泣ける人って、ちゃんと人の痛みを知ってる証拠よ。私は、そんなあなたが……誇らしいって思う」
その一言に、フェリクスは息をのんだ。
そんな風に、自分を見てくれる人が、この世にいるなんて、思ってもみなかった。
「……でも、僕は……何も、できていなくて……っ」
かすれる声が喉に引っかかる。言い訳のような、弁解のような、整理のつかない感情がせり上がってくる。
けれど、アーチェはすぐに首を振って言った。
「できてるよ」
背中を撫でる手が、より一層やさしくなる。
「朝起きて、身支度して、お仕事を受けて。……今日だって、勇気を出して、書類を読んでたじゃない」
「そ、そんなの……当たり前のことで……」
「その“当たり前”が、できなかった日が、あったでしょう?」
その静かな問いに、フェリクスははっとした。
──確かに、そうだった。
少し前の自分なら、こんなふうに書斎に来ることすら、できなかった。
朝の光を見ることも怖かったし、誰かと会話をするのも、ただただ怯えていた。
けれど今は、ここにいる。
それは決して小さなことではないと、アーチェはまっすぐに伝えてくれた。
「……ありがとう」
やっとの思いでかすれた声が喉を通ったとき、アーチェはふっと笑みを浮かべた。
「うん」
そして、彼の前に小さな皿をそっと差し出す。紅茶の隣には、かわいらしく並べられた手作りのクッキー。
「じゃあ、泣き虫令息さまには、甘いお菓子でもどうぞ」
いたずらっぽく微笑みながら、彼女は言った。
「お砂糖多めで焼いたの。きっと元気出るよ」
フェリクスは少し戸惑いながら、皿の上のクッキーを見つめた。
甘いものは、昔からひそかに好きだった。
生前、母がよく焼いてくれたクッキーの味を、ふいに思い出す。兄と取り合った、あの微笑ましい日々。
──けれど同時に、それを「くだらん」と一蹴し、母を殴った父の姿も、胸をよぎった。
「……アーチェ嬢」
「フェリクス様、甘いものお好きでしょう? お庭で一緒にお菓子食べてるとき、すごくうれしそうだもの」
「……はい、好きです」
静かに、けれど確かに告げるその言葉。
好きを好きと言えるようになったのは──きっと、この家に来てからだ。
あの元婚約者に向けていた感情も、愛ではなかったのだと思う。
ただ、見捨てられたくなかった。自分を見てほしかった。
そうしなければ、父に価値がないとされてしまう気がして──
ふと視線を落としながら、フェリクスは小さな声で言った。
「……そうだったんだな……」
「ふふっ」
アーチェがくすりと笑う。
「フェリクス様が甘いものを食べてる時、ほんとに幸せそうで。……そうだ、この前、一緒にお菓子作るって言ったでしょ? 明日、焼いてみましょう?」
「え、明日ですか……!?」
「うん。絶対楽しいと思う。泣き虫令息が真剣にお菓子作ってるとこ、ちょっと見てみたいな」
それは、冗談めいた言い方だった。
けれど、フェリクスには、その何気ない一言が、心の奥に灯をともすようだった。
今の自分を、肯定してくれる。
それだけで、こんなにも胸があたたかくなるなんて。
気づけば、フェリクスの口元に、小さな笑みが浮かんでいた。
ほんとうに、ほんの小さな、けれど──本物の笑顔だった。
そして、その様子を書斎の机の前から見ていたセドリックが、静かに顎に手を添えながら、ぽつりとつぶやく。
「……ふむ。泣き虫で、甘党で、働き者。なんとも、将来有望な男じゃないか」
フェリクスが驚いたように顔を上げる。アーチェも、吹き出しそうになって肩を震わせた。
「ね?」
「……え、あの、セドリック様……?」
「ん?」
「将来有望って、それは……どういう……」
セドリックは一拍置いて、口元に愉快そうな笑みを浮かべた。
「……お前のことを、婿殿って呼ぶ日も、そう遠くないのかもしれんな」
その一言に、フェリクスの顔がぱあっと赤くなる。
アーチェは思わず口を押えて、ぷっと笑いを漏らした。
「せ、セドリック様、それはっ……!」
「おや、まだ心の準備が足りなかったか? こりゃあ、失敬」
茶化すような声には、どこかくすぐるような、けれどあたたかな響きがあった。
こうして──
外はまだ肌寒い朝のままだというのに。
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