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閑話 泣き虫弟の兄は復讐を誓う
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月が静かに夜空を照らし、白銀の光が石畳をやさしく包み込んでいる。とある貴族の庭園を囲む生垣の向こう、ひときわ高くそびえる木の下に、一人の青年が静かに立っていた。
ノア・リタウェル。
太陽の光を閉じ込めたような金の髪に、紅玉のごとく燃える瞳。整った顔立ちと背筋を伸ばした立ち姿には、貴族の矜持と騎士の誓いが宿っていた。
フェリクスが儚さを纏うならば、ノアは確かな意志と誓いを背負った強さを纏っている。
そんな彼の前に、ひときわ軽やかな足音が近づいてきた。
「ノア様……お待たせいたしました」
夜風に揺れるドレスの裾。淡い藤色の長い髪が波のようにゆれ、白磁のような肌が月光を受けて輝く。
彼女の名は、フラン・グティレス。
伯爵令嬢であり、気品と脆さをあわせ持つその美貌は、まるで夜に咲く一輪の花のよう。王都では“傾国の美女”と囁かれた。そして、彼女はノアの婚約者だった。
「そんなに待っていないよ。……それより、ご家族には気づかれなかった?」
ノアがそっと微笑み、彼女へ歩み寄る。フランは小さく首を振り、俯きがちに答えた。
「ええ。侍女に入れ替わってもらって、こっそりと……父も母も、今は寝ておりますから」
彼女の声がわずかに震えた。
「あの、聞きました。ウィダーリス嬢のこと。ノア様を専属護衛に指名したと……。あの方は、どうしてあなた方兄弟ばかり……」
言葉の最後は、胸に押し込めた痛みが零れたかのようだった。長い睫毛を伏せた横顔に、月の光が優しく降り注ぐ。
ノアはそっと彼女の手を取った。冷たい指先が、自分の体温に触れて、かすかに震えていた。
「ありがとう、フラン。君がそう言ってくれるだけで、私は十分救われているよ」
その声に、フランの肩がわずかに震えた。
ノアの言葉は、いつだって優しい。
怒りよりも悲しみよりも、まず誰かを想う心を選ぶ彼だからこそ、フランはこの人に心を捧げたのだ。
「でも、大丈夫。これで、奴らの懐に潜ることができる。……フェリクスが受けた冤罪の証拠を、必ず掴んでみせる」
静かに、けれど確かな意志を込めた言葉。その横顔は、まるで月の剣士のように美しかった。
「ノア様……」
フランは、たまらず彼の胸に顔を埋めた。かすかに香る花の匂いと、鋼のような意志が混じりあった彼の温もり。
それは、彼そのものだった。強くて、まっすぐで、どこまでも優しい。
ノアは驚くことなく、静かに彼女を抱き寄せる。まるで壊れ物を包むように、そっと手を添えた。
「私……何か、私にできることがあれば……」
顔を上げた彼女の瞳に、ノアの赤い眼差しがまっすぐ注がれる。
その深さに心を飲まれそうになった、次の瞬間。彼は静かに、羽のようなキスをフランの唇に落とした。
それは優しく、あまりにも儚い一瞬だった。けれど、心臓が高鳴り、世界のすべてが消えるような感覚だけが胸に残る。
唇が離れ、ノアが囁いた。
「ありがとう、フラン。でも……君は一度、あの男に……」
その一言に、フランの体がぴくりと震えた。
──忘れもしない、あの日のこと。
あの日──
フランは、繊細な造りの木箱を両手に抱えていた。中には、金色に焼き上げられた蜂蜜の焼き菓子と、ノアが好んでいる花の香りの紅茶葉がそっと収められている。
(お忙しい中でも、せめて甘いものくらい……)
王宮騎士として最前線に立つノアは昼夜を問わず働き詰めだ。婚約者として、何か支えになりたかった。それがどんなにささやかなことでも。
けれど、彼女の小さな思いやりは、思いもよらぬ形で踏みにじられることになる。
「……これはこれは。グティレス伯爵令嬢」
廊下の角を曲がった先で、背筋が凍るような声に呼び止められた。
振り返ると、煌びやかな礼服を身に纏った男が立っている。整った顔立ちに品位ある笑み──だが、その瞳に宿る光だけは、獣のそれだった。
アルベール・シュトレン。次代の王であり、ノアの主君にあたる存在。
その彼が、まるで偶然を装うように、しかし明らかに狙い澄ました足取りでフランの前に立ちはだかった。
「騎士団への差し入れか? ノア・リタウェルは幸せ者だな」
「は……はい。お仕事の合間にでも召し上がっていただければと思いまして……」
口元を笑みで取り繕いながらも、フランは心の奥で警鐘が鳴り響くのを感じていた。あらゆる社交の場で磨かれた直感が、この男との距離を取るべきだと訴えていた。
「……せっかく王宮まで来てくれたのだ。私の執務室で、お茶でもいかがかな?」
「いえ……私は、すぐに……」
逃げる言葉を選ぼうとした瞬間、アルベールの手が彼女の手首を掴んだ。
その手は白く細い手を、支配するかのよう強引で侵略的だった。
「遠慮はいらない。少しくらい、お喋りに付き合ってくれても良いだろう?」
フランが目を見開いたのと、アルベールのもう一方の手が彼女の腰に回されたのは同時だった。
「っ……やめ、て……!」
「そんなに震えて。……可愛いな。リタウェルには、もったいないくらいだ」
耳元に囁かれたその声は、丁寧な口調を保っていた。だが、そこにあるのは愛でも優しさでもない。獲物をいたぶる前の嗜虐的な余裕に満ちていた。
腰を引き寄せられたまま、フランの体が硬直する。抱えていた箱が傾き、焼き菓子が一つ、床に転がった。
「お願いです……やめてください……!」
必死の拒絶。それでもアルベールは唇の端に笑みを湛えたまま、彼女の耳元で囁く。
「前々から君にこうやって触れたかったんだ。なぁ、グティレス伯爵令嬢……いや、フラン。美しい君には、美しい私がお似合いだ。さあ、行こうか」
ふっと耳に吐息がふきかけられる。ぞわりとした感覚が身体に走り、アルベールの指先が背に触れかけたその瞬間──
「……っ!」
フランの手から箱が落ちる。彼女はありったけの力を振り絞り、身体をよじった。引き寄せる腕を振りほどき、胸元を押して距離を取る。
そして、ドレスの裾を掴みながら、彼女は全速力で駆け出した。
廊下を走る音が響く。
焼き菓子の箱も、上品な立ち居振る舞いも、今はどうでもいい。逃げなければ──このままでは、自分の心も、ノアへの思いも壊されてしまう。
その日、彼女は泣きながら王宮を後にした。
翌日には、噂が王都を駆け巡っていた。
「王太子に媚びを売ろうとしたが、失敗して逃げ出した令嬢がいるらしい」
真実とは正反対の内容だった。しかもそれを広めたのは──他でもない、アルベール本人だと、すぐにわかった。
両親はフランを信じてくれたが、周囲はそう思わない。彼女がこれ以上、傷つかないよう、療養という名目のもと、表に出ることを禁じられた。
屋敷の窓辺に座り、誰も来ない日々を過ごす中で、彼女は何度も自分を責めそうになった。
(ノア様……ノア様は、信じてくださるかしら……)
不安で堪らない胸中に苛まれ、フランは静かに涙を零す。
けれど、三日後。
彼は、来てくれた。
「フラン……!」
扉が荒々しく開かれ、駆け込んできたのはノアだった。金髪を揺らし、紅の瞳が怒りと安堵で潤んでいた。
「君が……君が無事でよかった……!」
彼女の手を取り、包み込むように抱きしめてくる。
その腕の中で、フランは堪えていた涙をこぼした。
「ノア様……私は……何もしていません……!」
「分かってる。誰よりも、私が信じてる。君がどれだけ勇気を振り絞ったか、どれだけ怖かったか……想像もつかない。すぐに来れなくてごめん。でも、もう大丈夫だ」
ノアの腕の中は、暖かくて、心地よくて、涙が止まらなかった。
フランと会えなかった三日間、ノアは父であるヴォルフラムに呼び出され、軟禁されていた。
噂がヴォルフラムの耳に入ったためだ。
「あの女との婚約を解消しろ」
ノアが執務室へ入って、それが開口一番だった。
「王太子の逆鱗に触れた女など、もはや社交界では終わりだ。身の程をわきまえろ、ノア」
ノアは黙って立ち上がり、ただ一言だけ残した。
「──私はフランを愛しています。それに信じています。捨てろというなら、父上を捨てます」
激昂したヴォルフラムに殴られた瞬間、視界が一瞬、白く弾けた。
だが、ノアは怯まなかった。
血の滲む唇をぬぐい、睨み返すように拳を振るう。
──乾いた音が、屋敷の空気を裂いた。
「……二度と私の大切なものを否定しないでください」
反撃の余韻も冷めぬまま、ノアは踵を返す。
だがその背後、油断をついた父の手が無情にも振り下ろされた。
「……ッ!」
首筋に走る衝撃。視界がぐらりと揺れ、床が吸い寄せるように近づいていく。
そのまま、意識が暗闇に沈んだ。
「……っ……ぅ……」
冷たい石の床。重たい枷の感触。
目覚めた瞬間、ノアは自分が地下牢にいることを理解した。
手首には鉄の輪があり、鎖が壁につながれている。牢の柵の外は静かで、月明かりすら届かない。
「……実の息子に対して、ずいぶんな対応じゃないか」
呟きながら、ノアは懐に手を滑らせる。
内ポケットに縫い込まれた極細の金属──特注の仕込みピンだ。
小さく息を吐き、枷の鍵穴に差し込む。数秒の沈黙。
「……よし」
カチリ、と音がして、枷が外れた。
その瞬間から、彼の動きは変わる。
足音を殺し、身を低くして牢の柵のそばに身を潜める。
柵の影──一番視界が届きにくい場所に身を滑り込ませると、ノアは息をひそめて待った。
そして、運命の足音がやってくる。
「ノア様? 生きてますよね……?」
懐中灯を手に、生存確認をしに来たのか、近づいてくる看守の声。
ノアの目が細められ、息を殺す。
柵のすぐ向こうに足音が止まった。
「……?」
不審に思った看守が、柵へ一歩近づく──その瞬間。
鉄柵の隙間から、音もなく伸びる影。
ノアの腕が、豹のような速度でしなり、看守の首元に打ち込まれた。
「……ぐ、っ……!」
悲鳴をあげる間もなく、看守の体が崩れ落ちた。
ノアは無駄なく手を伸ばし、腰の鍵束を奪い取ると、柵の鍵穴に差し込む。
錠前が外れる音と共に、牢の扉がゆっくりと開いた。
その目に宿るのは、もはや一切の迷いのない決意。
「早くフランのもとへ行かないと」
地下牢の闇を背に、ノアは静かに立ち上がる。
その姿はまるで、奈落からよみがえった騎士のようだった。
──あの日のことを思い出すと腸が煮え繰り返りそうになる。
時は戻り、現在。
ノアは腕の中で小さく震えるフランを力強く抱きしめた。
「アルベールはフランが誘惑したと、嘘をついている。それを聞いた時、私は……怒りで手が震えたよ。あんな人間のために、君の名誉が傷つけられたことが、何より許せない。そして噂を信じた父も私は許せない。あいつと同じ血が通っているだなんて、考えたくもない」
ノアの声がわずかに低くなる。抑えていた怒りが、微かににじんでいた。けれどその感情のすべては、フランを守りたい一心からくるものだった。
「私は……君にまた、同じ思いをさせたくない。だからどうか、危険な場所へは行かないで」
フランは唇を噛んだ。涙が零れそうになるのを堪えるように、まぶたをぎゅっと閉じる。
こんなにも優しい人が、どうしてこんな過酷な運命を背負わなければならないのだろう──そう思わずにはいられなかった。
「ノア様……」
静かに名を呼び、彼の頬に手を添える。細く長い指が、彼の肌に触れ、指先から心が流れていくようだった。
「貴方が私を想ってくださるように、私も……貴方を、何よりも、想っています」
それは告白でも誓いでもない。ただ心の奥から溢れた、本物の感情の言葉だった。
ノアは、そっとフランの手を自分の頬に押し当てた。彼女の温もりが胸の奥まで染み渡る。
「……君の存在が、私の支えなんだ。君がいてくれるから、私は進める」
夜の風が、花びらを舞わせる。ふたりを包むその光景は、まるで時間が止まったかのように美しく、切なかった。
だが──この静かな夜の底には、確かに燃える灯がある。
復讐ではなく、真実のために。愛する人を守るために。
ノアは、もう迷わない。フランのためにも、フェリクスのためにも。すべてを終わらせる、その日まで。
ノア・リタウェル。
太陽の光を閉じ込めたような金の髪に、紅玉のごとく燃える瞳。整った顔立ちと背筋を伸ばした立ち姿には、貴族の矜持と騎士の誓いが宿っていた。
フェリクスが儚さを纏うならば、ノアは確かな意志と誓いを背負った強さを纏っている。
そんな彼の前に、ひときわ軽やかな足音が近づいてきた。
「ノア様……お待たせいたしました」
夜風に揺れるドレスの裾。淡い藤色の長い髪が波のようにゆれ、白磁のような肌が月光を受けて輝く。
彼女の名は、フラン・グティレス。
伯爵令嬢であり、気品と脆さをあわせ持つその美貌は、まるで夜に咲く一輪の花のよう。王都では“傾国の美女”と囁かれた。そして、彼女はノアの婚約者だった。
「そんなに待っていないよ。……それより、ご家族には気づかれなかった?」
ノアがそっと微笑み、彼女へ歩み寄る。フランは小さく首を振り、俯きがちに答えた。
「ええ。侍女に入れ替わってもらって、こっそりと……父も母も、今は寝ておりますから」
彼女の声がわずかに震えた。
「あの、聞きました。ウィダーリス嬢のこと。ノア様を専属護衛に指名したと……。あの方は、どうしてあなた方兄弟ばかり……」
言葉の最後は、胸に押し込めた痛みが零れたかのようだった。長い睫毛を伏せた横顔に、月の光が優しく降り注ぐ。
ノアはそっと彼女の手を取った。冷たい指先が、自分の体温に触れて、かすかに震えていた。
「ありがとう、フラン。君がそう言ってくれるだけで、私は十分救われているよ」
その声に、フランの肩がわずかに震えた。
ノアの言葉は、いつだって優しい。
怒りよりも悲しみよりも、まず誰かを想う心を選ぶ彼だからこそ、フランはこの人に心を捧げたのだ。
「でも、大丈夫。これで、奴らの懐に潜ることができる。……フェリクスが受けた冤罪の証拠を、必ず掴んでみせる」
静かに、けれど確かな意志を込めた言葉。その横顔は、まるで月の剣士のように美しかった。
「ノア様……」
フランは、たまらず彼の胸に顔を埋めた。かすかに香る花の匂いと、鋼のような意志が混じりあった彼の温もり。
それは、彼そのものだった。強くて、まっすぐで、どこまでも優しい。
ノアは驚くことなく、静かに彼女を抱き寄せる。まるで壊れ物を包むように、そっと手を添えた。
「私……何か、私にできることがあれば……」
顔を上げた彼女の瞳に、ノアの赤い眼差しがまっすぐ注がれる。
その深さに心を飲まれそうになった、次の瞬間。彼は静かに、羽のようなキスをフランの唇に落とした。
それは優しく、あまりにも儚い一瞬だった。けれど、心臓が高鳴り、世界のすべてが消えるような感覚だけが胸に残る。
唇が離れ、ノアが囁いた。
「ありがとう、フラン。でも……君は一度、あの男に……」
その一言に、フランの体がぴくりと震えた。
──忘れもしない、あの日のこと。
あの日──
フランは、繊細な造りの木箱を両手に抱えていた。中には、金色に焼き上げられた蜂蜜の焼き菓子と、ノアが好んでいる花の香りの紅茶葉がそっと収められている。
(お忙しい中でも、せめて甘いものくらい……)
王宮騎士として最前線に立つノアは昼夜を問わず働き詰めだ。婚約者として、何か支えになりたかった。それがどんなにささやかなことでも。
けれど、彼女の小さな思いやりは、思いもよらぬ形で踏みにじられることになる。
「……これはこれは。グティレス伯爵令嬢」
廊下の角を曲がった先で、背筋が凍るような声に呼び止められた。
振り返ると、煌びやかな礼服を身に纏った男が立っている。整った顔立ちに品位ある笑み──だが、その瞳に宿る光だけは、獣のそれだった。
アルベール・シュトレン。次代の王であり、ノアの主君にあたる存在。
その彼が、まるで偶然を装うように、しかし明らかに狙い澄ました足取りでフランの前に立ちはだかった。
「騎士団への差し入れか? ノア・リタウェルは幸せ者だな」
「は……はい。お仕事の合間にでも召し上がっていただければと思いまして……」
口元を笑みで取り繕いながらも、フランは心の奥で警鐘が鳴り響くのを感じていた。あらゆる社交の場で磨かれた直感が、この男との距離を取るべきだと訴えていた。
「……せっかく王宮まで来てくれたのだ。私の執務室で、お茶でもいかがかな?」
「いえ……私は、すぐに……」
逃げる言葉を選ぼうとした瞬間、アルベールの手が彼女の手首を掴んだ。
その手は白く細い手を、支配するかのよう強引で侵略的だった。
「遠慮はいらない。少しくらい、お喋りに付き合ってくれても良いだろう?」
フランが目を見開いたのと、アルベールのもう一方の手が彼女の腰に回されたのは同時だった。
「っ……やめ、て……!」
「そんなに震えて。……可愛いな。リタウェルには、もったいないくらいだ」
耳元に囁かれたその声は、丁寧な口調を保っていた。だが、そこにあるのは愛でも優しさでもない。獲物をいたぶる前の嗜虐的な余裕に満ちていた。
腰を引き寄せられたまま、フランの体が硬直する。抱えていた箱が傾き、焼き菓子が一つ、床に転がった。
「お願いです……やめてください……!」
必死の拒絶。それでもアルベールは唇の端に笑みを湛えたまま、彼女の耳元で囁く。
「前々から君にこうやって触れたかったんだ。なぁ、グティレス伯爵令嬢……いや、フラン。美しい君には、美しい私がお似合いだ。さあ、行こうか」
ふっと耳に吐息がふきかけられる。ぞわりとした感覚が身体に走り、アルベールの指先が背に触れかけたその瞬間──
「……っ!」
フランの手から箱が落ちる。彼女はありったけの力を振り絞り、身体をよじった。引き寄せる腕を振りほどき、胸元を押して距離を取る。
そして、ドレスの裾を掴みながら、彼女は全速力で駆け出した。
廊下を走る音が響く。
焼き菓子の箱も、上品な立ち居振る舞いも、今はどうでもいい。逃げなければ──このままでは、自分の心も、ノアへの思いも壊されてしまう。
その日、彼女は泣きながら王宮を後にした。
翌日には、噂が王都を駆け巡っていた。
「王太子に媚びを売ろうとしたが、失敗して逃げ出した令嬢がいるらしい」
真実とは正反対の内容だった。しかもそれを広めたのは──他でもない、アルベール本人だと、すぐにわかった。
両親はフランを信じてくれたが、周囲はそう思わない。彼女がこれ以上、傷つかないよう、療養という名目のもと、表に出ることを禁じられた。
屋敷の窓辺に座り、誰も来ない日々を過ごす中で、彼女は何度も自分を責めそうになった。
(ノア様……ノア様は、信じてくださるかしら……)
不安で堪らない胸中に苛まれ、フランは静かに涙を零す。
けれど、三日後。
彼は、来てくれた。
「フラン……!」
扉が荒々しく開かれ、駆け込んできたのはノアだった。金髪を揺らし、紅の瞳が怒りと安堵で潤んでいた。
「君が……君が無事でよかった……!」
彼女の手を取り、包み込むように抱きしめてくる。
その腕の中で、フランは堪えていた涙をこぼした。
「ノア様……私は……何もしていません……!」
「分かってる。誰よりも、私が信じてる。君がどれだけ勇気を振り絞ったか、どれだけ怖かったか……想像もつかない。すぐに来れなくてごめん。でも、もう大丈夫だ」
ノアの腕の中は、暖かくて、心地よくて、涙が止まらなかった。
フランと会えなかった三日間、ノアは父であるヴォルフラムに呼び出され、軟禁されていた。
噂がヴォルフラムの耳に入ったためだ。
「あの女との婚約を解消しろ」
ノアが執務室へ入って、それが開口一番だった。
「王太子の逆鱗に触れた女など、もはや社交界では終わりだ。身の程をわきまえろ、ノア」
ノアは黙って立ち上がり、ただ一言だけ残した。
「──私はフランを愛しています。それに信じています。捨てろというなら、父上を捨てます」
激昂したヴォルフラムに殴られた瞬間、視界が一瞬、白く弾けた。
だが、ノアは怯まなかった。
血の滲む唇をぬぐい、睨み返すように拳を振るう。
──乾いた音が、屋敷の空気を裂いた。
「……二度と私の大切なものを否定しないでください」
反撃の余韻も冷めぬまま、ノアは踵を返す。
だがその背後、油断をついた父の手が無情にも振り下ろされた。
「……ッ!」
首筋に走る衝撃。視界がぐらりと揺れ、床が吸い寄せるように近づいていく。
そのまま、意識が暗闇に沈んだ。
「……っ……ぅ……」
冷たい石の床。重たい枷の感触。
目覚めた瞬間、ノアは自分が地下牢にいることを理解した。
手首には鉄の輪があり、鎖が壁につながれている。牢の柵の外は静かで、月明かりすら届かない。
「……実の息子に対して、ずいぶんな対応じゃないか」
呟きながら、ノアは懐に手を滑らせる。
内ポケットに縫い込まれた極細の金属──特注の仕込みピンだ。
小さく息を吐き、枷の鍵穴に差し込む。数秒の沈黙。
「……よし」
カチリ、と音がして、枷が外れた。
その瞬間から、彼の動きは変わる。
足音を殺し、身を低くして牢の柵のそばに身を潜める。
柵の影──一番視界が届きにくい場所に身を滑り込ませると、ノアは息をひそめて待った。
そして、運命の足音がやってくる。
「ノア様? 生きてますよね……?」
懐中灯を手に、生存確認をしに来たのか、近づいてくる看守の声。
ノアの目が細められ、息を殺す。
柵のすぐ向こうに足音が止まった。
「……?」
不審に思った看守が、柵へ一歩近づく──その瞬間。
鉄柵の隙間から、音もなく伸びる影。
ノアの腕が、豹のような速度でしなり、看守の首元に打ち込まれた。
「……ぐ、っ……!」
悲鳴をあげる間もなく、看守の体が崩れ落ちた。
ノアは無駄なく手を伸ばし、腰の鍵束を奪い取ると、柵の鍵穴に差し込む。
錠前が外れる音と共に、牢の扉がゆっくりと開いた。
その目に宿るのは、もはや一切の迷いのない決意。
「早くフランのもとへ行かないと」
地下牢の闇を背に、ノアは静かに立ち上がる。
その姿はまるで、奈落からよみがえった騎士のようだった。
──あの日のことを思い出すと腸が煮え繰り返りそうになる。
時は戻り、現在。
ノアは腕の中で小さく震えるフランを力強く抱きしめた。
「アルベールはフランが誘惑したと、嘘をついている。それを聞いた時、私は……怒りで手が震えたよ。あんな人間のために、君の名誉が傷つけられたことが、何より許せない。そして噂を信じた父も私は許せない。あいつと同じ血が通っているだなんて、考えたくもない」
ノアの声がわずかに低くなる。抑えていた怒りが、微かににじんでいた。けれどその感情のすべては、フランを守りたい一心からくるものだった。
「私は……君にまた、同じ思いをさせたくない。だからどうか、危険な場所へは行かないで」
フランは唇を噛んだ。涙が零れそうになるのを堪えるように、まぶたをぎゅっと閉じる。
こんなにも優しい人が、どうしてこんな過酷な運命を背負わなければならないのだろう──そう思わずにはいられなかった。
「ノア様……」
静かに名を呼び、彼の頬に手を添える。細く長い指が、彼の肌に触れ、指先から心が流れていくようだった。
「貴方が私を想ってくださるように、私も……貴方を、何よりも、想っています」
それは告白でも誓いでもない。ただ心の奥から溢れた、本物の感情の言葉だった。
ノアは、そっとフランの手を自分の頬に押し当てた。彼女の温もりが胸の奥まで染み渡る。
「……君の存在が、私の支えなんだ。君がいてくれるから、私は進める」
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だが──この静かな夜の底には、確かに燃える灯がある。
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これは、名前を捨てた少女が、
もう一度「名前」を取り戻すまでの物語。
※校正にAIを使用していますが、自身で考案したオリジナル小説です。
幼い頃に、大きくなったら結婚しようと約束した人は、英雄になりました。きっと彼はもう、わたしとの約束なんて覚えていない
ラム猫
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幼い頃に、セリフィアはシルヴァードと出会った。お互いがまだ世間を知らない中、二人は王城のパーティーで時折顔を合わせ、交流を深める。そしてある日、シルヴァードから「大きくなったら結婚しよう」と言われ、セリフィアはそれを喜んで受け入れた。
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