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遠い記憶と健康診断
一人暮らし
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慌ただしく、3月は過ぎていく。
内定をもらってから1ヶ月後、わたしは新居に引越した。今日から、初めての一人暮らしが始まる。
1Kの一人暮らし用の部屋。
ダンボール箱を3箱ほどを運び込み、真新しい家具ばかりの部屋は簡素で、生活感のない空間だ。
間もなく、冷蔵庫や洗濯機と、家電が運ばれてきたが、どれも初めましての品物たちは、知らん顔するかのようだった。
真っ先に開けたリュックの中から、耳のくたびれたウサギのぬいぐるみを取り出して、ベッドの上に置いた。
名前は小さい頃に付けた。『うーちゃん』である。
その空間だけでも見慣れた場所になると、少し安心する。
「のぞみ! あんたこれしか荷物持って来てないの?」
キッチンから顔を出した母が、忙しなくわたしに訊ねる。
「だって、どうせ家帰ってくるだろうし、引越しで疲れたくないもん……」
引越し業者との打ち合わせや、ライフラインの開通など、引越し直後のあらゆるイベントが朝から盛りだくさんだった。あくびをしながらベッドにもたれて座り込むと、苛立つように母が言った。
「もーう! お母さんもお父さんも、しばらく家空けるのよ? 今日しか手伝えないの、わかってる?」
もともと過保護な母ではなかったが、娘の一人暮らしには気が立つらしい。いつも以上にキビキビしている様子に、少し疲れて、声のトーンが上がってしまった。
「わかってるよーう、大丈夫!」
言いながら、気が進まないまま目の前のダンボール箱を開けて、ゆっくりと洋服をクローゼットにしまう。
そんなわたしたちの不穏な空気を読み取った父が、フォローに入る。
「まあまあ、母さん、大丈夫だろ。のぞみももう子どもじゃないんだし。昔よりは体も丈夫になったんだから」
のんびりと、説明書を読みながら家具を組み立てる父を見て、わたしは父に似たと確信する。
「そうだよ! 大学生の間は体調管理ちゃんとできてたんだからね!」
思わぬ加勢を得て、母に言い返すと、母は厳しい表情を崩さずにビシッと言いのけた。
「大学生の間、皆勤だったくらいで油断しないの! 社会人はそれなりに大変なんだから」
他の誰でもない、母がそれを体現している。
母は、結婚前から商社に勤めている。とにかく全国海外と出張で飛び回り、バリバリと仕事をこなしてきた。
結婚してわたしを産んでからも仕事を続け、今でもキャリアを積み続けている、生粋の仕事人間だ。そんな母から、『社会人は大変』とひと言出されてしまうと、ぐうの音も出なくて押し黙った。
しぶしぶ、ゆっくりとクローゼットに物をしまう。
社会人とはいえ、大学時代にバイトでやっていた調理の仕事と大きく変わることはない。仕事も8時間勤務で、残業は少ないと聞いている。
食べることは好きだ。食べるものを作ることも好きだ。気分転換がしたくなって、台所へ行く。
母が整理していたキャビネットから、ティーポットとティーパックを取り出した。
ケトルでお湯を沸かして、ゆっくりと茶葉を蒸らす。3人分のマグカップを準備して、冷蔵庫を開ける。ここに来る前に、母がコンビニでプリンを買ってくれた。なんだかんだ娘には甘いらしい。
「それにしても……良かったわ、社宅がある職場で。変な人も住んでないだろうし、もしかしたら、隣はお医者様かもよ?」
気を取り直した母が、そんなわたしを横目で見ながら、つぶやくように言った。
「……! それは、なんかやだ……」
……お、お医者様……。
そんなワードが出ただけで、少し背筋が伸びるのはなぜなのか……。
危うくプリンを取り落としそうになる。
「入職したらあいさつするのよ。特に日野先生と、澤北先生には」
「うんー……」
日野先生と、澤北先生……。
遥か遠い記憶の中から、2人の姿を検索するように、ゆっくりと過去を辿っていく。
曖昧な記憶は、断片的に鮮明に色がついた。
…………陽太先生と、優先生、だったなぁ。
『ようたせんせ! のんちゃん、ごはんぜんぶたべた』
プラスチックのご飯茶碗は、うさぎの絵が描いてあって、なかなか食事量が増えないわたしのために、先生が選んでくれたものだった。
『おお! のんちゃん、えらいねぇ!』
にっこりと笑いながら、大きな手で必ず撫でてくれて。その手がすごく好きで、いつも褒められるのを待っていた。
『お薬も飲めるかな?』
『……おくすりいらない』
『のんちゃんのために、甘くしてあるから、きっと飲めると思うけれど。のんちゃんはお利口さんだからなぁ……』
陽太先生がゼリーに薬を混ぜる。チョコレートの味がすることを知っていたから、先生の手元を覗き込むために近寄った。
『ほれ、あーんしてみ』
……わがまま言ってごねても、優しくしてくれたのは陽太先生だった。
『いやーーー!!! もうやらないの!!! ゆうせんせ、きらい!!!』
病室の中を走り回って、とにかく治療から逃げることもあって……。
『こらこら、のんちゃん、走らないよ。何が嫌なんだ? ん? お話してみな』
両手を力いっぱい振り回して拒否するわたしを、落ち着かせるように軽々と捕まえて、膝の上に抱き上げた。
『いやなのーーー!!!! きらいなのーー!!!』
逃れようと暴れてみても、しっかり抱き抱えられてしまって、じたばたしていた手足を、先生の体温に落ち着かせるしかなかった。
『うん、ほら、嫌なのも嫌いなのもわかったから。ちょっと落ち着け』
ぽんぽんと、ゆっくりとしたリズムが心地良くて、体を預ける。
『だって、……いたいんだもん、きのうもきょうも、いたいの……やだ』
『うん、ごめんな。痛いのばっかり頑張らせて』
背中を撫でながら、ゆっくりと声をかけ続けてくれたのが優先生だったと思う。
全てをはっきり覚えていないけれど、でも、2人とも大好きだった、気がする。
あとは、病院の食堂のプリンが美味しかったこと。
ご褒美で食堂に連れて行ってもらって食べたり、病室で食べたり。
病院から出られない日々での楽しみが、食べ物しかなかったのだ。
……だから、料理がつくれるようになりたいって、思ったわけなんだけれども。
ふっと我に帰って、胸の中心がくすぐったくなるような、頬が赤くなるような感覚になって、首を振った。
「お母さん、お父さん、ちょっと休憩しようよ」
淹れた紅茶を、リビングへ持っていく。
父が嬉しそうに顔をほころばせると、大袈裟に褒める。
「うん、プロの淹れたお茶はおいしいなぁ」
昔からそうだった。父は大したことのないものも、必ず褒めてくれる。
3人で小さなローテーブルを囲んで、短い休憩をとった。
わたしは胸に引っかかるものを飲み下すように、プリンを口に含む。病室で食べた味を思い出してしまって、余計に胸がぎゅっと詰まった。
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