友達の妹が、入浴してる。

つきのはい

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◇ ◇ ◇

 服装以外にも、実は細かい問題がある。
 例えば、歯ブラシは新しい物を買わなければいけない。だとか、余分な箸が家にあったっけ? とか、枕が変わると寝付けない。などなど……。

 挙げていけばキリがない。一体いくつ日用品を改めなきゃいけないのか。

 それから、相手の暮らしていた場所を借りる以上、不必要に物色しないという約束も交わしていた。他にも約束を設ける必要が出てくれば、それはその都度連絡を取り合おうという事になった。

 夏弥の頭の中は、もやもやの曇り模様で一杯だった。

 この同居人の交換に、果たしてどんな意味があるのか。その意味が大した物でなければ、この生活に際して自分が思い悩む事自体、夏弥には全てが徒労に終わってしまうように思えた。

「はぁ……」

「201号室」の文字の横に「鈴川」と書かれた簡易的な名札がプレートにさしてあった。

 今日も無事に学校を終え、いつものように帰宅――するはずだと朝の時点では思っていた。それがなぜか今は、鈴川洋平の住んでいたアパートへやってきている。

 唯一の友のくだらない思いつき。

 そんな物に付き合ってあげる自分は、なんて心優しいんだろう。自分はひょっとしたら博愛主義者だったのかもしれないと夏弥は思えてくる。

 よくよく考えてみれば、このイベント的出来事のメリットは、洋平にしかない。

 夏弥にはむしろ、このイベントは、夢で描けば美化されるが現実に落とし込んだら気まずさ必至のものにしか感じられない。

「カチャコンッ」と音を立てて、目の前にしていた扉の鍵を開ける。
 鍵が掛かっていた点から、どうやらまだ洋平の妹、美咲は帰ってきていないらしい。

 向こうは花の女子高生一年目。
 帰り道に様々な場所で油を売りまくってても不思議じゃない。

「……おじゃましまーす」

 夏弥は念のための挨拶だけをして、家の中へ入っていった。

 中は思いのほか手狭だった。

 洋平とは古い付き合いだったが、一人暮らしをしていたこの家に、夏弥がお邪魔した事はなかった。

 いつも遊びに出掛ける際は玄関先で待っていたり、外で待ち合わせる事が大半だったのだ。
 だからこそ、あのイケメンの洋平の住む城が、こんなに庶民的な物だったとは思わなかった。

 無論、それは夏弥の勝手な偏見なのだけれど。

「――あの」

「え?」

 夏弥が開けた玄関の扉は、閉まる事なく誰かの手によって抑えられていた。
 その抑えた誰かが、突然後ろから声を掛けてきて。

「美咲ちゃん……?」

「早く入って」

 茶髪のショートボブヘア。眉の上でぱっつんと切りそろえた髪は、サイドのみ緩く内巻きにされていて、元々の端正な顔立ちをより良い物に引き立てていた。

 美形男子の洋平の妹だけあって、そこに立っていた美咲の顔もまた美形。ファッション雑誌の表紙を飾っててもおかしくないレベルだった。

「久しぶり」

「はぁ。でも今日、お昼にこっちの教室来ましたよね?」

 美咲のセリフに、夏弥は名付けがたい違和感を覚え一瞬口を閉じる。

「――そうだね。そういえば行った。なんで知ってるの?」

「二組の教室に居たところ、友達が廊下でチラッと見掛けたらしいので。この話って、たぶんあのバカが勝手に言い出したんですよね。夏弥さんもお人よしというか。とにかく、上がりましょう」

「ああ」

「夏弥さん」と呼ばれ、夏弥はその違和感の正体に気付いたのだった。

 前会った時は確か彼女がまだ小学五年生の頃で、夏弥の事を「なつ兄」と呼んでいて、口調も子供らしかった。あどけなさがあった。

 敬語なんて身に付いていない、明るくはしゃぐ元気な女の子だった。
 それに髪の毛は黒髪で長かったし、身長ももう少し低かったのだ。

 狭苦しい玄関前の廊下に夏弥が立ち尽くしていると、美咲は少しためらいがちに夏弥のすぐ脇を歩いていった。

 学校指定、可愛らしいブレザー姿の美咲が通り過ぎていく。

 その時、甘い桃のような香りが、ふわっと夏弥の鼻を刺激する。

 流行りの香水なのか、好みの物なのか。

 それは曖昧だけれど、夏弥にとってもそれは良い香りのように思われた。

「今日から宜しくお願いします」

 事務的な声が、先を行く彼女の方から聞こえてきた。

「こちらこそ」

 そこに、小学生だった頃の彼女の面影はない。
 そのせいか、夏弥はこれから始まる共同生活が、より一層想像しようのない物であると悟るのだった。

◇ ◇ ◇

 洋平の住んでいたアパート。そこは1LDKだった。

 一人暮らしの時から清潔にしていたのか、もしくは美咲と暮らすようになって整理整頓を心掛けるようになったのかは不明だが、ずいぶん綺麗に片づけられている印象だ。

 そこそこの生活感に、センスの良い調度品や家具。健康的で、丁寧な生活を思わせるインテリア。ちょっとした観葉植物も憎い。ロハス系とでも呼べるかもしれない。
 夏弥はまるで、モデルルームへやってきたような気持ちだった。

「経緯は聞いてる?」

 キッチンスペースと十二帖ほどのリビングの間仕切りに手を当てながら、夏弥はぽつりと問い掛ける。

「経緯。聞いてませんけど、大体予想はつきます」

「あ、あの美咲ちゃん」

「はい、なんですか?」

 それまでむず痒くてたまらなかった夏弥は、美咲に一つだけお願いをしてみる事にした。

「け、敬語辞めてくれないかな……?」

 夏弥の言葉を耳にして、美咲はしばしの沈黙を挟んだ。
 艶めいている茶髪とヘアピン。ちょっとしたアクセ。
 そんなキラキラとした見た目の美咲には似合わない、どこか思慮深く重たげな沈黙だった。

「辞めてもいい、けど」

「あ、本当に? ありが「あたしの希望も聞いてくれたら」

「え?」

 夏弥の言い掛けたありがとうに割り込んで、美咲は交換条件を言いたいらしかった。

「希望って? 何?」
「ちゃん付けで呼ばないでほしいんだけど」

 美咲がその言葉を口にすると、またしても沈黙が挟まった。
 ピンと糸を張ったような黙り合いだった。

「じゃあ、鈴川さん?」
「下。下の名前。呼び捨てでいいから。ちゃん付けとかあり得ないし」

(美咲ちゃんを呼び捨てる……?)

 夏弥は押し黙った。
 別におかしな事じゃない、はずだった。

 友達の妹を名前で呼ぶ事。そこに大して深い意味はないし、幼い頃から知ってるほとんど幼馴染のような夏弥と美咲の距離感であれば、ごく自然な事だ。

 現に、洋平は夏弥の妹、秋乃を呼び捨てにしている。

「じゃあ――美咲」

 夏弥は試しにそう呼んでみる。だけれど、呼び慣れているかいないかの違いが、如実に夏弥の羞恥心をかき立ててくるわけで。

 そのたった三文字の音は確かに以前から踏んでいたはずなのに、言ったそばから夏弥の頬は紅潮し始めるのだった。

「……なんで顔赤くしてるの? 変でしょ」

「あ、ああ」

 美咲の冷ややかなセリフと目線に、全身の毛穴が開いたような焦りを感じる。
 ただ、そんな美咲の態度から、夏弥が他に感じていた事もあった。

「ソファに座ったらどう? ずっとそこに立ってられると、気になるんだけど」

「じゃ、じゃあ失礼して」

 促され、夏弥はモスグリーンの優しい色合いをしているそのソファに腰掛けた。
 美咲は、窓際へ追いやられたベッドの方に腰を掛けている。そのベッドは、おそらく洋平が一年の時から使っているベッドなのだろう。

 夏弥がそう思ったのは、掛布団や枕カバーのカラーリングが、この、今を生きる女子高生の美咲には似合わなそうだと思ったからだ。

(それにしても、ちゃん付け禁止。あと冷たい態度。まぁ女子高生だし、難しいお年頃って奴? いや、それにしても秋乃と同い年なわけだけど。久しぶりの再会で、こういう態度を取られるのは少し予想外だ)

 美咲の様子に面食らう夏弥だった。

 そんな夏弥をよそに、美咲はベッドの上でスマホをいじっていた。

 ブレザー服のリボンを、器用にも片手でゆるゆるとほどく。

 投げ出された彼女の紺色ソックスの両足が、夏弥の視界の端でブランコのように軽くゆれている。

 それは言わずもがな、思春期の男子である夏弥にとってはあまりに目に毒で。

「いきなり押し掛けたみたいでごめんね」

 気持ちをごまかすためにも、夏弥は美咲に話をふった。

「え?」

「いや、今回の件。洋平が提案したのは確かなんだけど、そこに俺も加わったわけ。ちょっと幼い頃から顔知ってるからって、いきなり男子と同居なんて普通イヤだろ? そこに配慮して、ヤツを制止するべきだったのかなと」

「それは別に気にしてない。デリカシー無いなと思ったけど」

「え?」

 スマホをいじりながら、美咲は淡々と述べた。

「女子高生と一緒に生活したい口実なのかと思ったけど」

「え?」

「洋平が言い出したって言っても、拒めたは拒めたでしょ。でも拒まないって事は、つまり夏弥さんもそういう事なんだろうし。まぁ、うん。知ってるんだけど。男子の考えることくらい」

 これは美咲の気持ちそのもので、冗談を口にしているわけじゃない。
 本当に美咲は、男子に冷たい目を向けているらしかった。
 夏弥に限らず、男子という大きな括りに対して冷たいのだ。

 洋平がモテる男だから、という点も大きな理由なのかもしれない。
 甘いマスクにプラスして、洋平は根っから明るく、学年の枠を飛び越えてモテる男だった。

 そんな兄を持つ妹は、ずっと間近でモテる男の表と裏の姿を見てきたに違いない。
 付き合いの長い夏弥よりも、ずっと間近で。

「経緯は、たぶんあたしのせいでしょ?」

 唐突に、美咲が別の話題に切り替え始める。

「うん。洋平はそう言ってたね」

「はぁ、やっぱり予想通り。でも、夏弥さんはそれでいいの?」

「それでって?」

「妹のあたしが言うのもアレだけど、あのバカの事だからたぶん夏弥さんの家に女の子連れ込むんじゃない?」

「ああ。まぁ机の中を漁ったりはしないとか、ちょっとプライバシーを尊重し合うルールみたいなものは決めてるから、大丈夫じゃないか?」

「へぇ。それで信用しちゃうんだ」

「これでも十年くらいの付き合いだしな。それなりに信用してるつもりだけど」

「人の家に女の子連れ込むって話もあたしはどうかと思うけど。その前にそもそも、洋平が秋乃に手を出す可能性もあるでしょ?」

「いやそれは無いだろ」

「え?」

 夏弥の即答に意外性があったのか、直後美咲はスマホから視線を外した。
 仰向けの体勢のまま、チラッと夏弥の顔を見やる。

「あいつが秋乃に手を出すとか、従妹の女の子に手を出すような感覚でまず無理だと思うし、大体好みのタイプからは程遠いだろ。美咲は、今の秋乃がどんななのか知ってて言ってるのか?」

「どんなって?」

「根暗でオタク気質な陰キャだよ」

「え? そうだったの?」

「ああ。もうそれはそれは」

 夏弥は自分の妹の現在を思い浮かべ、苦笑いをそこに添えてあげるしかなかった。

「そう。なら少しは安心していいのかもね」

 冷たい。終始美咲の言葉には冷気がただよっている。
 夏弥にとって、かつて美咲はちょっとした妹も同義だったのだけれど、それもすっかり瓦解し始めていた。

 久しぶりに顔を合わせた事や、見た目がずいぶん様変わりしてしまっていた事はさておいても、この毛嫌いされてるような態度は、妹の秋乃からもあまり示されたことのない態度だった。
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