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――恐らくは、こちらに。
太史慈はそう思いながら、目の前に聳える山を見つめた。木々がみっしりと茂っており、一部たりとも山肌は見えない。まるで下界をねめつけるようにしてその山は鎮座している。
そんな山に太史慈は一歩踏み出そうとした。
「お待ちくださいまし」
背後から呼び止められ、太史慈は足を止めた。振り返れば、老婆が立っていた。
「もしや、その山に入るおつもりでしょうか」
「ええ、そうですよ」
太史慈はにべもなく答えた。
「おやめくださいまし。この山は危険でございます」
「何か出るとでも?」
太史慈は落ち着いた態度、そして落ち着いた口調で尋ねたが、内心は真逆だった。何が出るのか、一刻も早くそれを知りたかった。
賊か、けものか、あやかしか。
「あの山には――」
老婆の声に呼応するように、太史慈の心臓が大きく躍動する。
「虎が出るのでございます」
老婆が放ったその答えに太史慈は、ならば半々といったところだろうと予想を立てる。
「教えてくださってありがとうざいます。確かにその忠告、受け取りました」
言って、太史慈は山に向かった。
劉基は、幼い頃から周囲が怖くて仕方がなかった。周囲がけだものに見えていたのである。
「……父上、怖くて仕方がありません」
ある日、耐え兼ねた劉基は父である劉ヨウにとうとうそのことを相談した。すると劉ヨウは快活に笑った。
「お前は、見る目があるということだ」
どういうことですか、と劉基が尋ねるよりも先に、劉ヨウが口を開いた。
「我が一族は漢の高祖の孫の直系、いわば高貴なる一族。お前には、周りを取り巻く奴らなどけだものに見えて仕方なかろう」
けだもの。
父に、自身が見えているものをそのままはっきりと告げられた劉基は驚いたと同時に、安堵した。自分だけがそのように見えているのかもしれないと思っていたからである。
劉基は、周囲がけだものに見えるということが怖く、尚且つ、自分だけがそのように見えているのではないかとも怖れていたのだ。
「父上、怖いです。怖くて仕方がありません」
そんなことを言いながら、劉基は笑んだ。怖いと言って、父にしがみつき、そして父である劉ヨウはそんな劉基を抱き上げる。がっしりとした父の腕が劉基の体を掴む。その腕から、確かな体温が劉基に伝えられた。
「おお、よしよし。それは無理もないことだ。けれども、安心するがいい。我が臣下どもが必ず守ってくれるからな」
それを言われた瞬間、劉基は父の体温が急速に遠ざかっていくのを感じた。
父上、と言いたかったが、言えなかった。
劉基は、臣下たちもけだものに見えていたのである。
それから、数年後だった。
劉ヨウは病が原因でこの世を去った。
生きとし、生けるものは所詮限りがある。しかしながら劉ヨウはわずか四十二歳であった。そして、時期も悪かった。
父である劉ヨウは刺史として揚州ようしゅうの地を治めていた。だが、そこを孫策そんさくという男に軍勢を率いて攻め込まれた。劉ヨウは孫策に対抗すること能わず敗北し、その地を追われたのである。しかも、劉ヨウの臣下であったはずの何人かは、戦の結果において、孫策の臣下になった。
地を失い、臣下を失い、父を失った劉基は、途方に暮れた。
そんな最中、孫策に仕えているかつての臣下、今や旧臣の彼らから連絡が来た。
「お兄様、いかがいたしましょう。旧臣たちが、孫策から見つからない、静かな場所にお屋敷を用意したいと仰っていますけれど」
妹に言われ、劉基は迷った。
どうするべきかが、劉基は読めなかった。
劉基は孫策に見つかれば殺されてもおかしくはない立場にあった。
戦乱の禍根は徹底的に断ち切るのが定石なのだから。
それでなくとも、揚州の地には未だ劉ヨウを慕う豪族や民兵が数知れなく残っており、そんな彼らが劉基の意志をさして介さずに旗頭として持ち上げる可能性は多いにあった。そうなれば揚州の新たなる主、孫策からして見れば厄介なこと限りなく、ならばかようなことが起こる前に劉基を探し出して首を跳ねるのは、論ないことだった。
旧臣は、劉基の身を案じているのだろうが、劉基は迷った。
――信じてもよいだろうか?
劉基は、旧臣の顔を思い浮かべた。
ひっそりと身を隠していたものの、実はいっそ孫策の元へ自ら行き、配下にしてほしいと願い出ることを劉基は一つの選択肢として考えてはいた。
しかし、その願いが聞き届けてもらえるかどうかはわからず、しかも、父亡き今、長男である劉基は一族を率いねばならない立場にある。
迂闊な判断をした場合、その責は自分の命だけでは済まされない。
この時、劉基は十四歳だった。
「いかがしましょう?」
劉基はしばし悩み、考え、そして結論を出した。
「……わたしは、旧臣を――かつての臣下を信じようと思う」
劉基は臣下を選んだのである。
孫策は揚州のみならず、辺り一帯である江東をも支配した。そしてそのまま動乱する天下を治めるつもりらしい。そのことを聞いた劉基は、悔しいとも情けないとも何とも思わなかった。
閑静な田舎で人知れず余生を過ごせることに劉基は安穏とした喜びを見出していた。
天下は治めたいものが治めればよい。
劉基はそう考えていた。
そうして隠棲していた劉基だったが、ある日旧臣たちに呼ばれた。しかも、そこそこ町中で話したいことがある、ということだった。
そのことに、劉基は何やらを考えなかったわけではない。
しかし、拒否することは出来なかった。現在、劉基の住んでいる屋敷は、かつてほどの規模の屋敷ではないが、一族が困窮することなく住むことが出来、日々の生活も事欠くことなく過ごしていた。その財源は、何もないとこから湧いているのではなく、旧臣たちから供給されていたのである。
劉基は、応じて町に向かった。
この時、劉基は十四歳だった。
太史慈はそう思いながら、目の前に聳える山を見つめた。木々がみっしりと茂っており、一部たりとも山肌は見えない。まるで下界をねめつけるようにしてその山は鎮座している。
そんな山に太史慈は一歩踏み出そうとした。
「お待ちくださいまし」
背後から呼び止められ、太史慈は足を止めた。振り返れば、老婆が立っていた。
「もしや、その山に入るおつもりでしょうか」
「ええ、そうですよ」
太史慈はにべもなく答えた。
「おやめくださいまし。この山は危険でございます」
「何か出るとでも?」
太史慈は落ち着いた態度、そして落ち着いた口調で尋ねたが、内心は真逆だった。何が出るのか、一刻も早くそれを知りたかった。
賊か、けものか、あやかしか。
「あの山には――」
老婆の声に呼応するように、太史慈の心臓が大きく躍動する。
「虎が出るのでございます」
老婆が放ったその答えに太史慈は、ならば半々といったところだろうと予想を立てる。
「教えてくださってありがとうざいます。確かにその忠告、受け取りました」
言って、太史慈は山に向かった。
劉基は、幼い頃から周囲が怖くて仕方がなかった。周囲がけだものに見えていたのである。
「……父上、怖くて仕方がありません」
ある日、耐え兼ねた劉基は父である劉ヨウにとうとうそのことを相談した。すると劉ヨウは快活に笑った。
「お前は、見る目があるということだ」
どういうことですか、と劉基が尋ねるよりも先に、劉ヨウが口を開いた。
「我が一族は漢の高祖の孫の直系、いわば高貴なる一族。お前には、周りを取り巻く奴らなどけだものに見えて仕方なかろう」
けだもの。
父に、自身が見えているものをそのままはっきりと告げられた劉基は驚いたと同時に、安堵した。自分だけがそのように見えているのかもしれないと思っていたからである。
劉基は、周囲がけだものに見えるということが怖く、尚且つ、自分だけがそのように見えているのではないかとも怖れていたのだ。
「父上、怖いです。怖くて仕方がありません」
そんなことを言いながら、劉基は笑んだ。怖いと言って、父にしがみつき、そして父である劉ヨウはそんな劉基を抱き上げる。がっしりとした父の腕が劉基の体を掴む。その腕から、確かな体温が劉基に伝えられた。
「おお、よしよし。それは無理もないことだ。けれども、安心するがいい。我が臣下どもが必ず守ってくれるからな」
それを言われた瞬間、劉基は父の体温が急速に遠ざかっていくのを感じた。
父上、と言いたかったが、言えなかった。
劉基は、臣下たちもけだものに見えていたのである。
それから、数年後だった。
劉ヨウは病が原因でこの世を去った。
生きとし、生けるものは所詮限りがある。しかしながら劉ヨウはわずか四十二歳であった。そして、時期も悪かった。
父である劉ヨウは刺史として揚州ようしゅうの地を治めていた。だが、そこを孫策そんさくという男に軍勢を率いて攻め込まれた。劉ヨウは孫策に対抗すること能わず敗北し、その地を追われたのである。しかも、劉ヨウの臣下であったはずの何人かは、戦の結果において、孫策の臣下になった。
地を失い、臣下を失い、父を失った劉基は、途方に暮れた。
そんな最中、孫策に仕えているかつての臣下、今や旧臣の彼らから連絡が来た。
「お兄様、いかがいたしましょう。旧臣たちが、孫策から見つからない、静かな場所にお屋敷を用意したいと仰っていますけれど」
妹に言われ、劉基は迷った。
どうするべきかが、劉基は読めなかった。
劉基は孫策に見つかれば殺されてもおかしくはない立場にあった。
戦乱の禍根は徹底的に断ち切るのが定石なのだから。
それでなくとも、揚州の地には未だ劉ヨウを慕う豪族や民兵が数知れなく残っており、そんな彼らが劉基の意志をさして介さずに旗頭として持ち上げる可能性は多いにあった。そうなれば揚州の新たなる主、孫策からして見れば厄介なこと限りなく、ならばかようなことが起こる前に劉基を探し出して首を跳ねるのは、論ないことだった。
旧臣は、劉基の身を案じているのだろうが、劉基は迷った。
――信じてもよいだろうか?
劉基は、旧臣の顔を思い浮かべた。
ひっそりと身を隠していたものの、実はいっそ孫策の元へ自ら行き、配下にしてほしいと願い出ることを劉基は一つの選択肢として考えてはいた。
しかし、その願いが聞き届けてもらえるかどうかはわからず、しかも、父亡き今、長男である劉基は一族を率いねばならない立場にある。
迂闊な判断をした場合、その責は自分の命だけでは済まされない。
この時、劉基は十四歳だった。
「いかがしましょう?」
劉基はしばし悩み、考え、そして結論を出した。
「……わたしは、旧臣を――かつての臣下を信じようと思う」
劉基は臣下を選んだのである。
孫策は揚州のみならず、辺り一帯である江東をも支配した。そしてそのまま動乱する天下を治めるつもりらしい。そのことを聞いた劉基は、悔しいとも情けないとも何とも思わなかった。
閑静な田舎で人知れず余生を過ごせることに劉基は安穏とした喜びを見出していた。
天下は治めたいものが治めればよい。
劉基はそう考えていた。
そうして隠棲していた劉基だったが、ある日旧臣たちに呼ばれた。しかも、そこそこ町中で話したいことがある、ということだった。
そのことに、劉基は何やらを考えなかったわけではない。
しかし、拒否することは出来なかった。現在、劉基の住んでいる屋敷は、かつてほどの規模の屋敷ではないが、一族が困窮することなく住むことが出来、日々の生活も事欠くことなく過ごしていた。その財源は、何もないとこから湧いているのではなく、旧臣たちから供給されていたのである。
劉基は、応じて町に向かった。
この時、劉基は十四歳だった。
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