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刺客からの逃走劇
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逃げなければならない。
それだけが、頭の中にあった。
レティシアは、ぐったりと力の抜けたユーリの体を背に負い、その細い肩を必死に支えていた。重さよりも、彼から失われていく体温のほうが、ずっと恐ろしかった。
ひとまず遮蔽のある場所へ――そう判断した彼女は、通りの先にある裏路地へ足を踏み入れる。足元の石畳はわずかに傾斜しており、重心が乱れた。だが、そんなことに構っている余裕はなかった。
追ってくる気配がある。
先ほどの投げナイフは、明らかに彼女を狙っていた。次があるのか、それともすでに狙われているのか――判断できないまま、張り詰めた緊張だけが背中を這い続ける。
ユーリの呼吸は浅く、背中越しの胸の上下は、ときおり途切れがちになっていた。
「……もう少し。頑張って」
その一言は、自分に言い聞かせるようでもあった。
――空気が裂けた。
レティシアは反射的に身をひねる。鋭い金属音が耳元をかすめ、石壁に何かが弾かれる音が響いた。視界の隅、閃いたのは再びの投げナイフ。今度も狙いは彼女。風を切る軌道は、肩から心臓を正確になぞっていた。
あのまま立っていれば、確実に命を落としていた。
もはや“偶然”ではない。明確な殺意が、彼女を――いや、“ローゼン”そのものを標的にしている。
そして、ユーリはその巻き添えになったのだ。
歯を食いしばる。足を止めるわけにはいかない。レティシアは細い道をさらに奥へ駆け出した。血の気が引いた手指で、ユーリを必死に支えながら、ただ前を向いて走る。
入り組んだ路地。苔むした石壁に囲まれた細道。視察の折に覚えた裏道が、今、命をつなぐ唯一の道だった。
ふいに、屋根の上から何かが落ちてくる。木片――狙いを定める視線。それだけで、彼女の感覚は研ぎ澄まされた。
またもナイフ。足元、石畳のすぐ先に突き刺さる。
肩を強く抱き直す。衣服越しにも、ユーリの微かな体温が伝わる。失わせてはならない。誰の命も、もう。
(……いい加減にしなさい)
込み上げる怒りを、喉の奥に押し込む。背後から足音はしない。だが、音なき死が迫っている。
右へ折れた先、朽ちた壁の隙間に、小さな倉庫の裏口が見えた。扉は無施錠。開け放たれたままのその暗がりに、彼女は迷わず飛び込んだ。
中は薄暗く、埃と油の臭いが立ち込めている。棚と樽が並ぶ隙間に身を滑り込ませ、ようやく膝をついた。ユーリをそっと横たえ、胸元に手を当てる。
まだ、息はある。
「……ごめんね。巻き込んでしまって」
そのとき――扉の向こう、足音が一つ。
静かに近づいてくる気配。追手だ。
レティシアは立ち上がり、腰に隠していた短剣の柄を握る。震える指先に力を込めた。戦うためではない、生き延びるためだ。
――次が来る。
「レティシア様、伏せて!」
鋭い声とともに、火花が散る。飛び込んできた剣がナイフを弾き、視界の奥にカイルの背中が現れた。
彼は即座に倉庫中央のテーブルを倒し、遮蔽物を作る。
「こっちです!」
声に応じて、レティシアはユーリをかばうように身を寄せた。
「ユーリは……まだ、息がある。でも、動かせない」
「大丈夫です。下がっててください。今は俺が前に出る」
再び飛来するナイフ。カイルは冷静に構え直し、低く呟く。
「視線は高所。投げてきてるのは屋根か梁の上。姿は見えない」
倉庫の空気が、鋭く張り詰める。
レティシアはユーリの手を握りしめた。
「……もう少しだけ、頑張って」
その祈りが、空気に染み込むように響いた。
天井で、軋む音。
「上か!」
叫ぶと同時に、梁の陰から閃く鋭い光。狙いは、明らかに致命。
「来いよ……この場は絶対、通させねえ」
カイルが睨み据える。
その背後――
「カイル! レティシア様!」
扉が開かれ、エディンと庁舎警備隊が飛び込んでくる。盾と槍を手に、倉庫内へ突入。
「囲め! 天井の梁に敵がいる!」
カイルの指示で、兵たちは散開。レティシアのもとへも援護が駆け寄る。
突入の衝撃で埃が舞い、微かな影が梁の上を駆け抜ける。
「逃げたぞ、屋根伝いだ!」
誰かが叫ぶと同時に、小窓が開く。滑るように姿を消す黒影。顔は見えなかった。
「……姿は見えません! すでに屋根の陰に――」
「追うな。中の安全を最優先だ」
カイルが命じ、兵たちは即座に警戒を強める。緊張は残るが、戦闘は終わった。
レティシアは息を整え、膝をついたままユーリを見下ろす。顔色が、わずかに戻りつつあった。
「……助かりました」
エディンがそっと頷く。
「ここは、もう安全です。救護班を呼びます」
レティシアは再びユーリの肩を抱き寄せ、静かに目を伏せた。
それだけが、頭の中にあった。
レティシアは、ぐったりと力の抜けたユーリの体を背に負い、その細い肩を必死に支えていた。重さよりも、彼から失われていく体温のほうが、ずっと恐ろしかった。
ひとまず遮蔽のある場所へ――そう判断した彼女は、通りの先にある裏路地へ足を踏み入れる。足元の石畳はわずかに傾斜しており、重心が乱れた。だが、そんなことに構っている余裕はなかった。
追ってくる気配がある。
先ほどの投げナイフは、明らかに彼女を狙っていた。次があるのか、それともすでに狙われているのか――判断できないまま、張り詰めた緊張だけが背中を這い続ける。
ユーリの呼吸は浅く、背中越しの胸の上下は、ときおり途切れがちになっていた。
「……もう少し。頑張って」
その一言は、自分に言い聞かせるようでもあった。
――空気が裂けた。
レティシアは反射的に身をひねる。鋭い金属音が耳元をかすめ、石壁に何かが弾かれる音が響いた。視界の隅、閃いたのは再びの投げナイフ。今度も狙いは彼女。風を切る軌道は、肩から心臓を正確になぞっていた。
あのまま立っていれば、確実に命を落としていた。
もはや“偶然”ではない。明確な殺意が、彼女を――いや、“ローゼン”そのものを標的にしている。
そして、ユーリはその巻き添えになったのだ。
歯を食いしばる。足を止めるわけにはいかない。レティシアは細い道をさらに奥へ駆け出した。血の気が引いた手指で、ユーリを必死に支えながら、ただ前を向いて走る。
入り組んだ路地。苔むした石壁に囲まれた細道。視察の折に覚えた裏道が、今、命をつなぐ唯一の道だった。
ふいに、屋根の上から何かが落ちてくる。木片――狙いを定める視線。それだけで、彼女の感覚は研ぎ澄まされた。
またもナイフ。足元、石畳のすぐ先に突き刺さる。
肩を強く抱き直す。衣服越しにも、ユーリの微かな体温が伝わる。失わせてはならない。誰の命も、もう。
(……いい加減にしなさい)
込み上げる怒りを、喉の奥に押し込む。背後から足音はしない。だが、音なき死が迫っている。
右へ折れた先、朽ちた壁の隙間に、小さな倉庫の裏口が見えた。扉は無施錠。開け放たれたままのその暗がりに、彼女は迷わず飛び込んだ。
中は薄暗く、埃と油の臭いが立ち込めている。棚と樽が並ぶ隙間に身を滑り込ませ、ようやく膝をついた。ユーリをそっと横たえ、胸元に手を当てる。
まだ、息はある。
「……ごめんね。巻き込んでしまって」
そのとき――扉の向こう、足音が一つ。
静かに近づいてくる気配。追手だ。
レティシアは立ち上がり、腰に隠していた短剣の柄を握る。震える指先に力を込めた。戦うためではない、生き延びるためだ。
――次が来る。
「レティシア様、伏せて!」
鋭い声とともに、火花が散る。飛び込んできた剣がナイフを弾き、視界の奥にカイルの背中が現れた。
彼は即座に倉庫中央のテーブルを倒し、遮蔽物を作る。
「こっちです!」
声に応じて、レティシアはユーリをかばうように身を寄せた。
「ユーリは……まだ、息がある。でも、動かせない」
「大丈夫です。下がっててください。今は俺が前に出る」
再び飛来するナイフ。カイルは冷静に構え直し、低く呟く。
「視線は高所。投げてきてるのは屋根か梁の上。姿は見えない」
倉庫の空気が、鋭く張り詰める。
レティシアはユーリの手を握りしめた。
「……もう少しだけ、頑張って」
その祈りが、空気に染み込むように響いた。
天井で、軋む音。
「上か!」
叫ぶと同時に、梁の陰から閃く鋭い光。狙いは、明らかに致命。
「来いよ……この場は絶対、通させねえ」
カイルが睨み据える。
その背後――
「カイル! レティシア様!」
扉が開かれ、エディンと庁舎警備隊が飛び込んでくる。盾と槍を手に、倉庫内へ突入。
「囲め! 天井の梁に敵がいる!」
カイルの指示で、兵たちは散開。レティシアのもとへも援護が駆け寄る。
突入の衝撃で埃が舞い、微かな影が梁の上を駆け抜ける。
「逃げたぞ、屋根伝いだ!」
誰かが叫ぶと同時に、小窓が開く。滑るように姿を消す黒影。顔は見えなかった。
「……姿は見えません! すでに屋根の陰に――」
「追うな。中の安全を最優先だ」
カイルが命じ、兵たちは即座に警戒を強める。緊張は残るが、戦闘は終わった。
レティシアは息を整え、膝をついたままユーリを見下ろす。顔色が、わずかに戻りつつあった。
「……助かりました」
エディンがそっと頷く。
「ここは、もう安全です。救護班を呼びます」
レティシアは再びユーリの肩を抱き寄せ、静かに目を伏せた。
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