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レティシアの賭け
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朝の鐘が鳴るころ、執務室の扉が慌ただしく開いた。
「報告です! 国境南東部にて、シュレンガル帝国の部隊と思われる軍が動きを見せています!」
報告に駆け込んできた文官の声に、室内の空気が一変した。
従者の一人が立ち上がり、信じられないといった表情で言う。
「……帝国が動いた? 正規軍ですか?」
「まだ確証はありません。ただ、接触した遊撃の斥候によると、編成と装備、指揮系統が帝国式に極めて近いとのことです」
ミリアが思わず小声を漏らす。
「そんな……本当に来たら、ヴァルドリアでも……」
重い沈黙が一瞬、執務室を支配した。
「――他に動きは?」
「本家、ローゼンより連絡が届きました! 中央より軍の派遣が決定され、すでに展開準備に入っているとのことです。こちらに到達するには数日かかる見込みですが、最低限の防衛線は維持できるかと」
一同がようやく息を吐いた。だが、安堵するには早すぎた。
エディンが静かに口を開く。
「問題は、内側です」
「……封鎖の影響、ね」
レティシアの声に、 従者の一人は頷いた。
「はい。市場に流れる物資の量が三割以上減少し、それに伴い、穀物や塩、油などの生活必需品の価格が高騰しています。これ以上の放置は、民の不安を招く恐れがあります」
レティシアは机に置かれた帳簿に目を落とした。頁を繰る指が止まり、そして静かに言葉を落とす。
「……州の国庫から支出します。急ぎ補填の算段を」
従者の一人が眉をひそめた。
「それでは足りぬ可能性もあります。備蓄に限界がありますし、今後さらに物流が悪化すれば――」
「そのときは、私の私財を使います」
レティシアの言葉に、室内の空気が止まった。
「この地を預かる者として、民の不安を見過ごすわけにはいかない。必要な支出は、惜しまないわ」
言い切ったレティシアに、誰も異を唱えなかった。
すると、従者の誰かがゆっくりと口を開く。
「……レティシア様、それでは身が持ちません。これは国全体の問題であって、州ひとつで抱えるには荷が重すぎます」
「それでも、最初に支えるのはここ。アルンヘルムよ。ローゼンが立ち直るまでの時間を稼ぐ。それが、いま私たちにできる最善です」
ミリアが不安げに問う。
「じゃあ、その間の補給はどうするんですか? 本当に、何も入ってこないんですか……?」
従者の一人が答える。
「一部の交易路はまだ封鎖されていません。けれど、それも時間の問題です。いまのところ動いているのは、山越えの旧道だけです。そこにも見張りが立ち始めていると報告があります」
レティシアは、机の端から報告書を取り、ひとつずつ確認しながら指示を飛ばしていく。
レティシアはわずかに目を伏せ、次の瞬間には顔を上げていた。ためらいはなかった。
「……あなた。急ぎ、エディンとカイルを追って。ふたりに伝えて。旧道を使って、ヴァルドリアへ直接書簡を届けてほしいと」
執務室の隅に控えていた従者が、驚いたように目を見開く。
「承知しました!」
従者が駆け足で部屋を飛び出していくのを見届け、レティシアはすぐさまミリアの方へ向き直った。
「書簡はすぐ書くわ。封蝋と印章は正規のものを使う。途中で見つかっても、公式文書として通せるはずよ。とにかく、最速で」
「ミリア。あなたには、旧道以外の街道に偽装馬車を用意してもらうわ」
「……偽装馬車、ですか?」
ミリアが一瞬戸惑ったように聞き返す。
「そう。街道の封鎖側に、こちらからの使節が大量に出ているように見せかけたいの。中身は空でも構わない。見た目だけ、それらしく整えて。馬車台数は多ければ多いほどいい」
「錯乱させるために……ですね?」
「ええ。本物の文がどれか、相手が判断できないようにする。いちいち全てを止めているようでは手が回らないはずよ」
ミリアは頷き、小さく拳を握った。
「任せてください!すぐ手配します。馬と御者も、見かけだけはちゃんと揃えます!」
「ありがとう。お願いね」
言葉を交わすと同時に、レティシアは机に戻り、すぐさま新たな羊皮紙にペンを取った。
――いまは、一本でも多くの道を開かなくてはならない。例えそのほとんどが囮でも、真実を繋ぐ一本が届けば、それでいい。
万策は、既に尽きていた。
封鎖された道、遮断された連絡網と初動の対応遅れが致命的な一打になっていた。
だが、それでも打てる手はすべて打った。あとは、この策が「届く」ことを祈るしかない。
運に賭ける。それは、行政の長として決して選ぶべき道ではなかった。けれど、状況は既に緊迫している。
封をして印を押し、書簡を差し出す。扉の外には、走る足音と命令の声が響いていた。
レティシアは、背もたれにもたれることなく姿勢を正し、次の書類に手を伸ばした。
――ここからは、持久戦だ。
この国を守るために。
民を餓えさせぬために。
そして、敵に抗う為に
耐えねばならない。
持ちこたえなければならない。
その覚悟だけが、今の彼女の武器だった。
「報告です! 国境南東部にて、シュレンガル帝国の部隊と思われる軍が動きを見せています!」
報告に駆け込んできた文官の声に、室内の空気が一変した。
従者の一人が立ち上がり、信じられないといった表情で言う。
「……帝国が動いた? 正規軍ですか?」
「まだ確証はありません。ただ、接触した遊撃の斥候によると、編成と装備、指揮系統が帝国式に極めて近いとのことです」
ミリアが思わず小声を漏らす。
「そんな……本当に来たら、ヴァルドリアでも……」
重い沈黙が一瞬、執務室を支配した。
「――他に動きは?」
「本家、ローゼンより連絡が届きました! 中央より軍の派遣が決定され、すでに展開準備に入っているとのことです。こちらに到達するには数日かかる見込みですが、最低限の防衛線は維持できるかと」
一同がようやく息を吐いた。だが、安堵するには早すぎた。
エディンが静かに口を開く。
「問題は、内側です」
「……封鎖の影響、ね」
レティシアの声に、 従者の一人は頷いた。
「はい。市場に流れる物資の量が三割以上減少し、それに伴い、穀物や塩、油などの生活必需品の価格が高騰しています。これ以上の放置は、民の不安を招く恐れがあります」
レティシアは机に置かれた帳簿に目を落とした。頁を繰る指が止まり、そして静かに言葉を落とす。
「……州の国庫から支出します。急ぎ補填の算段を」
従者の一人が眉をひそめた。
「それでは足りぬ可能性もあります。備蓄に限界がありますし、今後さらに物流が悪化すれば――」
「そのときは、私の私財を使います」
レティシアの言葉に、室内の空気が止まった。
「この地を預かる者として、民の不安を見過ごすわけにはいかない。必要な支出は、惜しまないわ」
言い切ったレティシアに、誰も異を唱えなかった。
すると、従者の誰かがゆっくりと口を開く。
「……レティシア様、それでは身が持ちません。これは国全体の問題であって、州ひとつで抱えるには荷が重すぎます」
「それでも、最初に支えるのはここ。アルンヘルムよ。ローゼンが立ち直るまでの時間を稼ぐ。それが、いま私たちにできる最善です」
ミリアが不安げに問う。
「じゃあ、その間の補給はどうするんですか? 本当に、何も入ってこないんですか……?」
従者の一人が答える。
「一部の交易路はまだ封鎖されていません。けれど、それも時間の問題です。いまのところ動いているのは、山越えの旧道だけです。そこにも見張りが立ち始めていると報告があります」
レティシアは、机の端から報告書を取り、ひとつずつ確認しながら指示を飛ばしていく。
レティシアはわずかに目を伏せ、次の瞬間には顔を上げていた。ためらいはなかった。
「……あなた。急ぎ、エディンとカイルを追って。ふたりに伝えて。旧道を使って、ヴァルドリアへ直接書簡を届けてほしいと」
執務室の隅に控えていた従者が、驚いたように目を見開く。
「承知しました!」
従者が駆け足で部屋を飛び出していくのを見届け、レティシアはすぐさまミリアの方へ向き直った。
「書簡はすぐ書くわ。封蝋と印章は正規のものを使う。途中で見つかっても、公式文書として通せるはずよ。とにかく、最速で」
「ミリア。あなたには、旧道以外の街道に偽装馬車を用意してもらうわ」
「……偽装馬車、ですか?」
ミリアが一瞬戸惑ったように聞き返す。
「そう。街道の封鎖側に、こちらからの使節が大量に出ているように見せかけたいの。中身は空でも構わない。見た目だけ、それらしく整えて。馬車台数は多ければ多いほどいい」
「錯乱させるために……ですね?」
「ええ。本物の文がどれか、相手が判断できないようにする。いちいち全てを止めているようでは手が回らないはずよ」
ミリアは頷き、小さく拳を握った。
「任せてください!すぐ手配します。馬と御者も、見かけだけはちゃんと揃えます!」
「ありがとう。お願いね」
言葉を交わすと同時に、レティシアは机に戻り、すぐさま新たな羊皮紙にペンを取った。
――いまは、一本でも多くの道を開かなくてはならない。例えそのほとんどが囮でも、真実を繋ぐ一本が届けば、それでいい。
万策は、既に尽きていた。
封鎖された道、遮断された連絡網と初動の対応遅れが致命的な一打になっていた。
だが、それでも打てる手はすべて打った。あとは、この策が「届く」ことを祈るしかない。
運に賭ける。それは、行政の長として決して選ぶべき道ではなかった。けれど、状況は既に緊迫している。
封をして印を押し、書簡を差し出す。扉の外には、走る足音と命令の声が響いていた。
レティシアは、背もたれにもたれることなく姿勢を正し、次の書類に手を伸ばした。
――ここからは、持久戦だ。
この国を守るために。
民を餓えさせぬために。
そして、敵に抗う為に
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持ちこたえなければならない。
その覚悟だけが、今の彼女の武器だった。
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