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1巻
1-3
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司祭を連れて次に向かったのは、山の斜面にある葡萄畑。
こちらも私の『大地への祝福』の力で、虫害にやられることなく順調に育ち、大きな瑞々しい実をつけた。
私は収穫作業をしている修道女たちの中に見慣れた親友の姿を見つけて、「エマ!」と声を掛けた。振り返った彼女は、こちらを見てにっこりと笑った。
「ジゼル! それに司祭様まで!」
「こんにちは、エマ。葡萄の様子はどうですか?」
「害虫もついてないし、今年は美味しくて豊作です! ジゼルの『大地への祝福』はとってもすごいのですよ!」
エマは一つに束ねた綺麗な黒髪を揺らしながら、興奮気味に声を張り上げた。
どうやら例年よりも葡萄がたくさん採れそうで、その分ワインも多く作れそうなのだとか。実も美味しいのであれば、ワインの味も美味しくなるだろう。
修道院では利益を追求しないから、手間をかけて丁寧に作る。今年のワインがどれほど美味しいものになるのか、想像するとワクワクした。
「この分だとワインの製造量も多くなり、さらには出来も良さそうなので、市場に流通させるのはいかがでしょう?」
元々、女子修道院のワインはとても美味しいと評判ではあったが、市場で売るほどはなかった。でも今年は状況が違う。つまるところ、神に捧げる分と旅人に振舞う分を残して、あとは売り払ってしまおうという算段だ。
「もし、本当に出来がいいのなら、『教会への寄付金』を上乗せした価格に設定してはどうかと」
「ええ、あまり安くしてしまうと他の生産者のワインが売れなくなりますからね。それに、教会への貢献になるなら、寄付を理由に購入してくれる貴族もいるでしょう」
「サミュエルお兄様が以前から気になっていたみたいですから、手紙を出しておきますね」
次兄のサミュエルが商家の娘と結婚したので、その人脈も提案しておいた。
ざっと計算するだけでもかなりの収益が見込めそうで、儲かりそうだなぁ~、と私は頭の中でニヤニヤしていた。
清貧に背きそうだが、私が独り占めするわけじゃなくて修道院のものになるんだからいいよね。寄付のみに頼って運営するのは心もとないし、いざという時のために自由に使える資金があったほうがいい。
なぜそう考えたのかというと、財務係へ勉強に行ったアルマが、ギリギリの寄付金のみで運営していることに驚いていたからだ。運営資金となる寄付金は、主にトルトゥリエ伯爵家が出しているわけだが、伯爵家にも余裕がなくなり、寄付金の額が段々と減っている。それに責任を感じて何か打開策がないか考えた結果、売れるものは売ったらどうだろうと思ったのだ。
「ワインは流通させるにしても、小麦はなるべく貯蔵しておきたいと思うのですが、司祭様のお考えはいかがですか……?」
私が小麦について話し始めると、司祭が真剣な表情になった。
例年通り獲れた麦で麦酒を作るのもいいが、余剰は貯めておきたい。
近年は全国的に不作が続いており、国庫にもあまり余裕がないはず。この先も不作が続いた時のために、孤児院だけでなく周囲の住人にも分け与えられるようにしたい。
さらに言えば、この春小麦に加えて、できればライ麦も作りたい。
……これは、ライ麦パン食べたい、という私の欲望だけれども。
「お嬢様のおかげで豊作になりそうですから、貯蔵しましょう。それにシスター・イネスが言っていましたが、今年は休耕しないで済みそうだとか?」
「はい。『大地への祝福』を捧げていれば土地が弱ることはないので」
「お嬢様に負担があるのでは?」
「慣れてきたので間違えずに詠唱できるようになりましたし、王都を離れて気持ちが落ち着いたのか、それほど疲れないのです。お気遣いありがとうございます」
私が笑って答えたので、司祭も微笑んでくれた。もちもちパンのために、一心不乱に頑張って良かった。
その後、司祭の視察を手伝っているとあっという間に昼食の時間になり、私たちは食堂へ向かった。
「旅人さんに振る舞う分のワインは薄めてもいいよね~」
ゴミ捨ての当番だった私は昼食を終えたあと、そんな不届きなことを考えながら、厨房の裏にある生ゴミ置き場へ向かった。
煉瓦の壁で囲われた中心に生ゴミが積まれたそこは、お世辞にもいい臭いとは言えない。
もちろんあまり好きな場所でもないから早く戻ろうとしていた矢先、普段はしないような異臭がして、私は元を探ろうと壁際に視線をやった。
よく見ると生ゴミの山の前に黒ずんだ毛の塊がある。
「死んじゃった犬か猫を、誰かここに置いたのかな」
そのままにしておけず、私がおそるおそる近づくと、どうやらその毛玉は中型犬だったようだ。その体はあちこち傷だらけでボロボロで、目も当てられない光景だったから、そのまま無視はできなかった。
「喧嘩で負けちゃったのか……可哀そうに」
埋葬しようと、羽織っていたショールで包んで持ち上げると、ボロボロの身体はぐんにゃりと曲がった。
……死んじゃったばかりだと、体は固くなるものだと聞いたことがある。朝に生ゴミ置き場を見た時には毛玉はなかったはずだから、少なくともそんなに時間は経っていないはず……
何だか違和感を覚えて、私は自分の膝の上に犬を乗せて、直接体に触れてみた。
……まだほんのり温かくて、弱々しいけれど、鼓動を感じる。
「……生きてる!」
思わず大声を出すと、犬の耳がぴくっと動いた。
汚れた毛玉を持って帰ったら怒られるかもしれないけれど、放っておけなかった。
――まだ助かるかもしれない!
私は生ゴミを持ってきた入れ物を放り投げ、急いで修道院の中へと戻った。
ちなみに、私が汚れた毛玉を抱えて「司祭様! バズレール司祭様!」と大声をあげて走り回ったことは、「いつ、いかなる時も静粛に」と、あとから副院長にこっぴどく叱られた。
第二章 モフモフ、番犬になる
司祭の治療――『治癒』のおかげで一命を取り留めたその犬に、私は守護聖人イサクから名を取って、イザックと名付けた。
外傷は治ったのに、イザックの意識が戻らないので司祭に尋ねると、『治癒』で外傷を治すことはできても、弱って止まりかけていた心臓は、安静にして自然に回復するのを待つしかないとのことだった。
その夜は、急変しないか心配だったので、特別にイザックを部屋に入れる許可をもらって私のベッドに寝かせた。
私は毛布の上からイザックの背中を撫でて、さっき見た司祭の『治癒』の様子を思い出していた。
司祭はいつもの穏やかな表情とは異なり、怖いくらいに真剣な顔つきで、額に汗を浮かべながら、ボロボロのイザックに長い間『治癒』の祈りを捧げていた。
『治癒』には相当な魔力を使うし、誰でも簡単に使えるわけじゃない。
大聖堂で聖女候補としての教育を受けていた約半月、授業をサボって昼寝なんかせずに、もっと真面目にやっておけばよかった。
今の私は、誰かを助ける具体的な手段を持たない。何もできない自分が恥ずかしい……
私は今まで、誰かのために何かしようと思ったことは一度もなかった。ただ、与えられた環境で安穏と育って、人と関わりたくないからと引きこもって本ばかり読んでいた。
もっとできることがあったはずなのに。
「私も役に立ちたい……イザックを助けたい……」
浅い息をしているイザックの姿を見ていると、そんな感情が沸々と湧いてくる。私はさっき司祭から教えてもらった初級の『治癒』を思い出して、やってみることにした。少しでもイザックの呼吸が楽になりますように、疲れた体が癒されますように。
ぽわっと自分の手のひらに温かさを感じて、イザックの身体が少し光っているように見える。
気を張り詰めすぎていたのか、かなり疲れていたけれど、私は眠りに落ちるまでずっとイザックに『治癒』を捧げ続けた。
翌朝、目覚めてすぐに毛布の中に手を差し込んで、イザックの体温を確認した。
――良かった、生きてる。
イザックが生きていることを証明するかのように、私の手に心臓の鼓動が伝わってくる。昨日よりも力強い。心地よい毛布の温かさに、私はほっと息をついた。
同時に起床の鐘が鳴り、その音が聞こえたのかイザックがうっすらと目を開けた。
「おはようイザック。助かって良かったね」
目は見えているかどうか気になって、イザックの顔を覗き込んだ。
まだ意識がぼんやりしているのか、綺麗な目の焦点は定まっていない。
見つめていると吸い込まれるんじゃないか、と思うくらいに美しい鮮やかな紫色。
こんな目の色は、猫なら見たことがあるけれど、犬では見たことがない。結構珍しいなあと思った。
昔、どこかで見た宝石みたいだ。
そんなことを思っていると、イザックがゆっくり何度も足を動かした。立ち上がりたいのかもしれない。でも足に力が入らないみたいで、前足でもがくだけもがいて、毛布からは抜け出せなかった。
「死にかけてたんだから、もう少し休んで」
私が笑って毛布越しに体を撫でると、イザックは私を見上げてすんすんと鼻を鳴らし、まるで言葉を理解したかのように目を閉じた。
しばらく見守っていたが、すうすうと規則的にお腹が動いていることを確認して、私は自室を出て食堂へと向かった。
朝食後、イザックの意識が戻ったことを伝えるため、院長室に赴いた。
院長室の扉をノックしようとすると、どうやら来客中のようで話し声が聞こえる。しかも扉が少し開いた状態だったので会話が聞こえてしまった。
「ヴィクトール王太子殿下がご病気?」
「意識不明の状態が続いているとか。私は『治癒』の祈りを捧げるため、しばらく王都へ行かなくてはなりません。そこで、次の日曜日の聖務は副院長にお願いできればと……」
「わかりました。しかし殿下がご病気とは……。少なからず、あの子が関わっているのでは?」
話しているのはバズレール司祭と副院長のようだ。そして副院長の言う『あの子』というのは私なんだろうな。
こんなふうに話題に出るなんて、やっぱり私のことを良く思ってはいなかったんだ。そう考えてしまうと、怖くてその場から動けなくなってしまった。
「王太子殿下とミュレー公爵令嬢との婚約が破談になり、王家と公爵家で揉めているようで、その話し合いの最中に倒れられたとか」
「まあ、何という……! 美男美女の良縁でしたのに。殿下に持病があるとお聞きしたことはないですから、心労かしら……」
姉から、殿下と公爵令嬢が揉めたらしいとは聞いていたが、婚約そのものが白紙になっていたなんて。噂を流したのはデルサール侯爵なのかもしれないが、噂の出所なんて証拠の挙げようがないし、傍から見れば私が原因にしか見えない。
それに私だって、聖女候補から外された時にきちんと理由を聞かなかったし、それによって噂が捏造であることの弁明もしなかった。追放されたのを良いことに逃げ出した私にも少なからず原因がある。
「……まさか、破談だなんて……!」
衝撃的な内容を聞いて身がすくみ、よろけてしまった拍子にカツンと足音を立ててしまい、私が廊下で立ち聞きしていたことを二人に気づかれてしまった。
「どなた? ……ああ、ジゼル。聞いてしまったのなら中へいらっしゃい」
「……はい」
何だか気まずくて、おずおずと部屋の中に入ると、眠っているみたいなおばあちゃん院長と、バズレール司祭が向かい合ってソファに座っていた。副院長は二人のそばに立っている。
「立ち聞きしてしまって、申し訳ありません。私のせいで……破談になっていたなんて知らなくて……」
「ここにいる私たちは知っています。あの噂は、あなたを聖女候補から外すためだったと。あなたの日頃の働きや、修道院運営への積極的な貢献を見れば、噂が事実無根であったことはわかります」
背が高く痩せていて、しかも怒ったような表情の副院長の言葉に、誉められたと気づくまで時間がかかった。
「今は色々言われるでしょうが、これまで通り真摯に働けば、きっと皆もわかってくれますよ」
一度植え付けられた印象を覆すのは難しい。
仮にこれが王都だとしたら、姉のような暇人たちが面白がって尾鰭をつけてさらに噂を広め、なかなか悪評が消えないだろう。
でも、ここにいる身近な人たちはちゃんと理解してくれている。それだけで満足だった。
「ありがとうございます、副院長」
「ところでジゼル、何か用があって来たのでは?」
「あ……はい、そうです。イザックが目を覚ましたのでそのご報告を。司祭様も本当にありがとうございました。それと……ご相談なのですが、このまま飼ってもいいですか?」
先ほどから怒ったような表情を浮かべている副院長の顔が、ますます険しくなっていく。普通に怖い。
修道院の実質的な権限を持つ副院長がこれだから無理かな、と諦めかけた時、沈黙に包まれていた部屋に小さくて可愛い声が響いた。
「いいですよ」
声の主は院長だった。その言葉、というよりも院長が喋ったことに私を含めた三人は大きく目を見開いた。
「院長が喋った! ……ん、失礼しました。院長、修道院では愛玩動物は禁止です」
「いえ、あれはペットじゃないから、いいですよ」
副院長が止めているのに、なぜか院長は許可している。この場合、いいのか悪いのかどっちなんだ!
戸惑った私が院長と副院長の顔を交互に見ていると、そばで面白そうに笑って様子を見ていた司祭が口を開いた。
「番犬として雇うのはどうでしょう? お嬢様がきちんと躾けると約束できるのなら許可されては?」
「と、いうわけで、君はここの番犬として雇われることになりました! ご飯と昼寝付き! やったね!」
るんるんと浮かれながら部屋に戻った私は、ベッドで眠っていたイザックに声をかけた。
院長がペットじゃないと言っていたのは、番犬という意味だったんだな。
イザックは目を静かに開き、くーんと鳴いて首を傾げている。私はベッドに近づいて、背中を撫でてやった。
生ゴミ置き場から拾ったあとに濡れタオルで拭いたけれど、まだ汚れたままだから毛がからまってごわごわしている。その日はそのまま寝かせておいたが、翌朝イザックが立ち上がって元気になっている様子を見て私は言った。
「もう大丈夫みたいね。ではまず、お風呂に入ってもらいます!」
えっ、という表情を浮かべたであろうイザックを毛布に包み持ち上げて、私は彼をアルマの待つ庭へと連れ出した。結構重い。
嫌がっているイザックは毛布の中で暴れていたが、盥に張った湯にざぶんと浸けると、観念したのか大人しくなった。
「見て、モフモフだったのに、すごいシュッってなった!」
毛がしんなりして小さくなっている様子が面白くて、私とアルマは笑いながら石鹸でイザックの身体をわしわしと洗った。今日は晴れているから、洗っている私たちも気持ちいい。
汚れが落ちると、黒かった毛玉はきらきらした銀色になった。
盥からイザックを出すと、身体を勢いよくぷるぷると揺らして水気を切る。少し日向ぼっこをすれば、すぐにイザックの身体は乾き、銀色のモフモフに生まれ変わった。
イザックが番犬になって数日が経った。回復してすっかり元気になったあとも、イザックは私のそばを片時も離れず、今も夜は同じベッドで寝ている。
毎朝、起床の鐘が鳴ったら、私はまず「イザック、おはよう~」と言いながら、顔のそばか足元にいるふわふわの毛玉を探す。
眠たくてなかなか起き上がれない時には、イザックが私の顔をぺろぺろ舐めてくるから、くすぐったくて笑ってしまい目が覚める。
私が起きると、イザックは満足そうに笑ったような顔をする。可愛い。
寝坊すると湯浴みする時間がなくなるから、イザックが起こしてくれるのはありがたかった。湯浴みといっても朝に使うのは井戸水だからとても冷たいのだけれど。
湯浴みのあとは朝のお祈りの時間。ここでもイザックと一緒に聖堂へと向かう。
「ちょっと外で待っててね」
「わふ!」
イザックを拾った時は緊急だったから聖堂内に入れてもらえたが、聖堂は基本的に動物を入れられないからだ。
お祈りの間、イザックが聖堂の扉の前にちょこーんと座って待っている様子はとても可愛い。
「お祈りが終わったよ、イザック。朝食だよ!」
私がそう話しかけると、立ち上がって嬉しそうに跳ねて、ふさふさの尻尾をふわふわと振りながら、聖堂の向かいにある食堂へと先導してくれる。イザックは私の言っていることがわかっていると思えるほど賢い。
……というより、ちゃんとご飯の時間を理解しているし、私の指示にもしっかり応えてくれるから、やっぱり人間の言葉がわかっているんじゃないかな?
イザックは私の足元でもぐもぐ元気にご飯を食べ終えると、いつも私の膝に乗ってきて、私の顔のあちこちを舐める。
今日も同じくペロペロと頬を舐められていると、それを見たエマが笑って言った。
「いつか、イザックに食べられちゃうんじゃない?」
「そうかもしれない! ね、やめて、イザックくすぐったいよ」
「犬の年齢はわからないけど、もしかしたら、育ち盛りで物足りないのかしらね?」
そんな私とエマの会話を聞いていた厨房係のクローディが、厨房からこっそりとパンや貴重品のお肉を持ってきてくれた。
イザックは私の手からしか食べないから、私が受け取ってお礼を言った。
「シスター・クローディ、ありがとうございます!」
「大きな声を出さないで。他の人には内緒ですよ」
そう言ってクローディが優しく笑ってくれた。
初めて厨房に行った時は、名前を呼ぶことすらできなかったのに。イザックが来てくれてから皆と自然に会話ができるようになった気がする。
「イザック、たくさん食べてね」
私がそう言って蒸した鶏肉とパンを差し出すと、イザックはそれをぺろりと平らげて、私の手のひらもぺろぺろと舐めてくる。
きらきらしている銀の毛並みは、皆が美味しいものを分けてくれるからか、一層艶々になった。
◆
雨の日は、孤児院に赴き部屋の隅に机を集めて、「もっと勉強したい」と希望する子どもたちの相手をしていることが多い。
勉強に興味を持ってくれた子どもには年齢関係なく色々なことを教える。簡単な計算や読み書きから始めて、聖典にある寓話の読み聞かせをしたり、書き取りをさせたりした。
孤児院で暮らすシリルは十一歳。もうすぐ孤児院を出る十二歳になるというのに、勉強が嫌いで遊んでばかりだったが、数人が部屋の隅で勉強をしているのを見て、自分も字を教えてほしいと言ってきた。
「孤児院を出たら、街で働きたいんだ」
シリルがそう言うと、彼の妹のララが教えてくれた。
「お兄ちゃんは、商人さんに弟子入りしたいんだよね」
シリルは修道院に出入りしている行商人と仲が良いらしく、商売に興味があるのだとか。そのためにまず字の読み書きができるようになりたいらしい。
私がシリルたちの勉強を見ている間、イザックはずっと私の膝の上にいる。ときどき顔を上げて、手元を覗き込んでくる。
雨の日は外を駆け回れないから退屈なんだろうな、と思って背中を撫でると、嬉しそうに鼻をすんと鳴らしてまた膝の上で丸くなる。
寓話の読み聞かせの時は、子ども相手とはいえ、人前で話すことに抵抗があったけれど、イザックが私の横に座っていると子どもたちは皆イザックに注目してくれるので、少しは緊張がほぐれる。
勉強する子どもが増えていくと、私は農作業を早めに終わらせて孤児院へ顔を出すようになった。
やがて雨の日でなくても孤児院へ行くようになり、私は午後のほとんどを孤児院で過ごしていた。
勉強を終えた子どもたちはイザックと追いかけっこもするし、ひたすらに撫でまわしたりもする。イザックはたとえ尻尾を踏まれても、子どもに噛みついたりしない。彼は無駄吠えしないし、いつもとても穏やかで大人しいから、私も安心して見ていられる。
ある日、いたずらがエスカレートして、子どもたちがイザックの口を無理やりこじ開けたり、足を引っ張ったりし始めた。
「私のイザックに意地悪しないで!」
子どもたちは「ジゼルが怒ったー!」と面白がって逃げていった。私はもみくちゃにされたイザックのもとに駆け寄り、彼を抱き上げた。
「……あなたは怒らないの?」
イザックは首を傾げて、顔を私の肩にのせて甘えてくる。温かくて気持ちいい。私はふわふわの背中を撫でて言った。
「本当は嫌だけど我慢していたの? イザックは偉いね」
大人しくしていたことを私が褒めると、彼は全力で甘え始めて、前足でむぎゅむぎゅと胸を押してきた。
「イザック、やめて。それ地味に痛いよ……」
そう言ったのに、イザックは私の顔や首を舐めながら甘えるのをやめなかった。
痛いけれど仕方ないので、そのままの姿勢で「えらいえらい」と褒めていたら、興奮しすぎて押し倒された。
「もう! 部屋のベッドで遊んでいる時ならいいけど、固い床とか外ではやめてよ!」
頭の後ろを打って痛かったから叱ったのに、イザックはなぜかもっと興奮していた。
「だめ! 言ってること、わかってる?」
人間の言葉を理解していると思っていたけれど、違ったかな。私がそう言うと、急に鎮まってシュンとして、頷いたように首を振った。そのあと謝っているかのように、頭をすりすりと腕に擦り付けてくるから、私はイザックの頭を撫でて、奉仕活動を終えて自室へと戻った。
私が農作業に出る日には、もちろんイザックも外までついてくる。雨の日も一緒に子どもたちの面倒をみてくれる。夜も同じベッドで眠るから、私とイザックはいつも一緒だった。
――けれどある日、それが許されなくなってしまった。
王都から戻り、久しぶりに女子修道院を訪れた司祭が、私の後ろをくっついてまわるイザックを見て「随分と懐かれましたね」と笑っていた。
しかし、ふと、司祭の視線が固まる。
「……この犬は、珍しい目の色をしていますね」
「あ、そうなんですよ。イザックが目を覚ました時に見て、びっくりしました! 紫って見たことな――あ、こら!」
私と司祭の会話を遮るように、急にイザックが吠えたからびっくりした。
「だめ、イザック! 司祭様に吠えちゃだめ!」
「……お嬢様、この犬を部屋に入れてはなりません」
「え? なぜです?」
院長の許可をもらって一緒に寝ていると伝えると、なぜか司祭が「その獣をお嬢様の部屋に入れてはなりません」と怒ったように言った。
こんなに怖い顔をしている司祭は初めてだ……
「で、でも……!」
「院長と副院長には私から提言しておきましょう。とにかく、その獣を部屋に入れないように」
「……はい」
そもそも、イザックと一緒に寝ていたこと自体が特例だったこともあり、副院長からのお達しでイザックは私の部屋への出入りが禁止になってしまった。
こちらも私の『大地への祝福』の力で、虫害にやられることなく順調に育ち、大きな瑞々しい実をつけた。
私は収穫作業をしている修道女たちの中に見慣れた親友の姿を見つけて、「エマ!」と声を掛けた。振り返った彼女は、こちらを見てにっこりと笑った。
「ジゼル! それに司祭様まで!」
「こんにちは、エマ。葡萄の様子はどうですか?」
「害虫もついてないし、今年は美味しくて豊作です! ジゼルの『大地への祝福』はとってもすごいのですよ!」
エマは一つに束ねた綺麗な黒髪を揺らしながら、興奮気味に声を張り上げた。
どうやら例年よりも葡萄がたくさん採れそうで、その分ワインも多く作れそうなのだとか。実も美味しいのであれば、ワインの味も美味しくなるだろう。
修道院では利益を追求しないから、手間をかけて丁寧に作る。今年のワインがどれほど美味しいものになるのか、想像するとワクワクした。
「この分だとワインの製造量も多くなり、さらには出来も良さそうなので、市場に流通させるのはいかがでしょう?」
元々、女子修道院のワインはとても美味しいと評判ではあったが、市場で売るほどはなかった。でも今年は状況が違う。つまるところ、神に捧げる分と旅人に振舞う分を残して、あとは売り払ってしまおうという算段だ。
「もし、本当に出来がいいのなら、『教会への寄付金』を上乗せした価格に設定してはどうかと」
「ええ、あまり安くしてしまうと他の生産者のワインが売れなくなりますからね。それに、教会への貢献になるなら、寄付を理由に購入してくれる貴族もいるでしょう」
「サミュエルお兄様が以前から気になっていたみたいですから、手紙を出しておきますね」
次兄のサミュエルが商家の娘と結婚したので、その人脈も提案しておいた。
ざっと計算するだけでもかなりの収益が見込めそうで、儲かりそうだなぁ~、と私は頭の中でニヤニヤしていた。
清貧に背きそうだが、私が独り占めするわけじゃなくて修道院のものになるんだからいいよね。寄付のみに頼って運営するのは心もとないし、いざという時のために自由に使える資金があったほうがいい。
なぜそう考えたのかというと、財務係へ勉強に行ったアルマが、ギリギリの寄付金のみで運営していることに驚いていたからだ。運営資金となる寄付金は、主にトルトゥリエ伯爵家が出しているわけだが、伯爵家にも余裕がなくなり、寄付金の額が段々と減っている。それに責任を感じて何か打開策がないか考えた結果、売れるものは売ったらどうだろうと思ったのだ。
「ワインは流通させるにしても、小麦はなるべく貯蔵しておきたいと思うのですが、司祭様のお考えはいかがですか……?」
私が小麦について話し始めると、司祭が真剣な表情になった。
例年通り獲れた麦で麦酒を作るのもいいが、余剰は貯めておきたい。
近年は全国的に不作が続いており、国庫にもあまり余裕がないはず。この先も不作が続いた時のために、孤児院だけでなく周囲の住人にも分け与えられるようにしたい。
さらに言えば、この春小麦に加えて、できればライ麦も作りたい。
……これは、ライ麦パン食べたい、という私の欲望だけれども。
「お嬢様のおかげで豊作になりそうですから、貯蔵しましょう。それにシスター・イネスが言っていましたが、今年は休耕しないで済みそうだとか?」
「はい。『大地への祝福』を捧げていれば土地が弱ることはないので」
「お嬢様に負担があるのでは?」
「慣れてきたので間違えずに詠唱できるようになりましたし、王都を離れて気持ちが落ち着いたのか、それほど疲れないのです。お気遣いありがとうございます」
私が笑って答えたので、司祭も微笑んでくれた。もちもちパンのために、一心不乱に頑張って良かった。
その後、司祭の視察を手伝っているとあっという間に昼食の時間になり、私たちは食堂へ向かった。
「旅人さんに振る舞う分のワインは薄めてもいいよね~」
ゴミ捨ての当番だった私は昼食を終えたあと、そんな不届きなことを考えながら、厨房の裏にある生ゴミ置き場へ向かった。
煉瓦の壁で囲われた中心に生ゴミが積まれたそこは、お世辞にもいい臭いとは言えない。
もちろんあまり好きな場所でもないから早く戻ろうとしていた矢先、普段はしないような異臭がして、私は元を探ろうと壁際に視線をやった。
よく見ると生ゴミの山の前に黒ずんだ毛の塊がある。
「死んじゃった犬か猫を、誰かここに置いたのかな」
そのままにしておけず、私がおそるおそる近づくと、どうやらその毛玉は中型犬だったようだ。その体はあちこち傷だらけでボロボロで、目も当てられない光景だったから、そのまま無視はできなかった。
「喧嘩で負けちゃったのか……可哀そうに」
埋葬しようと、羽織っていたショールで包んで持ち上げると、ボロボロの身体はぐんにゃりと曲がった。
……死んじゃったばかりだと、体は固くなるものだと聞いたことがある。朝に生ゴミ置き場を見た時には毛玉はなかったはずだから、少なくともそんなに時間は経っていないはず……
何だか違和感を覚えて、私は自分の膝の上に犬を乗せて、直接体に触れてみた。
……まだほんのり温かくて、弱々しいけれど、鼓動を感じる。
「……生きてる!」
思わず大声を出すと、犬の耳がぴくっと動いた。
汚れた毛玉を持って帰ったら怒られるかもしれないけれど、放っておけなかった。
――まだ助かるかもしれない!
私は生ゴミを持ってきた入れ物を放り投げ、急いで修道院の中へと戻った。
ちなみに、私が汚れた毛玉を抱えて「司祭様! バズレール司祭様!」と大声をあげて走り回ったことは、「いつ、いかなる時も静粛に」と、あとから副院長にこっぴどく叱られた。
第二章 モフモフ、番犬になる
司祭の治療――『治癒』のおかげで一命を取り留めたその犬に、私は守護聖人イサクから名を取って、イザックと名付けた。
外傷は治ったのに、イザックの意識が戻らないので司祭に尋ねると、『治癒』で外傷を治すことはできても、弱って止まりかけていた心臓は、安静にして自然に回復するのを待つしかないとのことだった。
その夜は、急変しないか心配だったので、特別にイザックを部屋に入れる許可をもらって私のベッドに寝かせた。
私は毛布の上からイザックの背中を撫でて、さっき見た司祭の『治癒』の様子を思い出していた。
司祭はいつもの穏やかな表情とは異なり、怖いくらいに真剣な顔つきで、額に汗を浮かべながら、ボロボロのイザックに長い間『治癒』の祈りを捧げていた。
『治癒』には相当な魔力を使うし、誰でも簡単に使えるわけじゃない。
大聖堂で聖女候補としての教育を受けていた約半月、授業をサボって昼寝なんかせずに、もっと真面目にやっておけばよかった。
今の私は、誰かを助ける具体的な手段を持たない。何もできない自分が恥ずかしい……
私は今まで、誰かのために何かしようと思ったことは一度もなかった。ただ、与えられた環境で安穏と育って、人と関わりたくないからと引きこもって本ばかり読んでいた。
もっとできることがあったはずなのに。
「私も役に立ちたい……イザックを助けたい……」
浅い息をしているイザックの姿を見ていると、そんな感情が沸々と湧いてくる。私はさっき司祭から教えてもらった初級の『治癒』を思い出して、やってみることにした。少しでもイザックの呼吸が楽になりますように、疲れた体が癒されますように。
ぽわっと自分の手のひらに温かさを感じて、イザックの身体が少し光っているように見える。
気を張り詰めすぎていたのか、かなり疲れていたけれど、私は眠りに落ちるまでずっとイザックに『治癒』を捧げ続けた。
翌朝、目覚めてすぐに毛布の中に手を差し込んで、イザックの体温を確認した。
――良かった、生きてる。
イザックが生きていることを証明するかのように、私の手に心臓の鼓動が伝わってくる。昨日よりも力強い。心地よい毛布の温かさに、私はほっと息をついた。
同時に起床の鐘が鳴り、その音が聞こえたのかイザックがうっすらと目を開けた。
「おはようイザック。助かって良かったね」
目は見えているかどうか気になって、イザックの顔を覗き込んだ。
まだ意識がぼんやりしているのか、綺麗な目の焦点は定まっていない。
見つめていると吸い込まれるんじゃないか、と思うくらいに美しい鮮やかな紫色。
こんな目の色は、猫なら見たことがあるけれど、犬では見たことがない。結構珍しいなあと思った。
昔、どこかで見た宝石みたいだ。
そんなことを思っていると、イザックがゆっくり何度も足を動かした。立ち上がりたいのかもしれない。でも足に力が入らないみたいで、前足でもがくだけもがいて、毛布からは抜け出せなかった。
「死にかけてたんだから、もう少し休んで」
私が笑って毛布越しに体を撫でると、イザックは私を見上げてすんすんと鼻を鳴らし、まるで言葉を理解したかのように目を閉じた。
しばらく見守っていたが、すうすうと規則的にお腹が動いていることを確認して、私は自室を出て食堂へと向かった。
朝食後、イザックの意識が戻ったことを伝えるため、院長室に赴いた。
院長室の扉をノックしようとすると、どうやら来客中のようで話し声が聞こえる。しかも扉が少し開いた状態だったので会話が聞こえてしまった。
「ヴィクトール王太子殿下がご病気?」
「意識不明の状態が続いているとか。私は『治癒』の祈りを捧げるため、しばらく王都へ行かなくてはなりません。そこで、次の日曜日の聖務は副院長にお願いできればと……」
「わかりました。しかし殿下がご病気とは……。少なからず、あの子が関わっているのでは?」
話しているのはバズレール司祭と副院長のようだ。そして副院長の言う『あの子』というのは私なんだろうな。
こんなふうに話題に出るなんて、やっぱり私のことを良く思ってはいなかったんだ。そう考えてしまうと、怖くてその場から動けなくなってしまった。
「王太子殿下とミュレー公爵令嬢との婚約が破談になり、王家と公爵家で揉めているようで、その話し合いの最中に倒れられたとか」
「まあ、何という……! 美男美女の良縁でしたのに。殿下に持病があるとお聞きしたことはないですから、心労かしら……」
姉から、殿下と公爵令嬢が揉めたらしいとは聞いていたが、婚約そのものが白紙になっていたなんて。噂を流したのはデルサール侯爵なのかもしれないが、噂の出所なんて証拠の挙げようがないし、傍から見れば私が原因にしか見えない。
それに私だって、聖女候補から外された時にきちんと理由を聞かなかったし、それによって噂が捏造であることの弁明もしなかった。追放されたのを良いことに逃げ出した私にも少なからず原因がある。
「……まさか、破談だなんて……!」
衝撃的な内容を聞いて身がすくみ、よろけてしまった拍子にカツンと足音を立ててしまい、私が廊下で立ち聞きしていたことを二人に気づかれてしまった。
「どなた? ……ああ、ジゼル。聞いてしまったのなら中へいらっしゃい」
「……はい」
何だか気まずくて、おずおずと部屋の中に入ると、眠っているみたいなおばあちゃん院長と、バズレール司祭が向かい合ってソファに座っていた。副院長は二人のそばに立っている。
「立ち聞きしてしまって、申し訳ありません。私のせいで……破談になっていたなんて知らなくて……」
「ここにいる私たちは知っています。あの噂は、あなたを聖女候補から外すためだったと。あなたの日頃の働きや、修道院運営への積極的な貢献を見れば、噂が事実無根であったことはわかります」
背が高く痩せていて、しかも怒ったような表情の副院長の言葉に、誉められたと気づくまで時間がかかった。
「今は色々言われるでしょうが、これまで通り真摯に働けば、きっと皆もわかってくれますよ」
一度植え付けられた印象を覆すのは難しい。
仮にこれが王都だとしたら、姉のような暇人たちが面白がって尾鰭をつけてさらに噂を広め、なかなか悪評が消えないだろう。
でも、ここにいる身近な人たちはちゃんと理解してくれている。それだけで満足だった。
「ありがとうございます、副院長」
「ところでジゼル、何か用があって来たのでは?」
「あ……はい、そうです。イザックが目を覚ましたのでそのご報告を。司祭様も本当にありがとうございました。それと……ご相談なのですが、このまま飼ってもいいですか?」
先ほどから怒ったような表情を浮かべている副院長の顔が、ますます険しくなっていく。普通に怖い。
修道院の実質的な権限を持つ副院長がこれだから無理かな、と諦めかけた時、沈黙に包まれていた部屋に小さくて可愛い声が響いた。
「いいですよ」
声の主は院長だった。その言葉、というよりも院長が喋ったことに私を含めた三人は大きく目を見開いた。
「院長が喋った! ……ん、失礼しました。院長、修道院では愛玩動物は禁止です」
「いえ、あれはペットじゃないから、いいですよ」
副院長が止めているのに、なぜか院長は許可している。この場合、いいのか悪いのかどっちなんだ!
戸惑った私が院長と副院長の顔を交互に見ていると、そばで面白そうに笑って様子を見ていた司祭が口を開いた。
「番犬として雇うのはどうでしょう? お嬢様がきちんと躾けると約束できるのなら許可されては?」
「と、いうわけで、君はここの番犬として雇われることになりました! ご飯と昼寝付き! やったね!」
るんるんと浮かれながら部屋に戻った私は、ベッドで眠っていたイザックに声をかけた。
院長がペットじゃないと言っていたのは、番犬という意味だったんだな。
イザックは目を静かに開き、くーんと鳴いて首を傾げている。私はベッドに近づいて、背中を撫でてやった。
生ゴミ置き場から拾ったあとに濡れタオルで拭いたけれど、まだ汚れたままだから毛がからまってごわごわしている。その日はそのまま寝かせておいたが、翌朝イザックが立ち上がって元気になっている様子を見て私は言った。
「もう大丈夫みたいね。ではまず、お風呂に入ってもらいます!」
えっ、という表情を浮かべたであろうイザックを毛布に包み持ち上げて、私は彼をアルマの待つ庭へと連れ出した。結構重い。
嫌がっているイザックは毛布の中で暴れていたが、盥に張った湯にざぶんと浸けると、観念したのか大人しくなった。
「見て、モフモフだったのに、すごいシュッってなった!」
毛がしんなりして小さくなっている様子が面白くて、私とアルマは笑いながら石鹸でイザックの身体をわしわしと洗った。今日は晴れているから、洗っている私たちも気持ちいい。
汚れが落ちると、黒かった毛玉はきらきらした銀色になった。
盥からイザックを出すと、身体を勢いよくぷるぷると揺らして水気を切る。少し日向ぼっこをすれば、すぐにイザックの身体は乾き、銀色のモフモフに生まれ変わった。
イザックが番犬になって数日が経った。回復してすっかり元気になったあとも、イザックは私のそばを片時も離れず、今も夜は同じベッドで寝ている。
毎朝、起床の鐘が鳴ったら、私はまず「イザック、おはよう~」と言いながら、顔のそばか足元にいるふわふわの毛玉を探す。
眠たくてなかなか起き上がれない時には、イザックが私の顔をぺろぺろ舐めてくるから、くすぐったくて笑ってしまい目が覚める。
私が起きると、イザックは満足そうに笑ったような顔をする。可愛い。
寝坊すると湯浴みする時間がなくなるから、イザックが起こしてくれるのはありがたかった。湯浴みといっても朝に使うのは井戸水だからとても冷たいのだけれど。
湯浴みのあとは朝のお祈りの時間。ここでもイザックと一緒に聖堂へと向かう。
「ちょっと外で待っててね」
「わふ!」
イザックを拾った時は緊急だったから聖堂内に入れてもらえたが、聖堂は基本的に動物を入れられないからだ。
お祈りの間、イザックが聖堂の扉の前にちょこーんと座って待っている様子はとても可愛い。
「お祈りが終わったよ、イザック。朝食だよ!」
私がそう話しかけると、立ち上がって嬉しそうに跳ねて、ふさふさの尻尾をふわふわと振りながら、聖堂の向かいにある食堂へと先導してくれる。イザックは私の言っていることがわかっていると思えるほど賢い。
……というより、ちゃんとご飯の時間を理解しているし、私の指示にもしっかり応えてくれるから、やっぱり人間の言葉がわかっているんじゃないかな?
イザックは私の足元でもぐもぐ元気にご飯を食べ終えると、いつも私の膝に乗ってきて、私の顔のあちこちを舐める。
今日も同じくペロペロと頬を舐められていると、それを見たエマが笑って言った。
「いつか、イザックに食べられちゃうんじゃない?」
「そうかもしれない! ね、やめて、イザックくすぐったいよ」
「犬の年齢はわからないけど、もしかしたら、育ち盛りで物足りないのかしらね?」
そんな私とエマの会話を聞いていた厨房係のクローディが、厨房からこっそりとパンや貴重品のお肉を持ってきてくれた。
イザックは私の手からしか食べないから、私が受け取ってお礼を言った。
「シスター・クローディ、ありがとうございます!」
「大きな声を出さないで。他の人には内緒ですよ」
そう言ってクローディが優しく笑ってくれた。
初めて厨房に行った時は、名前を呼ぶことすらできなかったのに。イザックが来てくれてから皆と自然に会話ができるようになった気がする。
「イザック、たくさん食べてね」
私がそう言って蒸した鶏肉とパンを差し出すと、イザックはそれをぺろりと平らげて、私の手のひらもぺろぺろと舐めてくる。
きらきらしている銀の毛並みは、皆が美味しいものを分けてくれるからか、一層艶々になった。
◆
雨の日は、孤児院に赴き部屋の隅に机を集めて、「もっと勉強したい」と希望する子どもたちの相手をしていることが多い。
勉強に興味を持ってくれた子どもには年齢関係なく色々なことを教える。簡単な計算や読み書きから始めて、聖典にある寓話の読み聞かせをしたり、書き取りをさせたりした。
孤児院で暮らすシリルは十一歳。もうすぐ孤児院を出る十二歳になるというのに、勉強が嫌いで遊んでばかりだったが、数人が部屋の隅で勉強をしているのを見て、自分も字を教えてほしいと言ってきた。
「孤児院を出たら、街で働きたいんだ」
シリルがそう言うと、彼の妹のララが教えてくれた。
「お兄ちゃんは、商人さんに弟子入りしたいんだよね」
シリルは修道院に出入りしている行商人と仲が良いらしく、商売に興味があるのだとか。そのためにまず字の読み書きができるようになりたいらしい。
私がシリルたちの勉強を見ている間、イザックはずっと私の膝の上にいる。ときどき顔を上げて、手元を覗き込んでくる。
雨の日は外を駆け回れないから退屈なんだろうな、と思って背中を撫でると、嬉しそうに鼻をすんと鳴らしてまた膝の上で丸くなる。
寓話の読み聞かせの時は、子ども相手とはいえ、人前で話すことに抵抗があったけれど、イザックが私の横に座っていると子どもたちは皆イザックに注目してくれるので、少しは緊張がほぐれる。
勉強する子どもが増えていくと、私は農作業を早めに終わらせて孤児院へ顔を出すようになった。
やがて雨の日でなくても孤児院へ行くようになり、私は午後のほとんどを孤児院で過ごしていた。
勉強を終えた子どもたちはイザックと追いかけっこもするし、ひたすらに撫でまわしたりもする。イザックはたとえ尻尾を踏まれても、子どもに噛みついたりしない。彼は無駄吠えしないし、いつもとても穏やかで大人しいから、私も安心して見ていられる。
ある日、いたずらがエスカレートして、子どもたちがイザックの口を無理やりこじ開けたり、足を引っ張ったりし始めた。
「私のイザックに意地悪しないで!」
子どもたちは「ジゼルが怒ったー!」と面白がって逃げていった。私はもみくちゃにされたイザックのもとに駆け寄り、彼を抱き上げた。
「……あなたは怒らないの?」
イザックは首を傾げて、顔を私の肩にのせて甘えてくる。温かくて気持ちいい。私はふわふわの背中を撫でて言った。
「本当は嫌だけど我慢していたの? イザックは偉いね」
大人しくしていたことを私が褒めると、彼は全力で甘え始めて、前足でむぎゅむぎゅと胸を押してきた。
「イザック、やめて。それ地味に痛いよ……」
そう言ったのに、イザックは私の顔や首を舐めながら甘えるのをやめなかった。
痛いけれど仕方ないので、そのままの姿勢で「えらいえらい」と褒めていたら、興奮しすぎて押し倒された。
「もう! 部屋のベッドで遊んでいる時ならいいけど、固い床とか外ではやめてよ!」
頭の後ろを打って痛かったから叱ったのに、イザックはなぜかもっと興奮していた。
「だめ! 言ってること、わかってる?」
人間の言葉を理解していると思っていたけれど、違ったかな。私がそう言うと、急に鎮まってシュンとして、頷いたように首を振った。そのあと謝っているかのように、頭をすりすりと腕に擦り付けてくるから、私はイザックの頭を撫でて、奉仕活動を終えて自室へと戻った。
私が農作業に出る日には、もちろんイザックも外までついてくる。雨の日も一緒に子どもたちの面倒をみてくれる。夜も同じベッドで眠るから、私とイザックはいつも一緒だった。
――けれどある日、それが許されなくなってしまった。
王都から戻り、久しぶりに女子修道院を訪れた司祭が、私の後ろをくっついてまわるイザックを見て「随分と懐かれましたね」と笑っていた。
しかし、ふと、司祭の視線が固まる。
「……この犬は、珍しい目の色をしていますね」
「あ、そうなんですよ。イザックが目を覚ました時に見て、びっくりしました! 紫って見たことな――あ、こら!」
私と司祭の会話を遮るように、急にイザックが吠えたからびっくりした。
「だめ、イザック! 司祭様に吠えちゃだめ!」
「……お嬢様、この犬を部屋に入れてはなりません」
「え? なぜです?」
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「院長と副院長には私から提言しておきましょう。とにかく、その獣を部屋に入れないように」
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そもそも、イザックと一緒に寝ていたこと自体が特例だったこともあり、副院長からのお達しでイザックは私の部屋への出入りが禁止になってしまった。
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※感想の取り扱いは近況ボードを参照してください。
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