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2月も下旬になり、東京は再び白い雪に覆われた。
康太郎の住民票は、転出届を姉が出さないせいでずいぶん遅くなったが、ようやく先週無事に現住所に移り、健康保険証の発行も済んだ。
バイト決定のお祝いにと優希が金を出して作らせたスーツも届き、康太郎は姿見の前で大はしゃぎしている。
もともと大人びた造作だったせいか、スーツを着るとまるで成人した新社会人のようだ。
優希は来期の大学の準備を進めつつ、例の映画の字幕の仕事にも着手していた。
中野から送られてきた台本にト書きを入れながら、パソコンで映画を何度も繰り返し観る。
エンタメ性の非常に強い戦争映画だ。これがロシアでウケるかどうか、優希には何とも判断できない。
「優希さん、電池ってどこに捨てるんだっけ」
そういえば最近、康太郎がノックすることを覚えた。
共同生活も2か月近くなれば、お互いに気を遣う点がわかってくるものだ。
優希の返事を待って部屋に入ってきた康太郎の手には、単三電池が1本握られている。
「靴箱のところの缶に入れといてくれたら、スーパーでまとめて捨ててる……何の電池がなくなったの?」
「マウス」
「電池、買い置きあったっけ」
「うん、使わせてもらっちゃった」
康太郎は先月から、オンラインでパソコン教室の授業を受けていた。
簡単な事務作業ができる程度の内容を、短期集中で教えてくれる授業だが、いざ始めてみると意外と本人がやる気を出して、そのうちMOS資格を取るとまで言い出した。
彼が将来どのような道に進むかはまだわからないが、まとまった時間が取れる機会はそうない。
今のうちにそういう勉強をするのも悪くはないだろう。
「ああ、そうだ、康太郎。今、少し時間ある?」
「うん?」
優希は体をひねって本棚から書類ケースを抜き出し、ぽん、と康太郎に放ってやった。
「……これは?」
「予備校の資料。ここから自転車で通えるところに、わりとあるみたいでね、請求しておいた。高校受験するにしても、高認取るにしても、さすがに独学じゃきついと思うよ」
「……俺が、これを欲しいって言うと思って?」
「さあ、それはわからないけど。必要になるかもしれないと思ったから」
優希の言葉に、康太郎は書類ケースを大事そうに傍らに置いた。
それから床に正座すると、深々と頭を下げた。
「優希さん、ありがとう」
「……頭上げてって。そういうのはしなくていいって、前に言ったでしょ」
「違うよ、これは俺が自分でしたいこと。優希さんには、いくらお礼言っても足りないと思ってる」
康太郎の真摯な眼差しが優希を見据え、優希は思わず視線をそらしたくなった。
「……別に、そんなことを言われたくて、きみをここに置いてるわけじゃないけどね」
「でも、優希さん、他人と共同生活するの、あんまり得意じゃないでしょ? それなのに、俺のこと、家族よりも真剣に考えてくれてる」
共同生活が苦手なことを見透かされている。
優希は顔を背けて頭を掻いた。
「きみくらいの年齢なら、別に、そういうものを甘受しておかしくはない」
「でもそういうの、普通は親がやることだと思う。親でもないのに、お金出してくれて、アドバイスしてくれて、本当に嬉しい」
「……喜んでくれるのはいいけどね、努力するのはきみ自身なんだから」
「うん、わかってる。だから、その、甘えさせてほしいんだけど……大学に進学するまでは、俺のこと、ここに置いててほしい。家が見つかれば出ていくなんて言ったけど、1人で生活できるくらいバイトしながら勉強してって、俺には無理だと思う。世の中にはそういうことしてる人もいると思うけど、俺の頭じゃ、多分難しい」
康太郎の言葉に、優希は大きく息を吐いた。
少年の顔を見遣れば、初めて彼がここに来たときとはまったく違う顔つきをしていた。
「康太郎、きみはもう少し自分と世の中のことを知ったほうがいい。大学進学するまでって、大学に入ったら出ていくつもりでいるみたいだけど、進学したらバイトできる時間は減るってわかってる? 家賃払って生活費払える?」
「それは――奨学金とかもあるし……」
「奨学金を取るのは、大いに結構。でもそれだけで暮らしていけるほど、東京の家賃は安くない。私学の学費免除をもらって進学できればいいかもしれないが、学費免除の条件を満たすためには、常に好成績じゃないといけないんだよ。バイトなんかしてる暇はなくなる」
優希の視線から、今度は康太郎が目をそらした。
やっぱりそこまで考えていなかったな、と優希は再び嘆息する。
「確かに私は共同生活苦手だよ。でも、きみを抱え込むと決めたときに、そのあたりの覚悟はできてる。もっと図々しく、大学卒業するまで置いてほしいと、なんで言わないかな」
「だって……優希さん、俺のこと、あんまり好きじゃないでしょ」
優希は思わず大きく口を開き、しかし、結局何も言わずに口を閉じた。
代わりに珈琲を一口飲んで、三度目のため息を吐く。
「嫌いだったら、とうの昔に熨斗つけて、姉さんに送り返してるよ。まったく、いらないところにばかり気を回して……」
「……ほんと? 俺のこと、少しは好き? 親戚だから、義務感とかそういうので言ってくれてるんじゃなくて?」
「くだらないことを聞くんじゃないよ。義務感なんて、一番嫌いな言葉だ」
「……わかった!」
康太郎が急に元気になって、勢い良く立ち上がった。
書類ケースを抱きしめるようにして、満足そうな顔で笑っている。
「じゃあ、大学出て就職するまで、俺のこと面倒みてください! よろしくお願いします! バイト代は家に入れます!」
「あー、うん、金の話はそのうちね。まずは4月からしっかりなさい」
ぱたぱたと手を振って、そろそろ部屋を出ていけと示す。
犬ならしっぽをちぎれんばかりに振っているだろうという風情で、康太郎が自室に戻って行った。
(……まったく、調子の狂う子だな)
優希は珈琲を飲もうとカップを口につけ、中身がすっかり空なことに気づくと、今までで一番大きく息を吐きだして椅子から立ち上がった。
康太郎の住民票は、転出届を姉が出さないせいでずいぶん遅くなったが、ようやく先週無事に現住所に移り、健康保険証の発行も済んだ。
バイト決定のお祝いにと優希が金を出して作らせたスーツも届き、康太郎は姿見の前で大はしゃぎしている。
もともと大人びた造作だったせいか、スーツを着るとまるで成人した新社会人のようだ。
優希は来期の大学の準備を進めつつ、例の映画の字幕の仕事にも着手していた。
中野から送られてきた台本にト書きを入れながら、パソコンで映画を何度も繰り返し観る。
エンタメ性の非常に強い戦争映画だ。これがロシアでウケるかどうか、優希には何とも判断できない。
「優希さん、電池ってどこに捨てるんだっけ」
そういえば最近、康太郎がノックすることを覚えた。
共同生活も2か月近くなれば、お互いに気を遣う点がわかってくるものだ。
優希の返事を待って部屋に入ってきた康太郎の手には、単三電池が1本握られている。
「靴箱のところの缶に入れといてくれたら、スーパーでまとめて捨ててる……何の電池がなくなったの?」
「マウス」
「電池、買い置きあったっけ」
「うん、使わせてもらっちゃった」
康太郎は先月から、オンラインでパソコン教室の授業を受けていた。
簡単な事務作業ができる程度の内容を、短期集中で教えてくれる授業だが、いざ始めてみると意外と本人がやる気を出して、そのうちMOS資格を取るとまで言い出した。
彼が将来どのような道に進むかはまだわからないが、まとまった時間が取れる機会はそうない。
今のうちにそういう勉強をするのも悪くはないだろう。
「ああ、そうだ、康太郎。今、少し時間ある?」
「うん?」
優希は体をひねって本棚から書類ケースを抜き出し、ぽん、と康太郎に放ってやった。
「……これは?」
「予備校の資料。ここから自転車で通えるところに、わりとあるみたいでね、請求しておいた。高校受験するにしても、高認取るにしても、さすがに独学じゃきついと思うよ」
「……俺が、これを欲しいって言うと思って?」
「さあ、それはわからないけど。必要になるかもしれないと思ったから」
優希の言葉に、康太郎は書類ケースを大事そうに傍らに置いた。
それから床に正座すると、深々と頭を下げた。
「優希さん、ありがとう」
「……頭上げてって。そういうのはしなくていいって、前に言ったでしょ」
「違うよ、これは俺が自分でしたいこと。優希さんには、いくらお礼言っても足りないと思ってる」
康太郎の真摯な眼差しが優希を見据え、優希は思わず視線をそらしたくなった。
「……別に、そんなことを言われたくて、きみをここに置いてるわけじゃないけどね」
「でも、優希さん、他人と共同生活するの、あんまり得意じゃないでしょ? それなのに、俺のこと、家族よりも真剣に考えてくれてる」
共同生活が苦手なことを見透かされている。
優希は顔を背けて頭を掻いた。
「きみくらいの年齢なら、別に、そういうものを甘受しておかしくはない」
「でもそういうの、普通は親がやることだと思う。親でもないのに、お金出してくれて、アドバイスしてくれて、本当に嬉しい」
「……喜んでくれるのはいいけどね、努力するのはきみ自身なんだから」
「うん、わかってる。だから、その、甘えさせてほしいんだけど……大学に進学するまでは、俺のこと、ここに置いててほしい。家が見つかれば出ていくなんて言ったけど、1人で生活できるくらいバイトしながら勉強してって、俺には無理だと思う。世の中にはそういうことしてる人もいると思うけど、俺の頭じゃ、多分難しい」
康太郎の言葉に、優希は大きく息を吐いた。
少年の顔を見遣れば、初めて彼がここに来たときとはまったく違う顔つきをしていた。
「康太郎、きみはもう少し自分と世の中のことを知ったほうがいい。大学進学するまでって、大学に入ったら出ていくつもりでいるみたいだけど、進学したらバイトできる時間は減るってわかってる? 家賃払って生活費払える?」
「それは――奨学金とかもあるし……」
「奨学金を取るのは、大いに結構。でもそれだけで暮らしていけるほど、東京の家賃は安くない。私学の学費免除をもらって進学できればいいかもしれないが、学費免除の条件を満たすためには、常に好成績じゃないといけないんだよ。バイトなんかしてる暇はなくなる」
優希の視線から、今度は康太郎が目をそらした。
やっぱりそこまで考えていなかったな、と優希は再び嘆息する。
「確かに私は共同生活苦手だよ。でも、きみを抱え込むと決めたときに、そのあたりの覚悟はできてる。もっと図々しく、大学卒業するまで置いてほしいと、なんで言わないかな」
「だって……優希さん、俺のこと、あんまり好きじゃないでしょ」
優希は思わず大きく口を開き、しかし、結局何も言わずに口を閉じた。
代わりに珈琲を一口飲んで、三度目のため息を吐く。
「嫌いだったら、とうの昔に熨斗つけて、姉さんに送り返してるよ。まったく、いらないところにばかり気を回して……」
「……ほんと? 俺のこと、少しは好き? 親戚だから、義務感とかそういうので言ってくれてるんじゃなくて?」
「くだらないことを聞くんじゃないよ。義務感なんて、一番嫌いな言葉だ」
「……わかった!」
康太郎が急に元気になって、勢い良く立ち上がった。
書類ケースを抱きしめるようにして、満足そうな顔で笑っている。
「じゃあ、大学出て就職するまで、俺のこと面倒みてください! よろしくお願いします! バイト代は家に入れます!」
「あー、うん、金の話はそのうちね。まずは4月からしっかりなさい」
ぱたぱたと手を振って、そろそろ部屋を出ていけと示す。
犬ならしっぽをちぎれんばかりに振っているだろうという風情で、康太郎が自室に戻って行った。
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