呼吸

ゆずる

文字の大きさ
36 / 89

36

しおりを挟む
 2月も下旬になり、東京は再び白い雪に覆われた。
 康太郎の住民票は、転出届を姉が出さないせいでずいぶん遅くなったが、ようやく先週無事に現住所に移り、健康保険証の発行も済んだ。
 バイト決定のお祝いにと優希が金を出して作らせたスーツも届き、康太郎は姿見の前で大はしゃぎしている。
 もともと大人びた造作だったせいか、スーツを着るとまるで成人した新社会人のようだ。

 優希は来期の大学の準備を進めつつ、例の映画の字幕の仕事にも着手していた。
 中野から送られてきた台本にト書きを入れながら、パソコンで映画を何度も繰り返し観る。
 エンタメ性の非常に強い戦争映画だ。これがロシアでウケるかどうか、優希には何とも判断できない。

「優希さん、電池ってどこに捨てるんだっけ」

 そういえば最近、康太郎がノックすることを覚えた。
 共同生活も2か月近くなれば、お互いに気を遣う点がわかってくるものだ。
 優希の返事を待って部屋に入ってきた康太郎の手には、単三電池が1本握られている。

「靴箱のところの缶に入れといてくれたら、スーパーでまとめて捨ててる……何の電池がなくなったの?」
「マウス」
「電池、買い置きあったっけ」
「うん、使わせてもらっちゃった」

 康太郎は先月から、オンラインでパソコン教室の授業を受けていた。
 簡単な事務作業ができる程度の内容を、短期集中で教えてくれる授業だが、いざ始めてみると意外と本人がやる気を出して、そのうちMOS資格を取るとまで言い出した。
 彼が将来どのような道に進むかはまだわからないが、まとまった時間が取れる機会はそうない。
 今のうちにそういう勉強をするのも悪くはないだろう。

「ああ、そうだ、康太郎。今、少し時間ある?」
「うん?」

 優希は体をひねって本棚から書類ケースを抜き出し、ぽん、と康太郎に放ってやった。

「……これは?」
「予備校の資料。ここから自転車で通えるところに、わりとあるみたいでね、請求しておいた。高校受験するにしても、高認取るにしても、さすがに独学じゃきついと思うよ」
「……俺が、これを欲しいって言うと思って?」
「さあ、それはわからないけど。必要になるかもしれないと思ったから」

 優希の言葉に、康太郎は書類ケースを大事そうに傍らに置いた。
 それから床に正座すると、深々と頭を下げた。

「優希さん、ありがとう」
「……頭上げてって。そういうのはしなくていいって、前に言ったでしょ」
「違うよ、これは俺が自分でしたいこと。優希さんには、いくらお礼言っても足りないと思ってる」

 康太郎の真摯な眼差しが優希を見据え、優希は思わず視線をそらしたくなった。

「……別に、そんなことを言われたくて、きみをここに置いてるわけじゃないけどね」
「でも、優希さん、他人と共同生活するの、あんまり得意じゃないでしょ? それなのに、俺のこと、家族よりも真剣に考えてくれてる」

 共同生活が苦手なことを見透かされている。
 優希は顔を背けて頭を掻いた。

「きみくらいの年齢なら、別に、そういうものを甘受しておかしくはない」
「でもそういうの、普通は親がやることだと思う。親でもないのに、お金出してくれて、アドバイスしてくれて、本当に嬉しい」
「……喜んでくれるのはいいけどね、努力するのはきみ自身なんだから」
「うん、わかってる。だから、その、甘えさせてほしいんだけど……大学に進学するまでは、俺のこと、ここに置いててほしい。家が見つかれば出ていくなんて言ったけど、1人で生活できるくらいバイトしながら勉強してって、俺には無理だと思う。世の中にはそういうことしてる人もいると思うけど、俺の頭じゃ、多分難しい」

 康太郎の言葉に、優希は大きく息を吐いた。
 少年の顔を見遣れば、初めて彼がここに来たときとはまったく違う顔つきをしていた。

「康太郎、きみはもう少し自分と世の中のことを知ったほうがいい。大学進学するまでって、大学に入ったら出ていくつもりでいるみたいだけど、進学したらバイトできる時間は減るってわかってる? 家賃払って生活費払える?」
「それは――奨学金とかもあるし……」
「奨学金を取るのは、大いに結構。でもそれだけで暮らしていけるほど、東京の家賃は安くない。私学の学費免除をもらって進学できればいいかもしれないが、学費免除の条件を満たすためには、常に好成績じゃないといけないんだよ。バイトなんかしてる暇はなくなる」

 優希の視線から、今度は康太郎が目をそらした。
 やっぱりそこまで考えていなかったな、と優希は再び嘆息する。

「確かに私は共同生活苦手だよ。でも、きみを抱え込むと決めたときに、そのあたりの覚悟はできてる。もっと図々しく、大学卒業するまで置いてほしいと、なんで言わないかな」
「だって……優希さん、俺のこと、あんまり好きじゃないでしょ」

 優希は思わず大きく口を開き、しかし、結局何も言わずに口を閉じた。
 代わりに珈琲を一口飲んで、三度目のため息を吐く。

「嫌いだったら、とうの昔に熨斗つけて、姉さんに送り返してるよ。まったく、いらないところにばかり気を回して……」
「……ほんと? 俺のこと、少しは好き? 親戚だから、義務感とかそういうので言ってくれてるんじゃなくて?」
「くだらないことを聞くんじゃないよ。義務感なんて、一番嫌いな言葉だ」
「……わかった!」

 康太郎が急に元気になって、勢い良く立ち上がった。
 書類ケースを抱きしめるようにして、満足そうな顔で笑っている。

「じゃあ、大学出て就職するまで、俺のこと面倒みてください! よろしくお願いします! バイト代は家に入れます!」
「あー、うん、金の話はそのうちね。まずは4月からしっかりなさい」

 ぱたぱたと手を振って、そろそろ部屋を出ていけと示す。
 犬ならしっぽをちぎれんばかりに振っているだろうという風情で、康太郎が自室に戻って行った。

(……まったく、調子の狂う子だな)

 優希は珈琲を飲もうとカップを口につけ、中身がすっかり空なことに気づくと、今までで一番大きく息を吐きだして椅子から立ち上がった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡

弘生
現代文学
なんだか優しいお話が書きたくなって、連載始めました。 保護猫「ジン」が、時間と空間を超えて見守り語り続けた「柊家」の人々。 「ジン」が天に昇ってから何度も季節は巡り、やがて25年目に奇跡が起こる。けれど、これは奇跡というよりも、「ジン」へのご褒美かもしれない。

灰かぶりの少年

うどん
BL
大きなお屋敷に仕える一人の少年。 とても美しい美貌の持ち主だが忌み嫌われ毎日被虐的な扱いをされるのであった・・・。

処理中です...