呼吸

ゆずる

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 姉と話をすると、どうも感情を律することが難しくなる。

 優希は小さく毒づくと、通話を切ったばかりのスマートフォンをベッドに叩きつけた。康太郎がその姿を見れば間違いなく驚くほど、顔に感情が浮かんで抑えられない。

「ふー…………」

 大きく息を吐いて、珈琲カップを手に取り、中身が空であることに気づいて思わず悪態をつく。
 この調子でリビングに出て行くと、彼を心配させてしまうだろう。優希は窓を開いて、煙草に火をつけ、2本を吸いきったあとようやく部屋を出た。

「優希さん、どしたの?」

 それでもこの少年には、優希が何かに怒っていたことに気づいたらしい。優希や彼の母とは違い、他人の心の動きに敏感な子供だ。

「ん、いや、珈琲飲もうと思って……」
「俺がやるから座ってて」

 優希をこたつに座らせると、キッチンで湯を沸かし始める。先日、康太郎が「そんなに使うなら買っちゃだめ?」と珍しくねだってきた電気ケトルが、カウンターの上で小さく音を立てて湯気を吐いた。
 熱湯を入れたらだめなんだよね、とぶつぶつ康太郎がつぶやく声が聞こえてくる。

 彼は最近、珈琲の美味しい淹れ方とやらにハマったらしい。
 動画で淹れ方の研究をしては、優希に味見をせがんでくる。
 ここに来たばかりの頃に比べて、多少は顔色を変えずに飲めるようになったようだが、彼自身、珈琲の味の良し悪しはまだわからないようだった。

「北條先生、本日の珈琲のお味はいかがでしょうか」

 真面目ぶって訊ねてくる少年に、優希もふむとうなって、珈琲を口に運んでみせる。

「……おいしいよ」
「本当? よっしゃ」

 優希は高級嗜好ではないが、安物の珈琲は仕事の効率が落ちるので飲まないようにしている。
 今使っているのはグラム1000円とそれなりの値段のもので、まあ、どんな淹れ方をしてもそんなにまずくなるような代物ではないはずだ。
 といった野暮なことは、間違っても口にしない優希である。

 そのそこそこの価格の珈琲に、康太郎は温めた牛乳を容赦なく入れている。
 他人の食の好みに口を出すのは行儀が悪いと考える優希でも、さすがにそれは少々もったいない飲み方であるように思える。
 間違っても、口にはしないが。

 やや酸味のある珈琲を味わい、ようやく優希は自分がいつもどおりに戻った気がした。

「さっき、きみのお母さんと話をしたんだけどね」
「母さんと?」

 家族の話を出すと、康太郎の顔がやや陰りを見せる。寂しいのかなんなのか、優希に彼の感情はあまり想像できない。
 優希の知る限り、康太郎はここに来てから母親と連絡を取っていない。
 意地なのか、それとも心底寂しいなどとは思っていないのか。

「うん、きみの体のことでね……喘息なんてのは、お母さんの勘違いだったみたいだ」

 優希は穏やかに言葉を選ぶが、実際はもっとひどかった。
 喘息ということにしておけば、色々な面倒が省けるから、というだけの理由で、姉は息子の行動を制限していたらしい。
 もちろん学校の健康診断でその嘘はばれるわけだが、もともと康太郎はあまり学校に行っていなかったらしく――これも優希を憤慨させた話だったのだが、それはさておき――、本人さえ騙せばどうとでもなると、姉はずっと嘘をつき続けていたらしい。
 学校行事だって休ませる口実になるし、余計な金がかからないし、と抜かした姉に、優希は怒鳴りたくなるのを我慢するので精一杯だった。

「というわけで、私も禁煙をやめました」
「あ、だから煙草くさいんだ」

 康太郎が優希の耳元に顔を近づけ、露骨に顔をしかめる。

「優希さん、禁煙しなよ。煙草は偏頭痛によくないってネットに出てたよ」
「煙草がいい影響を及ぼすものなんて、多分この世にはないよ」
「わかってるならさぁ」
「やだ」

 優希にしては珍しい、はっきりとした拒絶だった。

「煙草と珈琲を取り上げられたら、何をするかわからんぞ」
「中毒者じゃん……こわ……」

 おどけたように康太郎は言うが、優希は至って真面目だ。どちらも優希にとっては精神安定剤というよりほとんど食事のようなもので、万が一入院等でそれらを絶たねばならなくなったりしたら、きっと入院自体をやめてしまうに違いない。

「あとは、きみの今後について、少しね」

 優希は、こたつの上に広げられた冊子を見た。タイムリーなものが並んでいる。

「予備校で高認を取って、18歳になってきみの気が変わらなければ、大学に進学させると伝えてきた」
「……母さん、なんて言ってた?」

 康太郎の目元が若干強張っている。
 優希は気づかないふりをして、冊子を手に取った。都内の有名予備校のパンフレット。

「特に反対してなかったよ」

 本当は「そんな金は出せない」という言葉が姉からは返ってきていた。
 康太郎だって親からの援助がないことはすでに承知しているだろうから、改めてそんな話を耳に入れる必要はないだろう。

「そっか」

 どこかほっとしたような表情。
 母から息子へ直接の連絡がないということは、息子に対する興味がすでに失われていることを意味する。この少年はそれをどこまで理解しているのだろう。
 外見はともかく、内面はまだ子供っぽさを色濃く残す康太郎だが、ときおり、こちらがどきっとするほど達観していることもある。もしかしたら優希の懸念していることなど、とうに彼は通り過ぎているのかもしれない。

「今日は何時からだっけ」
「15時からだよ」
「じゃあ、私は昼過ぎまでもうひと眠りするから、昼飯食べたら適当に起こしてよ」

 背伸びをする優希に、康太郎の非難がましい視線が刺さる。
 昼食だけは一緒にという約束を破ることを責められていることは理解しているが、昨日は休みを返上して上野に行ったうえに、今日は康太郎の用事に付き合うために、少々徹夜をした。優希の健康を心配してくれるならば、多少寝かせてくれてもいいと思う。
 
「ちゃんと起きてくれる?」
「ちゃんと起こしてくれたらね」

 こう言っておけば、律義な少年はきちんと起こしに来るだろう。
 優希はアラームをセットせずに布団に潜り込み、そのままあっという間に眠りに落ちた。
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