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あれよあれよという間に気づけば3月も終わり、4月の初日、優希はスーツ姿の康太郎を伴って、東急東横線の電車に揺られていた。
スーツを着ていると、大人びた見た目と相まって、それなりにきちんとして見える。優希がヘアワックスで彼の髪を整えてやったので、余計にそういう印象が強いのかもしれない。
もっとも本人の内心は、あまり穏やかではないようだ。
出勤ラッシュがやや落ち着いた電車内で、吊革につかまった康太郎の顔を、優希は座席から見上げる。顔だけでなく、全身からがちがちに緊張しているのがにじみ出ていた。
「この時間帯はそんなに混んでなくてよかったね」
気を紛らわせてやろうとそんな言葉を口にした優希に、康太郎が驚いたように目を丸くして見せた。
「……これは、少ない方なんだ?」
それなりに乗客はいるが、乗車率もせいぜい7割かそこらだろう。優希も乗車してすぐに座れたし、少し離れたところにはまだ空席が見える。
(きみの地元と比べれば、そりゃね)
優希も初めて東京の電車の混雑を見たときには、いったい近くで何の祭りがあるのかと驚いたものだ。しみじみと懐かしくなる。
「まあ、この辺はそんなに混む路線じゃないから……大学が本格的に始まれば、少しまた様子が違うのかもしれないね」
康太郎の勤務する会社の近くには、駅名にもなっている大学があったはずだ。優希はあまりそちら方面に足を向けたことがないので、どの程度の混雑になるかは予想できない。
途中1回乗り換えをして、出発駅から30分後に、2人は目的の駅に到着した。
日野の会社には久しぶりに行くが、かつて何度も歩いたおかげか、足が経路を覚えている。
駅から徒歩5分。5階建ての雑居ビルの3階へ向かう。
『自在出版』とステッカーの貼られたドアの横のインターフォンを押すと、向こうから女性の声が応答した。
優希は康太郎の背中を押して、インターフォンに向かい合わせた。
「本日からお世話になる、西島です!」
そんなに大きな声を出したら、ドアの向こうにもきっと直接聞こえただろう。康太郎には申し訳ないが、優希は少し笑いそうになってしまう。
ばたばたと足音がして、ドアが開く。向こうから顔を出したのは、朝から満面の笑みを浮かべた日野だった。
「ようこそ! さ、入って、入って」
客用のスリッパに履き替えて事務所内に入った。康太郎は目を皿のようにして、周囲をきょろきょろと見回した。相変わらず犬のようだと優希は思う。
日野の勤務する自在出版の事務所は、外から見るよりも広い印象を与える。この階には、パーテーションの類がほとんどないからかもしれない。
3階から5階までのテナントに自在出版が入居しており、この3階には確か、営業と総務経理の類の部署を置いていたはずだ。
「そこに座っててください」
事務所の奥、応接セットの置かれた場所に案内された優希は、康太郎の肩をぽんと叩いた。
「じゃ、頑張って」
「え、あれ――優希さん、帰っちゃうの?!」
「そりゃそうだ。私はこれから仕事がある」
慌てふためく康太郎に笑いをかみ殺しながら、優希は日野に手を振った。
「というわけで、日野くん、彼を頼みますね。私に遠慮なく、容赦なく鍛えてやっていただけたら助かります」
「はは、お任せください、優希さん」
「これ、少しですけど皆さんでどうぞ」
「おや、初日から鼻薬とは優希さんもやりますねぇ」
優希が手渡した紙袋をのぞき込み、日野が快活に笑って、任せろと胸を叩いてみせた。
事務方のほうを見遣れば、見知った顔がいくつかこちらを見ている。
ついでにとそちらに近寄ると、女性社員の忍び笑いが聞こえてきた。
「お久しぶりです。ずいぶん、ご無沙汰してしまって」
「こちらこそ。北條先生、いつの間にあんな素敵なお子さんが?」
経理課の一番の古株である女性が、ふくよかな体を揺らしながら康太郎を横目に見て、小さく微笑んでみせた。
「残念ながら甥なのですよ。まだ社会経験がなくて、皆さんにはご迷惑をおかけするとは思うのですが」
「彼ね、経理に配属になるの。私が見てるから、大丈夫よ」
「それは安心です。よろしくお願いします」
経理部の手伝いとは重畳だ。将来彼がどんな仕事に就くかわからないが、経理関係の仕事を側で見ることは、どの業界に行ったとしても決して無駄にはならない経験になる。
「北條先生、だいぶお痩せになったみたいだけど――でも、以前よりも素敵になられたのは何故かしら?」
「……子育ては、刺激になりますから」
その無難な答えに、優希の若い頃を知っている数少ない存在である彼女は、意味深な目でこちらを見て、再び笑ってみせた。
なんだか、何もかも見透かされているような気がした。
スーツを着ていると、大人びた見た目と相まって、それなりにきちんとして見える。優希がヘアワックスで彼の髪を整えてやったので、余計にそういう印象が強いのかもしれない。
もっとも本人の内心は、あまり穏やかではないようだ。
出勤ラッシュがやや落ち着いた電車内で、吊革につかまった康太郎の顔を、優希は座席から見上げる。顔だけでなく、全身からがちがちに緊張しているのがにじみ出ていた。
「この時間帯はそんなに混んでなくてよかったね」
気を紛らわせてやろうとそんな言葉を口にした優希に、康太郎が驚いたように目を丸くして見せた。
「……これは、少ない方なんだ?」
それなりに乗客はいるが、乗車率もせいぜい7割かそこらだろう。優希も乗車してすぐに座れたし、少し離れたところにはまだ空席が見える。
(きみの地元と比べれば、そりゃね)
優希も初めて東京の電車の混雑を見たときには、いったい近くで何の祭りがあるのかと驚いたものだ。しみじみと懐かしくなる。
「まあ、この辺はそんなに混む路線じゃないから……大学が本格的に始まれば、少しまた様子が違うのかもしれないね」
康太郎の勤務する会社の近くには、駅名にもなっている大学があったはずだ。優希はあまりそちら方面に足を向けたことがないので、どの程度の混雑になるかは予想できない。
途中1回乗り換えをして、出発駅から30分後に、2人は目的の駅に到着した。
日野の会社には久しぶりに行くが、かつて何度も歩いたおかげか、足が経路を覚えている。
駅から徒歩5分。5階建ての雑居ビルの3階へ向かう。
『自在出版』とステッカーの貼られたドアの横のインターフォンを押すと、向こうから女性の声が応答した。
優希は康太郎の背中を押して、インターフォンに向かい合わせた。
「本日からお世話になる、西島です!」
そんなに大きな声を出したら、ドアの向こうにもきっと直接聞こえただろう。康太郎には申し訳ないが、優希は少し笑いそうになってしまう。
ばたばたと足音がして、ドアが開く。向こうから顔を出したのは、朝から満面の笑みを浮かべた日野だった。
「ようこそ! さ、入って、入って」
客用のスリッパに履き替えて事務所内に入った。康太郎は目を皿のようにして、周囲をきょろきょろと見回した。相変わらず犬のようだと優希は思う。
日野の勤務する自在出版の事務所は、外から見るよりも広い印象を与える。この階には、パーテーションの類がほとんどないからかもしれない。
3階から5階までのテナントに自在出版が入居しており、この3階には確か、営業と総務経理の類の部署を置いていたはずだ。
「そこに座っててください」
事務所の奥、応接セットの置かれた場所に案内された優希は、康太郎の肩をぽんと叩いた。
「じゃ、頑張って」
「え、あれ――優希さん、帰っちゃうの?!」
「そりゃそうだ。私はこれから仕事がある」
慌てふためく康太郎に笑いをかみ殺しながら、優希は日野に手を振った。
「というわけで、日野くん、彼を頼みますね。私に遠慮なく、容赦なく鍛えてやっていただけたら助かります」
「はは、お任せください、優希さん」
「これ、少しですけど皆さんでどうぞ」
「おや、初日から鼻薬とは優希さんもやりますねぇ」
優希が手渡した紙袋をのぞき込み、日野が快活に笑って、任せろと胸を叩いてみせた。
事務方のほうを見遣れば、見知った顔がいくつかこちらを見ている。
ついでにとそちらに近寄ると、女性社員の忍び笑いが聞こえてきた。
「お久しぶりです。ずいぶん、ご無沙汰してしまって」
「こちらこそ。北條先生、いつの間にあんな素敵なお子さんが?」
経理課の一番の古株である女性が、ふくよかな体を揺らしながら康太郎を横目に見て、小さく微笑んでみせた。
「残念ながら甥なのですよ。まだ社会経験がなくて、皆さんにはご迷惑をおかけするとは思うのですが」
「彼ね、経理に配属になるの。私が見てるから、大丈夫よ」
「それは安心です。よろしくお願いします」
経理部の手伝いとは重畳だ。将来彼がどんな仕事に就くかわからないが、経理関係の仕事を側で見ることは、どの業界に行ったとしても決して無駄にはならない経験になる。
「北條先生、だいぶお痩せになったみたいだけど――でも、以前よりも素敵になられたのは何故かしら?」
「……子育ては、刺激になりますから」
その無難な答えに、優希の若い頃を知っている数少ない存在である彼女は、意味深な目でこちらを見て、再び笑ってみせた。
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