姫君は、鳥籠の色を問う

小槻みしろ

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一章

三十二話 奪われたもの3

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 何が起こったか、わからなかった。
 ラルは、石のように身を固くした。アーグゥイッシュの顔が、あまりに近くてぼやけている――唇が触れ合っている。
 その行動の意味を、はっきりと理解することは出来なかった。だが、この行動が何か、ふいにラルの頭の中で言葉になった。
 ――キスだ。
 ――アーグゥイッシュにキスされている。
 ――どうして?

「っ! ――!」

 ラルは、言葉にならない声を上げ、必死でそれから逃れようとした。しかし、片腕で抱かれているにもかかわらず、びくともしなかった。胸板を押すが、岩のように動かなかった。
 ラルの体に走ったのは、本能的な恐怖だった。全身が、凍てついたように、恐怖で痛い。

「ううっ」

 ラルは目を閉じる事しかできなかった。この状況から、少しでも自分を逃す方法がもはやそれしかなかった。唇に、ぬれた感触が走る。アーグゥイッシュの右手が、ラルの口を強引に開かせた。上唇を、舌先で確かめるようになめられる。ラルの目から、涙があふれた。
 誰か、誰か、助けて。

(シルヴァス……!)

 目を閉じた先に、シルヴァスが髪をなびかせ、背を向けて立っている。そして振り返り、ラルにほほ笑みかけた。そうしてラルの瞼にキスを落とす、いつもの仕草が浮かんだとき、アーグゥイッシュの舌先が、ラルのそれに触れた。

「――!」

 その瞬間。
 一条の光がラルの舌先から、全身を覆うように走った。空気を裂く、なましい音があたりに響く。それはちょうど、稲光に似ていた。
 光に弾かれたアーグゥイッシュは、目を見開いた。
 ――今、何が起こった?
 その疑問はくしくもラルにも走っていた。しかし、それは無意識下のことで、ラルの思考は解放の安堵と先の恐怖でぐちゃぐちゃだった。ラルは自分の体を強く抱く。どうしようもないほど、ふるえていた。止めようがなかった。目から、涙が勝手にこぼれ落ちる。息が出来ない。
 鉄の味がする――アーグゥイッシュは自身の口から血が伝うのを感じた。光に舌を焼かれたのだ。緑がかった白の稲光――余波が、あたりの地面や木々を焼いていた。それを見留めた時、アーグゥイッシュは、肩をふるわせ、笑い出した。

「成る程なァ、お守りってわけか」

 波のように大きくなる笑いを、ラルは呆然と見ていた。

「面白ェ、流石は大神官さまだ……ああ、やっぱり生かしておくんだったなァ」

 ラルの言葉は、その言葉にからめとられた――シルヴァス? アーグゥイッシュは恍惚として天に向かい腕を広げた。

「殺さなきゃよかったなァ……なあ、シルヴィアス! そうしたらもっともっと楽しめたのによォ!」

 その言葉に、ラルの中で、何かがぶつんと切れた。何かが落ちていく、そんな音がした。視界が真っ暗になる……ラルはラルですらなくなった。
 気づいたときには、ラルは叫びだし、アーグゥイッシュに飛びかかっていた。アーグゥイッシュは、難なく受け止め、脇に投げ捨てた。ラルのことなど、歯牙にもかけていなかった。アーグゥイッシュは、まだ、違うところにいた。高揚していた。ラルは泣いていた。悔しくて、苦しくて、仕方がなかった。その感情に、体中、痛いほどに打ちのめされていた。
 もう一度飛びかかる。アーグゥイッシュはよけ、ラルの両腕を片手でつかんだ。

「ううっ!」
「今、俺は機嫌がいい。邪魔をするな」

 優しく甘い声――しかし熱っぽい声で、アーグゥイッシュは一音一音、ラルに言い含めた。ラルは歯を食いしばった。それすら、うまくできなくて、がちがちと歯が鳴った。
 ラルは足を振り上げる。かわされ、地面にうつ伏せに倒された。どう返したのか、後ろ手に手をひねり上げられる。少し間違えば、肩がはずれることを予期させる痛み。しかし、ラルは痛みを感じていなかった。ただ拘束から逃れようと、暴れた。

「うー! うー!」
「おいおい、言葉まで、忘れちまったか?」
「あ゛ー!」

 言葉が出なかった。体中を支配する。熱病のような感情が、ラルから言葉を奪い取っていた。ラルがあまり無理に動こうとするので、アーグゥイッシュは舌打ちし、一度手を離した。ラルは下から抜け出して、そこでようやく、アーグゥイッシュと対峙した。
 ラルの目が、重く鈍く、強く光を発していた。
 アーグゥイッシュはその光を受け止め、フ、と笑んだ。金色の目は、ラルのその光を好ましくさえ思っているようであった。

「おまえのせいだ!」

 初めて形になった言葉は、ラル自身、無意識のものだった。

「言葉は大事に、だろ?」
「お前のせいだ!」

 ぼろぼろと目から涙がこぼれ落ちる。体が引き裂かれそうに痛かった。感情を形にする前に、言葉が、先にこぼれだしていく。ラルはアーグゥイッシュに拳を振り上げた。アーグゥイッシュは受け止め、引き寄せる。ラルはもう一方の腕も、繰り出した。また受け止められる。ラルは「ああ!」と叫んだ。

「お前のせいで、全部、むちゃくちゃになったんだ!」

 言葉になるほどに、この痛みがなんなのか、形つくられていった。

「お前がいなきゃ、ラルはラルでいられた! お前がいなきゃ」

 ラルは溺れるように息を吸った。

「シルヴァスと今もずっと一緒にいられたんだ……!」

 身を引き裂かれんばかりの絶叫――それは、怒りだった。ずっと、ラルの中でずっと眠っていた。眠らせていた。ラルには、責任があるから――もう、誰も――傷ついてほしくなかったから。
 それなのに、こいつが壊した。ラルは今やもう、全てがもうつらかった。ずっとつらかった。それでも、それでも、ラルは頑張ると決めたのに……もうむちゃくちゃだった。
 アーグゥイッシュは一切動じず、ラルの絶叫をほしいままに聞いていた。

「おまえが、お前が奪ったんだ……! シルヴァスじゃない……!」

 ラルは、渾身の力でアーグゥイッシュに向かった。アーグゥイッシュはびくともせず、受け止めていた。口元には笑みすら浮かべて。
 ラルは、吐き出すべき言葉をなくし、叫んでいた。声にも、音にもならない叫びは風になって、ラルののどを裂くように痛めた。
 どうして、どうしてこんなことに……? ずっと眠らせていたことが、形になるのがどうしてこんなに苦しいのだろう。それでも、ラルをつかむ腕はびくともしなくて、ラルは悔しくて、悲しくて仕方なかった。
 アーグゥイッシュは、ラルの狂乱ともいうべき動きを難なく押さえ込み、ただ、静かに見下ろしていた。それは常にない、静かさであった。しかし今少し、この状況に飽いてきたらしい。次の行動を起こそうと、ラルの腕をつかむ手に、力を込めた。ラルの腕が、みしりと音が鳴った――その時だった。
 疾風のように、何かが飛んできた。
 はじくように、ラルとアーグゥイッシュの間に入り込み、二人を分かった。アーグゥイッシュは、その「何か」を見据えた。
 それは、ラルを庇うように、アーグゥイッシュの前に立ちふさがっていた。
 ――榛色の目が、夜闇に黄色を帯びて光っている。

「姫様を傷つけるな!」
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