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十一話 死の予感
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気付けば、帰りの電車の中で、私は吊革につかまっていた。気付けば、というのは嘘で、実際にはここまでにくる記憶はある。
けれど、ずっと同じ光景に脳内の視界が占拠されていて、ここまでの景色を全く見ていなかったのだ。
たった一ヶ月で。
私の胸の中に、そんな言葉が落ちた。それは、自己弁護だった。
カーテンの向こうの姉は、もう私の知っている姉じゃなかった。
姉は昔から、体が細かった。入院した時は、そこから少しやせていた。先月だって、ちょっとだいぶやせたな、と思った。
かなりやせすぎ。それくらいの体で、まだいられた。
でも、今は。到底そんな言葉じゃ括れない。
姉にはもう肉というものがなかった。
血色が悪い肌は、青を通り越して、黒に近かった。その肌が、骨を包んでいるだけの姿。
それが今の姉だった。筋と骨の浮き出た喉に、太い管が刺さっている。
母が擦っていたのだろう、青のストライプの入院着からむき出しになった足は、骸骨の標本そっくりで、骨の数を数えられるくらいだった。
私も、ちゃんと母に言われたとおりにするつもりだった。カーテンの向こうへ入るまで、ちゃんといつも見舞いをしている時の自分を装っていた。
わざとたらたらとベッドの方へ歩きながら、
「お姉ちゃん」
そう、呼ぶはずだった。
でも、私のいつもどおりというものは、薄っぺらだった。
「ひさしぶり、お姉ちゃん」
一応は、やり通した。
根性で無理やり姉を平然とした様子で見て、元気にいつもと変わらない挨拶をした。
けれど、だめだった。
一瞬笑みを作った口の端がこわばった。出すはずだった声が止まった。
小さく、「あっ」と呟いてしまった。
自分を弁護するなら、本当に、たった一瞬だったと思う。
けれどそのほんの一瞬で、私の思考は十分に表せてしまった。
「姉はもう本当にだめかも」
と。
姉の姿は、五年前にがんで死んだ祖父の末期の姿とそっくりだった。
祖父は、姉と同じように、喉に管が通されいた。
虚ろな目で、何か話そうと唇を薄らと死にかけの金魚のように開閉していた。秋の終わりに見舞ったそれを最後に、祖父は年が明けた頃に死んだ。
心臓がずっと縮こまったみたいに冷たくて、無性に怖かった。
救いがあるなら、姉は祖父に比べてまだ顔がはっきりしているところだった。
寝起きみたいにぼんやりとしていたけれど、「生かされている」様な虚ろさじゃなかった。
だからこそ、私の嘘っぱちの笑顔に、気付かれなかったかも不安にもなった。
姉は気付いているのか、いないのか寝起きみたいな目に、ほんの少し細めて笑った。おいで、とほんの少し、手と一緒に顎も動かして私をベッドのそばの椅子に招いた。
姉の目は、落ち窪んでやつれて、老人のようだった。
けれど、薄く瞼を開いて私を映す目は、いつも私を迎えてくれた時と同じ目だった。
何を話したか覚えていない、というより、ほとんど何も話せなかった。
今の姉に与えるべき情報が、私はわからなかったし、そもそも持っていない様な気がした。ただ、場を持たせるために、打つべき言葉のない相槌をうっていた。母がしきりに、姉の手や足を擦っていた。手持無沙汰になるよりましな気がして、少し動転したまま私も姉の手をそっと握った。肉のない手は、痛くて冷たかった。
あの感触が、手から離れないまま、私は吊革を握っていた。
そもそも立たなくてもいいくらい席は空いていたけど、立っていた。母も、同じように私の隣に立っていた。
ふいに、母が背を縮ませた。顔を抑えて、前かがみになる。どうしたのだろうと思い見ていたら、ハンドバッグからハンカチを取り出して、顔をぐっと押さえた。泣いているのだと気付いた。
押し殺したような泣き声は、いっそう深い嘆きの気配をもって響いた。
母は、いつもこうして一人、電車の帰り道、泣いているのだろうか。
母の顔を、毎日しっかりと見る事なんてないから、わからない。
ふと私は、背を擦ってあげたい気持ちに駆られた。今の私なら、それができるのではないか。
けれど、結局、何もせず隣に立っていた。
私の気持ちなんて、結局一時の感傷でしかない。
そういえば、入院したての頃の帰りの電車でも、あの日はち合わせた電車でも、こんな風に泣いている母を見たことを思い出す。
母がとてもかわいそうだった。
哀しみを発散する時、側にいるのが私みたいな人間しかいない。
そんな私の心でさえ鈍く、沈鬱な気持ちに引っ張られているのに、母はどんな心地だろう。
あの部屋を漂う死の気配はそれほどに濃かった。
姉が危なかった時は、今回以外にもあった。
だから、姉はいずれ死ぬだろうということは、漠然と私の中に常にあった感覚だった。
それでも、私の中の姉は体が弱くても寝ていてもいつだってずっと存在していたので、「死ぬ」と思うと同時に「とはいえ、このまま生きてくんだろう」とも思っていた。
けれど、それは楽観的な思考だった。
姉は死ぬのだ。
けれど、ずっと同じ光景に脳内の視界が占拠されていて、ここまでの景色を全く見ていなかったのだ。
たった一ヶ月で。
私の胸の中に、そんな言葉が落ちた。それは、自己弁護だった。
カーテンの向こうの姉は、もう私の知っている姉じゃなかった。
姉は昔から、体が細かった。入院した時は、そこから少しやせていた。先月だって、ちょっとだいぶやせたな、と思った。
かなりやせすぎ。それくらいの体で、まだいられた。
でも、今は。到底そんな言葉じゃ括れない。
姉にはもう肉というものがなかった。
血色が悪い肌は、青を通り越して、黒に近かった。その肌が、骨を包んでいるだけの姿。
それが今の姉だった。筋と骨の浮き出た喉に、太い管が刺さっている。
母が擦っていたのだろう、青のストライプの入院着からむき出しになった足は、骸骨の標本そっくりで、骨の数を数えられるくらいだった。
私も、ちゃんと母に言われたとおりにするつもりだった。カーテンの向こうへ入るまで、ちゃんといつも見舞いをしている時の自分を装っていた。
わざとたらたらとベッドの方へ歩きながら、
「お姉ちゃん」
そう、呼ぶはずだった。
でも、私のいつもどおりというものは、薄っぺらだった。
「ひさしぶり、お姉ちゃん」
一応は、やり通した。
根性で無理やり姉を平然とした様子で見て、元気にいつもと変わらない挨拶をした。
けれど、だめだった。
一瞬笑みを作った口の端がこわばった。出すはずだった声が止まった。
小さく、「あっ」と呟いてしまった。
自分を弁護するなら、本当に、たった一瞬だったと思う。
けれどそのほんの一瞬で、私の思考は十分に表せてしまった。
「姉はもう本当にだめかも」
と。
姉の姿は、五年前にがんで死んだ祖父の末期の姿とそっくりだった。
祖父は、姉と同じように、喉に管が通されいた。
虚ろな目で、何か話そうと唇を薄らと死にかけの金魚のように開閉していた。秋の終わりに見舞ったそれを最後に、祖父は年が明けた頃に死んだ。
心臓がずっと縮こまったみたいに冷たくて、無性に怖かった。
救いがあるなら、姉は祖父に比べてまだ顔がはっきりしているところだった。
寝起きみたいにぼんやりとしていたけれど、「生かされている」様な虚ろさじゃなかった。
だからこそ、私の嘘っぱちの笑顔に、気付かれなかったかも不安にもなった。
姉は気付いているのか、いないのか寝起きみたいな目に、ほんの少し細めて笑った。おいで、とほんの少し、手と一緒に顎も動かして私をベッドのそばの椅子に招いた。
姉の目は、落ち窪んでやつれて、老人のようだった。
けれど、薄く瞼を開いて私を映す目は、いつも私を迎えてくれた時と同じ目だった。
何を話したか覚えていない、というより、ほとんど何も話せなかった。
今の姉に与えるべき情報が、私はわからなかったし、そもそも持っていない様な気がした。ただ、場を持たせるために、打つべき言葉のない相槌をうっていた。母がしきりに、姉の手や足を擦っていた。手持無沙汰になるよりましな気がして、少し動転したまま私も姉の手をそっと握った。肉のない手は、痛くて冷たかった。
あの感触が、手から離れないまま、私は吊革を握っていた。
そもそも立たなくてもいいくらい席は空いていたけど、立っていた。母も、同じように私の隣に立っていた。
ふいに、母が背を縮ませた。顔を抑えて、前かがみになる。どうしたのだろうと思い見ていたら、ハンドバッグからハンカチを取り出して、顔をぐっと押さえた。泣いているのだと気付いた。
押し殺したような泣き声は、いっそう深い嘆きの気配をもって響いた。
母は、いつもこうして一人、電車の帰り道、泣いているのだろうか。
母の顔を、毎日しっかりと見る事なんてないから、わからない。
ふと私は、背を擦ってあげたい気持ちに駆られた。今の私なら、それができるのではないか。
けれど、結局、何もせず隣に立っていた。
私の気持ちなんて、結局一時の感傷でしかない。
そういえば、入院したての頃の帰りの電車でも、あの日はち合わせた電車でも、こんな風に泣いている母を見たことを思い出す。
母がとてもかわいそうだった。
哀しみを発散する時、側にいるのが私みたいな人間しかいない。
そんな私の心でさえ鈍く、沈鬱な気持ちに引っ張られているのに、母はどんな心地だろう。
あの部屋を漂う死の気配はそれほどに濃かった。
姉が危なかった時は、今回以外にもあった。
だから、姉はいずれ死ぬだろうということは、漠然と私の中に常にあった感覚だった。
それでも、私の中の姉は体が弱くても寝ていてもいつだってずっと存在していたので、「死ぬ」と思うと同時に「とはいえ、このまま生きてくんだろう」とも思っていた。
けれど、それは楽観的な思考だった。
姉は死ぬのだ。
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