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第14話
しおりを挟むひとまず家に帰りたいというクリスの希望もあり、一行は人魚島へ向かっていた。安全な航路を使うため、時間はかなりかかったが、テオの傷を回復させるにはちょうど良い。彼は、はじめこそ体を丸めて寝てばかりいたが、やがて着々と体力を取り戻していった。人魚島へ到着する頃には、船員達と会話できるまでに回復して、一人で動けるようにもなっていた。ただ、彼にしては珍しく、船員達に対する警戒心が多少あるように見えたのが、アレックスには気がかりだった。
「アレックス、今夜もテオの子守役か。信頼されてるな」
夜、テオのいる部屋へ行こうとしていたアレックスは、バートに呼び止められた。この船は、人食い人魚に襲われた時のものより小さく、船員の数も少ない。人目についてはいけないテオ以外は、皆各々好きな場所にたむろしている。バートは熱い湯を飲みながら、一人甲板で毛布にくるまっていた。アレックスが隣に行くと、肩を小突いてくる。
「テオは人懐っこいな」
「話したのか?」
「少しな。だけど、警戒されてるみたいだ。トマスは大丈夫そうだったんだけどなあ」
バートは湯を一口飲むと、アレックスのポケットを指差した。
「なあ、アレックス。お前のその箱、婚約者への贈り物じゃなかったんだろ?」
アレックスは無言でバートを見つめ返す。暗闇で光る目は真っ直ぐにアレックスへ向けられて、誤魔化しはききそうにない。その上、バートには、テオを船に運んだ時に、秘薬の存在を見られている。
(まあ、どのみち俺のもテオのも、中身は使い切ってるから、見せても大丈夫だろう)
軽く息を吐いたアレックスは、小箱からチョーカーを取り出した。血の汚れを一度洗ったのだが、貝の縦筋にはまだ赤黒いものがこびりついている。
「それは秘薬か?」
「中身はもう空だけどな。ほら」
アレックスは貝を開き、中に鱗以外何も入っていないことを示した。
「へえ、この鱗はテオのか。綺麗なもんだ」
「だろ」
「俺に売ってくれないか?」
「は?」
アレックスは眉を上げ、両手で貝を閉じる。
「中身は入ってない。見ただろ? 買ってどうする」
「鱗がまだあるじゃないか。それにな、人魚が持ってたって文言さえ付ければ、ただの貝殻も金になるんだよ」
「じゃあそこら辺の貝殻でもゴミでも拾って、文言をでっちあげれば良いだろ」
不機嫌そうに吐き捨てたアレックスに、バートはカラカラと笑った。
「そうか、売ってはくれないか」
「大切なものだ」
「中身がないのに?」
アレックスはバートを軽く睨んだ。中身がないと言われてしまうと、確かにその通りだ。だが、アレックスにとって、中身の有無は重要ではない。これは、テオがアレックスを助けた証であり、アレックスが命拾いした証であり、二人を再会へ導いてくれた特別なものだ。テオを知るにつれ、彼から譲り受けたこのチョーカーを大切にしたいという気持ちは、強くなった。その気持ちに従うことに、何の迷いもない。
バートは意地悪く目を細め、アレックスを頭の先からつま先まで、意味ありげに眺め回した。
「なるほどなあ、信頼されるわけだ。じゃあ、アレックス、人魚の巣は知ってるか?」
アレックスはバートを観察しながら、慎重に言葉を選んだ。
「クリスから聞いたことはある」
「人魚島の近くにあるっていうのは?」
「……なんだと?」
アレックスは目を丸くして、すぐに眉根を寄せた。
(どこでその話を?)
少し上ずった声で聞きかえすと、バートはニヤリと笑う。
「実はな、そこに行ってきたっていう奴に会ったことがあるんだよ。半信半疑だったんだが、この前人魚に襲われたとき、霧の向こうにそれらしき島を見つけたんだ」
「行きたいのか? やめておけよ。目視でわかる近さなら、人食い人魚も寄ってくるかもしれないだろ」
実際、クリスも、あの辺りは人食い人魚がよく出ると言っていた。テオならともかく、人食い人魚に会うのは、もう懲り懲りだ。クリスでさえ、人食い人魚には近寄らないよう口を酸っぱくしている。
「仮にそこが本当に巣だったとして、十中八九、人食い人魚が来るんじゃないか? 危険だろ」
「まあな」
バートはその通りだという風に頷いて、薄く笑った。
「だけど、そいつは生きて帰って来られたんだぜ。色々と話も聞けた」
「だからって……どんな話を聞いたのか知らないが、行ってどうするんだよ。産婆の代わりでもするのか?」
「いいや、卵を貰う」
「何だって?」
アレックスは耳を疑った。そんな危険を犯してまで手に入れるほど、人魚の卵は美味なのかと、一瞬考える。そんな噂は聞いたこともない。心底不可解そうにしているアレックスに、バートは顔を近づけて声を落とした。
「俺はな、人魚を養殖したいんだ。そうすれば、わざわざ探しに行くこともないし、人食い人魚に食われることもない。大人しい人魚を育てて、愛玩動物として売るのも良いし、家畜として売るのも良い。乱獲されずに済むんだから、人魚だって嬉しいだろ? これは一大ビジネスのチャンスだよ、アレックス」
何の躊躇いもなく放たれたバートの言葉に、アレックスはしばし絶句して、凍りついた。
少し前までは、確かにアレックスにとって、人魚とは伝説上のものであり、ただの興味の対象だった。しかし、テオと知り合った今ではもう、そんな風に安易に考えることはできない。悍ましさすら覚えてしまう。
「安心しろ、テオを売るつもりはないから。巣には金目の物もあるそうだ。一緒に行ってみないか?」
「行かない」
アレックスは、即座にきっぱりと断った。アレックスとて、金銀財宝を求めて洞窟を冒険するロマンに、まったく興味がないわけではない。少年心を擽られる話だが、そんなものよりも、テオと一緒に過ごす時間の方が、価値あるように感じられた。金があっても人の心は操れないということを、アレックスはよく知っている。
バートは頑ななアレックスの様子を鼻で笑うと、彼の肩をガッシリ抱いて、意味深に笑った。
「それならそれで良い。俺はお前の気持ちを尊重するぜ」
アレックスは肩に回されていた手を引っ剥がし、ふんと鼻を鳴らした。
ニヤつくバートを残してテオの元へと急ぐ背中を、バートは暗い瞳で愉しげに見送っていた。
アレックスがテオの部屋へ行くと、彼は隅で横になり、ぼんやりと天井を見つめていた。人の気配を感じて視線を寄越すと、安心したように微笑む。
「アレックス」
テオが呼ぶアレックスの名前は、出会った当初より、発音がはっきりとしてきている。アレックスが傍らに腰を下ろすと、彼は腕を伸ばして手を握ってくる。怪我をした日以来、テオは眠る時に、クリスかアレックスの側にいたがるようになった。側に知り合いがいないと不安になって眠りが浅く、傷跡が痛むようだ。特に、アレックスがいる日は寝付きがよく、眠る前は手を握りたがる。アレックスは、そんなテオに心を痛める一方で、彼の特別になれた気がして嬉しくもあった。だが、嬉しいと感じてしまうことが後ろめたくもあり、自己嫌悪に陥る。
「遅くなって悪い。眠かっただろ」
「ううん、大丈夫。誰かと話していたのかい?」
「ああ、バートと……テオ、バートに何か言われたか?」
アレックスは、先程の会話を思い出した。警戒されているとバートは言っていたが、あんなことを考えているようでは、警戒されて当然だ。テオは視線を遠くにやって思い出すそぶりをすると、呆れ笑いを小さく作った。
「ああ……秘薬の作り方を教えてくれって。断ったけどね。バートって何ていうか……」
その先は言葉を濁して、黙りこくる。アレックスには、言いたいことが何となくわかった。バートは一見、気の良い奴に見えるが、いつもどこか白々しい。アレックスは彼と出会った時から、どことなく胡散臭さを感じていたが、それはあながち気のせいではなかったのかもしれない。先程のような貪欲さを僅かでも向けられれば、デオだってあまり気持ちの良いものではないだろう。酷い目にあった直後なら、尚更敏感になる。
思えば、テオを島から連れ出してからというもの、彼には楽しさとは無縁の思いばかりさせてしまっている気がした。島で見たテオのキラキラとした笑顔を思い出すと、どうしようもなく心が痛む。かつては警戒心の低さを心配したこともあったが、いざ危険な目にあい、こうして気を張っている様子を見ると、人間と関わらずにいた方が幸せだったのかもしれないとすら思えてくる。一瞬でもそんな世界を想像すると、テオにとっては良いことのはずなのに、アレックスは不安と焦燥感で胸が苦しくなった。彼は無意識に、テオの白い指を一本一本、確かめるように掬い取ると、テオの手を握りしめて、掠れ声で問いかけた。
「人間が嫌いになったか?」
テオはきょとんとして、アレックスの手を握り返す。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
「嫌なことばかりされただろ?」
「……そうだね。でもね、アレックス、人魚だって、獲物をとるために、甘い言葉で人間を誘い込むことがあるよ。アレックスも知っているだろう? それと同じさ。僕が甘かっただけだ」
「違うんだ、テオ。俺は……テオが人前に出るのは危ないと、心の奥ではわかっていた。だけど、ここに来たがるお前にその危険性を伝えなかったし、止めなかった。お前ともう少し一緒にいたいだなんて、俺の身勝手さが招いた結果だ。それに、ジュリーの母親が言っていたことも一理ある。俺達、俺は、人間以外の生き物を殺して食べて生きている。なのに、テオだけは駄目だなんて、俺にも道理がわからない。そういうところも、身勝手だのわがままだの言われる一因なんだろう」
「アレックス、それは悪いことなのかい? 君が自分の意思で行動したことで、助けられた人もいるだろう」
穏やかな眼差しで、テオはアレックスの額に自分の額をコツンと当てる。人魚の低い体温が額の熱を逃して、心地よかった。
「アレックス、人魚島で、リックや長老と初めて会った日の事を、君は覚えているかい? 僕はね、避けられてとても悲しかった。けど、君は、人魚島の信仰なんて屁でもないって風に、あっさり僕の隣に来てくれた。僕は、君のそんな行動が、とても嬉しかったよ」
優しい声で紡がれる言葉に、アレックスは、思わず喉の奥が熱くなった。自分の思うがままに生きていることが、周りから時に非難の目で見られていたことは、内心理解していた。それらを無視してきたことが、今、苦い味として、口の中に溢れている。テオはこう言っているが、今、彼の言葉に助けられているのは、アレックスだ。この言葉を後悔させないためにも、自分の行動を省みなければならないと、アレックスは初めて心の底から思った。
「それに、こんな目にでもあわなければ、僕はいつか、どこかで悪い人に騙されて、一人で惨たらしい死に方をしていたかもしれないよ。僕を助けようとしてくれるクリスやアレックスと一緒にいられることは、とても幸運だ」
アレックスの胸に、じんわりと熱いものが染みて、得体のしれない衝動に駆られた。何の衝動なのかもわからず、アレックスはただじっとテオを見つめる。テオは濃青色の瞳を見つめ返して、二、三度瞬きすると、ふいと視線を逸らした。ランタンの炎に染まる頬の色が、何だか熱そうに見えた。
「少し……恥ずかしいことを、言ってしまったかい? もう寝ようか、アレックス」
「……ああ」
アレックスはランタンの明かりを消して、傍らに体を横たえる。床は硬く冷たいが、触れる掌はほんのり温かい。アレックスの熱が、テオの体に移ったのかもしれない。足にあたるひれは柔らかく、時折動いては、尾でパタンと床を打つ。
暗闇の中、テオがポツリと言った。
「アレックス、君は、ジュリーを愛していたかい?」
アレックスは暗闇を見上げながら、テオが以前、同じような質問をジュリーにもしていたことを思い出した。その時、ジュリーは明言することを避けた。彼女はいつも、まるで婚約者を心から愛しているかのように振る舞っていたが、それが単なる見せかけであることは、アレックスも薄々気付いていた。彼女もまた、アレックスが気付いていることをわかっていたからこそ、あの時、明言を避けてみせたのだろう。思えば、婚約関係を甘んじて受け入れるという点に関しては、彼女とアレックスは意気投合していた。テオやクリスを危険に晒した点では腹立たしいが、今、ジュリーに対して残っているのは、思いの外、さらりとした感情だ。
「愛していたことは、ないな」
「じゃあ、人間の愛がどういうものなのか、アレックスも知らないのかい?」
「恋人や夫婦のものはそうかもな。人魚には、愛って概念はあるのか?」
「愛はね、物語の中でしか、聞いたことのない言葉なんだ。だけど、きっとあると思うよ。僕もはっきりとは……言えないけど」
テオは言葉を選びながら、手を握る力を強めたり、弱めたりしている。アレックスが闇に慣れてきた目で隣を見ると、暗闇に瞬く紫色の瞳と目があった。
「アレックス……あのね」
テオは何か言いかけ、口を噤んだ。じっとこちらを見つめる澄んだ目が、何か言いたげに潤んでいる。アレックスは、続きを促すつもりで、繋いだ手を顔の前に持ってきた。テオはその手を自分の方へ引き寄せ、頬に擦り付けて目を細めた。滑らかな頬の感触は、永遠に触っていても飽きることはない。アレックスは言葉の続きを待っていたが、テオは結局何も語らず、息を詰めて、アレックスを見つめるばかりだった。
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