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第十三話 あしたの薮原
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「効率化や体系的な工夫が、まったく感じられませんね」
そう言いながら、薮原恵巳はキャビネットの前に立っていた。
まだこの職場に来て一週間も経っていないというのに、なぜか断定口調だった。
「この並べ方だと、作業効率が悪いですよ」
誰の許可も取らず、薮原はキャビネットの扉を開き、書類を引っ張り出し始めた。
「ちょ、薮原さん……それは――」
止めようとした正社員の声を、薮原は無視した。
(即戦力アピールよ)
彼女の頭の中には、それしかなかった。
資格もない。専門的なスキルもない。あるのは、「あたし、仕事分かってます感」だけ。
だからこそ、勝手に手を出す。
それが薮原流の“できる女”の証明だった。
「仕事は自己実現の場でしょう?
そもそもね」
薮原は、得意げに言った。
「仕事って、自己実現とか、創造性を発揮する場じゃないですか?」
一瞬、空気が止まった。
「あたし、ちゃんとできてますよ。
こうやって改善案を出して、職場を良くしようとしてる」
だが、ここで一つ、決定的な事実がある。薮原恵巳は派遣社員だった。
契約書に明記されている業務内容は、手書き原稿のパソコン入力。それだけだ。
自己実現も、創造性も、この職場は彼女に求めていない。
求めているのは、「決められたことを、決められた通りに、静かに、正確にやること」。
それだけだった。
薮原は、マニュアルを読まない。
いや、正確には、読んだ上で、自分の方が上だと思っている。
「このやり方、非効率じゃないですか?」
「普通、こうしますよね?」
「前の職場では――」
前の職場。その言葉が出るたび、正社員たちは心の中で補足する。
(半年契約・更新なし)
入ったばかりなのに、業務改善を主張する。しかも、その内容は浅く、現場事情を理解していない。
「ああすべき」「こうすべき」「なぜやらないのか分からない」
その言葉の裏にあるのは、自分のやり方を押し付けたいだけという事実だった。
さらに混乱に拍車をかけたのが、紙だった。
ほとんどの職場は、ペーパーレスを徹底している。必要な資料は、すべてデータ管理。
だが薮原は、何でもかんでもプリントアウトした。
「紙の方が分かりやすいでしょ?」
分かりやすいのは、薮原の安心感だけだった。机の上には、不要な紙の山。
キャビネットの中は、勝手に並び替えられ、誰も分からなくなった。
「あれ? あの書類、どこ行った?」
――薮原が“整理”した後だった。
ある日の夕方、正社員たちは静かに話し合っていた。
「……分かった気がする」
「うん」
「どこ行っても、更新されない理由」
薮原は、職場に合わせない。職場を、自分に合わせようとする。ルールを守らない。マニュアルを軽視する。
求められていないことを“善意”として押し付ける。
そして、それを「あたしはできる」「あたしは意識が高い」と、本気で信じている。
「これ、全部……」
誰かが小さく言った。
「“薮原なこと”だよね」
全員が、黙ってうなずいた。
改善意識ではない。自己顕示欲だ。
創造性ではない。押し付けだ。
自己実現ではない。独りよがりだ。
半年後――
薮原恵巳の契約は、やはり更新されなかった。
こうして、薮原の行動一つひとつは、職場の語彙に刻まれた。
転職しても、その名は次の職場にまで噂として届く。
「ああ、うちにも昔いたわよ。薮原みたいな人」
「うちの会社にも“薮原なこと”するのが一人いる!」
まるで職場の都市伝説。
薮原恵美はいつしか、一つの“ジャンル”になったのである。
薮原が去った後、職場は静かになった。
キャビネットは元に戻され、紙の山は消え、誰も余計な説教をされなくなった。
そして、この職場には一つの言葉だけが残った。
「それ、薮原なことじゃない?」
・物事を複雑にする
・正論で殴る
・求められていないことを押し付ける
・自分を有能だと信じて疑わない
そんな行動を、人々は静かに、皮肉を込めてそう呼ぶようになった。
薮原恵巳は、また次の職場へ向かう。――だが、どこへ行っても、“薮原なこと”は、変わらないだろう。
〈完〉
そう言いながら、薮原恵巳はキャビネットの前に立っていた。
まだこの職場に来て一週間も経っていないというのに、なぜか断定口調だった。
「この並べ方だと、作業効率が悪いですよ」
誰の許可も取らず、薮原はキャビネットの扉を開き、書類を引っ張り出し始めた。
「ちょ、薮原さん……それは――」
止めようとした正社員の声を、薮原は無視した。
(即戦力アピールよ)
彼女の頭の中には、それしかなかった。
資格もない。専門的なスキルもない。あるのは、「あたし、仕事分かってます感」だけ。
だからこそ、勝手に手を出す。
それが薮原流の“できる女”の証明だった。
「仕事は自己実現の場でしょう?
そもそもね」
薮原は、得意げに言った。
「仕事って、自己実現とか、創造性を発揮する場じゃないですか?」
一瞬、空気が止まった。
「あたし、ちゃんとできてますよ。
こうやって改善案を出して、職場を良くしようとしてる」
だが、ここで一つ、決定的な事実がある。薮原恵巳は派遣社員だった。
契約書に明記されている業務内容は、手書き原稿のパソコン入力。それだけだ。
自己実現も、創造性も、この職場は彼女に求めていない。
求めているのは、「決められたことを、決められた通りに、静かに、正確にやること」。
それだけだった。
薮原は、マニュアルを読まない。
いや、正確には、読んだ上で、自分の方が上だと思っている。
「このやり方、非効率じゃないですか?」
「普通、こうしますよね?」
「前の職場では――」
前の職場。その言葉が出るたび、正社員たちは心の中で補足する。
(半年契約・更新なし)
入ったばかりなのに、業務改善を主張する。しかも、その内容は浅く、現場事情を理解していない。
「ああすべき」「こうすべき」「なぜやらないのか分からない」
その言葉の裏にあるのは、自分のやり方を押し付けたいだけという事実だった。
さらに混乱に拍車をかけたのが、紙だった。
ほとんどの職場は、ペーパーレスを徹底している。必要な資料は、すべてデータ管理。
だが薮原は、何でもかんでもプリントアウトした。
「紙の方が分かりやすいでしょ?」
分かりやすいのは、薮原の安心感だけだった。机の上には、不要な紙の山。
キャビネットの中は、勝手に並び替えられ、誰も分からなくなった。
「あれ? あの書類、どこ行った?」
――薮原が“整理”した後だった。
ある日の夕方、正社員たちは静かに話し合っていた。
「……分かった気がする」
「うん」
「どこ行っても、更新されない理由」
薮原は、職場に合わせない。職場を、自分に合わせようとする。ルールを守らない。マニュアルを軽視する。
求められていないことを“善意”として押し付ける。
そして、それを「あたしはできる」「あたしは意識が高い」と、本気で信じている。
「これ、全部……」
誰かが小さく言った。
「“薮原なこと”だよね」
全員が、黙ってうなずいた。
改善意識ではない。自己顕示欲だ。
創造性ではない。押し付けだ。
自己実現ではない。独りよがりだ。
半年後――
薮原恵巳の契約は、やはり更新されなかった。
こうして、薮原の行動一つひとつは、職場の語彙に刻まれた。
転職しても、その名は次の職場にまで噂として届く。
「ああ、うちにも昔いたわよ。薮原みたいな人」
「うちの会社にも“薮原なこと”するのが一人いる!」
まるで職場の都市伝説。
薮原恵美はいつしか、一つの“ジャンル”になったのである。
薮原が去った後、職場は静かになった。
キャビネットは元に戻され、紙の山は消え、誰も余計な説教をされなくなった。
そして、この職場には一つの言葉だけが残った。
「それ、薮原なことじゃない?」
・物事を複雑にする
・正論で殴る
・求められていないことを押し付ける
・自分を有能だと信じて疑わない
そんな行動を、人々は静かに、皮肉を込めてそう呼ぶようになった。
薮原恵巳は、また次の職場へ向かう。――だが、どこへ行っても、“薮原なこと”は、変わらないだろう。
〈完〉
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