彼と私と甘い月

藤谷藍

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出逢い

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ピピピッという目覚ましの音で、ぼうっとしていた花蓮の頭が覚醒した。

今日は水曜日、会社に出勤しなきゃ。

珍しく目覚ましが鳴る前に目を覚ました白河花蓮は、心地よい掛け布団をエイっとばかり体から剥がして、ベットから起き上がる。
春とはいえ早朝はまだ少し朝寒い。
朝が寒いと花蓮はベットから起き上がるモチベーションが半減する。特に週の半ばの朝は、OLである花蓮にとって中弛み感が増し、気合を入れないとついベットでぼんやりしてしまう。
そしていつのまにか時間は進み、気がつけば出勤時間に迫っていて、家を慌てて飛び出すはめになる。
4年のOL生活でパターンを学んだ花蓮は、少し早めに起きる習慣を身につけ、遅刻は滅多にしない。が、今日は何故か、いつもより遅めの出勤時刻になってしまった。

通い慣れた駅で電車から降りると、ホームはそれぞれの目的地に向かう人人でごった返している。
周囲のペースに合わせ、花蓮は早足に会社方向にある出口に向かっていた。
ゴールの出口まであとちょっと、という最後のコーナーに差し掛かったとき、前を歩いていた人が急にペースを落とした。花蓮は最後の追い込み、とばかりに前の人を追い越しにかかる。
そして、横を通り過ぎよう、とした瞬間、どん、と勢いよく反対側から歩いて来た人とぶつかってしまった。

思いがけないアクシデントに、花蓮は(あいたー)とぶつかった頭を手でとっさに抑えた、まではよかったが、勢いで体がバランスを崩して、ふらりと横によろけてしまう。
だが手が頭にあった為、うまくバランスが取れず、心の中で(きゃー)と叫びながら、安定を失って倒れかけた。
その時、長い手が 「あっ」 という低いつぶやきとともに花蓮の肩に伸びきて、とっさに体を支えられ、早朝の駅で倒れる大惨事を免れた。

(助かったー)

にっこり見上げると、知らない男性の驚いた顔が自分を見下ろしている。
携帯を片手に、もう一方の手で、花蓮を抱き込む形で立っているその人は、今まで出会ったどの男性より、花蓮の好みのタイプだった。

さらっとして柔らかそうな黒茶色の髪。意志の強そうな切れ長の瞳に、引き締まった形のいい唇。整った顔にモデルのような甘さはなく精悍で、目に理知的な力があり、落ち着いた態度と相まって心強い印象を受ける。
背は高く180を軽く超えていそうで、ともすれば威圧感を与えてしまいそうな長身も、しなやかな動作、バランスの良い手足の長さと、形のいい頭によって、どこか安心できる抜群の信頼感を与えていた。

花蓮は、上品なスーツをすっきりと着こなしているその男性の姿に、彼の持っていた携帯から 「どうした?」 と声が聞こえるまでの数秒間、じっと見とれてしまっていた。
そして、花蓮が知らない男性に肩を抱かれている状況に、ハッとした途端、どさっとカバンと何か重い紙の束が落ちた音がして、下を見ると、足元に黒い革のカバンと散らばった書類の束が落ちていた。
どうやらとっさに、カバンと書類を持っていた手で庇ってくれたらしい、が、思いがけず全体重をかけられ、指にかろうじてかかっていたそれらは容量オーバーで落ちてしまった。
男性の携帯からの再度、「おい、なにかあったのか?」 との問いかけに、その人は心地よいテノールで「ああ、今ちょっとあれなんで、後で掛け直す」と意味がわかるようでわからない返事をして、花蓮の肩にあった手を外し携帯を切った。
そして花蓮に「大丈夫ですか」 と顔を覗き込むようにして聞いてきた。
思いがけずの接近に、花蓮は焦って一歩下がり「すみません、大丈夫です。ごめんなさい」と、主語を全部外して返事をしてまった。
慌てて、体に力を入れて真っ直ぐに立ち「ぶつかってしまい申し訳ありませんでした。私は大丈夫ですがお怪我はありませんか?」と丁寧に頭を下げた。

そしてその拍子に足元のカバンと散らばった書類の束が視界に入り、急いでそれらを拾い始め、「荷物を私のために落とされたのですね、ごめんなさい。支えてくださって有り難うございます。」 とお礼を言いながら、拾っては相手に渡していった。
男性の方もすぐに屈んで残りの書類を拾いはじめ「こちらこそ前方不注意でした、申し訳ありません」と丁寧に謝ってくれた。
幸い落ちた書類はいくつもの封筒にかろうじて入っており、朝の駅内でバラバラの書類を追いかけるという間抜けなことにはならず、2人で手早く拾い終わる。
そして男性はまた、丁寧にお礼の挨拶をして去って行った。
花蓮も遅刻ギリギリの通勤途中ということもあり、さあてと出口に向かって歩き出そうとしたところ、背後から「あのう、落としましたよ」 と見知らぬ人から書類封筒を渡された。

(あーしまった!拾い残しだ)

慌ててその人に礼を言い、男性を追いかけようとしたが、駅内はまさに通勤ラッシュのピークで、すでに男性は姿かたちも見えなかった。

(はーどうしよう、って時間時間、遅刻しちゃう) 

花蓮はとりあえず後で考えようと、封筒を片手に会社へと向かった。

花蓮が勤める会社は森宮トレーディングという中堅の食品の輸入輸出会社だ。日本の食品を欧米に輸出、そして日本で手に入りにくい食材をレストラン等への代理輸入、などを業務としている。
営業は相手国に合わせてのフレキシブル出勤だが、花蓮は人事部なので普通の出勤となる。勤務4年目にして仕事にも慣れ, 充実した日々を送っている。

今日も 「おはようございます」 と元気に周りに挨拶すると、自分の席に座ってパソコンを起動する。 すると、「おはよう、ギリギリだね」と隣の斉木が挨拶を返してくれた。
下の娘が今年から小学校だという斉木は、家庭を大事にする人で、残業が滅多にない人事部が気に入ってる。終業時間にいそいそと帰宅する彼の隣は、花蓮も気兼ねなく帰宅することができて居心地が良い。
斉木も花蓮も仕事の要領はいいので、時間が押しそうな仕事量の時は、早く出勤して済ましてしまい、どちらもほぼ定時に帰る。なので出勤時間も割とよく被るのだ。
今日は花蓮が珍しくギリギリセーフの滑り込みで、何かあったのかと心配だったらしい。花蓮は心配してくれた彼に、今朝の出来事を簡単に話し、書類封筒を取り出して見せた。
「あれ、高臣法律事務所ってなんか聞いたことあるなー」と、斉木は封筒の表を見て首をかしげる。そういえばさっきは急いでいて、封筒に印刷されている文字など気にもとめていなかった。
よく見ると、確かに封筒の下方に事務所の名前、住所と電話番号などが印刷されている。封筒の中の書類を確認するのは、いくら拾ったといえ微妙に躊躇をおぼえていた花蓮は、それを見ると少しホッとした。
そういえば彼は同じような封筒をいくつも抱えていた。きっと勤め先か、もしくは、この事務所に関係した仕事なのだろう。
これでなんとか書類が返せそうだ、と住所が隣の駅近くなのを確認し、昼休みにでも届けようと書類を机のトレイに置いた。

その日のお昼休み、花蓮は昼食を同僚と近くの食堂で済ませ、買い物があるという彼女と別れて、封筒にかかれた住所の前で立派な高層ビルを見上げていた。
携帯のマップで再度住所を確認してみたけれど、やはり封筒の住所はここで合っているらしい。法律事務所という名前から、もう少しこじんまりとしたところを勝手に想像していたため、いささか戸惑ったのだが、花蓮は元々細かいことは気にしない前向きな性格だ。なので(まあ、きっと大手の事務所なのね) 程度の認識で、豪華なビルの入口へとさっさと足を運んだ。
エレベーターを出て、これまた立派な受付に進み、書類封筒をカバンから取り出し書類を届けに来た旨を伝えた。
「森宮トレーディングの白河と申しますがこちらの書類をお届けにあがりました。」
書類を落としたのは男性の落ち度ではなかったので、彼の立場を悪くしないように、わざと会社名を出して社用の程を装ったのだ。
しかし、誰宛とは口にしなかったので、自社封筒に宛名が記されていないのに気がついた受付嬢は「ただいま確認いたしますので少々お待ちいただけますか」 と書類封筒を開けて中身を確認してくれた。
そして書類の付箋の名前を見て、何処かに電話確認をした後、花蓮が所在無げに待っていると、ニッコリ笑って、
「お待たせして申し訳ございません。牛尾は只今所用で不在ですが、すぐに担当の者が参りますのでこちらでお待ち下さい」 と受付のそばのソファーに案内してくれた。

花蓮がしばらくそこで (牛尾ってあの人の名前かな? でもなんとなくだけど牛尾って雰囲気じゃなかったけど)と、全国の牛尾さんに大変失礼なことをぼんやり考えながら待っていると、
「お待たせしました、担当の橘です。白河様でよろしいですか?」 と聞き覚えのあるテノールが聞こえてきた。

花蓮が振り向くと、今朝会った男性が微笑みながらソファーの側に立っていた。
慌ててソファーから立ち上がり一礼する。
 
「はい、初めまして?白河と申します。今朝は大変失礼致しました。書類の方はそれで全部揃いましたでしょうか?」 

首をかしげると、彼は心得たように頷き、「はい。ご協力有り難う御座います。」 と返してくれた。
それを聞いて安心した。 

「それでは私はこれにて失礼致します」 と一礼して、エレベーターに向かおうとした。
すると、彼も、「私も今からお昼なので下までご一緒しましょう」 とエレベーターのボタンを押す。

そして天気の話などをしながら下に降り、ビルの外に出てから、「改めて、私は橘俊幸と申します。書類をわざわざ届けていただいて有難う御座いました。」と、名刺を渡しながら挨拶してくれた。

(なるほど、やっぱり牛尾っていうより橘って感じ)

「白河花蓮と申します。こちらこそ、今朝は助けていただいて転ばずに済みました。」と名刺を交換する。そして、「それではここで失礼します。」
と帰ろうとすると、橘は少し焦ったように、 
「あの、本当に助かったので、お礼に昼食でも今度ご馳走させて下さい。」
と言ってくれた。
花蓮は誘われて嬉しくなったが、社交辞令かもしれないと思い直し、「まあ、有難う御座います」 と笑って返しておいた。
すると、橘は柔らかく微笑んで 「ではこれが私用の番号ですので」 とさっきもらった名刺に番号を書いてくれて、花蓮も私用の携番を渡すと、その場で携帯に登録してくれた。そして番号を鳴らして花蓮の携帯が鳴るのを確かめると、
「後日都合のいい日を連絡します」 と言ってその日はそこで別れた。
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