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不誠実な男たち
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気持ちって目には見えない。
人は見た目では何を考えてる? なんて分からないから、たまにとんでもなく厄介な事になる。
ーー残業帰りの植松葵の脳裏に、そんな思いがよぎった。
時間をさかのぼること数分前。
似たり寄ったりの疲れたスーツ姿が行き交う乗り換え駅で、葵は偶然にも恋人の顔を見つけた。
(わあぁ、ラッキー! あ、もしかしてーー到着時間が遅れた……?)
食品会社、絹路スパイスに勤める葵の同僚である彼は、今日が六ヶ月という短期赴任からの帰国予定だった。心身ともに疲れ切った今、まさかの出会いにこれはもう運命かも?とドキドキしつつ、同時にジーンときた。
成田帰りなのだろうか?
彼が海外赴任してしまって、せっかくの結婚話も進まずじまい。スマホのみの会話もそろそろ寂しかったけど、『到着時間が微妙だし、今夜会うのは無理』とのメッセージに、『なら、会社で』と明日会えるのを心待ちにしていた。
なのに。
小走りになりかけた葵の歩みが、ハッと止まり、にわか棒立ちになる。
「う、そーー……」
一体どうして? その運命の彼が会社の受付嬢と手を繋いでるーー?
ーー信じがたい光景に葵の心臓が、鈍い嫌な音を立てた。
息が苦しい。
だが次の瞬間、湧き上がったドス黒い怒りが大渦を巻き、全身を取り巻いていく。
(っーーーーここのところ、忙しくって残業に明け暮れているあいだにーー……! 帰国したら、結婚しようって言ったくせにーー……っ!)
婚約者に目前で不義を見せつけられた怒りは、ハンパではない。
ここがどこかさえ忘れそうな憤りが膨れ上がり、すぐさま限界を超える。ーーと男が、葵ではない相手に向かって「それでさあ~」と笑った拍子についに臨界点へと達した。
その瞬間、怒りや恋しさが分子レベルで粉砕、パリンと砕ける幻聴が聞こえたーー……百年の恋も冷めるとはまさにこのことだった。
裏切りのショックはあまりにもで……もう、何も感じない。彼に対するすべての感情が無に帰った。
……頭に血が上る怒りや、拳を堅く握りしめた憤りさえもがきれいに切り取られて、ああ、この男ってこんな本質を隠してたんだと冷めた目になる。
でも。もしかしたら。自分の勘違いってこともーー……ないわけじゃあ……ない。
冷めた心は吹き飛んだ葵の理性をも呼び戻し、偶然会ったとか、実は親戚だったとか……あり得ない可能性を次々と挙げてくる。だからって、この場を見極めようだなんて、自分でも甘すぎだと思う。
けど結局、葵は辛抱強く悪夢の観察を続けた。
彼はまだ葵に気づいていないーー繋いだ手を彼女の腰に回し、桃色に染まった耳に口を寄せている。
(……二人で忍び笑いかぁ)
クスクス笑いとピンクの空気がこちらにまでモヤモヤ漂ってきて……どうみても、二人の親密度はあからさますぎだ。この時点で言い逃れのできない有罪が、葵の中で確定した。
親戚ーーであるわけがない、ましてや偶然会ったなど、ご冗談を。
ーーこれだから人の気持ちなんて、ほんと分からない。
二年近く付き合って、婚約指輪までくれた彼が、裏でしかもこんな身近な女性と浮気をしていた。
はじめて知った真実に息を凝らすも、これからを考えた葵は……冷め切った心で、つくづく厄介だと思った。雑踏の中をこちらに向かって近づいてくる男を目で追い、目前に来るまで立ちつくす。
「ーーあっ、葵っ⁉︎」
彼女と笑いながら近づいてきて、ようやく至近距離で気づいたらしい。その間抜けさにも呆れさえ感じなかった。ただひたすら無関心ーー、冷たい目で固まった姿を見返した。
目の前にいる彼は……いやもう、元カレか、明らかに面食らった顔だ。どうやらこんな時間までの残業なんて、滅多にしないと思っていたらしい。残念なことに、誰かさんが出張していた半年の間に、葵の仕事は一気に増えたのだ。
慌てて腰の手を引いた彼の視線を追った受付嬢が、ようやくこちらに気づいた。そしてなんと笑いかけてくる。
「え? あ、植松さん! 偶然ですねっ。今帰りですか?」
「こんばんは~」と挨拶してくるその微笑みの自然なこと。
彼が『葵』と呼び捨てにした同僚に、見られてバツが悪いというわけでもなく、平気な顔とくれば……これはあれだ。凝視したままの葵と彼との関係など、まったく疑っていない。
というか、名前を呼び捨てにしたとは気づいてもいないらしい。
ーーけど、よく考えたら……同じ会社といっても、そんなものなのかも……
葵も彼女のことを名字ーー児島としか、知らないのだし。そしてどうやら児島は、彼が久々に会う同僚を呼び間違えしたと勘違いしたらしく、小さな声で「石田さん! 彼女は植松さんですよ、名前忘れちゃったんですか」と注意している。派遣の彼女はその天然さゆえ、社員受けも良い。
「違、これは……その……」
二つの痛い視線に挟まれた男ーー石田は、滑稽なほどオドオドと挙動不審極まりなかった。
何かを言いかけては言葉に詰まる……そのうろたえた様子など気にもかけない淡々とした口調で、葵は同僚への挨拶を発した。
「ーーこんばんは、児島さん」
そしてあなたとはもう終わり。今後は、一切関わりたくない。
「お久しぶりです、石田さん。そういえば今日が帰国予定でしたね……」
冷めた声で吐き出す事務的な言葉に終わりを匂わせる。自分でも呆れるくらい冷静な切り出しだが、抑揚のない声に彼の顔からみるみる血の気が失せた。
「あ、ああ。そう、そうなんだ。その、児島さんが空港までわざわざ迎えにきてくれて……」
焦って早口で喋りだす語尾がだんだん小さくなっていった。
良心の呵責は、一ミリもないのか? 謝罪の一つも出てきやしない、そんな男にますます葵の心は冷えた。こんな人と結婚しようと思ってた……だなんて。
するといまだモニョモニョと口ごもる男の苦しい言い訳を、のんびりとした声が遮った。
「石田さん。植松さんはきちんとした人で、ゴシップなんかしないですよ。言いふらしませんて」
言いふらさない? それは当たり前だ。仕事がやりにくいし会社では内緒でというから、自分たちの付き合いでさえ誰にも言ってない。もちろん、婚約のことも。
話しかけやすいタイプなのか、人の話を辛抱強く聞くからなのか……? 葵はちょくちょく他人から思ってもみない悩みを持ちかけられる。駅のベンチに座って電車を待っていただけで、知らない女性から『10年越しの彼と結婚するべきか?』などというヘビーな恋愛相談を持ちかけられたことさえあるのだ。
そのせいで、長年染みついた習慣……秘密は決して漏らさない。彼もそれは知っている。
そしてあろうことか黙ってしまった彼をこっそり指差した受付嬢は、アドバイスありがとうございましたと口パクで告げてきた。
ーーそうか。先日話を聞いた、彼女を悩ませていた相手とは、まさかの……
葵はいまさらながら、思い当たった。遠距離恋愛で悩んでいた彼女に、好きなら押してみればとアドバイスしたなんて、ホント、間抜けにも程がある。お互い知らなかったとはいえ、その相手とはこの男だったのだ。
「それにーーいいじゃないですか。どうせ付き合ってるなんて、すぐバレますよ」
「ば、バレるって……」
冷や汗をかいている石田を不思議そうに見上げて、児島は可愛らしく首を傾げた。
「会社で内緒にするなんて、難しいですよ?」
そう言ってさり気なく彼の腕を取ると手を繋ぎ直す。もういい。十分だ。
「……そう。じゃあ、悪いけど。急いでるからまた」
「ま、待ってくれ!」
何をいまさら?
「……石田さん。ダブルブッキングの件でしたら、対応済みです」
あくまで冷静な葵に、彼は言いかけた言葉を飲み込んだ。
(そのままーー彼女と今すぐ消えてっ。人目もある駅で、ドロドロの展開を披露する気?)
二股かけたことをぶちまけたいのは山々だが、石田も受付嬢も同じ会社に務めている。ーー迂闊なことをして、会社で居心地の悪い思いをするのは嫌だった。
そんなことは、心の底から望んでいない。
言い訳なんて聞きたくないと葵はくるり身体の向きを変え、振り返りもせず路線ホームへと向かった。
終わった。
彼は追いかけてもこない。
(……好きなら、追いかけるよね? 結婚して下さいって、言ったよねーーっ?)
昨夜まで『早く会いたいよ』などとほざいていたくせに、こんな誠意がない男だったなんて……
これで本当に終わったーーと、葵はバックから付箋のついたブライド雑誌を取り出した。つかの間、表紙で笑う幸せそうな女性を眺めてから、振り切るように駅ホームのゴミ箱にボリュームのある雑誌を突っ込む。
ガコンと大きな音がしても涙も出てきやしない。……心がまったく、動かなくなっていた。
ほんともうこんなことは、こりごりだ。
……こんな風に思ってしまうのは自棄ではなく、当然と言えば当然だった。
なにせ葵は結婚しようと言われた相手に裏切られたのは、悲しいかな、これが初めてではない。石田とのことは葵にとって二回目の結婚話だったのだ。同じ失敗は、二度と繰り返さない。そう思っていたはずなのにーー……
揺れる電車の中、つり革にもたれた葵は心の中で、はあ~と思いきり重いため息をついた。
営業の仕事柄、清潔感のある身なりをと心掛けてはいる。けど、これといった美人でもない。そんなことは自分でもわかっている。
27歳。茶色の瞳。162センチ。クセのないセミロングの髪を後ろでくくって、前髪はサイドに流してある。
ーーなんの特徴もない上に、最近は肌年齢まで気になってきた……そんな葵にとって、相談を持ちかけられれば親身になって話を聞くのはごく普通のことだけど……
思い起こせば、苦い思いをした最初のプロポーズは、大学の同級生からだった。
就職活動で悩んでいた彼から何気なく相談を持ちかけられ、『植松さんて意外と話しやすい。付き合おうよ』で始まり『遠恋になるけど、ゆくゆくは結婚を』と、卒業間近に指輪を渡された。ーーが、それ以降プッツリ。就職先の関西に発った男とは連絡が取れなくなった。
心配で彼の友人に電話したら、『あいつ、向こうで彼女ができたらしい』とフェードアウトの理由を他人から聞かされ、本人からはサヨナラの一言もなくの強制終了だった。突然襲ってきた悲しさも、指輪まで渡された関係のあっけない最後のショックも、どうすることもできずに葵は就職が決まっていた今の会社に勤めだした。
そして数年後。
あっという間に月日は過ぎて、これと言った出会いもなく、会社と家の往復を繰り返す毎日。学生時代はなんてお気楽だったんだろうとつくづく思っていたそんな時、たまたま飲み会で相談にのったのが今回の元カレーー石田だった。
石田は営業の仕事で悩んでいた。葵がサポートに入り結果を出し始めたのがきっかけで付き合いはじめ、去年、彼が海外プロジェクトメンバーに選ばれた。そしてお祝いのディナーで『結婚しようか』とプロポーズされたのだ。喜んだのも束の間、帰ってくるまでは婚約も黙っていようと言われ、え?と思ったが、本人がいなくなるのだからと頷いた。結婚資金も貯めなきゃだし、休みもわざわざ来なくていい……そう言われてこの半年、メールや電話のみ。直接会ってはいなかったけど。
(結局、あの男の本性を見抜けなかったってこと……よね)
悩み事相談ではじまる付き合いは、こんな終わりばっかりだ。
さっき見た感じだと、石田と受付嬢の仲はかなり以前からだろう。見た目が草食系の彼は、ガツガツした感じがない。だが、優柔不断というか決断力に欠けるゆえに仕事を手伝ってあげているうちに、いつのまにか……企画の草案にはじまり、データ分析、あげくはプレゼンまで葵がほとんど代筆していた。
それでも、二人の将来のためと言われたから頑張ったけど。もしかして、すべてが嘘だったーー?
……葵も頼られると弱い自覚はあった。『葵のおかげだ、ほんと助かる』などと言われると、母性本能をくすぐられて。でもーー今夜はじめて彼のこズルさを思い知らされた気がする。石田はたぶん利用目的で自分と付き合い、裏でこそこそ浮気をしていた。この痛い事実に、身も心も打ちのめされた気分だ。
失恋どころか付き合って2年すべてを、こんな最悪な形で踏みにじられたのだから。ーーもっと……もっとこう、トイレにでも駆け込んで、泣き叫んで、それこそヤケ酒に走ってもおかしくないのではないか?
なのに心は空っぽ。結婚を考えたほど好きだったはずだけど、今はもう、心に穴が開いたような空虚感がむなしいだけなんてーー……
会社でも、朝から目が回るほど忙しかった今日は、歩いて帰るのさえ億劫で、まだ週の半ばなのにいまさら帰って自炊する気になれない…………
駅の改札口を出ると家に向かって勝手に進んでいた葵の足が、ピタと止まった。
(ーーまだ、間に合うかな……)
イートインはダメでも、持ち帰りは頼めるかも知れない。
そう思うと気がつけば足は自然と、定期的に訪れる馴染みのカフェへと向かっていた。
「ーー申し訳ございません。本日はラストオーダーの時間を過ぎておりまして……あ、植松さんでしたか。こんばんは」
閉店準備をしていた店員は看板を運んでいた手を止め、顔を上げると途端に笑顔になった。
数年前に開店した当初から、葵はこのカフェでちょくちょく飲食をしている。新メニューのお知らせにも登録していて、試食のお誘いには必ず予約をするから古参の店員には顔を覚えられていた。
「こんばんは。あの、注文もう遅いですよね……」
「ーーお待ち帰りなら、OKかもですよ」
ちょっとしたお辞儀がやたら板に付いている店員は、笑いながらこっそりといった感じで教えてくれた。予約で来店するたびに「植松様」と呼ばれるのが気になって、様呼びを遠慮した葵を”植松さん”と呼んでくれる気さくな人だ。
「厨房に確認してみましょう」と店じまいの手を止め、わざわざ聞きにいってくれた。
店内は薄暗く、最後の客はもう帰るところだ。
「OKだそうです。いつもの『玄米焼きおにぎり定食』でよろしいですか? それとも、『シェフお勧めセット』になさいますか?」
「じゃあ、『おにぎり定食』をお持ち帰りで」
顔を輝かした葵の注文に店員は頷くと、精算を済まし「少しの間、お待ちいただけますか?」と断ってまた厨房に消えた。
よかった、ギリギリ間に合った。
駅からそう離れていない三階建ビルの一階にあるこのカフェは、朝早くから開店しているぶん、店じまいが早い。ここのカフェ飯はコスパが良く、ファーストフード店方式でカウンターで注文してから自由に席につける。持ち帰りもできるから夜にも何回か寄っているが、こんな閉店間際に訪れたのは今日がはじめてだった。
コーヒー豆の匂いが漂う店内は落ち着いた内装で、広いカウンター、その横に並べられた手作りケーキにも食欲をそそられる。多国籍メニューはどれも美味しいし、値段もそれほど高くない。
ついつい甘いものにまで手を出したくなるが、やけ食いはダメだと葵は視線を無理やりカウンターから引き剥がした。チョークアートで描かれたメニューボードは可愛くてオシャレだし、閉店間際でメインの明かりは落とされ、天井からぶら下がる小さな星を集めたようなランプだけが木の床とテーブル席を柔らかく照らしだす。
物静かで心安らぐ空間に、ささくれ立っていた葵の心も和らいで、その口元が今夜はじめてゆるんだ。
(それに、なんと言っても素敵なピアノに会えるから……)
この店の奥には階段がひっそりとあり、降りていくと半地下のフロアがある。賑やかな上階とはまた違った趣があり、従業員の休憩室かな?とも最初は思ったが、小さなテーブルセットが1組置いてあるだけのそこにはなぜだか白いピアノが置かれていた。
白く艶やかなベビーグランドは、側面にモール装飾が施されており、三つ足がまた猫脚である。
すごく存在感があるのに……オフホワイトの上品さが際立ち気品にあふれ、なのに可愛くてーー。
見ているだけで気持ちが和み優しい気分になる。ピアノが置いてある空間だけはクラシカルな華麗さを感じさせる、葵の癒しスポットだ。
葵は初めてここでピアノを見た時から、なんて素敵なんだろうと強く惹かれた。いつか艶のある表面を撫でてみたいと思うが……。いつ見ても侵入禁止のお洒落なチェーンスタンドが手前に立ててあり、触れることはできない。でも、申し訳程度に置いてある唯一の椅子とテーブルから、その上品な姿を眺めるのがとても好きだった。注文したものも給仕されてくるので葵の指定席となっている。
このフロアにはそれとは別に、いかにも座り心地良さそうなベルベッド生地の長椅子とテーブルもある。だが、一昔前の高級食堂車のような作り付けのそれらは階段の裏壁に設置されており、それもスタンドの向こう側にあるため何か秘密めいている。
なんにしろ、ピアノを眺めるだけのもの静かな時間はとても居心地のいいものだ。
支払いを済ませると奥に消えた店員を見て、待ち時間だけでもと葵はピアノを一目見るべく店の奥にある階段を下りていった。
白い上品な姿が目に入ると、凍てついた葵の心が動きだす。こんな最悪の日でも、まるで初恋の人に会ったそんなトキメキにも似た気持ちになる。
(あ……今日はない……?)
見ればいつものチェーンスタンドが取り除かれている。
それまでぼんやりしていた葵の意識が、急にハッキリとした。一歩足を踏み出しそのままそおっと、ピアノに近づく。その滑らかな表面に触れると、思ったより冷たくない。
すると唐突に、ぽた、と大粒の涙が目尻から滑り落ちた。
(あ、あれ?……やだ、さっきまで平気だったのにーー)
なぜにこんな今になって……、どうしようもなくやるせない気持ちになるーー?
元カレに未練はない。ーーけど、悲しくてしょうがないーー…………
「うっ……ふぅっ……っ」
思いがけず次々と溢れ出る涙に自分で驚き、嗚咽をこらえ慌ててハンカチをバッグから取り出した。
けどーー、視界に映る白いピアノが泣いてもいいと慰めてくれている気がして、そのままひとしきり泣いてしまった……
しばらくすると涙は止まったが、まだスンスンする鼻をかんで顔を上げたら、突然、階上から足音が近づいてくる。トントン。ーー誰かが階段を降りてきた!
(まずいっ、隠れないとーーっ)
見つかりたくないーーただただそんな焦りで頭がいっぱいで、どうして隠れる?という疑問もわかなかった。
そして気がついたら、とっさに階段後ろのテーブル下に隠れていた。
(あれ? 何してるの、私……?)
床に手をついた途端、ハッと我に帰る。
ほんと、何をしているんだろう? もしかしたら親切な店員が、姿の見えない自分を探しているのかもしれないのに……
自分がとった馬鹿げた行動に、心の中で笑止だ。けど、狭い場所から出ようと思った葵の視界に焦げ茶色の洒落た革靴が映った。
ーー違う、店員ではない。葵の隠れている角度からでは足元しか見えないが、どうみても高級そうな革靴に仕立てのいいダークブラウンのスーツの裾が近づいてくる。コーヒーの香りにほんのり混じった、爽やかなメンズ香水。そのわずかな芳香を嗅ぎ取った途端、葵はパニックに陥った。
(ど、どうしよう~!)
こんなところに隠れているなんて、どう考えても自分の取った行動は怪しすぎる。
でも、今からゴソゴソ出ていくのも……と悩んでいるうちに、ガタンと椅子を引く音がしてピアノがポロンと音を立てた。
(え? あ、う、わぁーー……)
甘く切ない旋律がいきなり葵の心を鷲掴みにして、優しく語りかけてくる。
ピアノの演奏……なのに。
聞こえてくる調べはまるで歌声のようーー……
奏でられるその繊細なタッチに、葵の身体までもが震えてきた。どうしようもなく胸が締めつけられる。
なんだろうーーこの、甘やかで魅惑的なメロディーは……?
音が全身に絡みつき、優しい旋律に葵の肌が撫であげられ包み込まれていく。ーーと、演奏が突然止まった。
「鳳条さんーー、こちらなの?」
階段を下りてくるヒールの音が、カタンとする。
「……ここへは、こないで欲しいと言ったはずだけどな」
ピアノの方から艶のある低い声が答えた。硬い口調に、ハイヒールが止まる。
「久しぶりなのよーー。少しでも早く、会いたいじゃない?」
「約束を守れないようなら、あなたとは今日でおしまいだ」
仕方ないなといった調子で告げられたその言葉に、葵の心臓がドキンと跳ねた。
(う、嘘ぉ。こ、これはもしかしてーー)
もしかしなくても、思いっきり修羅場だ……
この短時間に二度もこんな場面に遭遇してしまうとは、今日はなんて厄日……いやいや、そんなこと言ってる場面じゃあない。近づいてきたハイヒール。そして「どうしてそんなつれないことを言うの……?」の言葉の後に聞こえてきたクチュっと濡れた音にーー!
(ぎゃ、ぎゃあぁ、いっやーーぁ)
いくらなんでも、他人の濡れ場を傍聴する趣味はない!
ガタン、っといきなり飛び出した。そんな葵を、呆気にとられた男女が目を見開いてみている。
「す、すいません! お邪魔しました。ピアノ演奏素敵でしたっ」
焦るあまり相手の顔もろくに見ず、葵はダッシュで階段を駆け上った。
「あ、植松さん。こちらに……」
「ありがとう。じゃあまたっ」
葵を見て安心したような店員から、お持ち帰りバッグを奪うように受け取るとカフェから飛び出した。
小走りで50メートルほど走って、ようやく、ハアハアと息継ぎをする。だけど心は逸って、家までの早歩きを止めなられなかった。
競歩で駆け込んだ玄関で、ガチャンと鍵を閉める。そしてそのまま、ずるずるっと扉を背に座り込んだ。
心臓のドキドキが、止まらないーー!
ほんとうに、今日はなんという一日なのだろう。
……出社した途端、取引先のメニュー変更に応じて調整と企画修正を余儀なくさせられ、おまけに仕入れ先の天候不順による思わぬ輸入価格の変動通知で、それはもう忙しかった。そして、結婚予定だった元彼の予想外の裏切り。最後は他人の修羅場との遭遇ときた……
目まぐるしく変転する状況に、一日中振り回された葵は座り込んだまま動けない。
けど、だけどーー振り回されたんだけれども。
「ふふ……は、はははーーっ」
葵は不意に、可笑しくなって笑い出した。
先ほど聞いた甘い調べと、予想もしなかった修羅場への驚き。そのせいで、落ち込んでいた気分がいっぺんに吹き飛んでしまった。
目尻の涙を拭って、ようやく立ち上がった葵の頭に浮かぶのは、元カレの痛手ではない。まるで心があのピアノの演奏で隅々まで浄化されたかのようだった。
すっかりすっきり、石田は黒歴史として葵の心から抹消されている。
(もう一度、聴きたいなーーあのピアノ……)
どんな人が弾いていたんだろう……? 落ち着いた頃に「いただきます」と手を合わせ、お箸でお持ち帰りをつつきながら、そんなことを考えてしまう。
さっきは気が動転しすぎて、残念ながら顔を見る余裕などなかったけど……
甘い旋律に包まれる不思議な感覚は、とにもかくにも忘れられそうにない。ーーが、小さなテーブルで夕食を食べ終わり、ベッドで横になると、さすがに明日からの職場を思って憂鬱になった。
これからは毎日、石田と顔を合わせなければいけない。同じ職場で働く気まずさは、どうやっても避けられないだろう……
けど。あの繊細でどこか官能的なピアノを心で再生すると、なんとか頑張れるような気がしてきた。
当分の間、恋愛はこりごりだーー。
新しい出会いから始めて、何年かお付き合いをして、ほどよく経ったところで結婚する。この、長~いプロセスをもう一度、それも1から始めなければならないなんて考えただけで気が遠くなる…………
今の葵には、とてもじゃないが、そんなエネルギーは残っていない。
この夜。最後の少しやつれたため息をつくと、葵の疲れ切った身体はゆっくりと眠りへ落ちていった。
人は見た目では何を考えてる? なんて分からないから、たまにとんでもなく厄介な事になる。
ーー残業帰りの植松葵の脳裏に、そんな思いがよぎった。
時間をさかのぼること数分前。
似たり寄ったりの疲れたスーツ姿が行き交う乗り換え駅で、葵は偶然にも恋人の顔を見つけた。
(わあぁ、ラッキー! あ、もしかしてーー到着時間が遅れた……?)
食品会社、絹路スパイスに勤める葵の同僚である彼は、今日が六ヶ月という短期赴任からの帰国予定だった。心身ともに疲れ切った今、まさかの出会いにこれはもう運命かも?とドキドキしつつ、同時にジーンときた。
成田帰りなのだろうか?
彼が海外赴任してしまって、せっかくの結婚話も進まずじまい。スマホのみの会話もそろそろ寂しかったけど、『到着時間が微妙だし、今夜会うのは無理』とのメッセージに、『なら、会社で』と明日会えるのを心待ちにしていた。
なのに。
小走りになりかけた葵の歩みが、ハッと止まり、にわか棒立ちになる。
「う、そーー……」
一体どうして? その運命の彼が会社の受付嬢と手を繋いでるーー?
ーー信じがたい光景に葵の心臓が、鈍い嫌な音を立てた。
息が苦しい。
だが次の瞬間、湧き上がったドス黒い怒りが大渦を巻き、全身を取り巻いていく。
(っーーーーここのところ、忙しくって残業に明け暮れているあいだにーー……! 帰国したら、結婚しようって言ったくせにーー……っ!)
婚約者に目前で不義を見せつけられた怒りは、ハンパではない。
ここがどこかさえ忘れそうな憤りが膨れ上がり、すぐさま限界を超える。ーーと男が、葵ではない相手に向かって「それでさあ~」と笑った拍子についに臨界点へと達した。
その瞬間、怒りや恋しさが分子レベルで粉砕、パリンと砕ける幻聴が聞こえたーー……百年の恋も冷めるとはまさにこのことだった。
裏切りのショックはあまりにもで……もう、何も感じない。彼に対するすべての感情が無に帰った。
……頭に血が上る怒りや、拳を堅く握りしめた憤りさえもがきれいに切り取られて、ああ、この男ってこんな本質を隠してたんだと冷めた目になる。
でも。もしかしたら。自分の勘違いってこともーー……ないわけじゃあ……ない。
冷めた心は吹き飛んだ葵の理性をも呼び戻し、偶然会ったとか、実は親戚だったとか……あり得ない可能性を次々と挙げてくる。だからって、この場を見極めようだなんて、自分でも甘すぎだと思う。
けど結局、葵は辛抱強く悪夢の観察を続けた。
彼はまだ葵に気づいていないーー繋いだ手を彼女の腰に回し、桃色に染まった耳に口を寄せている。
(……二人で忍び笑いかぁ)
クスクス笑いとピンクの空気がこちらにまでモヤモヤ漂ってきて……どうみても、二人の親密度はあからさますぎだ。この時点で言い逃れのできない有罪が、葵の中で確定した。
親戚ーーであるわけがない、ましてや偶然会ったなど、ご冗談を。
ーーこれだから人の気持ちなんて、ほんと分からない。
二年近く付き合って、婚約指輪までくれた彼が、裏でしかもこんな身近な女性と浮気をしていた。
はじめて知った真実に息を凝らすも、これからを考えた葵は……冷め切った心で、つくづく厄介だと思った。雑踏の中をこちらに向かって近づいてくる男を目で追い、目前に来るまで立ちつくす。
「ーーあっ、葵っ⁉︎」
彼女と笑いながら近づいてきて、ようやく至近距離で気づいたらしい。その間抜けさにも呆れさえ感じなかった。ただひたすら無関心ーー、冷たい目で固まった姿を見返した。
目の前にいる彼は……いやもう、元カレか、明らかに面食らった顔だ。どうやらこんな時間までの残業なんて、滅多にしないと思っていたらしい。残念なことに、誰かさんが出張していた半年の間に、葵の仕事は一気に増えたのだ。
慌てて腰の手を引いた彼の視線を追った受付嬢が、ようやくこちらに気づいた。そしてなんと笑いかけてくる。
「え? あ、植松さん! 偶然ですねっ。今帰りですか?」
「こんばんは~」と挨拶してくるその微笑みの自然なこと。
彼が『葵』と呼び捨てにした同僚に、見られてバツが悪いというわけでもなく、平気な顔とくれば……これはあれだ。凝視したままの葵と彼との関係など、まったく疑っていない。
というか、名前を呼び捨てにしたとは気づいてもいないらしい。
ーーけど、よく考えたら……同じ会社といっても、そんなものなのかも……
葵も彼女のことを名字ーー児島としか、知らないのだし。そしてどうやら児島は、彼が久々に会う同僚を呼び間違えしたと勘違いしたらしく、小さな声で「石田さん! 彼女は植松さんですよ、名前忘れちゃったんですか」と注意している。派遣の彼女はその天然さゆえ、社員受けも良い。
「違、これは……その……」
二つの痛い視線に挟まれた男ーー石田は、滑稽なほどオドオドと挙動不審極まりなかった。
何かを言いかけては言葉に詰まる……そのうろたえた様子など気にもかけない淡々とした口調で、葵は同僚への挨拶を発した。
「ーーこんばんは、児島さん」
そしてあなたとはもう終わり。今後は、一切関わりたくない。
「お久しぶりです、石田さん。そういえば今日が帰国予定でしたね……」
冷めた声で吐き出す事務的な言葉に終わりを匂わせる。自分でも呆れるくらい冷静な切り出しだが、抑揚のない声に彼の顔からみるみる血の気が失せた。
「あ、ああ。そう、そうなんだ。その、児島さんが空港までわざわざ迎えにきてくれて……」
焦って早口で喋りだす語尾がだんだん小さくなっていった。
良心の呵責は、一ミリもないのか? 謝罪の一つも出てきやしない、そんな男にますます葵の心は冷えた。こんな人と結婚しようと思ってた……だなんて。
するといまだモニョモニョと口ごもる男の苦しい言い訳を、のんびりとした声が遮った。
「石田さん。植松さんはきちんとした人で、ゴシップなんかしないですよ。言いふらしませんて」
言いふらさない? それは当たり前だ。仕事がやりにくいし会社では内緒でというから、自分たちの付き合いでさえ誰にも言ってない。もちろん、婚約のことも。
話しかけやすいタイプなのか、人の話を辛抱強く聞くからなのか……? 葵はちょくちょく他人から思ってもみない悩みを持ちかけられる。駅のベンチに座って電車を待っていただけで、知らない女性から『10年越しの彼と結婚するべきか?』などというヘビーな恋愛相談を持ちかけられたことさえあるのだ。
そのせいで、長年染みついた習慣……秘密は決して漏らさない。彼もそれは知っている。
そしてあろうことか黙ってしまった彼をこっそり指差した受付嬢は、アドバイスありがとうございましたと口パクで告げてきた。
ーーそうか。先日話を聞いた、彼女を悩ませていた相手とは、まさかの……
葵はいまさらながら、思い当たった。遠距離恋愛で悩んでいた彼女に、好きなら押してみればとアドバイスしたなんて、ホント、間抜けにも程がある。お互い知らなかったとはいえ、その相手とはこの男だったのだ。
「それにーーいいじゃないですか。どうせ付き合ってるなんて、すぐバレますよ」
「ば、バレるって……」
冷や汗をかいている石田を不思議そうに見上げて、児島は可愛らしく首を傾げた。
「会社で内緒にするなんて、難しいですよ?」
そう言ってさり気なく彼の腕を取ると手を繋ぎ直す。もういい。十分だ。
「……そう。じゃあ、悪いけど。急いでるからまた」
「ま、待ってくれ!」
何をいまさら?
「……石田さん。ダブルブッキングの件でしたら、対応済みです」
あくまで冷静な葵に、彼は言いかけた言葉を飲み込んだ。
(そのままーー彼女と今すぐ消えてっ。人目もある駅で、ドロドロの展開を披露する気?)
二股かけたことをぶちまけたいのは山々だが、石田も受付嬢も同じ会社に務めている。ーー迂闊なことをして、会社で居心地の悪い思いをするのは嫌だった。
そんなことは、心の底から望んでいない。
言い訳なんて聞きたくないと葵はくるり身体の向きを変え、振り返りもせず路線ホームへと向かった。
終わった。
彼は追いかけてもこない。
(……好きなら、追いかけるよね? 結婚して下さいって、言ったよねーーっ?)
昨夜まで『早く会いたいよ』などとほざいていたくせに、こんな誠意がない男だったなんて……
これで本当に終わったーーと、葵はバックから付箋のついたブライド雑誌を取り出した。つかの間、表紙で笑う幸せそうな女性を眺めてから、振り切るように駅ホームのゴミ箱にボリュームのある雑誌を突っ込む。
ガコンと大きな音がしても涙も出てきやしない。……心がまったく、動かなくなっていた。
ほんともうこんなことは、こりごりだ。
……こんな風に思ってしまうのは自棄ではなく、当然と言えば当然だった。
なにせ葵は結婚しようと言われた相手に裏切られたのは、悲しいかな、これが初めてではない。石田とのことは葵にとって二回目の結婚話だったのだ。同じ失敗は、二度と繰り返さない。そう思っていたはずなのにーー……
揺れる電車の中、つり革にもたれた葵は心の中で、はあ~と思いきり重いため息をついた。
営業の仕事柄、清潔感のある身なりをと心掛けてはいる。けど、これといった美人でもない。そんなことは自分でもわかっている。
27歳。茶色の瞳。162センチ。クセのないセミロングの髪を後ろでくくって、前髪はサイドに流してある。
ーーなんの特徴もない上に、最近は肌年齢まで気になってきた……そんな葵にとって、相談を持ちかけられれば親身になって話を聞くのはごく普通のことだけど……
思い起こせば、苦い思いをした最初のプロポーズは、大学の同級生からだった。
就職活動で悩んでいた彼から何気なく相談を持ちかけられ、『植松さんて意外と話しやすい。付き合おうよ』で始まり『遠恋になるけど、ゆくゆくは結婚を』と、卒業間近に指輪を渡された。ーーが、それ以降プッツリ。就職先の関西に発った男とは連絡が取れなくなった。
心配で彼の友人に電話したら、『あいつ、向こうで彼女ができたらしい』とフェードアウトの理由を他人から聞かされ、本人からはサヨナラの一言もなくの強制終了だった。突然襲ってきた悲しさも、指輪まで渡された関係のあっけない最後のショックも、どうすることもできずに葵は就職が決まっていた今の会社に勤めだした。
そして数年後。
あっという間に月日は過ぎて、これと言った出会いもなく、会社と家の往復を繰り返す毎日。学生時代はなんてお気楽だったんだろうとつくづく思っていたそんな時、たまたま飲み会で相談にのったのが今回の元カレーー石田だった。
石田は営業の仕事で悩んでいた。葵がサポートに入り結果を出し始めたのがきっかけで付き合いはじめ、去年、彼が海外プロジェクトメンバーに選ばれた。そしてお祝いのディナーで『結婚しようか』とプロポーズされたのだ。喜んだのも束の間、帰ってくるまでは婚約も黙っていようと言われ、え?と思ったが、本人がいなくなるのだからと頷いた。結婚資金も貯めなきゃだし、休みもわざわざ来なくていい……そう言われてこの半年、メールや電話のみ。直接会ってはいなかったけど。
(結局、あの男の本性を見抜けなかったってこと……よね)
悩み事相談ではじまる付き合いは、こんな終わりばっかりだ。
さっき見た感じだと、石田と受付嬢の仲はかなり以前からだろう。見た目が草食系の彼は、ガツガツした感じがない。だが、優柔不断というか決断力に欠けるゆえに仕事を手伝ってあげているうちに、いつのまにか……企画の草案にはじまり、データ分析、あげくはプレゼンまで葵がほとんど代筆していた。
それでも、二人の将来のためと言われたから頑張ったけど。もしかして、すべてが嘘だったーー?
……葵も頼られると弱い自覚はあった。『葵のおかげだ、ほんと助かる』などと言われると、母性本能をくすぐられて。でもーー今夜はじめて彼のこズルさを思い知らされた気がする。石田はたぶん利用目的で自分と付き合い、裏でこそこそ浮気をしていた。この痛い事実に、身も心も打ちのめされた気分だ。
失恋どころか付き合って2年すべてを、こんな最悪な形で踏みにじられたのだから。ーーもっと……もっとこう、トイレにでも駆け込んで、泣き叫んで、それこそヤケ酒に走ってもおかしくないのではないか?
なのに心は空っぽ。結婚を考えたほど好きだったはずだけど、今はもう、心に穴が開いたような空虚感がむなしいだけなんてーー……
会社でも、朝から目が回るほど忙しかった今日は、歩いて帰るのさえ億劫で、まだ週の半ばなのにいまさら帰って自炊する気になれない…………
駅の改札口を出ると家に向かって勝手に進んでいた葵の足が、ピタと止まった。
(ーーまだ、間に合うかな……)
イートインはダメでも、持ち帰りは頼めるかも知れない。
そう思うと気がつけば足は自然と、定期的に訪れる馴染みのカフェへと向かっていた。
「ーー申し訳ございません。本日はラストオーダーの時間を過ぎておりまして……あ、植松さんでしたか。こんばんは」
閉店準備をしていた店員は看板を運んでいた手を止め、顔を上げると途端に笑顔になった。
数年前に開店した当初から、葵はこのカフェでちょくちょく飲食をしている。新メニューのお知らせにも登録していて、試食のお誘いには必ず予約をするから古参の店員には顔を覚えられていた。
「こんばんは。あの、注文もう遅いですよね……」
「ーーお待ち帰りなら、OKかもですよ」
ちょっとしたお辞儀がやたら板に付いている店員は、笑いながらこっそりといった感じで教えてくれた。予約で来店するたびに「植松様」と呼ばれるのが気になって、様呼びを遠慮した葵を”植松さん”と呼んでくれる気さくな人だ。
「厨房に確認してみましょう」と店じまいの手を止め、わざわざ聞きにいってくれた。
店内は薄暗く、最後の客はもう帰るところだ。
「OKだそうです。いつもの『玄米焼きおにぎり定食』でよろしいですか? それとも、『シェフお勧めセット』になさいますか?」
「じゃあ、『おにぎり定食』をお持ち帰りで」
顔を輝かした葵の注文に店員は頷くと、精算を済まし「少しの間、お待ちいただけますか?」と断ってまた厨房に消えた。
よかった、ギリギリ間に合った。
駅からそう離れていない三階建ビルの一階にあるこのカフェは、朝早くから開店しているぶん、店じまいが早い。ここのカフェ飯はコスパが良く、ファーストフード店方式でカウンターで注文してから自由に席につける。持ち帰りもできるから夜にも何回か寄っているが、こんな閉店間際に訪れたのは今日がはじめてだった。
コーヒー豆の匂いが漂う店内は落ち着いた内装で、広いカウンター、その横に並べられた手作りケーキにも食欲をそそられる。多国籍メニューはどれも美味しいし、値段もそれほど高くない。
ついつい甘いものにまで手を出したくなるが、やけ食いはダメだと葵は視線を無理やりカウンターから引き剥がした。チョークアートで描かれたメニューボードは可愛くてオシャレだし、閉店間際でメインの明かりは落とされ、天井からぶら下がる小さな星を集めたようなランプだけが木の床とテーブル席を柔らかく照らしだす。
物静かで心安らぐ空間に、ささくれ立っていた葵の心も和らいで、その口元が今夜はじめてゆるんだ。
(それに、なんと言っても素敵なピアノに会えるから……)
この店の奥には階段がひっそりとあり、降りていくと半地下のフロアがある。賑やかな上階とはまた違った趣があり、従業員の休憩室かな?とも最初は思ったが、小さなテーブルセットが1組置いてあるだけのそこにはなぜだか白いピアノが置かれていた。
白く艶やかなベビーグランドは、側面にモール装飾が施されており、三つ足がまた猫脚である。
すごく存在感があるのに……オフホワイトの上品さが際立ち気品にあふれ、なのに可愛くてーー。
見ているだけで気持ちが和み優しい気分になる。ピアノが置いてある空間だけはクラシカルな華麗さを感じさせる、葵の癒しスポットだ。
葵は初めてここでピアノを見た時から、なんて素敵なんだろうと強く惹かれた。いつか艶のある表面を撫でてみたいと思うが……。いつ見ても侵入禁止のお洒落なチェーンスタンドが手前に立ててあり、触れることはできない。でも、申し訳程度に置いてある唯一の椅子とテーブルから、その上品な姿を眺めるのがとても好きだった。注文したものも給仕されてくるので葵の指定席となっている。
このフロアにはそれとは別に、いかにも座り心地良さそうなベルベッド生地の長椅子とテーブルもある。だが、一昔前の高級食堂車のような作り付けのそれらは階段の裏壁に設置されており、それもスタンドの向こう側にあるため何か秘密めいている。
なんにしろ、ピアノを眺めるだけのもの静かな時間はとても居心地のいいものだ。
支払いを済ませると奥に消えた店員を見て、待ち時間だけでもと葵はピアノを一目見るべく店の奥にある階段を下りていった。
白い上品な姿が目に入ると、凍てついた葵の心が動きだす。こんな最悪の日でも、まるで初恋の人に会ったそんなトキメキにも似た気持ちになる。
(あ……今日はない……?)
見ればいつものチェーンスタンドが取り除かれている。
それまでぼんやりしていた葵の意識が、急にハッキリとした。一歩足を踏み出しそのままそおっと、ピアノに近づく。その滑らかな表面に触れると、思ったより冷たくない。
すると唐突に、ぽた、と大粒の涙が目尻から滑り落ちた。
(あ、あれ?……やだ、さっきまで平気だったのにーー)
なぜにこんな今になって……、どうしようもなくやるせない気持ちになるーー?
元カレに未練はない。ーーけど、悲しくてしょうがないーー…………
「うっ……ふぅっ……っ」
思いがけず次々と溢れ出る涙に自分で驚き、嗚咽をこらえ慌ててハンカチをバッグから取り出した。
けどーー、視界に映る白いピアノが泣いてもいいと慰めてくれている気がして、そのままひとしきり泣いてしまった……
しばらくすると涙は止まったが、まだスンスンする鼻をかんで顔を上げたら、突然、階上から足音が近づいてくる。トントン。ーー誰かが階段を降りてきた!
(まずいっ、隠れないとーーっ)
見つかりたくないーーただただそんな焦りで頭がいっぱいで、どうして隠れる?という疑問もわかなかった。
そして気がついたら、とっさに階段後ろのテーブル下に隠れていた。
(あれ? 何してるの、私……?)
床に手をついた途端、ハッと我に帰る。
ほんと、何をしているんだろう? もしかしたら親切な店員が、姿の見えない自分を探しているのかもしれないのに……
自分がとった馬鹿げた行動に、心の中で笑止だ。けど、狭い場所から出ようと思った葵の視界に焦げ茶色の洒落た革靴が映った。
ーー違う、店員ではない。葵の隠れている角度からでは足元しか見えないが、どうみても高級そうな革靴に仕立てのいいダークブラウンのスーツの裾が近づいてくる。コーヒーの香りにほんのり混じった、爽やかなメンズ香水。そのわずかな芳香を嗅ぎ取った途端、葵はパニックに陥った。
(ど、どうしよう~!)
こんなところに隠れているなんて、どう考えても自分の取った行動は怪しすぎる。
でも、今からゴソゴソ出ていくのも……と悩んでいるうちに、ガタンと椅子を引く音がしてピアノがポロンと音を立てた。
(え? あ、う、わぁーー……)
甘く切ない旋律がいきなり葵の心を鷲掴みにして、優しく語りかけてくる。
ピアノの演奏……なのに。
聞こえてくる調べはまるで歌声のようーー……
奏でられるその繊細なタッチに、葵の身体までもが震えてきた。どうしようもなく胸が締めつけられる。
なんだろうーーこの、甘やかで魅惑的なメロディーは……?
音が全身に絡みつき、優しい旋律に葵の肌が撫であげられ包み込まれていく。ーーと、演奏が突然止まった。
「鳳条さんーー、こちらなの?」
階段を下りてくるヒールの音が、カタンとする。
「……ここへは、こないで欲しいと言ったはずだけどな」
ピアノの方から艶のある低い声が答えた。硬い口調に、ハイヒールが止まる。
「久しぶりなのよーー。少しでも早く、会いたいじゃない?」
「約束を守れないようなら、あなたとは今日でおしまいだ」
仕方ないなといった調子で告げられたその言葉に、葵の心臓がドキンと跳ねた。
(う、嘘ぉ。こ、これはもしかしてーー)
もしかしなくても、思いっきり修羅場だ……
この短時間に二度もこんな場面に遭遇してしまうとは、今日はなんて厄日……いやいや、そんなこと言ってる場面じゃあない。近づいてきたハイヒール。そして「どうしてそんなつれないことを言うの……?」の言葉の後に聞こえてきたクチュっと濡れた音にーー!
(ぎゃ、ぎゃあぁ、いっやーーぁ)
いくらなんでも、他人の濡れ場を傍聴する趣味はない!
ガタン、っといきなり飛び出した。そんな葵を、呆気にとられた男女が目を見開いてみている。
「す、すいません! お邪魔しました。ピアノ演奏素敵でしたっ」
焦るあまり相手の顔もろくに見ず、葵はダッシュで階段を駆け上った。
「あ、植松さん。こちらに……」
「ありがとう。じゃあまたっ」
葵を見て安心したような店員から、お持ち帰りバッグを奪うように受け取るとカフェから飛び出した。
小走りで50メートルほど走って、ようやく、ハアハアと息継ぎをする。だけど心は逸って、家までの早歩きを止めなられなかった。
競歩で駆け込んだ玄関で、ガチャンと鍵を閉める。そしてそのまま、ずるずるっと扉を背に座り込んだ。
心臓のドキドキが、止まらないーー!
ほんとうに、今日はなんという一日なのだろう。
……出社した途端、取引先のメニュー変更に応じて調整と企画修正を余儀なくさせられ、おまけに仕入れ先の天候不順による思わぬ輸入価格の変動通知で、それはもう忙しかった。そして、結婚予定だった元彼の予想外の裏切り。最後は他人の修羅場との遭遇ときた……
目まぐるしく変転する状況に、一日中振り回された葵は座り込んだまま動けない。
けど、だけどーー振り回されたんだけれども。
「ふふ……は、はははーーっ」
葵は不意に、可笑しくなって笑い出した。
先ほど聞いた甘い調べと、予想もしなかった修羅場への驚き。そのせいで、落ち込んでいた気分がいっぺんに吹き飛んでしまった。
目尻の涙を拭って、ようやく立ち上がった葵の頭に浮かぶのは、元カレの痛手ではない。まるで心があのピアノの演奏で隅々まで浄化されたかのようだった。
すっかりすっきり、石田は黒歴史として葵の心から抹消されている。
(もう一度、聴きたいなーーあのピアノ……)
どんな人が弾いていたんだろう……? 落ち着いた頃に「いただきます」と手を合わせ、お箸でお持ち帰りをつつきながら、そんなことを考えてしまう。
さっきは気が動転しすぎて、残念ながら顔を見る余裕などなかったけど……
甘い旋律に包まれる不思議な感覚は、とにもかくにも忘れられそうにない。ーーが、小さなテーブルで夕食を食べ終わり、ベッドで横になると、さすがに明日からの職場を思って憂鬱になった。
これからは毎日、石田と顔を合わせなければいけない。同じ職場で働く気まずさは、どうやっても避けられないだろう……
けど。あの繊細でどこか官能的なピアノを心で再生すると、なんとか頑張れるような気がしてきた。
当分の間、恋愛はこりごりだーー。
新しい出会いから始めて、何年かお付き合いをして、ほどよく経ったところで結婚する。この、長~いプロセスをもう一度、それも1から始めなければならないなんて考えただけで気が遠くなる…………
今の葵には、とてもじゃないが、そんなエネルギーは残っていない。
この夜。最後の少しやつれたため息をつくと、葵の疲れ切った身体はゆっくりと眠りへ落ちていった。
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