不実な紳士の甘美な愛し方

藤谷藍

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恋じゃない、この気持ちは……

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思いがけない鳳条のお泊まり以来、葵はすっかり落ち着きを取り戻した。
元凶の石田は先輩である中西に尊大な態度を取ったせいで会社で目をつけられてしまい、当分寄りつかない気配だった。
だが、家に帰っても違和感を感じなくなったのは、すべて鳳条のおかげだ。

あの日から彼は欠かさず、葵の家に寄ってくれる。
帰宅して落ち着く頃に受け取る『もう直ぐ着く』のメッセージを合図に、彼が来てくれると葵がそわそわしはじめると、ほどなくノック音が聞こえてーー

「こんばんは。今日はどうだった?」

足早に出迎えた顔に、今帰ったよとばかり鳳条は笑いかけてくる。

「お疲れ様です。ーーおかげさまで、今日も平和でした」

弾んだ声の返事に安心したようすで靴を脱いで一旦部屋に上がり、葵の髪や唇に軽く指先で触れつつ「後で電話する」と言い残し、その後は名残惜しそうに夕食を取りにカフェへと帰っていく。そしてもちろん、就寝時に葵のスマホが鳴る。
ーーこの、予想外にマメな訪問が嬉しくて、葵はますます心を許していった。
彼から仕掛けられるたわいないスキンシップも日増し慣れたが、頬や鼻先、たまに耳や首筋にも触れてくる鳳条を今まで以上に意識してしまう自分に戸惑ってもいる。
けれども、唇へのキスは最初だけだったから。……きっと、不安を和らげようと優しい彼なりのスキンシップだったのだろう。そう思って、わざとそのことには触れなかった。
そんな揺れる心を知ってか知らずか名前呼びして欲しいと要求されーー葵から彼への呼びかけは、「鳳条さん」から→「伊織さん」へと変わった。
ベッドに寝転がって彼の名を呼び、スマホ越しに「おやすみなさい」を告げると、葵の胸が温かくなって1日が無事終わる。

そんな日々を重ねて迎えた今夜は、金曜の夜。
鳳条ーー伊織との約束どおり、葵は恋人としてお出かけする待ち合わせでカフェへと向かっていた。
ーー彼とのお出かけは、とても楽しみだ。彼の横に並ぶのはけっして嫌じゃない。一旦帰って着替えをしたからなのか、いつもより足取りも軽く今夜デートへの期待で胸が弾んでしまう。

ところが、カフェまであと二、三分という距離で雨がポツポツ降りだしてきた。
手をかざし少し早めに歩こうーーそう思った矢先の5秒後には、急変して激しい豪雨。
うそ~、と駆け出したものの、カフェに着く頃には全身がびしょ濡れだ……
ポタポタ落ちる滴を振り払い入店すると、先客が結構いる。閉店時間まではもう一時間を切っているから、きっと雨宿りで駆け込んできたのだろう。
中でもひときわ全身ずぶ濡れの葵を認めた榊は、レジを他の店員に任せ「どうぞ奥へ」と促した。ピアノの手前のチェーンスタンドを片付けると、一旦はそこを離れたがすぐタオルを片手に現れる。

「突然の雨で大変でしたね。温かい飲み物を持ってまいります」
「ありがとうございます。お忙しいところタオルまでお借りしてしまって、お手を煩わせてすみません。ーー私はもう大丈夫です。助かります」
「それでは……、植松さんが来店なさったことはオーナーにお知らせしておきます。どうぞごゆっくり」

受け取ったタオルでありがたく濡れた髪や服を拭い、あらかた身なりを整えると、しばらくして運ばれてきたホットチョコレートを時間をかけてゆったり飲み温まった。
やはり……ほんの少しの距離だからと、雨の降るこの季節に傘を置いてきたのは誤断だった。お出かけ用バッグに折りたたみはかさばると、見栄みばえをより優先してしまったのは彼に少しでも可愛く見られたい虚栄心だと分かっている。
ーーと、カップの底が見える頃になって誰かがトントンと階段を降りてくる音がした。ほのかに漂ってくる爽やかな男性香水の香りに、葵は顔を上げて微笑む。

「待ったかい?」

ところが、にこやかに笑った伊織は、葵の姿を見た途端、驚いて足早に寄ってきた。

「ずぶ濡れじゃないか」
「お帰りなさい。ーーちょっと油断しました。傘を家に置いてきてしまって」

服もまだ乾ききってないこんな格好、少し決まりが悪い。

「いいからおいで。風邪をひいたら大変だ」

だが、伊織は一大事とばかり葵の腕を掴んで、有無を言わせずズンズン引っ張っていく。
階段を登りきるとカフェには戻らず、「こっちだ」と店の厨房に入った。すると、奥に朝比奈の顔が見えたので足を止めて「ホットチョコレートありがとうございました」とお礼を言ったら、「葵、そんな挨拶は後でいいから、早くおいで」と怒られてしまった。
伊織の、「身体が冷えたらどうするんだ」と焦ったような声音と、珍しい名前での呼びかけに自然と従い葵はあわてて朝比奈に頭を下げ後を追いかける。

「あの、どこへ行くんですか?」

店の裏口らしき扉を開けて待っている姿に、ようやく疑問を投げかけた。

「家でまずは服を乾かそう」

カフェを出ると、ビルの入り口らしい場所そこは左にエレベータが。右手からは外へ出られる。だが、伊織はさらに奥まったガラスドアに向かった。セキュリティーパネルへキーホルダーをかざすと、ピッと可愛らしい音がしてドアがガチャンと開き、再び腕を取った葵と階段を上がっていく。

こんなところに上階へと続く階段があるなんて、今の今まで知らなかった。
着いたところは一見普通のマンションの外廊下だが、一軒家のような小さなゲートがある。押し開いて中に入ると電灯がともり、小石が敷き詰められた足元から玄関までの敷石が照らされた。

「早く中に入って、右手にバスルームがあるから」
「お、お邪魔します……」

葵の家の玄関とは比べ物にならない広い空間に、呆気にとられる間もなく急かされる。そのまま浴室へと案内された。

「濡れたものは全部、そこの洗濯機に入れたらいい」
「あの、でも着替えが……」
「とりあえずはこのローブでいいかな? 君がシャワーをしている間に、必要なものを買ってくる」

そう言って伊織は、壁にかけてあったバスローブを放り投げてきた。そのままスマホでどこへやら電話をしながら、急いで玄関に引き返していく。一人風呂場に残された葵は呆然として周りを見渡した。
先日訪れた高級ホテルと何ら遜色ないその内装に見惚れていると、ブルっと悪寒が走ってくしゅんとくしゃみが出る。
こんなところでいつまでも突っ立っていたら、本当に風邪をひいてしまう。
急いで洗濯機に服を放り込むと誰に向かってでもなく「失礼します」と挨拶をしつつ浴室に入った。

(わあ~、大きな浴槽……)

自分の家のユニットバスとは大違いな内装に見惚れながらシャワーを浴び出し、置いてあるシャンプーなどにドキッとしながら身体が温まると早々に浴室を出た。

(え? これって、サイズが……)

羽織ってみたバスローブは、当たり前だが葵とサイズが違いすぎる! 袖は余るし、裾はずるずるだ……
そう言えばホテルのバスローブは、丈がこれほど長くなかった。ーーそう思いながら腰紐をしっかりしめ、髪をタオルでゴシゴシと乾かす。ちょっと迷ったが思い切って、洗面台の引き出しを開けて、お借りしますとドライヤーを手にとった。
ブーンと吹いてくる温かい風は心地よく、身体もポッカポカだ。けど、髪を乾かしながら鏡に映るのは、自分のちぐはぐな格好。
伊織のスラっとした姿を頭に思い浮かべると、ああ見えてやはり逞しい男性なんだと再認識してしまう。
彼は背は高いけど威圧感を感じさせないから、ホテルで垣間見たその引き締まった身体は意識しないようにしてきたのだけど。
しばらくして、あらかた髪が乾くと今何時?と、スマホをバッグから取り出した。

(あちゃー、もうこんな時間が経ってる……)

約束の時間からは大幅に遅れている。今からなんて……レストランの予約に間に合うのだろうか。
気になってバスルームから出ると玄関の方へと歩き出した。だが、シンとした家の気配に足を止める。
伊織はまだ帰っていないらしい。ーーさてどうしよう?
手持ち無沙汰に正面の暗い空間を眺めていると、うっすら外の景色が見えた。一面ガラス窓らしいそこには、大きな遮光カーテンがかかっている。ん?とよく見ると、それは廊下の天井より高く続いていた。好奇心に勝てず、葵は廊下を進んで壁を探り明かりをつけてみる。

(うわあ、すごいなーー……)

5メートル以上は軽くある一枚布が、高い吹き抜けの天井から階下まで垂れ下がっている。柔らかなシアー透けるカーテンを見上げれば、次に目に入ったのは上階へと続く階段。そのまま視線を下げれば、座り心地良さそうな大きなソファーや壁にかかった明るい海の絵などが目に入った。
何もかもが目新しくて、葵はキョロキョロ部屋全体を見渡してしまった。
居間からダイニング、それに続くキッチンが一体になったこの大きな部屋は、ここが建物の中だというのを忘れてしまいそうなゆったりとした間取りの造りだ。

勝手にウロついていいのだろうかと思いながらも、目に映ったまだ真新しい感じのするキッチンに惹かれて葵はローブの裾を持ち上げそちらへと向かった。
近づいてみたのは、大型冷蔵庫や壁内面に一体化されたこれも大型の電子レンジとオーブン。広い対面キッチンカウンターの流し台近くには見慣れない機械がはめ込まれている。これってもしかして……と開けて見ると、やはりそれは大型の食器洗浄器だった。ーーこれはまさに、宝の持ち腐れである。中が空っぽの家電の扉をパタンと閉めた葵の口から、呆れのため息が出た。
こんな大きな自宅があるのに、あんな狭い葵の家に来たがるなんて…………

実は、葵の部屋に泊まった翌日も、伊織は夕食を食べたら戻ってくると言い出した。それをもう大丈夫だからと止めたのは葵だ。葵の狭いベッドでは背の高い伊織が心地よく寝れるとはとても思えなかったし、体調を崩したらと心配したのだ。
本音では彼と一緒に居たかった葵は、だからこそ、こんなことを続けたら深みにハマってしまうーーそんな予感に心が揺れた。

『……僕と一緒に寝るのが、嫌なのかい?』

低い声で問われて、慌てて否定した。一緒に寝るのが嫌なわけではない。伊織に無理をさせるのが嫌なのだと説明すると、難しい顔をされたので、代替案として寝る前の電話を約束したのだ。それからは毎晩、寝る寸前までスマホで会話を交わしている。
何にせよ、以前に家まで送ってもらった時に近所だと言っていたし、伊織は台所がわりに利用しているカフェ近くに住んでいるーーそう思っていたが。……ビルの上階すべてが自宅だなんて……ほんと驚きだ。
そんなことを考えていたら、玄関の外から小石を踏む音がかすかに聞こえた気がした。

「ただいまーー今帰ったよ。葵……? もう風呂から上がったかい……?」

扉が開き伊織の呼ぶ声がする。

……知らない間に、彼の中で名前呼びが定着したらしい……

けれど彼は年上だし、葵と呼ばれても違和感さえ湧かない。
どころか、ちょっぴり嬉しい気持ちになった葵はこれに関しては流すことにした。

「おかえりなさい。お疲れ様です」
「遅くなってしまったね。お腹が空いただろう?」

伊織はたくさんの荷物を持ったままこちらに向かってきた。

「すごい荷物ですね。すみません、私のためにわざわざこんな雨の中を……」
「ついでにドラッグストアによって、風邪薬とかも買ってきた」
「……私が風邪を引くことは、もう決定事項ですか……」
「念のためだよ。今夜のレストランもキャンセルしたから。そうだ。レストランと言えば……ちょっと待ってて」

話をしている途中で伊織は玄関へと戻っていく。そして、またバタンと扉が閉まる音がした。
なんともせわしいなと葵は呆れるが、いったい何を買って来たのだろうと袋の中をヒョイと覗き驚いた。

上品なワンピースとブラジャーを含む下着類。風邪薬に喉薬に頭痛薬。最後の袋にはパンやらミルクやらの他にも、朝食用であろう食料品が入っている。ひと目見て惹かれ、思わず手にとってみたワンピースのシフォンのような柔らかい生地に葵はうっとりした。

(こんな素敵な服を、わざわざ買ってくれたんだ……)

前に一度、こういう事はしなくていいと言ったし、伊織自身も女性へのプレゼントなどしないと言っていたのに。ーーレストランをキャンセルした今、ワンピースって必要だろうか……? 
この服代は返すと思いつつ、それよりもと卵やらヨーグルトやらを取り出し冷蔵庫に移しだした。
食べ物が傷みやすいジメジメしたこの時期ーーとりあえず着替えより食糧こっち優先だ。冷んやりとした冷蔵庫の中は予想通りほぼ空っぽで、買って来た品物が次々と収まっていく。要冷蔵の食料を詰め終わると、今度は残った品物の保管場所を探すべくキッチンの棚を開いた。
予想外にパスタやトマト缶をそこに認めた葵は、ちょっと驚く。

(へえ、料理も一応するのかな?)

それとも……以前ここを訪れた女性が置いていったのだろうか?
ツックン。
以前は感じなかった小さな胸の痛みを無視して同じ棚にパンを並べていると、玄関が開いた音がした。

「葵、ちょっと手伝ってくれるかいーー?」
「はい、今行きます」

ローブの裾を持ち上げ、ずるずる引きずって声のした玄関へと急いだ。

「あ、お持ち帰りですか?」

見慣れたカフェ容器がのったトレーを受け取ると、美味しそうな匂いがしてくる。カフェはもう閉まっているが、伊織のために用意されていたのだろう。

「うん、今から作るんじゃ時間がないし、材料もないからね」

それってもしかしてーー時間と食材さえ揃っていれば、夕食を作るつもりだった?

「伊織さんって、お料理できないんだと思ってました……」
「これでもカフェを始める前は、自炊してたんだよ」

長い腕が伸びてきてクシャと髪を撫ぜられた。

「忙しくなると、料理するのが煩わしくなるんだ。でも、週末とかは気が向いたら自分で作ることもあるよ」

笑いかけてくる顔が先ほど見たパスタが重なり、胸に安堵が広がった。「まれだけどね」と続いた言葉に驚きだけを表情に出す。

「それは意外です。ずっとカフェ通いだと思っていました」
「料理するのは嫌いじゃないよ。めんどくさいと感じることも多いけど」
「そんな伊織さんに毎回ご飯を作ってあげるなんて……朝比奈さんは良き奥さんになれそうですねえ」
「大いに遠慮するよ……」

片手にカフェの料理、もう片手で裾を持ち上げてダイニングに向かう葵を見て伊織は目を細めた。

「ハハハ、僕のローブじゃ、ちょっと大きすぎたかな。なにか着れる服を持ってくるよ」
「そこの袋にワンピースが入ってましたけど」
「あれは明日のだから。家ではもっと楽なのが、過ごしやすいだろう?」

ん? 

「明日ってーー?」
「今夜をキャンセルした代わりに、明日の昼に出かけよう。向こうもクラブに顔を出すって言ってたし」

今日のディナーはどこかのレストランで、客と会うついでだと聞いていた。
クラブって何だろう? ーーこの間言ってたホテルのメンバー制のクラブだろうか? そう思いながら夕食をテーブルに並べ出す。

「今日はリクエストどおり、近所で服を調達したから」

褒めてくれとばかり、こちらを見てくるから思わず顔がゆるんだ。こんな時の伊織は、とても年上に見えない。

「ありがとうございます。いくらでした? 手持ちで足りるといいんですけど……」
「……葵は僕の好意に、値段をつける気なのかい?」

ちょっと悲しそうに目を伏せられて、大いに慌てた。

「いえ、そういうわけでは……」

服代に対する彼の言い分に、大人気なく自分の主張を通す気も起きない。

「ーーとっても素敵な服で嬉しいです。あの、わざわざ選んでもらって、ありがとうございます」
「気に入ってもらえて、こちらこそ嬉しいよ。なら、この話はこれでいいね。それより、明日は僕のクライアントの奥さんも来るらしい」
「そうですか……、分かりました」

頷きかけた葵は、途中ではたと思い当たった。
それだけでは彼がどうして明日のワンピースまで買ってきたのかが説明つかないことに。
だがその疑問は、会話を続ける彼の言葉ですぐに解ける。

「泊まっていくだろう? もっと動きやすいシャツとかがいいかな」
「い、伊織さんーー? 一体何のことですかーーっ」
 
階段を上がっていく姿を葵は声で追いかけた。泊まるっていつそんな話になっていた……? 
二階の手すりで振り向いた伊織は、不思議そうな顔だ。

「僕と寝るのは嫌じゃないって、言ったじゃないか」
「それは言いましたけどーー」
「身体が冷えてるかもしれないし、今夜は夕食を食べたら薬を飲んで早く寝たほうがいい」
「でもそんな……。もし本当に風邪を引いていたら、それこそ伊織さんにも移っちゃいますよーー」
「僕は大丈夫だよ。風邪なんてここ何年も引いたことない。それに移せば治るだろう?」
「それはもっと困るじゃあないですか! 第一、そんなことになったら仕事はどうするんですーー?」
「その仕事も兼ねたランチに付き合ってもらうんだからね。この雨の中を送っていって、また明日迎えに行くよりかは効率的だよ」

効率的……

(いやまあ確かに、何度も送り迎えしてもらうのも気がひけるけどーー……)

葵が黙り込んだのを見て、伊織は階上の奥に消えた。

「でも、あの……」とやっと顔を上げた時にはシャツを片手に、階段を下りてくる。

「これはどうかな?」
「……お借りします」

とりあえずは着替えだ。
買ってもらったブラジャーとショーツのセットも一緒にバスルームに持ち込んで、半袖シャツを着てみた。

「……聞いてもいいですか、どうやって下着のサイズを……」
「そこは当然、記憶に焼き付いた君の胸を思い出してーー」

とっさに、手近にあった手拭きタオルを笑った顔に軽く放り投げる。

「冗談だよ、店の人に聞いたんだよ」

もっともらしく聞こえるが疑問の残るその言葉に突っ込むのを放棄した葵は、シャツの着心地にう~んと唸った。

「なんか、短いワンピースって感じですかね?」

肩の線がずれて袖は7部丈、裾は太腿の半ばまでくる。

「ちょうどいいんじゃないか? さあ、冷めないうちにディナーを食べてしまおう」

ちょうどいいという意見にはまったく賛成できないが、お腹がぐるっと鳴って優先権を主張した。
葵がこんな格好でも伊織は気にならないらしい。……どっちみちこの人にはすっぴんどころか、寝顔までも見られている。思い当たった事実に葵はいまさらかとテーブルで伊織の向かいに座り、いただきますと手を合わせた。そして今日の出来事などを話題に二人で夕食を食べ出す。

「……とこんな感じで、プレゼンが上手くいったので話が進んでるんですよ」
「よかったじゃないか」
「まあ半分以上は、組んでる営業マンができる人だからなんですけどね」
「……その人って、もしかしてこの間言ってた中西って男?」
「そうそう、中西さんのお陰で、会社での元カレ問題もほんと助かってるんです。なんか申し訳ないぐらい同情されてまして」

食事を終えカフェの皿を洗いながらそう述べると、ふ~んと伊織は頷く。でも、返事が心なし上の空なのを感じ取った葵は、話題を変えた。

「この家って、とても綺麗に片付いていますねえ。何だかモデルルームみたい……」
「ああ、家事代行に来てもらってるからね。出張で家を空けることがしょっ中だし、水やりとか、クリーニングなんかもやってもらえて便利だよ」
「どうりで……鉢植えが枯れてないわけですね。自慢じゃないですけど、植物は買ってから一ヶ月以上もったことがなくてですね……」
「へえ、意外だな」
「すべての女性が家事や家のことに長けていると思ったら、大間違いです」

そうなのだ。掃除や洗濯は普通レベルだと思うが、葵が買ってきた観葉植物は長く持ったためしがない。丈夫で繁殖力が強いと言われたパセリやミントでさえ枯らしてしまい、鉢植えを買ってくることはとうの昔に諦めた。
だから伊織の家の玄関脇に植えてある緑や、居間に置いてあるベンジャミンを見て、葵は素敵~と目を輝かせたのだ。

「これでこの家に、あの白いピアノがあったらーー。もう、最っ高ですよ!」

白木の床。淡いグレイのソファー、濃紺のカーペットに茶色いクッションなど、どことなく壁にかかった海の絵画のようなビーチサイドを連想させるこの家の内装は、とても居心地がよい。男性の一人暮らしだけあって、グレイや茶やブルー系統カラーでまとめてあるが、そこに白木やナチュラルのマホガニー家具が配置されているからか優しい雰囲気があった。

「そういえばーー葵はあのピアノがお気に入りだったな」
「そうなんですよ。もう一目惚れというか、癒しスポットというか。あ、それに……伊織さんが弾いてた曲も、ぜひまた聴きたいですーー」
「ーー意外と音響効果がいいから、店の地下にピアノを置いたんだけど……」

皿を拭いていた手を止め、顎に手を当てて伊織は考え込んでいる。
それを見て葵はしまったーーと思った。思いついたことを口にしただけで、こんなに彼を悩ませるつもりはなかったのだ。

「あ、あの、気にしないで下さい。そうして欲しいとかじゃなくって、ただ単にいいなと思っただけですから」

それによく考えたら、ここは伊織の家なのだ。ピアノがここ来てしまったら、癒しの要素が一つあのカフェから消えてしまう。そのことに思い当たった葵は慌てた。

「えっと、忘れてください。私ってばあのピアノが見たくてカフェに通っているようなものなので、もちろんそのままでいいです。すみません、変なことを口走って……」
「へえ……なるほど。そうなんだ……」

ニヤリと笑った伊織の瞳がきらめいてる。なんだろう。今度は機嫌がやけによくなった。

「僕はシャワーを浴びてくるよ。葵は適当にくつろいでて」

そう言って上階へと消えた。
よかった……うまく気をそらせた。
伊織は温厚な紳士だが、この頃は思いもかけないことでねたり笑ったりと色んな表情を見せる。彼が笑うとこちらも嬉しくなるが、拗ねると思いがけないことを言い出す時があって。……例えば、電話越しだと「伊織さんに早く会いたい」と言って欲しいとか、会っている時だと5秒ハグとか……実に、他愛のない要求だが。
恋人なんだからこれぐらいと言われるとそうなのかもだが……? だけど、これがやってみると結構恥ずかしい。
生真面目なところもある葵のそんな反応が伊織は楽しいらしく、おとなしく受け入れると笑顔になる。葵は……と言えば、出会った当初は大人の男性だと思っていた彼のこんな一面を見せられると、呆れるよりなんだか可愛いと思ってしまう。
何にしろ今夜は恥ずかしい思いをせずに済んだと、葵がソファーに座ってスマホでニュースを見ているとやがて伊織がトントンと階段を下りてくる足音がした。

「薬を飲んだかい?」
「いえ、まだです。けど、たぶん必要ないと……」

言った途端、くしゅんと小さなくしゃみが出た。

「……念のため、飲むことにします……」
「ほら、水と薬」
「あ、はい。ありがとうございます」

差し出されたコップを受け取ろうと、手を伸ばしかけたら、ピタッと伊織は動きを止めた。

「あの?」

伊織は、「違うな……」と言うなりいきなり錠剤と水を口に含んだ。呆然とした葵は突然抱き寄せられる。
目を大きく開くとーー。

「んーー⁉︎」

重なった唇から水と共に薬が喉に流れ込んできた。ゴクン。

「ん、んっ、はっ、なに? いきなり何するんですかーー!」
「……やはりこうだよな。恋人への飲ませかたは」
「なにを落ち着き払ってるんですっ! 風邪が移りますってーーっ」

思わず大声で叫んだ葵に、一瞬キョトンとした顔が笑い出した。

「ふ、ははは。そっちなんだ。怒るポイントは……」
「え? あの……」
「そうか、なら遠慮なく」

また引き寄せられる。

「ちょっと待ったーー」
「あと二錠、残ってる。待たないね」

んくっ。こくん。続けて重なってきた唇に息を注ぐ間もない……
ごっくんと最後の錠剤を流し込んだ後、喉を伝った一筋の水を見た伊織は、着ていたシャツをためらいなく脱いだ。「おっと」と何げなくぬぐいとる。
しなやかな上半身を目の当たりにした葵は、真っ赤だ。

「わ、私は大丈夫ですからーー、早く服を着てください」
「ーーじゃあ、そろそろ寝ようか」

シャツを着直すと伊織は部屋の電気を消し、葵と手をついないで二階へと登っていく。
真っ赤になって全身で息をしていた葵は、ぼおとしたまま引っ張られるようにしてベッドルームに連れ込まれた。
明かりのついた部屋に入ると、伊織はベッドの手前で手を離す。
サイドテーブルのランプの灯りをつけるとーー。

「先に休んでおいで。僕は戸締りをしてくるから」

そう言い残し天井の電気を消すと出て行った。
濃紺の夜空色ミッドナイトブルーと真っ白なシーツのベッド。壁にかかった海の写真が入った額。
背もたれのついた大きなベッドは、二人で寝ても余裕だろう。海に浮かぶ豪華なクルーズ船の船室のような落ち着いた上品な寝室は、伊織らしい部屋だと思えた。いつも彼がつけている香水の香りがかすかに漂っている。
淡い光に照らされた部屋を心地よく感じていると、窓が稲光で一瞬明るくなった。窓際に立って、薄く透き通ったカーテンを手で押しのけぼんやり遠くの夜空を見つめる。

唇がまだ熱い。

さっきのはまともに唇が重なってきた。以前にもヒョイと軽く触れられたことはあったけど……
こんな時、彼と葵とでは恋愛観が違い過ぎて”お付き合い”の認識ズレに振り回されそうになる。乱れた鼓動にそろそろ静まってと言い聞かせてみる。
ーー騒ぎ立てるほどのことでもない。経験豊富な伊織にとってはきっと、何でもないのだから。

(……そうよね、いつも真面目に受け取るから失敗してきたのかも。もっと肩の力を抜いて)

相手は包容力のある大人なのだし、口移しでなんてことも甘えていいのだろうか。
……いまだにそんな微妙にずれた思考でいると。

「こらこら、まだベッドに入っていないのかい?」

伊織がどうした?と怪訝な顔で戻ってきた。

「綺麗な稲光が見えて……」

そばまで歩んで来た背の高い姿に、再び淡く光った夜空を指差した。雨は小雨になっているが、雷鳴もかすかに聞こえる。

「本当だ、空が光ってる……」

二人で遠くに光る空を見ていたら、急に彼の吐息が近くにあるのを意識してしまった。

「……そういえば、意外でした。伊織さんが住んでるところって、タワーマンションとかを想像してたんですけど」

伊織が近所に住んでいるということは認識していたが、彼の雰囲気からしてもっとこう、セレブが好むいかにも高級で洗練されたホテルのような豪華マンションに住んでいるイメージがあった。
日当たり良好な街角の低層ビルに、広々とした一軒家の間取りを持つ住まいを構えている伊織は、ほんと読めない人だ。

「タワーマンションか……。そういう物件もいくつか視察はしたけどね。ーー僕はどちらかと言うと、生活感が感じられる街の明かりが好きなんだ」

目黒区にあるこの街は、交通が便利な割には大きな建物がなく日当たりが良い印象がある。大型施設がないこの地域の日常生活は、駅の周りの個人商店やスーパーが支えていて、葵が感じる古くから続く店と新しい店が共存する街の雰囲気を伊織も気に入っているらしい。カフェが一階にあるこの三階建てビルは、少し坂が多いそんな街中の角地に立っている。

「ガッカリしたかい?」
「いえ。とんでもないです……実は、高いところって、ちょっと苦手なんですよ。だからこういう地面に近いところの方が落ち着くっていうか……家々に灯る明かりって、優しいですよね」

葵がほっこり笑うと、伊織の黒い瞳が濡れたような艶を帯びた。

「おやすみのキスをしても?」
「え? あの」

答えなど待たず唇は重なっていた。

「ん……」

背中に腕が回り柔らかく抱きしめられると。一気に力が抜けた。
伊織の逞しい腕がしっかり支えてくれるから、その安心感でさらに寄り掛かってしまう。
温もりが優しく唇に触れて、離れては、また重なってくる。何度目かの触れ合いの後、伊織がふっくらした紅唇を軽く甘噛みしてきて、舌先で閉じた唇をねだるようになぞった。
促されるまま唇を緩く開くと、隙間から熱い舌が口内にするりと忍び込んでくる。

「あ、ふ……」

束の間の深いキス。
肩を抱かれる腕にもぎゅうと力が込められ、隙間なく身体を包んでくる体温に葵の顔がかあっと火照ほてった。
舌をふんわり絡め合うと胸がどうしようもなくキュンとなる。やがてゆっくり解かれた唇は、昂る心のままフルフルと震えていた。

「……すごくいいな……」

目を開くと見えたのは、夢見る眼差しの満足そうな顔。「ーー葵は? よかったかい……?」と問われても、せいぜい頷くのが精一杯だ。紅潮した頬を長い指がそっとなぞってきた。
急上昇した室温を無理やり下げるような、ゆっくりとした動作。だけど触れられた肌はそこだけ、火傷したように熱い。

「さあ……今日はもう寝よう。葵の身体が心配だ」

優しいキスに負けず劣らず、その言葉はとても暖かい。
キスの余韻でぼうとしたまま大人しく従った葵を、伊織はシーツの間で抱きしめた。

「おやすみ、明かりを消すよ」

ランプを消した手に再び身体を抱きしめられて、こめかみに唇が当てられる。

「嫌じゃなかったら、このまま抱いて寝てもいいかい?」

許可を求めてくる温かい体温を、ほどきたいとは思わなかった。

「……おやすみなさい」

頷いた葵に、嬉しそうな声が挨拶を返す。

「おやすみ。良い夢が見れるといいね」

身体を包み込む体温で温かくなった葵は風邪薬が効いてきたのか、その甘さを含む低い声が合図だったようにすっと意識が沈んだ。



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