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未来への誓い 2
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外はザアザアと風が唸る暴雨になっていたが、カフェにて夕食を食べ終わり一息ついた葵は、満足そうにごちそうさまと手をあわせた。
最後に出された緑茶をのんびり啜っていると、コツコツと重たい靴音が階段を下りてくる。
「こんばんは、植松さん」
こちらに向かって歩いてくる弁護士を前に、葵は心で深呼吸をしつつお腹にも力を込めた。
「鬼頭さん……こんばんは」
「お食事中のところ、失礼します。実は急な話ですが、今夜帰ることにしましてね」
傘を手にした初老の男は、雨で濡れた髪をハンカチで盛んに拭いている。
「いやはや、まいりました。この台風のせいで明日は全線ストップしそうです。ですから、帰る前にこの前のお返事をいただきにまいりました」
「同席をお許しいただけますか?」との問いに、葵は頷いた。
今度こそは、と覚悟はできている。
「さてと、伊織様と別れる決心をつけていただけましたでしょうか? これはほんの、お礼と申しますか、いわゆる手切れ金として受け取っていただきたいのですが」
(え? うそ……これって……)
鬼頭がさりげなく机上に置いた小切手には、なんと提示された値の倍額が印字されている!
ゼロが並んだ9桁の金額に、葵は内心で絶句した。
鬼頭の依頼主は、どうやらこの件に関してはとんでもなく太っ腹なようだ。ーーが、こう言っては何だが、驚くほど現実離れしたその数字は、ますます葵を冷静にさせただけ。
ここまでするなんて……とかえって不審を抱く。
伊織に見合いをさせる、本当にそれだけが目的なのだろうか? 単純に考えれば、伊織が独身を通せば大海家に二人いるという後妻の子供たちがその利権を得る。鬼頭はわざとなのかその存在を口にしないが。
葵は、チラと小切手を見ただけで触れようとはしなかった。
「ーー申し訳ありませんが、その小切手は受け取れません」
「……金額が少なかったでしょうか? 植松さんの生活を補償する額としては、これくらいが適当と思われたのですが」
探るようにこちらを見る鬼頭の目を、葵は落ち着いた態度でまっすぐ見返した。
「いえ、金額は重要ではありませんので。私の気持ちは、お金に替える気はないということです」
人の気持ちをこんな風に買収しようとする、そんな家と距離をとっている伊織の気持ちが痛いほど分かった。目を逸らさずキッパリと告げる。
「ですから、受け取れません。鳳条さんと別れるというお話はお断りいたします」
丁寧に頭を下げて、精一杯の誠意を示した。
「……一年もの単身赴任の間、伊織様をつなぎ止めておけると?」
そんな自信はない。けど、やってみないと分からないのだから、別れる理由にはならない。
「……かりにですね、遠距離をしのいだとしましょう。それでも伊織様は結婚しないでしょうね」
「まあ、そうですね」
婚約とかもうこりごり……と思う一方で、葵はいまだ結婚に夢をもっている。けど、それより何より、伊織が大事だ。こんなにも好きだと思える彼との関係を、ずっと大切にしていきたい。
……葵が独身を通せば、両親はガッカリするかもだが。
一向に動じない葵を見て、鬼頭は角度を変え切り崩しにかかってきた。
「……伊織様の約束された将来を、棒に振ってでもですか?」
「ーーどうでしょう。鬼頭さんのおっしゃる将来を鳳条さんが望んでいるとは、私にはとても思えません。それとは別にですね、私は彼のそばを離れません。私と離れたくない、彼もそう言ってくれたのです」
「いつかーーいえ、もっと近い将来にも、彼はあなたの存在を疎ましく思うかも知れません。それでも、ですか?」
思いがけない鬼頭の言葉に、葵の目が瞬いた。
「今の御当主と伊織様のお母様がまさにそうだった。恋愛結婚だったそうですが、家を継ぐはずだったお兄様が突然逝去されて、御当主が全事業を引き継ぐ事が決まった際に、大海の家に相応しい女性を改めて迎えたのです。……こう言ってはなんですが、伊織様のご生母は気立ての良い大変美しい女性でしたが、今の奥様と比べて、家柄、財産、それに政界へのコネクションなどに欠けていましたのでね」
伊織の父親に対する態度は、どこか冷ややかだとーー確執があるに違いないと思っていたが……今の鬼頭の言葉で完全に理解が出来た。聡い伊織は両親の離婚理由を、きっと幼い頃から知っていたに違いない。
「鬼頭さんがおっしゃりたいことはわかりました。ですが、このお話はお断りいたします。鳳条さんとは別れません」
「……これ以上は何を言っても無駄、という事でしょうか?」
葵は深く頷いた。
対する鬼頭は、黙ってゆっくりとテーブルに置かれた小切手を丁寧に鞄へと仕舞った。と、ふうと額のない汗を拭った瞬間、安堵の表情を浮かべる。
「よかったーー。あなたは本当に、伊織を好いておられるのですね。ホントよかった……」
(え?)
思っても見なかった鬼頭の反応に、葵は思わず目を丸くした。
「はは、驚かせてしまいましたか。私は大海家の顧問弁護士です。ですがその、伊織は私にとって息子のような存在でしてね。伊織の心眼は曇っていないと、相変わらずで大いに安心しましたーー」
戸惑いを隠せない葵の前で、ここからはプライベートだとでもいうように、鬼頭はそのシルクのネクタイを心なし緩めた。
「ーー植松さん、いや葵さんとお呼びしても良いですかな?」
びっくり目のままの葵は、言葉に詰まった。鬼頭は先ほどと口調までガラと変わっている。
「葵さん……伊織はね、どんな綺麗な女性と引き合わせても、それこそどんな良い条件を揃えた女性でも相手にしないんですよ。会ってみろと勧められれば、拒みはしませんがね。それにまた本人が際限なくモテる。あの容姿と頭に性格……ですからねえ。いいよる女性はたくさんいまして」
(……なんだか話が、息子自慢になってるーー?)
誇らしそうに語る鬼頭は、まさに世間一般で言う子煩悩な父親の姿そのものである。
「そんな伊織がねえ、最近になって遺言を書き換えたんです。私はすぐにピンと来た。これはきっとーー長い間探し求めていた人をやっと見つけたな、と」
ーー遺言? 今、遺言ってこの人は言わなかったか……?
鬼頭が口にした予想外の単語に、葵の頭がますます混乱してくる。なんといっても伊織は健康そのものだし、そんなことをする理由など葵には想像もつかない。
「なので貴女がもし伊織から離れていったらーーそれこそ、あの子の心はぽっきり折れて立ち直れなくなる。そう思うと私は心配で心配で……夜も眠れませんでしたよ」
30を過ぎた立派な大人である伊織をあの子呼ばわりしながら、葵に振られるのが心配で寝不足になったと打ち明けてくる鬼頭を、葵は信じられない思いで見つめた。
だが彼がとくとくと語る間、黙って話を聞く。それしか反応ができない。
「いや~。実はね、あの子の母親である女性に手切れ金を渡したのも私でしてね。仕事とはいえ、あれはほんと苦しかった。こう言っちゃあなんですが、御当主の身勝手さにはほとほと呆れた。心の中で私は彼女に土下座してましたよ。あ、私が御当主を身勝手だって言ったことはオフレコで」
葵に目配せをして笑いかけてくるこの弁護士は、相当な癖ものだ。
(伊織さんの教育係って……なんか納得、かも……?)
女性と割り切った付き合いばかりだったのに、どこか思いやりが感じられた伊織には、こんな人がついていたのか……
「伊織の母親はね、受け取りましたよ。全額の1億。そしてその上、御当主に対して二度と会いたくないと明言されて、養育費も約束させ東京にマンションを買わせた。だからですね、彼女が事故で帰らぬ人となってしまった際に、私が伊織の教育係として任命されて……時々、様子を見に東京に派遣されたわけです」
長々と昔話を始めた鬼頭だったが、いいところで葵のスマホが鳴り出した。
「あ、どうぞ出て下さい。もし伊織だったら、私も一言挨拶がしたいです」
のうのうと述べてくる弁護士の男には申し訳ないが、かかってきたのは知らない番号だ。
鬼頭の話に引き込まれていた葵は、それでも平静を装ってスマホに応えた。
「はい、もしもし」
『植松さん? 私ですっ、児島ですっ! すいませんこんな時間に。でも私、どうしていいのかわからなくって……』
電話越しでもヒステリックな様子が伝わってくる、そんな児島に葵は思わず引きそうになった。だがその声は切羽詰まっていて、葵の本能もなぜか切るなと告げくる。
「児島さん? 何かあったの?」
『そうです! そうなんです、植松さんっ、超イケメンさんが危ないんですっ! 彼ったら、ホント私のいうことぜんぜん聞いてくれないしっ、変な女のいいなりで、どう見てもおかしいし、あやしいし……』
一気に押し出される言葉の羅列の中で、ある単語が葵の中で引っかかった……
(え?? 超イケメンってーーまさか?)
「伊織さん? それって鳳条さんのこと? 彼がどうかしたのっ?」
スマホをぎゅっと握りしめて叫んだ名前に、そばにいた鬼頭も何事だとこちらを見た。そしてじっと耳をすましている。葵はとっさにスピーカーに切り替えた。普段の葵なら絶対にしないのに、この時はそれが正解だと疑わなかった。
(落ち着いて、私……まずは)
「児島さん、一体何があったの? ゆっくり話してみて?」
スマホを机に置き、鬼頭にも会話が聞こえるよう配慮をすると、自分こそ落ち着こうと大きく息を吸った。
『あの……今日お昼に、彼が勝手に転職を決めたって……』
「ええ、聞いたわ」
『その転職を持ちかけてきたのが、ホント変な女性なんです。ずいぶん前に、ホテルのレストランで植松さんにお会いした後で声をかけられたんですが。植松さんのこととか、会社の事とか、わけのわからないこと根掘りは葉掘り聞いてきて』
ドクンと葵の心臓が嫌な音を立てた。
(待って。それってもしかしてーー?)
「池杉さん……? その女性の名前って、池杉と言うのではなくて?」
『そうです! やっぱりご存知なんですね……。彼女って、なんだか普通じゃなくて。なのに石田さんたら……彼女の父親の会社へ斡旋するって言われて、私に黙ってコンタクト取ってたんです!』
こんなところで、池杉の名前が出て来るなんて思いもしなかった。葵の心臓が、嫌な予感でバクバクと速まる。そして耳を疑うような話はまだ続いた。
『しかもですよ、突然、イケメンさんーー鳳条さんをホテルに呼び出せって言ってきて……』
「鳳条さんを?」
『私が嫌だって言ったら、お前は邪魔だついてこなくていいってーー彼ったらひどいんです。いくらなんでもおかしいって、こっそり後をつけたら見てしまって。彼が水割りになんか入れてるのを。ぐったりした鳳条さんを、部屋まで送るって連れ出してて……』
石田が伊織を呼び出したーー? それもホテルに?
だが、伊織は出張からまだ帰っていないはず。明日が帰国予定だ。
これは一体、どう言う事なのだろう?
『エレベーターから池杉とかいう女性が降りてきて、歩くのもやっとの鳳条さんも一緒にまた乗ったんです。けど、扉が閉まってエレベーターが上がるのを見てたら、私何だか急に怖くなってーー植松さんに知らせなきゃって』
「ーー分かったわ。知らせてくれてありがとう」
『あの、どうしたらいいんでしょうか? エレベーターは38階で止まったんですけど、ホントわけ分からないし、怖くてしょうがないんです』
「大丈夫、任せて。児島さんは心配しないでいいわ。私が鳳条さんを迎えに行くから」
『っ、ありがとうございます。あの、ここはーーこのホテルは、港区のクイーンズウィングホテルです。あ、彼が出てきた! でもでも……一人だ……イケメンさんはまだ部屋にいると思うんです』
葵と話してだいぶ落ち着いた児島は、悩みを打ち明けたことで肩の荷が降りたようだった。唐突に「私……こんなのごめんです。彼とはもう別れます」と疲れ切った声がスピーカーから聞こえた。そして通話は切れた。
最後に出された緑茶をのんびり啜っていると、コツコツと重たい靴音が階段を下りてくる。
「こんばんは、植松さん」
こちらに向かって歩いてくる弁護士を前に、葵は心で深呼吸をしつつお腹にも力を込めた。
「鬼頭さん……こんばんは」
「お食事中のところ、失礼します。実は急な話ですが、今夜帰ることにしましてね」
傘を手にした初老の男は、雨で濡れた髪をハンカチで盛んに拭いている。
「いやはや、まいりました。この台風のせいで明日は全線ストップしそうです。ですから、帰る前にこの前のお返事をいただきにまいりました」
「同席をお許しいただけますか?」との問いに、葵は頷いた。
今度こそは、と覚悟はできている。
「さてと、伊織様と別れる決心をつけていただけましたでしょうか? これはほんの、お礼と申しますか、いわゆる手切れ金として受け取っていただきたいのですが」
(え? うそ……これって……)
鬼頭がさりげなく机上に置いた小切手には、なんと提示された値の倍額が印字されている!
ゼロが並んだ9桁の金額に、葵は内心で絶句した。
鬼頭の依頼主は、どうやらこの件に関してはとんでもなく太っ腹なようだ。ーーが、こう言っては何だが、驚くほど現実離れしたその数字は、ますます葵を冷静にさせただけ。
ここまでするなんて……とかえって不審を抱く。
伊織に見合いをさせる、本当にそれだけが目的なのだろうか? 単純に考えれば、伊織が独身を通せば大海家に二人いるという後妻の子供たちがその利権を得る。鬼頭はわざとなのかその存在を口にしないが。
葵は、チラと小切手を見ただけで触れようとはしなかった。
「ーー申し訳ありませんが、その小切手は受け取れません」
「……金額が少なかったでしょうか? 植松さんの生活を補償する額としては、これくらいが適当と思われたのですが」
探るようにこちらを見る鬼頭の目を、葵は落ち着いた態度でまっすぐ見返した。
「いえ、金額は重要ではありませんので。私の気持ちは、お金に替える気はないということです」
人の気持ちをこんな風に買収しようとする、そんな家と距離をとっている伊織の気持ちが痛いほど分かった。目を逸らさずキッパリと告げる。
「ですから、受け取れません。鳳条さんと別れるというお話はお断りいたします」
丁寧に頭を下げて、精一杯の誠意を示した。
「……一年もの単身赴任の間、伊織様をつなぎ止めておけると?」
そんな自信はない。けど、やってみないと分からないのだから、別れる理由にはならない。
「……かりにですね、遠距離をしのいだとしましょう。それでも伊織様は結婚しないでしょうね」
「まあ、そうですね」
婚約とかもうこりごり……と思う一方で、葵はいまだ結婚に夢をもっている。けど、それより何より、伊織が大事だ。こんなにも好きだと思える彼との関係を、ずっと大切にしていきたい。
……葵が独身を通せば、両親はガッカリするかもだが。
一向に動じない葵を見て、鬼頭は角度を変え切り崩しにかかってきた。
「……伊織様の約束された将来を、棒に振ってでもですか?」
「ーーどうでしょう。鬼頭さんのおっしゃる将来を鳳条さんが望んでいるとは、私にはとても思えません。それとは別にですね、私は彼のそばを離れません。私と離れたくない、彼もそう言ってくれたのです」
「いつかーーいえ、もっと近い将来にも、彼はあなたの存在を疎ましく思うかも知れません。それでも、ですか?」
思いがけない鬼頭の言葉に、葵の目が瞬いた。
「今の御当主と伊織様のお母様がまさにそうだった。恋愛結婚だったそうですが、家を継ぐはずだったお兄様が突然逝去されて、御当主が全事業を引き継ぐ事が決まった際に、大海の家に相応しい女性を改めて迎えたのです。……こう言ってはなんですが、伊織様のご生母は気立ての良い大変美しい女性でしたが、今の奥様と比べて、家柄、財産、それに政界へのコネクションなどに欠けていましたのでね」
伊織の父親に対する態度は、どこか冷ややかだとーー確執があるに違いないと思っていたが……今の鬼頭の言葉で完全に理解が出来た。聡い伊織は両親の離婚理由を、きっと幼い頃から知っていたに違いない。
「鬼頭さんがおっしゃりたいことはわかりました。ですが、このお話はお断りいたします。鳳条さんとは別れません」
「……これ以上は何を言っても無駄、という事でしょうか?」
葵は深く頷いた。
対する鬼頭は、黙ってゆっくりとテーブルに置かれた小切手を丁寧に鞄へと仕舞った。と、ふうと額のない汗を拭った瞬間、安堵の表情を浮かべる。
「よかったーー。あなたは本当に、伊織を好いておられるのですね。ホントよかった……」
(え?)
思っても見なかった鬼頭の反応に、葵は思わず目を丸くした。
「はは、驚かせてしまいましたか。私は大海家の顧問弁護士です。ですがその、伊織は私にとって息子のような存在でしてね。伊織の心眼は曇っていないと、相変わらずで大いに安心しましたーー」
戸惑いを隠せない葵の前で、ここからはプライベートだとでもいうように、鬼頭はそのシルクのネクタイを心なし緩めた。
「ーー植松さん、いや葵さんとお呼びしても良いですかな?」
びっくり目のままの葵は、言葉に詰まった。鬼頭は先ほどと口調までガラと変わっている。
「葵さん……伊織はね、どんな綺麗な女性と引き合わせても、それこそどんな良い条件を揃えた女性でも相手にしないんですよ。会ってみろと勧められれば、拒みはしませんがね。それにまた本人が際限なくモテる。あの容姿と頭に性格……ですからねえ。いいよる女性はたくさんいまして」
(……なんだか話が、息子自慢になってるーー?)
誇らしそうに語る鬼頭は、まさに世間一般で言う子煩悩な父親の姿そのものである。
「そんな伊織がねえ、最近になって遺言を書き換えたんです。私はすぐにピンと来た。これはきっとーー長い間探し求めていた人をやっと見つけたな、と」
ーー遺言? 今、遺言ってこの人は言わなかったか……?
鬼頭が口にした予想外の単語に、葵の頭がますます混乱してくる。なんといっても伊織は健康そのものだし、そんなことをする理由など葵には想像もつかない。
「なので貴女がもし伊織から離れていったらーーそれこそ、あの子の心はぽっきり折れて立ち直れなくなる。そう思うと私は心配で心配で……夜も眠れませんでしたよ」
30を過ぎた立派な大人である伊織をあの子呼ばわりしながら、葵に振られるのが心配で寝不足になったと打ち明けてくる鬼頭を、葵は信じられない思いで見つめた。
だが彼がとくとくと語る間、黙って話を聞く。それしか反応ができない。
「いや~。実はね、あの子の母親である女性に手切れ金を渡したのも私でしてね。仕事とはいえ、あれはほんと苦しかった。こう言っちゃあなんですが、御当主の身勝手さにはほとほと呆れた。心の中で私は彼女に土下座してましたよ。あ、私が御当主を身勝手だって言ったことはオフレコで」
葵に目配せをして笑いかけてくるこの弁護士は、相当な癖ものだ。
(伊織さんの教育係って……なんか納得、かも……?)
女性と割り切った付き合いばかりだったのに、どこか思いやりが感じられた伊織には、こんな人がついていたのか……
「伊織の母親はね、受け取りましたよ。全額の1億。そしてその上、御当主に対して二度と会いたくないと明言されて、養育費も約束させ東京にマンションを買わせた。だからですね、彼女が事故で帰らぬ人となってしまった際に、私が伊織の教育係として任命されて……時々、様子を見に東京に派遣されたわけです」
長々と昔話を始めた鬼頭だったが、いいところで葵のスマホが鳴り出した。
「あ、どうぞ出て下さい。もし伊織だったら、私も一言挨拶がしたいです」
のうのうと述べてくる弁護士の男には申し訳ないが、かかってきたのは知らない番号だ。
鬼頭の話に引き込まれていた葵は、それでも平静を装ってスマホに応えた。
「はい、もしもし」
『植松さん? 私ですっ、児島ですっ! すいませんこんな時間に。でも私、どうしていいのかわからなくって……』
電話越しでもヒステリックな様子が伝わってくる、そんな児島に葵は思わず引きそうになった。だがその声は切羽詰まっていて、葵の本能もなぜか切るなと告げくる。
「児島さん? 何かあったの?」
『そうです! そうなんです、植松さんっ、超イケメンさんが危ないんですっ! 彼ったら、ホント私のいうことぜんぜん聞いてくれないしっ、変な女のいいなりで、どう見てもおかしいし、あやしいし……』
一気に押し出される言葉の羅列の中で、ある単語が葵の中で引っかかった……
(え?? 超イケメンってーーまさか?)
「伊織さん? それって鳳条さんのこと? 彼がどうかしたのっ?」
スマホをぎゅっと握りしめて叫んだ名前に、そばにいた鬼頭も何事だとこちらを見た。そしてじっと耳をすましている。葵はとっさにスピーカーに切り替えた。普段の葵なら絶対にしないのに、この時はそれが正解だと疑わなかった。
(落ち着いて、私……まずは)
「児島さん、一体何があったの? ゆっくり話してみて?」
スマホを机に置き、鬼頭にも会話が聞こえるよう配慮をすると、自分こそ落ち着こうと大きく息を吸った。
『あの……今日お昼に、彼が勝手に転職を決めたって……』
「ええ、聞いたわ」
『その転職を持ちかけてきたのが、ホント変な女性なんです。ずいぶん前に、ホテルのレストランで植松さんにお会いした後で声をかけられたんですが。植松さんのこととか、会社の事とか、わけのわからないこと根掘りは葉掘り聞いてきて』
ドクンと葵の心臓が嫌な音を立てた。
(待って。それってもしかしてーー?)
「池杉さん……? その女性の名前って、池杉と言うのではなくて?」
『そうです! やっぱりご存知なんですね……。彼女って、なんだか普通じゃなくて。なのに石田さんたら……彼女の父親の会社へ斡旋するって言われて、私に黙ってコンタクト取ってたんです!』
こんなところで、池杉の名前が出て来るなんて思いもしなかった。葵の心臓が、嫌な予感でバクバクと速まる。そして耳を疑うような話はまだ続いた。
『しかもですよ、突然、イケメンさんーー鳳条さんをホテルに呼び出せって言ってきて……』
「鳳条さんを?」
『私が嫌だって言ったら、お前は邪魔だついてこなくていいってーー彼ったらひどいんです。いくらなんでもおかしいって、こっそり後をつけたら見てしまって。彼が水割りになんか入れてるのを。ぐったりした鳳条さんを、部屋まで送るって連れ出してて……』
石田が伊織を呼び出したーー? それもホテルに?
だが、伊織は出張からまだ帰っていないはず。明日が帰国予定だ。
これは一体、どう言う事なのだろう?
『エレベーターから池杉とかいう女性が降りてきて、歩くのもやっとの鳳条さんも一緒にまた乗ったんです。けど、扉が閉まってエレベーターが上がるのを見てたら、私何だか急に怖くなってーー植松さんに知らせなきゃって』
「ーー分かったわ。知らせてくれてありがとう」
『あの、どうしたらいいんでしょうか? エレベーターは38階で止まったんですけど、ホントわけ分からないし、怖くてしょうがないんです』
「大丈夫、任せて。児島さんは心配しないでいいわ。私が鳳条さんを迎えに行くから」
『っ、ありがとうございます。あの、ここはーーこのホテルは、港区のクイーンズウィングホテルです。あ、彼が出てきた! でもでも……一人だ……イケメンさんはまだ部屋にいると思うんです』
葵と話してだいぶ落ち着いた児島は、悩みを打ち明けたことで肩の荷が降りたようだった。唐突に「私……こんなのごめんです。彼とはもう別れます」と疲れ切った声がスピーカーから聞こえた。そして通話は切れた。
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