不実な紳士の甘美な愛し方

藤谷藍

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未来への誓い 3 & エピローグ

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「オーナーの身に、何かあったのですか?」

いきなり後ろから聞こえた声に、葵は飛び上がった。

「榊さん! びっくりしたーー」

階段を下りてくる音にまったく気づかなかったから、情けないほど動揺してしまった。そんな葵に謝るように榊は片手を上げ、鬼頭には目で挨拶をしている。

「すいません、驚かせてしまいましたか。ですが、先ほどのお電話はいったい?」

……スピーカーにしていたスマホの会話を、榊にまで聞かれてしまったらしい。いささか緊張した面持ちの榊と鬼頭からも説明を求められた葵は、スマホを確かめつつ事情をかいつまんで話した。元カレの石田と伊織の追っかけの池杉が、共謀して伊織を呼び出したらしいが……

「でも、伊織さんは明日帰国ですよね?」

新しいメッセージもなし。葵の半信半疑の問いかけに、榊は首を振って否定した。

「台風の影響で空便が飛ばなくなる可能性がある……そうオーナーにメールしました。それを受けたオーナーはきっと、空港でキャンセル待ちでもして急遽帰国を早めたに違いありません」

そうか! そういえば鬼頭も、明日は全線ストップだと言っていた。
葵の話を聞いた榊の動作が急にキビキビしだした。どこか権威的で背筋を伸ばし、即座に行動に出る。

「事情はわかりました。オーナーの拘引先はクイーンズウイングホテルですね? でしたら、朝比奈に聞いてまいります」
「え? 朝比奈さん……?」
「彼は昔、クイーンズウインググループで働いていたのですよ。ですから、知り合いがいるはずです」

そう言えば……伊織もこのホテルグループには知り合いがいると言っていた。それなら朝比奈も親しいのかも知れない。キリリと鋭利的な榊がそこを離れると、今度は思いがけなく鬼頭が申し出てきた。

「葵さん、私も一緒に参りましょう。池杉嬢の件は、私が伊織に頼まれた仕事でもあります」
「あ、ーーありがとうございます」

美沙の話を思い出した葵は、とっさに頭を下げた。伊織が信頼を置く人物であれば、鬼頭この人は信用できる。それに二人いれば状況に応じた行動が取りやすいだろう。
念のためと伊織にメッセージを送ってみたが、やはり既読にならない。葵はすぐにも出れるよう、バッグからノートパソコンなどを取り出し身軽な身支度を整えはじめた。
ほどなく榊が朝比奈を伴い、階段を下りてきた。

「植松さん、オーナーの居場所が分かりました。気象庁からの警報が出ないうちに、出発しましょう」

心強い言葉に、葵はひたすら感謝の気持ちでいっぱいだ。
ーー伊織の身に異変が起きている。思いがけない不測の事態に速まる鼓動を無理やり押さえ込み、児島へは気丈に返事をしたものの……正直、一人では不安だったし、ここまで迅速な対応もできなかっただろう。
感激している葵の横で、鬼頭の冷静な声が響いた。

「ですが、タクシーはそう簡単には捕まらないと思いますよ。なにせ外は暴風雨ですからね」
「ああ、それならーータクシーなんていらないよな、店長?」

朝比奈の呼びかけに、なぜだか壁に歩み寄りその装飾に手をかけた榊が、ニッコリ笑って応えた。

「もちろんです。それでは、今日は店じまいをお願いしますね」

驚いたことに、その言葉が終わると同時に装飾を取っ手のように回した。

「え、ええ⁉︎ これって……ここは扉だったんですか……?」

壁の一部分が外に向かって開いていく。ーー壁飾りに見えた華麗な装飾は、ドアの取手だったのだ。

「そうです。ピアノを運び出すのも、この出入り口を使ったんですよ」

……それはそうだ。どうして今まで気づかなかったのか。カフェの階段の幅では、ベビーグランドなど運び込めるわけがない。上部に示された非常口サインなど、まったく気にも留めていなかった……

そして驚いた葵の目の前に広がっているのは、どう見ても地下駐車場。

「こんなところ、あったんだ……」
「植松さんは、エレベーターをお使いになったことがないのですか?」

榊に不思議そうに聞かれて思い出した。

「あ、そう言えばーー」

伊織が葵のスーツケースを運び込んだ時に一度使った。けど、ゆっくり動くエレベーターに、これなら歩いた方が早いとそれ以降使っていない。言われてみれば確かに、ボタンは二つ以上並んでいた。その一つがこの駐車場だったらしい。

そして驚くのはまだ早かった。案内された車を見た葵はそう思った。

「ほう、四輪駆動車​​ーーですか」

感心したような鬼頭の声が聞こえる。
目の前にあるのは……どう見ても一般車ではなかった。
災害対策用車両、一般の自動車と比べやたら丈夫そうで大きいと感じる。

「いえ、これは民間車なんですよ」

と榊は得意そうに述べるが、どう見てもゴツい車体はとても普通車に見えない……
その上どことなく使い込まれた感がーーと、思わずぼうとしてしまう。

「確かに車はありますが、誰が運転出来るんです? こんな軍用車両ーー?」

(あ、鬼頭さん、言い難いことをさらっと……)

葵も同じことを思った。葵だって一応、普通免許は持っている。けど、こんな大型車を運転する自信などあるわけない。
せっかく伊織を迎えに行ける手段があっても、肝心の運転手がいない。この車なら確かに、この嵐の中でも平気で走行出来るだろうが。

「お任せ下さい。行き先はホテルでよろしいですね」

さっさと車の運転席に乗り込む榊の姿に、思わずポカンと口を開けた。

「自分は、元そちらで業務に従事しておりました。再就職に困っていたところを、オーナーが採用してくださいまして」

そちらって、一体どちらのーー?と聞くのもはばかれる雰囲気が榊のその笑顔にはあった。そして、ふと思う。
……伊織の周りって、異様に個性の強い人が多くないだろうか?
一流ホテルに務めていた片足のシェフ。どちらかの出身らしい店長。いかにも頭の切れそうな同僚や、食えない親代わりの弁護士……
いやいや、今はそんなことを考えている場合ではない。
朝比奈に手を振って見送られた一同は、シャッターが開いて吹き込んできた雨の中へと車で飛び出した。見ればそこは下り坂の横道で、めったに通らないからビルの一部だとは気づきもしなかった。こうして葵は運転手の榊と弁護士の鬼頭を伴い、ホテルへと急いで向かった。

優雅な高層ホテルの車寄せにキキッとブレーキ音が響く。一流ホテルだけあって、そこはリムジンや送迎バスが余裕で停まれるくらい広く、大型車がでんと止まってもまだまだ余裕がある。
「緊急避難路を確保するために、ここで待機する」という榊をおいて、葵は鬼頭と共に車から降りた。乗る時もまさによじ登るという感じだったが、降りるのも一苦労の車だ。
ここにたどり着くまで、ほんと生きた心地がしなかった。榊の運転は、スピードを厳格に守りながらもプロのスタント並で、うわあと目を瞑ったこともしばしば。
だが、てっきり榊のだと思ったこの車の所有者は、伊織であるらしい。車の中で聞いた話では伊織も彼も、クルーザーやヘリ、はては小型飛行機まで操縦できる免許を取得していると聞いて、開いた口が塞がらなかった。後部席に座った鬼頭は、うんうんと嬉しそうだったが……

「実際に運転できるからこそ、その分野の技術革新の話を理解できるんですかねえ?」との鬼頭の弾んだ声に、仕事の一環かと納得したようなーーそうでもないような。なぜなら、伊織を知る葵は「いや絶対趣味も入ってる」と思ったからだ。
それはさておき、ホテルの入口にて二人は意外なことに、花束を手にしたホテルマンに「失礼ですが、植松様でいらっしゃいますか?」と声をかけられた。

「お部屋まで、案内をさせていただきます」
「え? あの、それは……どうもありがとうございます」

おそらく朝比奈が話をつけてくれたのだろうが。……ホテルの客であろう池杉の予約した部屋に、こんなかたちで案内してもらえるとは思いもしなかった。
いかにも社会的地位の高そうな鬼頭が、葵の後ろに控えているからだろうか……?

「今回のことは、当ホテルのバーで起こった不祥事ということで、上手く対処するよう厳重に言いつかっております。最大限の協力をさせていただきますので、どうかこのことは内密にしていただけないでしょうか」

素早く移動しながらの申し入れに葵が答える前に、鬼頭が口を開いていた。

「それは状況次第、鳳城伊織の無事が確認できればですね。とりあえずはそちらの意向に添いましょう」
「ありがとうございます」

エレベーターから降りた葵たちは、客室の手前で、扉から姿が見えない位置での待機を指示された。

「私からの合図を待って、その後部屋に入って下さい」
「分かりました」

鬼頭と共に頷いた葵は、ホテルマンの合図を待った。
外の嵐の気配など感じさせない静かなホテルの廊下で、どこからかシャンペンのワゴンを押すボーイが現れ、扉をトントンと叩く音が控えめに響いた。

「ホテルのサービスです。ホテル会員である池杉様に、花束とシャンペンをお届けに参りました」
「お花ですか?」

部屋の中から返事が聞こえて、ガチャと扉が開いた。
そこにホテルマンの姿とボーイの手にした花束、トレイに乗ったシャンペンや苺のもられた皿などを認めた池杉は、「まあ、すごい」とはしゃぎ声だ。ホテルマンが「ここにサインを……あいにくの天候となりましたが、ご不自由な点などありましたら……」などとやり取りする間に、素早くボーイがシャンペンの載ったワゴンを中へと運び込んだ。

「おや、こちらのお客様は随分と具合が悪そうですね。これはいけない、今すぐ医者を呼びましょう」

驚いたボーイの声が部屋の中から上がる。

「あ、いえ、そんな必要は……」

慌てて否定しかけた池杉を遮って、ホテルマンが「それは大変だ」と言いながら扉を大きく開けた。
鬼頭がまず飛ぶように部屋に入っていった。呆気にとられた池杉など無視して、ベッドに横たわった半裸の伊織の脈を測り、安心したように大きく息を吐く。
そして伊織の身体を起きろとばかり、軽く揺すった。

「伊織様、しっかりなさって下さい」

葵も「どういうことですっ? あなた方は一体どうやって……」とわななく池杉の横を通り過ぎ、伊織に駆け寄った。

「伊織さん、起きて下さい!」
「う……んんーー葵?」

目を擦りながら起き上がってくる伊織を腕に抱くと、葵の身体にどっと安堵が流れこんだ。
よかった! 彼が無事で、ほんとよかったーーーー…………
伊織の上着のボタンはすべて外されているが、見たところ外傷はない。けれども、ベルトも半分取り外されての危うい半裸姿にーーどうやらギリギリ間に合ったらしいと、痛いほど泣きそうになる。

「あれ、葵……? それに鬼頭さん……僕はどうしたんだ? 確か水割りを……」

頭を振って、それでもしっかりした声を出した伊織に安心したからか、身体が震えて葵はまともに答えられなかった。

「あの、電話が……それで、呼び出されたって……」
「薬を盛られたんですよ。意識のない人を襲うなど、同意なしの違法行為ですね」

鬼頭は冷静な対応をしている。だが葵はベッドに起き上がって足をつこうとする伊織に寄り添って、よろめきかけた彼を支えるので精一杯だった。伊織の温かい体温を感じると、不覚にも目尻がうるうるしてくる。

「ち、違うわ! お酒を召し上がった鳳条さんが、私を口説いてきてーーもちろん同意よっ」

甲高く否定する池杉へ顔を向けた葵は、よく見れば彼女がバスローブ姿なのに気づいた。だが興奮気味な彼女の発した言葉に一瞬キョトンとした伊織は、突然笑い出す。

「あり得ない。第一君とは飲んでない。僕は石田と名乗る男に、急な呼び出しの詫びだと水割りを差し出されて飲んだだけだ」
「……その後に、酔った鳳条さんが私をこんな格好にしたんですよ。ほら、鳳条さんだってその気だったでしょう?」

バスローブの下の下着姿を誘うように自信満々でさらけ出す池杉を、伊織は軽蔑しきった目で見ている。

「どんなに酔っていようと、僕は君には欲情しないよ。そんなはしたない格好を人前でして、君は恥ずかしくないのかい?」
「なっ、あ、きゃああっ」

伊織からの指摘で、その場にはホテルマンや鬼頭までいるのだと改めて気づいた池杉は、小さな悲鳴を上げて風呂場へと駆け込んだ。
だが池杉など気にも留めず、伊織はベッドに腰かけたまま葵を反省の目で見上げてくる。

「葵……すまない。僕はどうやら、嵌められた」

「君は? どうやって、ここが分かった?」と立ち上がってこちらに手を伸ばしてくる顔に向かって、葵はーー

「伊織さんの、バカ~~!」

放り投げるものが周りになかったので、自分自身でその胸に飛び込んでいった。

「な、なんだい葵? ーー言っておくけど、僕は彼女に指一本も触れてないよ」
「そんなことは分かってますよ。伊織さんの大バカっ! だけど、なに間抜けなことしてるんですかっ」
「……葵の言い分は、正しいな……」
「当たり前です! 今回は見逃しますが、今度つけこまれたらーーっていうか、いつ帰国したんですっ⁉︎」
「夕方だよ。驚かそうと思ったんだけど、空港に着いた途端、葵のことで相談があるって連絡がきて……」

そこへ、大急ぎでワンピースを着た池杉が割って入ろうとした。

「悪いけど植松さん。見ての通り、鳳条さんは私を誘ったの。もちろんその気でね」

勢いで伊織の腕を取ろうとした池杉は、守るように一歩前に踏み出した葵に阻まれた。
だが、池杉は余裕の笑みを浮かべる。

「あなたは、浮気は絶対許さないって聞いたけど。心変わりなんて普通じゃない? そんなお堅いんじゃ、鳳条さんに愛想尽かされて当然よ」

勝ち誇った顔が「でもまあこれで、別れるしかないでしょう?」と告げてくるが、葵はまったく意に介さなかった。
婚約までした石田を受付嬢にネトられた時、自分は対峙も戦いもしなかった。
だけど伊織は違う。葵は彼を心から愛していて、目の前の美女にこの愛しい恋人との仲を引き裂かれることなど絶対にさせない。
負けるものか、と葵は伊織の側で池杉に向き直った。

「伊織さんは何もなかったと言っています。ですから私は、それを信じます。伊織さんとは別れません」
「そんなの嘘に決まってるじゃない。彼は私とずっと一緒だったわ。ホテルで二人きりで何もないわけないでしょう」

葵は強い意志を込めて池杉を見返した。

「なんと言われようとも、私の心は変わりません」

一歩も引かない葵を、嬉しそうに笑った伊織がおもむろに後ろから抱きしめた。

「嬉しいな……僕もだよ、葵。心変わりなんてしないよ。こんな可愛い新妻が家で待っているのに、浮気するわけないだろう。論外だね」
「「は?」」

伊織の唐突な言葉に葵と池杉の声がハモって、二人揃っての間抜けな受け答えとなった。
だが、回復が早かったのは池杉だ。

「ウソっ、ウソよっ、そんなの嘘に決まっているわ!」
「君が信じようと信じまいと、事実は変わらない。僕たちは結婚したんだ。僕は妻の葵を心から愛してる。誓って裏切らないよ」

目を見張った葵の左手をそっと持ち上げて、伊織は愛おしそうに薬指のリングにキスをした。その愛情溢れる仕草と葵の光り輝く指輪を見て、池杉はさすがにショックを受けたようだ。そのまま固まった。

「そんな、聞いてないわ……だってまだ……数ヶ月しか……」
「池杉さん、またお会いしましたね」

氷点下ゼロそのものの鬼頭の声が部屋に響く。そこで伊織の言葉でいっぱいだった葵の頭が、ようやく後ろに控えていた存在を思い出した。

「あ、あなたは……」

池杉は途端に真っ青だ。

「ーー以前に、ご両親とも面会しました弁護士の鬼頭と申します。その際にお話ししました。お忘れですか? これ以上伊織様に対するストーカー行為を続けるのであれば、きっちり揃えた証拠とともに警察に届けを提出いたします」
「これは……これは違うわ。私は鳳条さんに誘われて……」
「ありえません。伊織様が葵様以外の方になびくなど」

鬼頭は池杉の言い分をバッサリ一笑に付した。

「ですがーーどこまでもそう主張なさるのでしたら、このホテルの監視カメラを確認させていただきましょう」

依頼者である伊織が頷くと、それまで部屋の扉を閉めて入り口をガードしていたホテルマンも「もちろん、協力いたします。それではご一緒にーー」と池杉を促す。

「あ……いやっ」

よろり。池杉は盛大によろけた。

「そんな、これじゃ私、まるで不倫を……ーー」

泣き出した彼女は、後退りして、そのまま扉にぶつかりそうな勢いで部屋から逃げ出そうとする。だが目の前に立ちはだかったホテルマンを見て、ついに観念したようだ。「こちらに、一緒にきていただけますか」との言葉に「違うのよ……不倫なんてしてないわ」といまだ言い訳しながらも従いトボトボ部屋を出た。
ーーどうやら、彼女にとって浮気はOKだが不倫はダメなもの……らしい。葵はまったく理解できないその恋愛観念だが、彼女なりのボーダーラインはあるのだろう。

部屋の扉が閉まった途端、伊織は葵の腰を抱いて、びっくり目のままの顔に唇を重ねた。そのまま押し倒してくる伊織に、驚きで硬直した葵はされるままだ。
だがしかし、クチュと深いキスを仕掛けだした伊織の腕を、ようやく頭が追いついてきた葵はグッと押し返した。

「ち、ちょっと待ったあ!」

伊織の腕の拘束がゆるんだ隙に、抗議の声を上げる。

「伊織さん! 妻って……? 知りませんよっ、そんなデタラメ言って噂にでもなったら」
「デタラメじゃない。それに別にいいんじゃないか?」
「いいんじゃないかってーー?」

目を白黒させた葵の頬を、伊織は愛おしそうに撫でる。

「こんなものは、言ったもの勝ちだよ。君が僕の妻だって噂になったら、僕にはむしろ都合がいい。僕のものだって堂々と見せつけられるし」
「な、え? 待って待って、いったいいつ、私たちって夫婦になったんですーー! ってか、伊織さん、結婚は嫌だって、絶対にしないって言ってたんじゃあーー」
「葵以外の女性とはしたくないよ。それに僕たちはパートナーだろ。つまり夫婦同然」
「えーー??」

素っ頓狂な叫びが思わず口から出る。
結婚しようと言われた相手に2度裏切られた葵は、そんなのしないと断言していた相手に、勝手に妻呼ばわりされている。

「伊織様。わたくしめでよければ、喜んで結婚届の証人になりますが?」

だが、突然響いた声ーー笑いを噛み殺しながらの鬼頭には、さすがの伊織も面食らった様子だ。

「鬼頭さん、あなたまだいたんですか……?」
「久しぶりにお会いすることができたので、挨拶でもと思いまして」
「ーーこの前、会ったばかりじゃあ。それに、どうして東京こちらに……?」

いぶかしげな伊織に、鬼頭はニッコリ笑い返した。

「大海家の弁護士として、植松様に用事がありまして」
「ーー鬼頭さん、あなたまさか、クライアントの守秘義務に反したことを……」

大海家と聞いて、驚くより警戒感を抱いたらしい伊織だが、鬼頭はあくまで冷静だった。

「言っておきますが、私がバラしたわけではないですよ。大海家顧問の弁護士を使ったことで、池杉家向こうが慌てふためいて御当主に詫びの挨拶に参られたのです。そこから芋づる式です。私は刑法に違反するようなことはしていません」

動じない態度の鬼頭に、伊織は困惑している。
これはいけない。
鬼頭は仕事だから大海家の意向を遂行しただけで、伊織の父親代わりだと葵に打ち明けたのは、きっと彼の本音だ。
葵はとっさに鬼頭を庇った。

「伊織さん、鬼頭さんは私に話があっていらっしゃっただけで、ほんと大したことなかったです。もう話はついてますし。大丈夫です」
「葵……君は……」

伊織の瞳を真っ直ぐ見て大きく頷いた葵をつかのま見つめた後、鬼頭がゆっくり頷いたのを見たその顔がパッと輝いた。目を踊らせまぶしい笑顔で葵に向き直る。

「葵、僕の会社はね、世界のベンチャー企業への投資もしているんだ。シンガポールには、注目しているバイオテクノロジーや通信技術のカンパニーがある」
「え? あ……そうなんですか?」

いきなりーーいったい何の話なのだろう???

「大規模な金融センターでもあるし、東南アジアやオセアニア事業の開拓にも都合がいいから、足掛かりの拠点としてもいい。だからーー僕も葵についていくよ」

(は? え? ついて……来る? ーーシンガポールにまでぇ!)

「え、えぇっーー⁉︎」
「会社のパートナーたちの了承は得ている。この出張でそのための下準備もした」

さすがの葵も伊織の話には驚きを隠せず、ポカンと口を開いた。
伊織は構わず、先を続ける。

「けど海外での入籍手続きはややこしいから、出発前にしよう。その方が効率がいい」
「はいーーぃ?」

(入…籍……手続きって、本気で結婚ーーーー⁉︎)

間抜けな返事をした葵をなだめるように、伊織はそっとその身体を抱きしめた。
だが、葵のパニックはそれくらいでは、当然収まらない。

「ええっ? 入籍は決定事項ですかっ⁉︎ っていうか、効率がいいってーー!」

二週間後に迫っている、渡航を前にーー?

「当たり前だよ。僕をこれだけ夢中にさせた責任は、きっちり取ってもらわないと。大海の家との話もついてるって言ったね。ということは、僕を選んでくれたんだろう? ーーだったら葵、もちろん僕を婿むこにもらってくれるね?」

(え、あ、どうしよっ⁇ 顔は笑ってるのに、目が半分据わってるぅーー)

「っ! 伊織さん。こわい、こわいです、その顔ーー!」
「……いいかげん伊織って、呼んで欲しいんだけど……」

こんな型破りなプロポーズって、ありだろうかーー⁉︎

そこへ「オホン」とわざとらしい鬼頭の咳払いが聞こえた。伊織は「何だい、いいところなのに」といぶかしげに振り返るが、葵はその存在をすっかり忘れていたので全身が真っ赤だ。
二人のやりとりを微笑ましいと眺めていた鬼頭は、これは退散した方が良さそうだとようやく重い腰をあげた。

「伊織様。外の天気も怪しいですしーーそろそろ失礼いたします」

丁寧に礼をしてから「それでは、また」と嬉しそうに部屋を出ていく。
そうだった。呑気に言い争っている場合ではない。台風が近づいてるんだった。注意報が出ていて警報一歩手前の外は、見事な嵐だ。

「と、とにかくですね、榊さんが車で待っています。帰りましょう」

二人で家に帰ろう。葵の理性は冷静にそう呼びかけるが、本当はまだ心臓が飛び出そうだ。
興奮で身体が熱い。言いたい事もいっぱいある。だから、ドッキドキで壊れそうな心に落ち着いてと呼びかけつつ優先順位を考えた。

「あの、もしですね、結婚……するなら。ーー条件が……あります」

部屋を出ようと促し、歩きながら勇気を絞って話を続ける。が、声がどうしても震える。

「ーー条件ね。なんだい? 言ってごらん」
「まず第一に、ですね。これからは……これから先は、私だけを愛するとーー誓って下さい」

立ち止まった伊織が、なんと片膝をついて手を取ってきた。

「君だけを愛してる。葵」

低い声もその表情も、真剣そのもの。見つめてくる視線は身体が熱くなるほど熱っぽい。

「これからもずっと、君しか欲しくない。僕の全てを君に捧げる。全身全霊で生涯愛し抜くと誓うよ。ーーやっと見つけたんだ……僕が、妻と呼びたい人に」

薬指に嵌ったペアリングとその指先に、またそっとキスをされた。

「葵……僕と正式な家族になろう」

(うわあ、これは思ったよりクルかも)

3度目のプロポーズは、感激しすぎで声がすぐ出ない。片膝をついたまま、葵の手を持ち真摯に返事を待つ伊織に、目頭が熱くなってうるうるだ。

「ーー婚約指輪は、欲しくないです」
「分かった。婚約指輪はなしだ」
「結婚指輪も、間に合ってます」
「もともとそのつもり、だよ」

伊織は葵のリングを指先でそっとなぞる。とうとう、涙が一筋、頬を伝って流れ落ちてきた。
だが、まだだ。まだ言いたいことはある。

「……それと……」

珍しくためらうように、小さな声で付け足す葵を、伊織は不思議そうに黙って促した。

「あの……ですね、その……ぁ……えっと」

きまりが悪そうに言い淀む白い手を、伊織は勇気づけるように黙って握り締める。落ち着いた雰囲気の廊下には二人だけだ。
……よし。ここはやっぱり、言っておきたい。

「……安全日には、付けないでして欲しいです」

か細い声で告げた内容は、さすがの伊織にも予想外だったらしい。大きく目を見張って一瞬絶句したその顔はだが、次の瞬間、満面の笑みになる。

「何だって、葵? よく聞こえなかったよ」
「っーー!」

(絶対ーー聞こえてたーー……っ)

「ん? ほら。もう一度、ハッキリ言って欲しいな」

わざわざ立ち上がってわざと耳を近づけてくる顔に、ピンクに染まった頬を痛いほど意識しながら、葵はええいとやけくそで恥ずかしいフレーズを繰り返した。

「だからっ、ゴムなしで、抱いて下さいって言ってるんですよ!」
「はははっ!」

伊織はそれこそ涙目で大笑いだ。そして目尻を拭いながら、そっと髪に優しいキスをしてくれた。

「喜んで。僕の大事な妻ーー家族だものね」

そして……しびれを切らしたのか、まだかとばかり促してくる。

「さあ、それじゃあ、僕の申し入れへの君の返事は?」
「っ……至らないところもありますが、これからも末長くーーよろしくお願いいたします」

真面目な顔で告げた葵に、伊織は極上の笑みを浮かべた。

「こちらこそーー今後とも、末長くお付き合いください」

ホテルの廊下で二人揃って、丁寧に腰を折って挨拶を交わした。と、伊織は泣き顔の葵の手を取り、満足げに抱き寄せる。

「そうだね、葵ーーそろそろ、僕たちの家に帰ろう」
「はい。帰りましょう、伊織さん」

葵も伊織の心を読んだようにその手を握り締め、開いたエレベーターの中へと足を踏み入れた。



~~エピローグ~~

ーー1年後ーー

「朝比奈さん……聞いてください! 弟が、良樹がーーとうとう伊織さんの毒牙にかかってしまってーー」

伊織より一足早くにカフェ着いた葵は、彼の訪れを待たずに憤慨しながら夕食を食べはじめた。ふろふき大根を、「一品追加だ」とわざわざ直接届けに来てくれた朝比奈のそでをガシッと掴む。

「ああ……、植松さんの弟じゃあ、真面目そうだもんなあ~」
「そうなんですよ! 良樹は真面目で堅実な子なんです」

朝比奈は遠い目をしながら、なるほどと頷いた。

「あいつ、お堅い系にめっちゃモテるからな。特に真面目で有能な奴ほど心酔しまくって、一生あいつの手足になる運命だ」
「きゃああ、やめて下さいっ。せっかく優良銀行に勤めていたのに……急にグローバルワークスに入社するなんて、言い出したんですよーー!」

信じられないとばかりのいきどおりを隠せず、葵はこぶしを握りしめた。

シンガポール赴任を無事を終えて、葵と伊織は再び東京に舞い戻り二人の生活を始めた。
本格的に始動すれば最低でも一年はかかる。そう言われた海外プロジェクトを、葵は一年以内で終結させ、海外での外食産業からの請負いやスーパーマーケット事業にも着手した。新しいビジネスルートを切り開き、それに成功した葵を待っていたのは、帰国すると同時の昇進だった。今は会社が最も力を入れている海外事業拡大計画を含む営業推進企画部に属している。
伊織の会社も海外事務所の立ち上げに成功して、さらなる事業拡大につなげた。

そんな中、葵の弟である良樹から突然転職の話を聞かされたのだ。
これまで良樹は、順調に平穏なサラリーマンライフを送っていたはず。それがなぜにこんなことに……?
堅実な銀行に勤めてうん年。実家暮らしで貯金も貯まり、後は良い相手を迎えてくれれば葵は一安心だった。はずなのに…………
葵の本気のうれい顔を、朝比奈は気の毒そうに見てくる。

「そりゃまた。ご愁傷さま。まあ、あれだ。可愛い子には旅をさせよって言うし」
「一緒に旅する相手が問題だからっ、なげいてるんじゃないですか!」
「誰が問題だって?」

軽快な足音……トントンと階段を弾むように降りてくる黒髪のイケメンが、あふれんばかりの愛情をたたえて笑いかけてきた。爽やかな香水がほんのり漂うと、朝比奈は夫婦喧嘩は犬も食わないとばかりその場から逃げ出す。

「伊織さんっ、なんてことをしてくれたんですか! あれほど良樹には手を出すなって言ったのに……」

諸悪の根元をきっと睨んだ葵に、本人はあくまでニコニコ笑顔だ。

「ああ、良樹君か。彼はとてもーーいいね。楽しみだよ」

意味ありげに含み笑いをする伊織に向かって、葵はテーブルにあったナプキンを掴んでえいと投げた。

「そんな爽やかな笑顔で、そんな恐ろしいことをさらっと言わないで下さいよっ」
「おっと。ーーこちらからのオファーを受けたのは、良樹君の意思だ。葵もそろそろ、弟離れしてもいいんじゃないかな?」

肩にそっと置かれた手を払い除けてやりたい。でも……伊織が正しいのが分かっているから、できない……
テーブルに突っ伏してシクシクとべそをかきはじめた葵は、伊織の次の言葉で顔をあげた。

「葵の会社は、ヨーロッパにも関連工場を持っているよね?」
「え? あ、はい。フランスにありますが……?」

工場とは名ばかりの小さなものだが。
なぜにいきなりそんな話を? と不思議そうに首を傾げた葵に、伊織はニッコリ笑いかけてきた。

「大丈夫。葵がこの先、世界のどこへ赴任しようと、これからも僕は会社を発展させて必ず君について行くよ。大切な家族だものね」
「へ、え? ええーーっ⁉︎」

予想外に降ってきた、このどこまでも一緒宣言に驚き過ぎてとっさに言い返せない。そんな葵の頭の中に、突如、大海たいかいに浮かぶ大型帆船のイメージが浮かんだ。
ーー船長である伊織の掛け声で大きく舵を切って、大海原を自由自在に進んでいく白い帆船。船員の中には葵の可愛い弟もいて、帆のロープをしっかり引いている。

っーーそうか……! 
今でも読めない人だと思っている伊織の本質が、結婚後一年目にして、ようやく理解でき始めた気がする。
洗練されたスーツ姿で巧妙にその本性をカモフラージュする、大航海時代の大胆な海の男ーー伊織は、こちらに向かって笑いかけてくる。

「だからね、良樹君の代わりと言っては何だけど……そろそろ、僕たちの家族を増やす計画でも立ててみないかい?」

黒曜石の瞳をきらめかせ、至高の微笑みを浮かべる姿が何気に誘いかけてきた。

「えっ? えええぇーー⁉︎」

一段とボリュームの上がった今日も元気な葵の素っ頓狂な悲鳴が、店じまいを始めたカフェの地下で響き渡った。

(っーー大丈夫。落ち着いて、伊織さんと一緒ならーー……)

たとえ二人きりの生活から、家族が増えるという未知への航海だろうとも、きっとーー何とかなる?

「僕はもちろん今夜からでも、喜んで協力するよ」

差し出されたその手をしっかり握り返した葵も、伊織に負けない熱い想いで嬉しそうに微笑み返した。

ーー本編完ーー
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