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1巻
1-3
しおりを挟む(もう、いい加減大人なんだから、十代の頃みたいにそんなはしゃがないの!)
自分自身に言い聞かせても、次の瞬間には口元が緩んでしまっていた。
(あんなカッコいい人なんだし……社交辞令かもしれないんだから、ダメになってもがっかりしないようにしよう……)
スマホを、カタン、と元の場所に戻し、胸がキュンとする自分にしっかり予防線を張っておくのも忘れない。
(……あっ、しまった、返事する前に彼女がいるか聞いておけばよかった……前回の二の舞だけは、絶対避けたい。今度会った時にはちゃんと聞かなきゃ)
そろそろ寝よう、と自然と瞼に浮かぶ笑った顔に、お休みの挨拶をする。
紗奈はその晩、騒めく胸中を宥めて、ようやく穏やかに眠りについた。
2 セカンドギア
水曜日のお昼休み。今日は絶対忙しくなるからと、紗奈はお弁当を自席で勢いよく食べていた。その間も、次々に仕事の確認が入る。
「すまんが、ドイツ支社の生産需要見込みの報告書、次の会議までに頼む」
「営業に回した来期の生産目標数値表のコピー、どうなった?」
夕食の残りとお茶を持参してきて正解だった。このままだと忙しくて販売機にジュースを買いに行く暇もない。お箸をせっせと動かし、最後にお茶をすする。
(さてと、充電完了)
そうしてさっさとランチを済ますと、机でパソコンと睨めっこしながら、卓上の電話に手を伸ばす。海外支社との電話を続けながら受話器を耳と肩の間に挟みこみ、パソコンで直接報告書の修正をする。
『……ありがとう。それではこの報告書を翻訳して、今度の会議の資料として提出します』
『よろしく、リードタイムの短縮に繋がればいいんだけど。じゃあまた』
(はあ、この件は見通しがついた。次、次っと……)
毎年大忙しのこの時期は、ドラマの続きとドライブを唯一の楽しみに乗り越えてきた。だが、今日の紗奈は一味違って、鬼気迫るものがあった。
(約束の時間までに一旦家に帰って、化粧を直したい!)
そう、紗奈のこの仕事への打ち込みようは、全て翔から届いた一通のメッセージに起因するものだったのだ。
午前中、翔からメッセージが届いた時には、本当に驚いた。
『今晩空いてるか? たまたま約束がキャンセルになったから、夕食を一緒にどうだ?』
(ええっ! 今晩ってっ)
用件だけの、翔らしい簡潔なメッセージだった。
週の半ばの夜に予定などあるわけもなく、心待ちにしていた土曜の約束よりも早く会える、ともちろんOKしたものの……
翔に会うのならば、何となくだが作り込んだ会社仕様のこの顔より、素顔に近い状態で接したかった。翔との食事を楽しみにしているくせに、気合を入れてお化粧をしない、という矛盾に自分でも変だと思ってしまう。
もちろん、この会社用の顔の方が男性受けすることは分かっている。
紗奈だって、どうせなら可愛く思われたい。
(だけど後でガッカリされるのは……もっと嫌だわ)
憧れに近い今の気持ちなら、たとえ翔の態度が変わっても、落ち込みはするだろうがダメージは少ないはず。
……とはいえ、たったひとときを一緒に過ごしただけなのに、すでに翔に入れ込みかけているという自覚はある。少なくとも傷つくのが怖いと感じてしまうほどには、だ。
彼は週末のベビーフェイスを見ても驚いてはいなかった。だからこそ、彼に夢中になる前に線引きしたい気持ちと、態度を変えなかったことに期待したい気持ちの間で、揺れている。
そして今、この二つの矛盾した心が、紗奈を馬車馬のような勢いで仕事に駆り立てているのだ。
その気迫に満ちた姿に、周りは話しかけてはいけない空気を感じ取っているらしい。見えないねじり鉢巻を頭に巻いて、黙々と仕事に励む紗奈の邪魔をしないように、抜き足差し足で後ろの通路を通り抜ける同僚の姿も見受けられる。
電話に応答する声や書類をめくる音、パソコンのキーボードを打つ音で常に賑やかな秘書室で、紗奈の机の周りだけは、静寂な湖のようにシーンと静まりかえっている。
(ようし、次、どうか電話に捕まりませんように……)
機械のようにせっせと仕事を片付けていく紗奈がミラクルを願った甲斐あって、その日の午後は電話が鳴らず、集中して仕事ができた。
終業時間を五分過ぎた頃には粗方メドがつき、よし、さあ帰るぞ、と勢いよく席を立った。
「お疲れ様です。お先に失礼」
「お疲れ様です」
後輩たちの尊敬の念が混じる声を後に、ヒールの音も高く颯爽と会社を出る。
ところが駅の方角に向けて歩き出した途端に、今、一番会いたくない相手に捕まってしまった。
「杉野さん! 待って、よかったら今晩食事でもどうですか?」
(うわぁ、なんてついてない……)
「ごめんなさい、今日は先約があって」
こんな受け答えをする時間も惜しいくらい自分は急いでいるのだが、営業男はそんなことなどお構いなしだ。
疑わしそうに紗奈を見て、問い詰めてくる。
「……水曜の夜にですか?」
「ええ。急いでるから失礼します」
こんなに断ってるんだから、少しは空気を読んでとばかりに歩き出そうとしたのだが……
「ちょっと待って下さい。食事くらい一回付き合ってくれても……いい店知ってるんですよ。奢りますから、さあ」
いきなり腕をグイッと引っ張られて、身体中をブワッと悪寒が駆け巡った。
咄嗟に半歩後ろに下がって、やんわり相手から遠ざかる。
この自分が誘ってるんだから、という強引さが元カレと重なって、紗奈はこの営業男が苦手だった。顔がわりかしいいこともこの男は自分でよく分かっているようで、しょっちゅうわざとらしく髪を掻き上げるのも、受け付けない。
それに、常に押し付けがましい印象を受けてしまう。
何だろう? どうしても、好きになれない……ぶっちゃけ紗奈のタイプではないのだ。
(翔も強引だけど、なんか絶対違う……)
この男は元カレと同類――紗奈の本能がそう告げている。
「申し訳ないんですけど、今日は本当に先約があるんです」
「じゃあ、その相手にここで電話してみて下さいよ。できないなら付き合ってもらいますよ」
(ハア~、この人、ホントしつこいし、めんどくさい)
どうしてここまで、相手の意思を無視できるのだろう。
だんだんと苛立ちが募ってくる。
(営業はこのくらいの押しがないと、仕事が取れないのかもしれない……けど、私にとっては迷惑でしかないわ!)
家ではのんびりしたい紗奈とは、絶対合いそうにない。
無視しようとも思ったが、会社の同僚なのだから確執が残るようなやり方はダメだと考え直した。
「ちょっと待ってて下さい。相手も仕事中かもしれないので、メッセージで聞いてからにします」
「ええ、どうぞ」
連絡を取れるものなら取ってみろ、と言わんばかりの男の態度に腹を立てつつ、スマホで翔に『今、話せる?』 とメッセージを送る。
すると、まもなくスマホの着信音が鳴り出した。
『紗奈? どうした、都合がつかないか?』
「違うの、同僚に食事に誘われたんだけど、今夜は先約があると言っても信じてもらえなくて」
『何? 困っているのか? 相手はそこに居るのか?』
「ええ」
『電話を代われ。相手と話してやる』
「えっ? でも……」
『大丈夫だ。ほら、代われ』
初めて電話越しに聞く翔の低い声にドキドキしながら、大丈夫かしら? と思いつつ営業男にスマホを差し出した。
「彼が話したいそうです」
「えっ……?」
営業男は困惑しながらも、「もしもし」とちょっと虚勢を張ったような態度で、電話に出た。そんな男を横目に、紗奈は翔の落ち着いた声を聞いた安心感で、ふう、と一息つく。
「そうです……分かりました」
最後は消え入るような声を出した営業男のセリフに、紗奈はハッと顔を上げた。
(あ、終わった?)
「杉野さん、電話」
突き返すようにスマホを渡され、どうなったんだろう? と思いながらも出てみる。
「もしもし、翔?」
『そこで十分ほど待っとけ。今行く』
「えっ、ちょっと翔? 何?」
聞き返した時にはもうすでに通話は切れていた。
(そこで待っとけって、どういうこと? そこって、ここよね? 会社のビルの真ん前の道路脇……)
「杉野さん、今の電話の彼と付き合ってるって本当ですか? 写真とかあります?」
ふん、と鼻息も荒く、営業男は聞いてきた。
(え、付き合ってる? あ、もしかしてそう言って助けてくれたのかな)
「写真ですか? ありますけど……はい、これ彼の写真」
真紅の愛車に寄りかかる翔の写真を見せた途端、スマホを覗き込んだ男の顔が、はっきりと引きつった。どうやらこの男は紗奈の相手が自分よりいい男なわけがないと決めてかかっていたようで、スマホの画面越しに微笑む翔を見て、明らかに動揺している。
翔と付き合ってるのか、という質問には、わざと答えない。
紗奈には相手の勘違いを否定して、せっかく手に入れた今の有利な状況をひっくり返す気はさらさらなかった。
「……これって、タイプNですか?」
「ええ、彼の車です」
一目見て言い当てたということは、この男も車に詳しいのだろう。
自分だって、ローンは嫌だったから、何年も掛けてせっせとお金を貯めて、やっと今の車が買えたのだ。とことん値段比べをしたおかげで、翔の車がどれくらいするのかも、もちろん分かっている。
紗奈の車の何倍も高い翔の車は、憧れはしても気軽には買えない車だ。
言葉に詰まった相手との会話が途切れると、遠いところで車のクラクションが鳴る音が聞こえる。
(どうか、顔見知りに、見つかりませんように……)
一刻も早く、ここから立ち去りたい。
ジリジリと過ぎる時間に焦れながらも我慢して待っていると、少しして、ドルン、ドルルルと、スポーツカー独特の低いエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。
音につられて道路を見ると、冴えた銀色のスポーツカーが横をゆっくりと通り過ぎていくところだった。
「すげ、スーパーカーだ!」
営業男の目は車に釘付けだ。
(うわあ、すごい、本物を見たのは初めて……)
一台でマンションが買えてしまうほどの、最高クラスの国産スポーツカーだ。
紗奈たちだけでなく、道を行き交う人々が注目する中、その車は会社の前の道路脇に止まった。
(あれ? あの、見覚えのある背中……)
「翔!」
「えっ、まさか……」
運転席から降りてくる背の高いシルエットは、銀色のスポーツカーに相応しい、すらりとした姿の水も滴るいい男だ。こちらに向き直った今日の翔は、この前の会議で見かけた時のような、みんなと同じスーツ姿ではない。
三つ揃いのいかにも高級なスーツを身に纏い、長い脚を動かして優雅にこちらに向かって来る。
(う……っわ、すごい、カッコいい! それに、なんかこういう高級スーツ、着慣れてる? っていうか、なぜこの間のスーツより、こっちの方を当たり前に着こなしてるように見えるの?)
恐るべしイケメン効果!
非日常の世界を背負った翔は、ビル前にいる紗奈たちを認めると、ツカツカと近寄ってくる。ポカンと開いた口を慌てて閉じて、チラリと横を見ると、営業男の顔はポカンの表情で固まっていた。
「紗奈、待ったか? で、俺に会いたいっていうのは君か?」
髪もきっちりまとめて、堂々と歩道を歩いてくるその姿は、上品な服を着こなしていても野獣のようなオーラを纏っている。上背のある翔に迫力のある目で見下ろされて、開いた口を慌てて閉めた営業男は、タジタジとしながらも答える。
「ええっと、そうです。あの、杉野さんの彼氏さんって……」
「ああ、これは失礼、私、羽泉と申します。紗奈がいつもお世話になっています」
どこから見ても文句なしのいい男である翔と並ぶと、営業男は態度はもちろん、容姿の点でもかなり見劣りする。
「は、あの、いえ……自分はこれで、失礼します。あの、杉野さん、お疲れ様ですー」
翔を呼び出すほど自分に自信があったはずの営業男は、比べられるのは勘弁とばかりにその場から逃げ出した。
「では、行こうか、紗奈」
そんな男を尻目に、翔は紗奈の腰をさりげなく抱いて、車に向かう。
紗奈は、しつこかった男から解放されたものの、ほっと息をつく間もなかった。
(腰、腰に翔の手が……)
いきなりの密着に、心臓がドキンと大きく跳ね上がる。
翔の手に抱かれている腰のあたりに、意識が集中してしまう。
営業男に見せつけるためだとしても、これはよっぽど親しい仲でないと紗奈基準では完全にアウトの振る舞いだ。
(普通は知り合って間もない関係なら、しょっちゅう身体に触れないよね? 確か、付き合いだして間もなくは肩に手、深い関係になったら腰、じゃなかったっけ?)
恋愛市場からあまりにも遠ざかっていたせいで、自分の知らない間に世の中の常識が変わってしまったのだろうか?
(……まあ、翔だし、嫌な感じしないし……いいかな。むしろこんな親密なエスコートされるの、初めてで嬉しいかも……)
翔は丁寧に車の助手席のドアを開けて、満足げな様子で待っている。
翔の接近に上機嫌な自分に驚きながらも、翔がドアを開けてくれた助手席に小さな声でお礼を言って乗り込んだ。
バタン、とドアが閉まると同時に、翔と新車の匂いがフワッと漂ってきた。
「悪いな。一旦家に帰って堅苦しくない服に着替えるつもりだったんだが、今日は役員会議でな」
「ふふふ、助かった。翔、ありがとう」
「どういたしまして。さて、約束の時間まではまだ大分あるが、お腹の具合はどうだ?」
「結構空いたかも。残業したくなかったから、気合入れて片したし」
「はは、そうか。俺のためだと、自惚れていいか?」
悪戯っぽく聞いてくる顔を見て、紗奈もちょっとはにかんでしまった。
「……分かってるくせに」
「紗奈の口から聞きたいんだ」
「当たり前でしょ、楽しみにしてたんだから」
「そうか、俺も急なキャンセルを、誘えるチャンスだと思ったぞ」
「え! あの……誘ってくれてありがとう。本当に今日は助かったわ。先約がなかったら危うく強引に連れて行かれるところだった」
「もう大丈夫だ。あの男にも、彼氏のいる女性に手を出さない常識はあるだろう」
「ふふ、そうね」
紗奈は確信していた。
あの営業男は、翔の姿を見た以上、今後紗奈を誘うなどという無謀な真似は、絶対しないだろう。
先程と打って変わって紗奈を優しい目で見つめてくる翔は、本気を出すとかなり近寄りがたい雰囲気になっていた。
(なるほど、会議の時は結構抑えていたのね。だから無愛想に見えたのか……)
鋭い目をした翔の本気がチラリと垣間見えて、あの無愛想な顔の意味がやっと分かった気がした。
「ねえ、翔、さっき本気で脅したでしょう。口調は丁寧だったけど、目が笑ってなかったわよ」
「バレたか。まあ、アレだ、紗奈が本気で困っているのが分かったからな」
「アレは大抵の人が萎縮しちゃうわよ」
「そうなのか? まあ、友人にも注意されて、気を付けてはいるんだがな。紗奈は俺が怖いか?」
「怖い? 翔を怖いと思ったことはないわよ。可愛いと思ったことはあっても」
「可愛い? ……そんなことを言われたのは、身内以外は初めてだ……」
(あれ、なんか困惑してる?)
困ったような顔の翔に、思わずプッと噴き出した。
「おい、なんでそこで笑う?」
「えっ、だって今の顔、ふふっ」
「……お前……紗奈、こら、いい加減笑いやめよ」
「あっはは、ごめん、なんか止まんない!」
「おいっ……ふっ」
ついに彼も笑い出してしまい、ひとしきり二人で笑いあった。
目尻に溜まった涙を拭いていると、赤信号で車が止まった途端、翔に不意に抱き寄せられ、髪にキスをされた。
(えっ?)
不意打ちに、紗奈は目をまん丸にする。その驚いた顔を見て、翔はニヤッと笑った。
「はっ、やっと笑いやんだな」
紗奈の顔が上気していくのを横目で見た翔は、信号が変わってもまだ笑ったまま車をスタートさせた。それはカップルなら当たり前の、甘さを含んだベタなシチュエーションだった。
なのに恋愛経験値が低過ぎて、スマートな対応の仕方が分からない。
(ど、どう反応すれば……)
心は早くもパニック状態だった。
焦るばかりで、首筋まで熱くなってきた。
そんな紗奈の様子が翔は感覚で分かるらしく、「はは、パニクってるな」と運転しながら優しく呟く。
車はいつの間にか高速に乗っていて、都内に向かって進んでいた。
車内には甘くソフトなピアノとサクソフォーンのジャズが、二人の秘めやかな沈黙を見守るように、そっと静かに流れ出す。
それを上機嫌で聴きながらハンドルを握る翔の男らしい横顔を、紗奈は見つめる。
耳に心地よい音楽と、テールランプの群れを追いかける夕方のラッシュアワー。
窓越しに流れる景色を見つめながらも、車内に漂う甘ずっぱい空気に、何だか気恥ずかしくなってくる。
気分はふわふわ、身体もソワソワで、手元のスカートをわけもなくいじってしまう。
二人の間に、穏やかな沈黙の時間が流れていく……
いつしか、甘く切ないメロディーが心に響いて、やっと胸の動悸が落ち着いてきた。
紗奈はスカートをいじっていた手を止めると、何か話題は……としゃべり出す。
「えっと、どこに向かっているの?」
「俺の自宅だ」
いきなり翔の自宅に向かっていると聞いて、今までリラックスしていた顔に心持ち警戒の色が浮かんだ。それを見た翔は、からかうように言い足す。
「ちょっと着替えたいしな。なんだ、警戒しているのか? 俺は紳士だぞ」
翔はまったく動じていない。
(……私ったら、ほんと、もうちょっとスマートな対応はできないの……?)
爪を出してフーと警戒する猫のような自分の態度が、何だか馬鹿らしくなってきた。
そこで、さっきちらっと頭を掠めた疑問を口にしてみる。
「……そういえば、どうやってあんなに早く迎えに来れたの?」
「ああ、会議会場が横浜のホテルでな、バイパスで帰る途中だったんだ。高速に乗らずそのまま真っ直ぐに来た」
どうりで、あんなに早く来れたわけだ。
「魔法でも使ったのかと思ったわ、あっという間に来てくれたから」
「あれ以外に困っていることはないだろうな。今日はたまたま近くにいたからすぐに来れたが、何かあったら電話しろよ」
「えっ……と……」
(そうか、こういう手もあったんだ……)
翔に恋人役を頼めば、マンションの隣人問題も収まるかもしれない。
だが、どっちみち引っ越しをしたい気持ちに、変わりはない。
思わず目をそらした紗奈に、翔は敏感に反応した。
「おい、何かあるんだな。……そういえば、紗奈の車に不動産屋の名刺があったな。引っ越すのか?」
(うっ、鋭い! なんか、この人には隠し事できないな……)
「えっと、まだ正式には決めてないんだけど、今リサーチ中かな」
「何で引っ越すんだ?」
「……駐車場代が上がったのと、ちょっと隣人トラブルが」
「ああ、まあ隣人は、選べないからなぁ」
「ええ……」
これ以上この問題を口にしてしまうと、せっかくのいい気分が台無しになりそうだ。
なので、わざと話題を変えることにした。
「ねえ、この車って、翔の車? この前の車はどうしたの?」
「……一応名義は俺のだが、俺が買ったんじゃない」
「え? どういうこと?」
「父さんが、自分が乗りたかったもんだから、俺の誕生日プレゼントを口実に買って来たんだ。いい歳して、自分名義にするのは世間体がとか何とか言って、押し付けられた。乗らないと車の調子も悪くなるし、時々通勤に使っている」
「へえ……」
まったく、何考えてるんだあの親父、とかブツブツ言いながら苦い顔をする翔に、また噴き出しそうになる。
慌てて顔の筋肉に力を入れて、それは大変ね、と相槌を打ちながらも内心、一体どんな家族だ? とも思ってしまう。
(これって確か、ものすごく高い車よね? 口実とはいえ、誕生日プレゼントって……家族からの贈り物って、普通、もっとささやかなものじゃない? ネクタイとか、靴下とか……)
マンションが買えるほどの値段の車を、プレゼント……
他人の家の台所事情とはいえ、慎ましい一般家庭育ちの紗奈にはびっくりな話だ。
「いくら何でも、こんなこと毎年しているわけじゃないぞ。今回はサイファコンマ社の立て直し祝いも兼ねてらしい。それより紗奈は、夕食は何がいいんだ?」
(へ? サイファコンマ社の立て直しって……?)
会社に関わるような言葉に、紗奈は敏感に反応した。
エンジニアチーフの翔は、社内で何か重大なプロジェクトを任されていたのだろうか?
(だけど、他社のことだし、突っ込まない方がいいのかな)
翔も会社の内情は、あまり話したくはないだろう。
それに、翔の言葉で、お腹がかなり本格的に空いていることを思い出した。
花より団子ではないが、紗奈にとっては翔との夕食の方が重要だ。
「う~ん……今日はハンバーグ、ハンバーグが食べたい!」
素直に、お腹の空き具合から閃いたメニューを口にしてみる。
「……紗奈、何でもいいんだぞ。もっと、ほら、あるだろ、美味しそうなイタリアンとか……」
「あ、向かいにドニーズがある、あそこのハンバーグが食べたいな」
「マジか……本当にファミレスでいいのか?」
「今日のお腹は、ハンバーグ定食を望んでるの」
「……分かった、今すぐ行きたいのか? それとも待てるか?」
「お腹空いたわ。今すぐ行きたいな」
「そうか……」
目を輝かせた紗奈を見て、翔は「なんでこんな予想外なんだ。普通はイタリアンとか、フレンチとかを好むものじゃないのか?」と困惑気味な言葉を漏らした。
こうして、首都高から下りてすぐに見えた看板に釘付けの紗奈のため、翔はUターンをして、駐車場で車を止めてくれた。
「いらっしゃいませ~、お二人様ですか?」
頷く翔を見るバイトのお姉さんの目は、ハート形だ。
それもそのはず、着替えを諦めた翔は、三つ揃いの高級スーツに革靴姿。
若者や子供連れで賑わうファミリーレストランの中で、高級ファッション雑誌から抜け出してきたような翔の容姿は一際目立っていた。
応援ありがとうございます!
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