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恋の虜囚 2
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魔導研究所の天窓が濃いオレンジから紫に染まりだした。
だだっ広い吹き抜けの作業部屋にはまるで人気がない。静まり返った館内では魔導灯がポウッと灯り、上階の本棚だらけな部屋に一人ぽつんと机に向かう影を揺らした。
と、そこへブーツ音が近づいてくる。
「イジィ、貴女……相変わらずねえ。またそんな怪しげな魔導書ばかり……そのうち本に埋もれちゃうわよ」
上司の呆れ声で我に帰ったイザベルは、高く積み上げられた本の隙間からようやく顔を上げた。手元の古びた魔導書にさりげなく別の本を重ねる。
「ボルガ室長。……会議はどうでした?」
同僚たちは帰宅したので、気心が知れた者同士で自然と口調はくだける。魔導学院時代から面倒見の良かったファリラは、イザベルのノートに書かれた難解な魔法陣をチラリと見て、重いため息をついた。
「……どうもこうも、どの部署も人手不足よ。三国会談の期間中は、内勤の私たちまで駆り出されるわ。今回は接待のサポート。それもシルタニア相手だなんて、どっと気が滅入っちゃう」
「ーー室長なら、うまく立ち回れると期待されたのでは?」
「父上も勝手なんだから。アルバンと2分の1の確率だったのに、ハズレくじひいちゃった」
輝く金色の髪。人目を惹きつけるアメジスト色の瞳。美人で有能、かつ顔が広いファリラは、商業ギルドを牛耳るボルガ伯爵ーー宰相補佐官の次女であり、社交界でも伯爵令嬢の顔を持つ。次代の筆頭魔導士候補の一人として注目されている。
「言っておくけど、貴女も一蓮托生よ。頼りにしてるわ」
珍しく驚いたように目を見開いたイザベルに、ファリラは笑った。
「そうよ、イジィには私の補佐についてもらうわ。それに呪いの本ばかりかと思ったら、外交にも関心があるんじゃないの。意外だけど、推薦したかいがあったわ」
イザベルは魔導書の上で開いたままの諸国年鑑をパタンと閉じた。
「補佐ですか……分かりましたわ。室長にはお世話になりっぱなしですもの。精一杯努めさせていただきますわ」
「シルタニアって言ったら引かれると思ったけど、案外平気そうね。さすがだわ」
「……今でこそ対立していますが、以前はここまでではありませんでしたわ。それに乱世や大戦は民に多大な負担を強いますから、争いたくはありません」
顔色ひとつ変えないイザベルに上司も大きく頷く。
「私たち穏健派が帝国のサポートに任命されたのも、きっとそれが狙いね」
重い年鑑をひょいと片手で持ち上げたファリラの表情が真剣になった。
「この会談でカラートの未来が決まるわ。多くの民が巻き込まれる最悪の事態を招かないよう、私たちに出来ることに全力を尽くしましょう」
「……帝国も一枚岩ではありませんから。内政問題が解決すれば、あるいは……」
「さすがわかってるわね。今のシルタニアは揺れている。会談に参加するのは残念ながら、第一皇子派らしいけど」
シルタニア帝王が病気がちになり、退位は近いと噂にのぼるようになってここ数年。帝国との国境が頻繁に脅かされ始めた。帝王位に最も近いとされる好戦的な第一皇子とその派閥は、勢いのあるカラートへ侵略する機会を狙っている。搾取する富で帝国貴族の支持を取り付け、帝王座を獲得しようと画策している。
カラートにとっては頭の痛い現状だが、帝国内でもこれには賛否が分かれているらしい。反対する勢力が存在するのは幸いである。
「成人前の第三皇子は期待できないけど。カリッサ皇女殿下には、ぜひ頑張っていただきたいわ」
「皇女殿下の母上は元アルバンの王女、ですわね」
第一皇女カリッサは皇妃を母に持つ。帝国の第二皇子は亡くなっていて、皇女は側妃が産んだ第一皇子に対抗しうる勢力だ。
ちなみに、帝国の王侯貴族は一夫多妻が当たり前である。対してカラートは一夫一婦制で、王族でも側妃はもたない。継承問題で暗殺が繰り返されるシルタニア帝国の歴史を忌避した初代カラート王がそう定めた。建国王の実力主義に倣って、カラートでは後継にふさわしい実子がいなければ、一族から優秀な子弟を養子にとることもある。
「そういえば、ねえ。アドリアナ王女殿下の輿入れの際にアルバンに同行する話、考えてくれた?」
イザベルの顔色をうかがうようにファリラは首を傾げる。
カラートの王女アドリアナがアルバンに嫁ぐにあたって、魔導研究所から一人魔導士を選出する。王女の身辺警護のためであり、解毒や解呪に優れたイザベルは適任者だった。王女の侍女としてお給金がたっぷりもらえるこの話は断る理由もない。
「大変な名誉ですわ。……ですが今の話ですと、シルタニア帝国のサポートを終えてすぐにアルバン行きですか?」
「湾曲よねえ。(魔導)師団が潔くシルタニアの接待を引き受けてくれれば、こんな事にならないのに」
ファリラの言い分も分かるが、騎士団と行動を共にする魔導師団は戦闘魔法に長けた気性が荒い魔導士ばかりだ。カラートとしては慎重にならざるをえないのだろう。火種になる事態は極力避けたいという思惑も理解できる。
イザベルはゆっくり頷いた。
「子爵家出身の私にそんな大役が務まるのか……多少不安ですわ」
「あら、私は心配なんてしてないわよ。イジィなら絶対できるわ。ここ最近は特に凄みが増してーーほら、落ち着いた貫禄なんかも滲み出てるし」
何やらにっこり笑顔で誤魔化したファリラは、陽が沈んだ窓に目を向けた。
「さあ、今日はこれくらいにして、一緒に帰りましょう。目の下にクマができてるわよ。戸締まりは手伝ってあげるから」
「……はい。ありがとうございます」
今後の日程などを話し合いながら研究所を出たが、送ってあげるという上司の親切な申し出は丁重に断った。王宮の馬車寄せから歩き出したイザベルに、一台の馬車がどこからともなく現れ、乗ってくださいとばかり距離を寄せてくる。
「お嬢様、お迎えにあがりました」
ーー迎えなど要らない、と言ったのに……
イザベルは心の中でため息をついた。幼い頃のトラウマはそう簡単に消えない。
休日明けから無理やり馬車出勤を強いられたイザベルは、今朝もイグナスに尻尾で捕獲されて馬車に押し込まれた。
相変わらずの強引さに反発の言葉が喉まで出かけたけど、馬車はさっさと出発してしまい、今は疲れて意地を張る気も失せる。歩みを止め、声をかけてきた気の良さそうな御者に頷いた。
馬車に乗り込むと上司の前ではつけなかった大きなため息を、イザベルはフウ~と吐き出した。
馬の手綱を握る御者はコルトという青年でイグナスが雇った。この御者は人畜無害そうな風体をしていながら、夜な夜な邸を抜け出す。それが気にならないと言えば嘘になる。でも、悪い人には見えないから……職務に忠実であればイグナスの決定に口出しはしない。
それより、伝書魔鳥が頻繁に出入りしているほうが問題な気がしている。記憶が戻ったらしいイグナスはずっと書斎に閉じこもって忙しそうだ。
何をしているの……? そうつっこんで訊けばいいのだけど。
答えてはもらえないと分かっているから、イザベルはわざとこの話題に触れない。
近隣諸国の貴族年鑑を調べていたのは、開催が近づいた会談のためだけではない。ここしばらくは、ごく個人的な理由で本の山に埋もれていた。
なぜなら大蛇の名乗った名は、どこか聞き覚えがあった。
記憶違いであって欲しいと調べはじめて、アルバンの貴族年鑑でも見つからなかった家名をシルタニア年鑑で見つけた時、イザベルの心臓は止まりかけた。
ビストルジュとは……シルタニア王家を影で支えると噂される公爵家の家名だったのだ。歴史の本に載っているほど由緒正しい血筋の家。だけど表舞台には滅多に出てこないらしく、詳しい資料はいまだ見つからない。
イグナス・アルトゥス・ビストルジュは、現ビストルジュ公爵当主の次男の名だ。
イグナスは何も話さないが、ある意味、人外の魔獣ーー大蛇よりもさらにマズい相手である。
ただでさえ赤い魔女などと呼ばれるイザベルは、大蛇と情を交わしていると疑われたら異端扱いされて牢獄送りや国外追放になるだろう。ーーけれどこれが、シルタニアの大貴族ととなれば背徳の意味がまったく違ってくる。
後ろ盾のない下級貴族のイザベルは場合によっては売国奴と糾弾されて、公開処刑へまっしぐら。それほど近頃は帝国とは一触即発、張り詰めた空気なのだ。
イグナスは絶対に人……それも貴族だとイザベルは確信している。
強力な呪いで大蛇にされてしまっているけれど、あの麗しい人型が彼の本来の姿に違いない。公爵家ならば家柄からして、何らかの陰謀に巻き込まれた……?
だって記憶を奪って魔物に変えるなんて、普通の呪いじゃない。
とてつもなく残酷で非人、かつ代償が付きものの禁忌魔法である。そんなことができるのはほんの一握りの魔導士だけ。それも解呪となると、それこそ大陸に一人いるかいないかの、最高レベルの光魔法の使い手でない限り一筋縄ではいかない。
ところが、イザベルはこの呪いを解くきっかけを掴んでしまった。
さらに、イグナスが一生破れない古代魔導でイザベルを自分のものだと誓ったものだからーーその効力は絶大で。イグナスが呪いに抗って身体を繋げると、イザベルまでもが魔力を奪い取られる。
……ーー呪詛研究者であるイザベルはこう持論づけた。
そして考えた末、密かに自分の身体に解呪の魔法をかけてイグナスを誘惑しはじめた。
前代未聞の身体を張った解呪は異端極まりなくって、事例さえなくって、こんなの魔導書にも載っていない。
はたして、どれほど効き目があるのかわからないけど……
対象者に奪われる魔力を使って身体の中から解呪を試みるのだから、光魔法のように女神の力を借りて見る間に元通り……とはいかなくても。呪いの楔を一つ一つ慎重に抜いている感覚はある。
こんな秘密を誰にも言わず、そしてイグナスにも気づかれないようにイザベルは淡々と振る舞っている。ファリラには不本意にも凄みが増したなどと言われてしまったけど。
寝不足だし体力も魔力も奪われっぱなし。毎晩へとへとでも気丈に解呪を試み続けている。
ーーたぶん、呪いの縛りはかなり緩くなっているはずだわ。
シルタニアの大貴族が、もしカラートで完全に人に戻ったらどうすれば……? いやでも、今はそんなことより……三国会談でシルタニタ帝国の使節団と接触する。これをイグナスに告げていいものか……
額を抑えつつイザベルは頭を悩ませる。祖国を裏切るつもりはないが、愛しい人に黙っているのも気が引ける。どうしたらいいだろう。
「おかえりなさいませ。お嬢様」
心が決まらないまま帰宅したイザベルは、着替えを済ますと食堂に降りてきた。
「イグナス様は……?」
「晩餐はすでにお取りになりました。今は書斎にいらっしゃいます」
一緒に食事ができないのは寂しい……けど、これは自業自得だろう。このところずっと遅く帰宅するイザベルに非がある。待ってて欲しいなど勝手な事は言えない。
「ーー不在のお詫びを……そうね、お茶を差し入れて。滋養効果のある星草茶をお願い」
「かしこまりました」
大蛇なのに賓客扱いを徹底しているイザベルの指示を受けて執事が下がると、一人で食事を済ませた。
とりあえず今夜は職務の話など先送りしよう。ある意味すれ違いでよかったかもしれない。
……秘密がまた増えた。好きな相手に隠し事はつらいけど、どこかほっとした気持ちも抱えて自室に戻ると解呪の魔法陣の構成を始める。
今夜も抱いて欲しいし、準備は万端に整えなくてはと、細い指が複雑な魔法陣を慎重に描いていく。
イグナスがいなければ魔境で骸となっていた。彼の呪いは絶対に解いてみせる。
ーーそして夜空に月が煌々と輝く頃ーー……
白いカーテンの隙間から月明かりが漏れるイザベルの寝室では、裸の乙女が大蛇に身体を舐めまわされる淫靡な光景が浮かびあがった。
外には何も聞こえない、結界で守られた部屋。そこに一歩踏み入れば……寝台で悦楽に浸る艶かしい乙女と、一匹の大蛇の甘い囁きが聞こえてくる。
「はあ、んっ……あん……あっ」
「ーーイイ声だ。気持ち快いか」
「あんっ、あんっ……ぃ、悦いっ……です……イグナス様、もっとーー……」
自分からねだるなんてはしたないけど、感じたままを口にするとイグナスが喜ぶから惜しまない。偶然の出会いで側仕えを許された身だから、興醒めと思われたら最後だ。
恥じらいを捨て、あえかな声を上げたイザベルの素肌は大蛇の唾液まみれで夜目にもテラテラと鈍く光る。
「胸とどちらがよい? それとも背中か……」
「んっ、ぅ、ど、どっちも……」
火照って濡れた身体で、イザベルは精一杯誘うように小さく微笑んだ。
「どちらも……どこもかも気持ちいいですわ……ぁ、ああんっ……」
「……驚くほど、素直になったものだ……」
「んっ……んぁ、それはっ……だって、イグナス様が……」
好きだから。とはさすがに口にできなくて頬を染めたイザベルが言い淀むと、大蛇姿のイグナスはふっと笑った。
「よい、そのままどんどん素直になれ。可愛いだけだ」
「あぁあっ、ぅんっ……」
ふしだらと思われても、今はできるだけ抱いて欲しい。身体を重ねる度に解呪は目覚ましく進展を遂げている。
ーーあともう少し……呪いは必ず解いてみせるわ。
魔力を練る紺碧の瞳はより深みを増し、唾液で濡れた肌が月光でヌメる凄艶さ……
トグロを巻いた大蛇の上でイザベルが裸身をくねらせると、真紅の髪がさらっと揺れ、挑発するような硬く尖った胸の先端がさらけだされる。赤い蕾芽に引き寄せられたイグナスは長い舌を伸ばした。
「……ほんとうに、煽るのが上手くなった。まるで夜の女神だな」
胸元にふっと息がかかり「虜にされそうだ。いやもう手遅れか」とくぐもる声が笑っている。
大蛇の姿のままこんなことを囁くのだから、イグナスこそほんと悪趣味だと思う。解呪が進んだ今は、きっとその気になればいつでも人でいられるはずなのに。
イザベルはそっと睫毛を伏せた。
「私はイグナス様のもの、ですわ」
「分かっている。だが抱かずにいられないのは、罪作りなものだ」
しこったピンクの蕾を大蛇の舌で引っ張られて、イザベルの胸の芯がジンジンした。
「あっ、んっ、んんっ……」
うずきが大きくなって、自然と突き出した胸をイグナスは交互にいじり続ける。びくびくと震えて甘い声を出すイザベルに満足そうに囁く。
「やはりここが好きか」
バチンッ!
いきなり、呪いの鎖が引き千切られた。
あ、と思った時には俯いた顎に長い指がかかる。伏せた睫毛をゆっくり持ち上げると、精悍な顔が月に照らされた。
大蛇の姿も好きだけど、この麗しい男性美は何度見てもイザベルの心を鷲掴みにする。
瞳の奥までじっと見つめてくるイグナスはイザベルの唇にチュッとキスをすると、たおやかな身体をベッドに押しつけた。
……その晩もがっつり可愛がられたイザベルは翌朝、節々痛む身体に鞭を打って馬車に乗り込んだ。研究所に着くなり作り置きした自作のポーションを鷲掴みする。
その場で立ったまま一気飲みをするその姿に、同僚は一斉に引いたが。イザベルはもちろん何事もなかったように、黙々と黒釜に向かった。
だだっ広い吹き抜けの作業部屋にはまるで人気がない。静まり返った館内では魔導灯がポウッと灯り、上階の本棚だらけな部屋に一人ぽつんと机に向かう影を揺らした。
と、そこへブーツ音が近づいてくる。
「イジィ、貴女……相変わらずねえ。またそんな怪しげな魔導書ばかり……そのうち本に埋もれちゃうわよ」
上司の呆れ声で我に帰ったイザベルは、高く積み上げられた本の隙間からようやく顔を上げた。手元の古びた魔導書にさりげなく別の本を重ねる。
「ボルガ室長。……会議はどうでした?」
同僚たちは帰宅したので、気心が知れた者同士で自然と口調はくだける。魔導学院時代から面倒見の良かったファリラは、イザベルのノートに書かれた難解な魔法陣をチラリと見て、重いため息をついた。
「……どうもこうも、どの部署も人手不足よ。三国会談の期間中は、内勤の私たちまで駆り出されるわ。今回は接待のサポート。それもシルタニア相手だなんて、どっと気が滅入っちゃう」
「ーー室長なら、うまく立ち回れると期待されたのでは?」
「父上も勝手なんだから。アルバンと2分の1の確率だったのに、ハズレくじひいちゃった」
輝く金色の髪。人目を惹きつけるアメジスト色の瞳。美人で有能、かつ顔が広いファリラは、商業ギルドを牛耳るボルガ伯爵ーー宰相補佐官の次女であり、社交界でも伯爵令嬢の顔を持つ。次代の筆頭魔導士候補の一人として注目されている。
「言っておくけど、貴女も一蓮托生よ。頼りにしてるわ」
珍しく驚いたように目を見開いたイザベルに、ファリラは笑った。
「そうよ、イジィには私の補佐についてもらうわ。それに呪いの本ばかりかと思ったら、外交にも関心があるんじゃないの。意外だけど、推薦したかいがあったわ」
イザベルは魔導書の上で開いたままの諸国年鑑をパタンと閉じた。
「補佐ですか……分かりましたわ。室長にはお世話になりっぱなしですもの。精一杯努めさせていただきますわ」
「シルタニアって言ったら引かれると思ったけど、案外平気そうね。さすがだわ」
「……今でこそ対立していますが、以前はここまでではありませんでしたわ。それに乱世や大戦は民に多大な負担を強いますから、争いたくはありません」
顔色ひとつ変えないイザベルに上司も大きく頷く。
「私たち穏健派が帝国のサポートに任命されたのも、きっとそれが狙いね」
重い年鑑をひょいと片手で持ち上げたファリラの表情が真剣になった。
「この会談でカラートの未来が決まるわ。多くの民が巻き込まれる最悪の事態を招かないよう、私たちに出来ることに全力を尽くしましょう」
「……帝国も一枚岩ではありませんから。内政問題が解決すれば、あるいは……」
「さすがわかってるわね。今のシルタニアは揺れている。会談に参加するのは残念ながら、第一皇子派らしいけど」
シルタニア帝王が病気がちになり、退位は近いと噂にのぼるようになってここ数年。帝国との国境が頻繁に脅かされ始めた。帝王位に最も近いとされる好戦的な第一皇子とその派閥は、勢いのあるカラートへ侵略する機会を狙っている。搾取する富で帝国貴族の支持を取り付け、帝王座を獲得しようと画策している。
カラートにとっては頭の痛い現状だが、帝国内でもこれには賛否が分かれているらしい。反対する勢力が存在するのは幸いである。
「成人前の第三皇子は期待できないけど。カリッサ皇女殿下には、ぜひ頑張っていただきたいわ」
「皇女殿下の母上は元アルバンの王女、ですわね」
第一皇女カリッサは皇妃を母に持つ。帝国の第二皇子は亡くなっていて、皇女は側妃が産んだ第一皇子に対抗しうる勢力だ。
ちなみに、帝国の王侯貴族は一夫多妻が当たり前である。対してカラートは一夫一婦制で、王族でも側妃はもたない。継承問題で暗殺が繰り返されるシルタニア帝国の歴史を忌避した初代カラート王がそう定めた。建国王の実力主義に倣って、カラートでは後継にふさわしい実子がいなければ、一族から優秀な子弟を養子にとることもある。
「そういえば、ねえ。アドリアナ王女殿下の輿入れの際にアルバンに同行する話、考えてくれた?」
イザベルの顔色をうかがうようにファリラは首を傾げる。
カラートの王女アドリアナがアルバンに嫁ぐにあたって、魔導研究所から一人魔導士を選出する。王女の身辺警護のためであり、解毒や解呪に優れたイザベルは適任者だった。王女の侍女としてお給金がたっぷりもらえるこの話は断る理由もない。
「大変な名誉ですわ。……ですが今の話ですと、シルタニア帝国のサポートを終えてすぐにアルバン行きですか?」
「湾曲よねえ。(魔導)師団が潔くシルタニアの接待を引き受けてくれれば、こんな事にならないのに」
ファリラの言い分も分かるが、騎士団と行動を共にする魔導師団は戦闘魔法に長けた気性が荒い魔導士ばかりだ。カラートとしては慎重にならざるをえないのだろう。火種になる事態は極力避けたいという思惑も理解できる。
イザベルはゆっくり頷いた。
「子爵家出身の私にそんな大役が務まるのか……多少不安ですわ」
「あら、私は心配なんてしてないわよ。イジィなら絶対できるわ。ここ最近は特に凄みが増してーーほら、落ち着いた貫禄なんかも滲み出てるし」
何やらにっこり笑顔で誤魔化したファリラは、陽が沈んだ窓に目を向けた。
「さあ、今日はこれくらいにして、一緒に帰りましょう。目の下にクマができてるわよ。戸締まりは手伝ってあげるから」
「……はい。ありがとうございます」
今後の日程などを話し合いながら研究所を出たが、送ってあげるという上司の親切な申し出は丁重に断った。王宮の馬車寄せから歩き出したイザベルに、一台の馬車がどこからともなく現れ、乗ってくださいとばかり距離を寄せてくる。
「お嬢様、お迎えにあがりました」
ーー迎えなど要らない、と言ったのに……
イザベルは心の中でため息をついた。幼い頃のトラウマはそう簡単に消えない。
休日明けから無理やり馬車出勤を強いられたイザベルは、今朝もイグナスに尻尾で捕獲されて馬車に押し込まれた。
相変わらずの強引さに反発の言葉が喉まで出かけたけど、馬車はさっさと出発してしまい、今は疲れて意地を張る気も失せる。歩みを止め、声をかけてきた気の良さそうな御者に頷いた。
馬車に乗り込むと上司の前ではつけなかった大きなため息を、イザベルはフウ~と吐き出した。
馬の手綱を握る御者はコルトという青年でイグナスが雇った。この御者は人畜無害そうな風体をしていながら、夜な夜な邸を抜け出す。それが気にならないと言えば嘘になる。でも、悪い人には見えないから……職務に忠実であればイグナスの決定に口出しはしない。
それより、伝書魔鳥が頻繁に出入りしているほうが問題な気がしている。記憶が戻ったらしいイグナスはずっと書斎に閉じこもって忙しそうだ。
何をしているの……? そうつっこんで訊けばいいのだけど。
答えてはもらえないと分かっているから、イザベルはわざとこの話題に触れない。
近隣諸国の貴族年鑑を調べていたのは、開催が近づいた会談のためだけではない。ここしばらくは、ごく個人的な理由で本の山に埋もれていた。
なぜなら大蛇の名乗った名は、どこか聞き覚えがあった。
記憶違いであって欲しいと調べはじめて、アルバンの貴族年鑑でも見つからなかった家名をシルタニア年鑑で見つけた時、イザベルの心臓は止まりかけた。
ビストルジュとは……シルタニア王家を影で支えると噂される公爵家の家名だったのだ。歴史の本に載っているほど由緒正しい血筋の家。だけど表舞台には滅多に出てこないらしく、詳しい資料はいまだ見つからない。
イグナス・アルトゥス・ビストルジュは、現ビストルジュ公爵当主の次男の名だ。
イグナスは何も話さないが、ある意味、人外の魔獣ーー大蛇よりもさらにマズい相手である。
ただでさえ赤い魔女などと呼ばれるイザベルは、大蛇と情を交わしていると疑われたら異端扱いされて牢獄送りや国外追放になるだろう。ーーけれどこれが、シルタニアの大貴族ととなれば背徳の意味がまったく違ってくる。
後ろ盾のない下級貴族のイザベルは場合によっては売国奴と糾弾されて、公開処刑へまっしぐら。それほど近頃は帝国とは一触即発、張り詰めた空気なのだ。
イグナスは絶対に人……それも貴族だとイザベルは確信している。
強力な呪いで大蛇にされてしまっているけれど、あの麗しい人型が彼の本来の姿に違いない。公爵家ならば家柄からして、何らかの陰謀に巻き込まれた……?
だって記憶を奪って魔物に変えるなんて、普通の呪いじゃない。
とてつもなく残酷で非人、かつ代償が付きものの禁忌魔法である。そんなことができるのはほんの一握りの魔導士だけ。それも解呪となると、それこそ大陸に一人いるかいないかの、最高レベルの光魔法の使い手でない限り一筋縄ではいかない。
ところが、イザベルはこの呪いを解くきっかけを掴んでしまった。
さらに、イグナスが一生破れない古代魔導でイザベルを自分のものだと誓ったものだからーーその効力は絶大で。イグナスが呪いに抗って身体を繋げると、イザベルまでもが魔力を奪い取られる。
……ーー呪詛研究者であるイザベルはこう持論づけた。
そして考えた末、密かに自分の身体に解呪の魔法をかけてイグナスを誘惑しはじめた。
前代未聞の身体を張った解呪は異端極まりなくって、事例さえなくって、こんなの魔導書にも載っていない。
はたして、どれほど効き目があるのかわからないけど……
対象者に奪われる魔力を使って身体の中から解呪を試みるのだから、光魔法のように女神の力を借りて見る間に元通り……とはいかなくても。呪いの楔を一つ一つ慎重に抜いている感覚はある。
こんな秘密を誰にも言わず、そしてイグナスにも気づかれないようにイザベルは淡々と振る舞っている。ファリラには不本意にも凄みが増したなどと言われてしまったけど。
寝不足だし体力も魔力も奪われっぱなし。毎晩へとへとでも気丈に解呪を試み続けている。
ーーたぶん、呪いの縛りはかなり緩くなっているはずだわ。
シルタニアの大貴族が、もしカラートで完全に人に戻ったらどうすれば……? いやでも、今はそんなことより……三国会談でシルタニタ帝国の使節団と接触する。これをイグナスに告げていいものか……
額を抑えつつイザベルは頭を悩ませる。祖国を裏切るつもりはないが、愛しい人に黙っているのも気が引ける。どうしたらいいだろう。
「おかえりなさいませ。お嬢様」
心が決まらないまま帰宅したイザベルは、着替えを済ますと食堂に降りてきた。
「イグナス様は……?」
「晩餐はすでにお取りになりました。今は書斎にいらっしゃいます」
一緒に食事ができないのは寂しい……けど、これは自業自得だろう。このところずっと遅く帰宅するイザベルに非がある。待ってて欲しいなど勝手な事は言えない。
「ーー不在のお詫びを……そうね、お茶を差し入れて。滋養効果のある星草茶をお願い」
「かしこまりました」
大蛇なのに賓客扱いを徹底しているイザベルの指示を受けて執事が下がると、一人で食事を済ませた。
とりあえず今夜は職務の話など先送りしよう。ある意味すれ違いでよかったかもしれない。
……秘密がまた増えた。好きな相手に隠し事はつらいけど、どこかほっとした気持ちも抱えて自室に戻ると解呪の魔法陣の構成を始める。
今夜も抱いて欲しいし、準備は万端に整えなくてはと、細い指が複雑な魔法陣を慎重に描いていく。
イグナスがいなければ魔境で骸となっていた。彼の呪いは絶対に解いてみせる。
ーーそして夜空に月が煌々と輝く頃ーー……
白いカーテンの隙間から月明かりが漏れるイザベルの寝室では、裸の乙女が大蛇に身体を舐めまわされる淫靡な光景が浮かびあがった。
外には何も聞こえない、結界で守られた部屋。そこに一歩踏み入れば……寝台で悦楽に浸る艶かしい乙女と、一匹の大蛇の甘い囁きが聞こえてくる。
「はあ、んっ……あん……あっ」
「ーーイイ声だ。気持ち快いか」
「あんっ、あんっ……ぃ、悦いっ……です……イグナス様、もっとーー……」
自分からねだるなんてはしたないけど、感じたままを口にするとイグナスが喜ぶから惜しまない。偶然の出会いで側仕えを許された身だから、興醒めと思われたら最後だ。
恥じらいを捨て、あえかな声を上げたイザベルの素肌は大蛇の唾液まみれで夜目にもテラテラと鈍く光る。
「胸とどちらがよい? それとも背中か……」
「んっ、ぅ、ど、どっちも……」
火照って濡れた身体で、イザベルは精一杯誘うように小さく微笑んだ。
「どちらも……どこもかも気持ちいいですわ……ぁ、ああんっ……」
「……驚くほど、素直になったものだ……」
「んっ……んぁ、それはっ……だって、イグナス様が……」
好きだから。とはさすがに口にできなくて頬を染めたイザベルが言い淀むと、大蛇姿のイグナスはふっと笑った。
「よい、そのままどんどん素直になれ。可愛いだけだ」
「あぁあっ、ぅんっ……」
ふしだらと思われても、今はできるだけ抱いて欲しい。身体を重ねる度に解呪は目覚ましく進展を遂げている。
ーーあともう少し……呪いは必ず解いてみせるわ。
魔力を練る紺碧の瞳はより深みを増し、唾液で濡れた肌が月光でヌメる凄艶さ……
トグロを巻いた大蛇の上でイザベルが裸身をくねらせると、真紅の髪がさらっと揺れ、挑発するような硬く尖った胸の先端がさらけだされる。赤い蕾芽に引き寄せられたイグナスは長い舌を伸ばした。
「……ほんとうに、煽るのが上手くなった。まるで夜の女神だな」
胸元にふっと息がかかり「虜にされそうだ。いやもう手遅れか」とくぐもる声が笑っている。
大蛇の姿のままこんなことを囁くのだから、イグナスこそほんと悪趣味だと思う。解呪が進んだ今は、きっとその気になればいつでも人でいられるはずなのに。
イザベルはそっと睫毛を伏せた。
「私はイグナス様のもの、ですわ」
「分かっている。だが抱かずにいられないのは、罪作りなものだ」
しこったピンクの蕾を大蛇の舌で引っ張られて、イザベルの胸の芯がジンジンした。
「あっ、んっ、んんっ……」
うずきが大きくなって、自然と突き出した胸をイグナスは交互にいじり続ける。びくびくと震えて甘い声を出すイザベルに満足そうに囁く。
「やはりここが好きか」
バチンッ!
いきなり、呪いの鎖が引き千切られた。
あ、と思った時には俯いた顎に長い指がかかる。伏せた睫毛をゆっくり持ち上げると、精悍な顔が月に照らされた。
大蛇の姿も好きだけど、この麗しい男性美は何度見てもイザベルの心を鷲掴みにする。
瞳の奥までじっと見つめてくるイグナスはイザベルの唇にチュッとキスをすると、たおやかな身体をベッドに押しつけた。
……その晩もがっつり可愛がられたイザベルは翌朝、節々痛む身体に鞭を打って馬車に乗り込んだ。研究所に着くなり作り置きした自作のポーションを鷲掴みする。
その場で立ったまま一気飲みをするその姿に、同僚は一斉に引いたが。イザベルはもちろん何事もなかったように、黙々と黒釜に向かった。
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