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魔導士のプライド 2
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頭にコツンと何かがぶつかり、イザベルの意識がぼんやり戻りはじめた。
「やはりこの女は……ただの魔導士にしておくのは惜しい」
ねっとりした声がのしかかり、鼻腔に甘ったるい匂いが漂ってくる。
ーー何の香りかし…ら……また気が……遠ざかってーー…
だめだ。危険が迫っている。
しっかりしろ……そう働きかけてくる本能で意識は再び蘇ったけれど、状況がまるでわからない。あまつさえ気怠くって、身体に力が入らず目を閉じたまま動かなかった。
すると今度はリーンと鈴音がして、荒い鼻息と忌々しそうな「くそっ」という男の声が聞こえる。
無視できない危機感に薄目を開けたら、大輪の花を床に叩きつけて踏みにじるマイダスがいた。
「またお呼びかっ、生意気な皇女め~。それに何なんだカラートの奴らはっ! 揃いも揃って貴族連中の誰にも私の魅了が効かないなんてっ、ありえないぞ!」
ダンダンと床を踏み鳴らし癇癪を起こす姿は、こちらが目を覚ましたとは夢にも思っていないようだ。「この私が! こんなものに頼るとはっ!」と愚痴りながら、床を蹴りつけている。
「……まあいい。どうせこの女はとうぶん目を覚ましはしない。後でたっぷり可愛がってやる」
こちらに向き直る気配に素早く目を閉じた途端、胸をかすったおぞましい手に身震いしそうになった。何とか耐えると、気配が離れてパタンと扉の閉まる音がする。
途端に、胸にウッときて目尻からは涙がこぼれそうだ。……ようやく、ずっと怖かったのだと気づいた。
心底ホッとしたところに流れ込んできた藁の匂いと馬のいななき……ここはどうやら馬車の中らしい。感じていた恐怖心は幼い頃のトラウマと重なる。イザベルは小さく震える身体を精一杯自分で抱きしめた。
ーー怖くなんかないわ。あの頃の、何もできない子供ではないのだから。
自分に言い聞かせてだいぶ落ち着いてくると、結構な内装と家紋が目に映った。貴族の馬車に違いない。ーーきっとまだ城内で、それも庭園からそれほど離れていない。厩舎近くであれば気を失った時間もごく短い。
ーーなら、このまま脱出しようかしら……?
くらりとする頭に手をやり、ソロソロと起き上がって窓の外を伺うと見張りはいない。試しに扉の取っ手に手をかけたら、いとも簡単に回った。……今すぐ逃げ出して衛兵を呼ぶ。これが一番の良策だ。
わかっている。だけどこのままだと…………
心に引っかかることがあって迷っていると、誰かが馬車に近づいてくる。この感じはマイダスではない。足音を立てずこちらを伺うような気配だ。
ーーでも、味方とも限らないわ。
イザベルは緊張しつつ馬車に潜入してきた人物を問答無用でえいっと魔法で拘束した。が、瞬時に閃光が走り、呪縛はあっさり破られる。
「イザベル様!? よくご無事で!」
「ーーコルト⁉︎ どうしてあなたが……」
うちの御者ではないか! こんなところでいったい……何をしている?
「それより、お怪我はありませんか?」
問いかけはあっさりスルーされたけど、押し問答をしている暇はない。
「ないわ。ねえ、御者のアナタがここにいるってことは、まだ夜会は終わってないのね?」
「はい。皆様、楽しんでおられます」
ならばこのまま、捕まっておこう。
「早くお逃げ下さい」と急かす男はイザベルが馬車に残る意思を伝えると、気でも違ったかという顔をした。
「ーーまさか、あやつの魅了が効いて……っ?」
「違うわ。さっき気になることを聞いたのよ。だからマイダス卿から直接聞き出すのが一番だと思うの」
女性の顔は覚えていない。つまりここで逃げたら、ワインのすり替えに関して手がかりがなくなってしまう。トラウマがどうとか言っている場合じゃあない。よくない企みの匂いがする。
「そのようなことは、イザベル様はなさらなくてよいのですっ! どうか後は任せてお逃げくださいっ。閣下に知れたら大変です!」
「ーーイグナス様もマイダス卿も、国賓なのよ。問題のワインはカリッサ殿下のために用意されたらしいし、下手なことは言えないわ。第一、相手は魅了の魔法を使う。御者のあなたに何を任せるのよ?」
ファリラを通して皇女へ危機を知らせるためにも、具体的な情報を得ないと言いがかりと思われてしまう。
「だからね、ボルガ室長への使いを頼まれてちょうだい」
「できません! イザベル様を置いていったら、私の首が飛びます」
「えっ? クビにはしないわ。むしろお給金を弾むわよ」
「そうではなくーーー」
何かを言いかけたコルトは、困ったように眉を寄せて頭を掻きむしった。と思ったら、何やら穏やかでない目つきでこちらを見てくる。
「ダメよ。力づくでなんて考えないでちょうだいな。思い切りいかせてもらうわよ」
魔力を纏わせ牽制すると、人の良さそうな顔はすぐさま両手を上げた。そして頑固にそこから動かないイザベルに、諦めのため息をつく。
「落ち着き払っていらっしゃるということは、ご自身の身を守る自信がおありですよね?」
「もちろんよ。さっきはいきなりで不覚をとったけれど、あの程度の魅了はまったく効かないわ」
「ですが、相手は大の男です。やはり僕がーー」
「無用よ。さあ行ってちょうだい」
口論をしている時間が惜しいので、風魔法でコルトを馬車の外に追い出した。
「……くれぐれもっ、無茶をしないでください。お願いしますっ。すぐに戻りますから」
「早く行って。室長によろしく伝えてね」
極刑を覚悟したような顔をした男の姿が、ふっと消えた。ーー隠密魔法。どうしてあの御者が……いや、それより準備をしなければ。
イザベルは魔法陣を繰り出し作業に取り掛かるが、予想以上に早くマイダスが戻ってきて、慌ててまた気絶しているふりをした。
ーーあ、誰か一緒にいるわ……?
「ほお、こりゃぁ。稀に見るべっぴんだ。この女はいったい……?」
気持ち悪い。ジロジロ見られている視線にグッと耐える。
「お前は知らなくていい。ふるいつきたくなる身体をしているだろう」
「ははあ、なるほど。今夜はお楽しみですか。羨ましい限りでさあ」
「妾にしてやろうと思ってな。お前も伯爵も手を出したら、約束した地位はないとおもえ」
ーーこのぉっ、陰険お下劣くそ野郎っ! 誰があなたのような人の妾なんかに……
淑女にあるまじき言葉でこっそり罵ったイザベルは、諦めの境地だ。
……何だかもう……慣れたとはいえ、ロクでもない男を引き寄せるこの体質を心から呪いたい。ふざけるなと思いっきり叫びたいところだが、それ以上に相手はマイダスだけと想定していた自分の見通しの甘さに唇を噛んだ。
ーー厄介なのが増殖したわ。それに会話に出てきた伯爵という人物。いったい何者なの?
どさっと何かを下ろす音。漂ってきた華やかな香水の香りにイザベルは心中で一気に青ざめた。ーーまさか、他にもさらわれた女性がいる⁉︎
薄目を開けて確認したら、可憐なドレスが目に入る。
この状況は想定外、ほんともう最悪だ!
「その女は人質だ。いまいましいビストルジュもこれで動けん。なにせ、奴が花嫁にと望んだカラートの貴族だからな」
イザベルの息がヒュッと止まった。
雷に打たれたようなショックで、身体中がこわばる。
ーー花……嫁ってーーーーー……
この女性がイグナスと……ああぁ、ダメだわ! 今はそんなことを考えている場合じゃないのにっ……!
目を瞑っているから視界は真っ暗。だけど突如開いたさらに深い闇の落とし穴へとイザベルの心は落ちていった。
痛い、痛い、痛い。心臓を一突きだ。心が軋んでものすごく痛くって、酸素不足の頭はガンガンするのに苦痛の闇に魂ごと溺れて息がまったくできないーー……
透明な雫が一筋イザベルの目尻から流れ落ちるが、暗い馬車の中だからか男たちは気づかない。そして不穏な会話はなお続いた。
「ククク、ざまあみろ! ついに奴の弱みを握ったぞ! 散々煮え湯を飲まされたこちらが、ついに切り札を掴んだのだ!」
勝利に酔ったマイダスの笑い声が馬車の壁に反射する。
「お前は、人質と私の女を伯爵の屋敷へ運んでおけ」
「へえ、わかりやした。その代わりと言っちゃあなんですが、礼はたんまりはずんで下さいよ」
「ちっ、まあいい。私は寛大だからな。仕上げが片付いたら、今晩は世話になる。邪魔が入らぬところでこの女を可愛がってやるとしよう。計画成功の前祝いだ」
ーーうっ、そんなの死んでも嫌よっ! イグナスっ!
叶わないとわかっていてもイグナスに一目会いたい。虫唾が走る会話など、これ以上聞きたくもない。そう思う一方で、やけに冷静な自分がいる。
ーーこうなることはわかっていたじゃない。自分から進んで残ったのだし、花嫁選びだって……ばかばかっ。しっかりしなさいっ! 今は私情に流されている場合じゃないでしょう。
ぐちゃぐちゃな自分を叱咤して、大丈夫、まだ世界の終わりではないと無理やり心の焦点をすり替えた。
やるべきこと、なりたい自分ーーそうだ。何が起こっているのかよくわからないけど、このままだとだんだんよくない方向に向かっている。ファリラに言付けはしたが、今この男たちを追跡できるのは自分だけだ。それにカラートに協力者がいるとは思わなかった。そうか、さっきの家紋が……
見覚えがあるような、ないようなデザインは、気が動転してどこで見たのかがどうしても思い出せない。
ーーマイダスに今問い詰めるべきかしら? だけどもう一人男がいるわ。この女性を人質に取られたら……?
迷っているうちにマイダスは去り、馬車はガタガタと動き出した。
……こうなったら、覚悟を決めるしかない。王国に仕える宮廷魔導士として、今まで精一杯努力をしてきた。幸か不幸か、こんなふうに攫われそうになったのもこれが初めてではない。行けるところまで行くしかない。
馬車を操る御者に気づかれないよう涙を拭ったイザベルは、隣で倒れている女性をじっと見つめた。この女性はイグナスに愛されている。自分とどう違うのだろう……
人の好みは千差万別だ。理性でわかっていても、羨ましいと思う気持ちを抑えられない。
ーー自分だってそうじゃない。容姿が整っているとか地位があるとか条件だけなら、ロイス様だって。だけど私はイグナスだけを愛している、彼一筋だわ。
好き嫌いの感性は、理屈じゃない。自分も含め完璧な人などいないのだから。
諦めのため息をついたイザベルは、気を失ってもなお美しい女性にそっと声をかけた。
「もし、起きてください」
「う……」
頭に手をやった女性はさいわい軽い失神で済んだらしく、すぐに目を開いた。
「ぁ、あなたは……どなた……? 私はどこに……」
震えながらも、しっかりした声を出す。この令嬢は見た目より気丈な性格らしい。
「私は魔導士のイザベル・メローズと申します。落ち着いて聞いてくださいね。私もあなたも、王城からさらわれてしまいました」
令嬢の顔は恐怖で真っ青になった。
「しっ、声を上げないで。逃げる策はあります。お名前をお伺いしてよろしいですか?」
口に手を当てたたおやかな美人には見覚えがある。イグナスがワルツを踊っていたパートナーだ。ロイスと踊りながらフロアで何回かすれ違ったが、青ざめた顔でもその儚い美しさは変わらない。
「セシリア・ゼダルですわ。メローズ様、お名前は存じております」
健気にも震える声で答えた美しい女性は、光魔法の大家、ゼダル侯爵家の令嬢だった。彼女は国一番の光魔法の使い手と言われている。
ーーそうか……この方が……イグナスに望まれたのね…………
透き通った水のような鮮やかな水色の髪と、金の瞳。華奢で守ってあげたくなくなる雰囲気の女性は、真紅の髪の自分とは容貌も性格も痛いほど違いすぎる。
さっきは押さえ込んだ事実が、今頃になってイザベルの心臓に突き刺さる。ジワリと浮かびそうな涙を堪えドレスを見下ろしたイザベルは、はっきり自分の立ち位置を自覚した。ーーならば、イグナスのためにできることは一つ。
「あの……どうかなされましたか?」
「なんでもありません。ゼダル様、これから私たちは……多分どこかの貴族の屋敷に連れて行かれます。屋内に連れ込まれてしまってはお終い、ですのでーー」
呪文を唱えると、思い切ってイザベルはエイっと自分の耳たぶを傷つけた。
「っ‼︎ 何をなさ……」
「お静かに。念の為に障壁を張っていますが、気づかれたくありません」
「ですが……」
うまくピアスが外れた。耳からの出血は止まらないが、一刻も早くこれをセシリアにつけてもらわないと。
術者にしか外せないピアスを皮膚ごと無理やり外したが、生体反応を察知する魔法が起動する前にと、イザベルは震える手でピアスをパニック目のセシリアの耳に素早く嵌めた。カチッと嵌ったピアスはこれで絶対に外れない。
イグナスも愛する人と繋がっていれば安心だろう。
「このピアスは、持ち主の安全を術者に伝える魔導具です。嵌めていれば、気配を辿ってこれるはず。馬車のスピードが落ちたら、ゼダル様は飛び降りて逃げてください」
「っ……メローズ様は? 一緒に逃げましょう!」
出血を見かねたセシリアが治癒魔法をかけてくれる。
「ーーそれは出来ません。途中で逃げだしたと気付かれたら、追手がかかるでしょう。それよりも私が幻惑魔法でゼダル様の幻影を作り出しますわ。私は魔導士ですから、ご心配なく。時間稼ぎにはなるはずです」
「そんな、それではメローズ様ご自身の身がーー」
「相手の全容が掴めない以上、これが最善策なのです」
セシリアの身体が細かく震え出した。
「言い争いをしている余裕はありませんわ。準備はよろしいですか?」
イザベルの硬い声にセシリアは震える声で頷いた。
「っ……はい、わかりました。必ずや逃げ切って見せます。そして助けを呼んできますわ。ここまでしてくださるメローズ様のためにも」
ーーあぁ、こんなに勇敢な人なら……愛されるのも当然だわ……
運命だと諦観の極地に達したイザベルは手早く首飾りを外した。「これもお持ちください……」と渡すと、セシリアは呆然とする。
「これはいったい?」
「もし辻馬車や馬を見かけたら、乗せてもらうのです。この宝石を通貨代わりに使ってください。一刻も早く王城に」
「でしたら私の宝石を使えば……」
「家宝の魔石を手放すおつもりですか? しっ、お静かに。多分カーブに近づいていますわ」
馬車が少し傾くと、がたっごとっとスピードが落ちてくる。
「今です。さあ」
「っこのご恩は、絶対に忘れません!」
扉を開くと同時に、イザベルは風魔法でセシリアを馬車から放り出した。もちろん地面との衝突から守るための障壁も抜かりない。一瞬叫びそうになったセシリアは口に手を当てて耐えてくれた。扉を閉める音も車輪の音でかき消され脱出は成功したようだ。
ーーよかった。これでよかったわ。
また元の位置に横たわったイザベルは、誰もいなくなった隣に幻惑魔法を繰り出す。これで万が一、御者に窓から覗かれても当分はごまかせるはず。
自分はやるべきことをーー宮廷魔導士として最善を尽くしたと思うと、ズキズキ痛む心がほんのちょっぴり和らいだ。
達観したイザベルが馬車に揺られて着いたのは、どこかの屋敷らしかった。
ギイと門を開く音が聞こえ、馬車の窓越しに灯りが漏れてくる。
しばらくすると扉が開き、流れ込んできたひんやりした空気で身体が震えそうだ。幻影に気づかれないかとヒヤヒヤしたが、さすがロクでもない男を惹きつける呪いーーもとい生まれ持った男運のなさは立派に健在で。御者の男は幻影のセシリアには見向きもせず、まっさきにイザベルを掴んで担ぎ出した。
「やはりこの女は……ただの魔導士にしておくのは惜しい」
ねっとりした声がのしかかり、鼻腔に甘ったるい匂いが漂ってくる。
ーー何の香りかし…ら……また気が……遠ざかってーー…
だめだ。危険が迫っている。
しっかりしろ……そう働きかけてくる本能で意識は再び蘇ったけれど、状況がまるでわからない。あまつさえ気怠くって、身体に力が入らず目を閉じたまま動かなかった。
すると今度はリーンと鈴音がして、荒い鼻息と忌々しそうな「くそっ」という男の声が聞こえる。
無視できない危機感に薄目を開けたら、大輪の花を床に叩きつけて踏みにじるマイダスがいた。
「またお呼びかっ、生意気な皇女め~。それに何なんだカラートの奴らはっ! 揃いも揃って貴族連中の誰にも私の魅了が効かないなんてっ、ありえないぞ!」
ダンダンと床を踏み鳴らし癇癪を起こす姿は、こちらが目を覚ましたとは夢にも思っていないようだ。「この私が! こんなものに頼るとはっ!」と愚痴りながら、床を蹴りつけている。
「……まあいい。どうせこの女はとうぶん目を覚ましはしない。後でたっぷり可愛がってやる」
こちらに向き直る気配に素早く目を閉じた途端、胸をかすったおぞましい手に身震いしそうになった。何とか耐えると、気配が離れてパタンと扉の閉まる音がする。
途端に、胸にウッときて目尻からは涙がこぼれそうだ。……ようやく、ずっと怖かったのだと気づいた。
心底ホッとしたところに流れ込んできた藁の匂いと馬のいななき……ここはどうやら馬車の中らしい。感じていた恐怖心は幼い頃のトラウマと重なる。イザベルは小さく震える身体を精一杯自分で抱きしめた。
ーー怖くなんかないわ。あの頃の、何もできない子供ではないのだから。
自分に言い聞かせてだいぶ落ち着いてくると、結構な内装と家紋が目に映った。貴族の馬車に違いない。ーーきっとまだ城内で、それも庭園からそれほど離れていない。厩舎近くであれば気を失った時間もごく短い。
ーーなら、このまま脱出しようかしら……?
くらりとする頭に手をやり、ソロソロと起き上がって窓の外を伺うと見張りはいない。試しに扉の取っ手に手をかけたら、いとも簡単に回った。……今すぐ逃げ出して衛兵を呼ぶ。これが一番の良策だ。
わかっている。だけどこのままだと…………
心に引っかかることがあって迷っていると、誰かが馬車に近づいてくる。この感じはマイダスではない。足音を立てずこちらを伺うような気配だ。
ーーでも、味方とも限らないわ。
イザベルは緊張しつつ馬車に潜入してきた人物を問答無用でえいっと魔法で拘束した。が、瞬時に閃光が走り、呪縛はあっさり破られる。
「イザベル様!? よくご無事で!」
「ーーコルト⁉︎ どうしてあなたが……」
うちの御者ではないか! こんなところでいったい……何をしている?
「それより、お怪我はありませんか?」
問いかけはあっさりスルーされたけど、押し問答をしている暇はない。
「ないわ。ねえ、御者のアナタがここにいるってことは、まだ夜会は終わってないのね?」
「はい。皆様、楽しんでおられます」
ならばこのまま、捕まっておこう。
「早くお逃げ下さい」と急かす男はイザベルが馬車に残る意思を伝えると、気でも違ったかという顔をした。
「ーーまさか、あやつの魅了が効いて……っ?」
「違うわ。さっき気になることを聞いたのよ。だからマイダス卿から直接聞き出すのが一番だと思うの」
女性の顔は覚えていない。つまりここで逃げたら、ワインのすり替えに関して手がかりがなくなってしまう。トラウマがどうとか言っている場合じゃあない。よくない企みの匂いがする。
「そのようなことは、イザベル様はなさらなくてよいのですっ! どうか後は任せてお逃げくださいっ。閣下に知れたら大変です!」
「ーーイグナス様もマイダス卿も、国賓なのよ。問題のワインはカリッサ殿下のために用意されたらしいし、下手なことは言えないわ。第一、相手は魅了の魔法を使う。御者のあなたに何を任せるのよ?」
ファリラを通して皇女へ危機を知らせるためにも、具体的な情報を得ないと言いがかりと思われてしまう。
「だからね、ボルガ室長への使いを頼まれてちょうだい」
「できません! イザベル様を置いていったら、私の首が飛びます」
「えっ? クビにはしないわ。むしろお給金を弾むわよ」
「そうではなくーーー」
何かを言いかけたコルトは、困ったように眉を寄せて頭を掻きむしった。と思ったら、何やら穏やかでない目つきでこちらを見てくる。
「ダメよ。力づくでなんて考えないでちょうだいな。思い切りいかせてもらうわよ」
魔力を纏わせ牽制すると、人の良さそうな顔はすぐさま両手を上げた。そして頑固にそこから動かないイザベルに、諦めのため息をつく。
「落ち着き払っていらっしゃるということは、ご自身の身を守る自信がおありですよね?」
「もちろんよ。さっきはいきなりで不覚をとったけれど、あの程度の魅了はまったく効かないわ」
「ですが、相手は大の男です。やはり僕がーー」
「無用よ。さあ行ってちょうだい」
口論をしている時間が惜しいので、風魔法でコルトを馬車の外に追い出した。
「……くれぐれもっ、無茶をしないでください。お願いしますっ。すぐに戻りますから」
「早く行って。室長によろしく伝えてね」
極刑を覚悟したような顔をした男の姿が、ふっと消えた。ーー隠密魔法。どうしてあの御者が……いや、それより準備をしなければ。
イザベルは魔法陣を繰り出し作業に取り掛かるが、予想以上に早くマイダスが戻ってきて、慌ててまた気絶しているふりをした。
ーーあ、誰か一緒にいるわ……?
「ほお、こりゃぁ。稀に見るべっぴんだ。この女はいったい……?」
気持ち悪い。ジロジロ見られている視線にグッと耐える。
「お前は知らなくていい。ふるいつきたくなる身体をしているだろう」
「ははあ、なるほど。今夜はお楽しみですか。羨ましい限りでさあ」
「妾にしてやろうと思ってな。お前も伯爵も手を出したら、約束した地位はないとおもえ」
ーーこのぉっ、陰険お下劣くそ野郎っ! 誰があなたのような人の妾なんかに……
淑女にあるまじき言葉でこっそり罵ったイザベルは、諦めの境地だ。
……何だかもう……慣れたとはいえ、ロクでもない男を引き寄せるこの体質を心から呪いたい。ふざけるなと思いっきり叫びたいところだが、それ以上に相手はマイダスだけと想定していた自分の見通しの甘さに唇を噛んだ。
ーー厄介なのが増殖したわ。それに会話に出てきた伯爵という人物。いったい何者なの?
どさっと何かを下ろす音。漂ってきた華やかな香水の香りにイザベルは心中で一気に青ざめた。ーーまさか、他にもさらわれた女性がいる⁉︎
薄目を開けて確認したら、可憐なドレスが目に入る。
この状況は想定外、ほんともう最悪だ!
「その女は人質だ。いまいましいビストルジュもこれで動けん。なにせ、奴が花嫁にと望んだカラートの貴族だからな」
イザベルの息がヒュッと止まった。
雷に打たれたようなショックで、身体中がこわばる。
ーー花……嫁ってーーーーー……
この女性がイグナスと……ああぁ、ダメだわ! 今はそんなことを考えている場合じゃないのにっ……!
目を瞑っているから視界は真っ暗。だけど突如開いたさらに深い闇の落とし穴へとイザベルの心は落ちていった。
痛い、痛い、痛い。心臓を一突きだ。心が軋んでものすごく痛くって、酸素不足の頭はガンガンするのに苦痛の闇に魂ごと溺れて息がまったくできないーー……
透明な雫が一筋イザベルの目尻から流れ落ちるが、暗い馬車の中だからか男たちは気づかない。そして不穏な会話はなお続いた。
「ククク、ざまあみろ! ついに奴の弱みを握ったぞ! 散々煮え湯を飲まされたこちらが、ついに切り札を掴んだのだ!」
勝利に酔ったマイダスの笑い声が馬車の壁に反射する。
「お前は、人質と私の女を伯爵の屋敷へ運んでおけ」
「へえ、わかりやした。その代わりと言っちゃあなんですが、礼はたんまりはずんで下さいよ」
「ちっ、まあいい。私は寛大だからな。仕上げが片付いたら、今晩は世話になる。邪魔が入らぬところでこの女を可愛がってやるとしよう。計画成功の前祝いだ」
ーーうっ、そんなの死んでも嫌よっ! イグナスっ!
叶わないとわかっていてもイグナスに一目会いたい。虫唾が走る会話など、これ以上聞きたくもない。そう思う一方で、やけに冷静な自分がいる。
ーーこうなることはわかっていたじゃない。自分から進んで残ったのだし、花嫁選びだって……ばかばかっ。しっかりしなさいっ! 今は私情に流されている場合じゃないでしょう。
ぐちゃぐちゃな自分を叱咤して、大丈夫、まだ世界の終わりではないと無理やり心の焦点をすり替えた。
やるべきこと、なりたい自分ーーそうだ。何が起こっているのかよくわからないけど、このままだとだんだんよくない方向に向かっている。ファリラに言付けはしたが、今この男たちを追跡できるのは自分だけだ。それにカラートに協力者がいるとは思わなかった。そうか、さっきの家紋が……
見覚えがあるような、ないようなデザインは、気が動転してどこで見たのかがどうしても思い出せない。
ーーマイダスに今問い詰めるべきかしら? だけどもう一人男がいるわ。この女性を人質に取られたら……?
迷っているうちにマイダスは去り、馬車はガタガタと動き出した。
……こうなったら、覚悟を決めるしかない。王国に仕える宮廷魔導士として、今まで精一杯努力をしてきた。幸か不幸か、こんなふうに攫われそうになったのもこれが初めてではない。行けるところまで行くしかない。
馬車を操る御者に気づかれないよう涙を拭ったイザベルは、隣で倒れている女性をじっと見つめた。この女性はイグナスに愛されている。自分とどう違うのだろう……
人の好みは千差万別だ。理性でわかっていても、羨ましいと思う気持ちを抑えられない。
ーー自分だってそうじゃない。容姿が整っているとか地位があるとか条件だけなら、ロイス様だって。だけど私はイグナスだけを愛している、彼一筋だわ。
好き嫌いの感性は、理屈じゃない。自分も含め完璧な人などいないのだから。
諦めのため息をついたイザベルは、気を失ってもなお美しい女性にそっと声をかけた。
「もし、起きてください」
「う……」
頭に手をやった女性はさいわい軽い失神で済んだらしく、すぐに目を開いた。
「ぁ、あなたは……どなた……? 私はどこに……」
震えながらも、しっかりした声を出す。この令嬢は見た目より気丈な性格らしい。
「私は魔導士のイザベル・メローズと申します。落ち着いて聞いてくださいね。私もあなたも、王城からさらわれてしまいました」
令嬢の顔は恐怖で真っ青になった。
「しっ、声を上げないで。逃げる策はあります。お名前をお伺いしてよろしいですか?」
口に手を当てたたおやかな美人には見覚えがある。イグナスがワルツを踊っていたパートナーだ。ロイスと踊りながらフロアで何回かすれ違ったが、青ざめた顔でもその儚い美しさは変わらない。
「セシリア・ゼダルですわ。メローズ様、お名前は存じております」
健気にも震える声で答えた美しい女性は、光魔法の大家、ゼダル侯爵家の令嬢だった。彼女は国一番の光魔法の使い手と言われている。
ーーそうか……この方が……イグナスに望まれたのね…………
透き通った水のような鮮やかな水色の髪と、金の瞳。華奢で守ってあげたくなくなる雰囲気の女性は、真紅の髪の自分とは容貌も性格も痛いほど違いすぎる。
さっきは押さえ込んだ事実が、今頃になってイザベルの心臓に突き刺さる。ジワリと浮かびそうな涙を堪えドレスを見下ろしたイザベルは、はっきり自分の立ち位置を自覚した。ーーならば、イグナスのためにできることは一つ。
「あの……どうかなされましたか?」
「なんでもありません。ゼダル様、これから私たちは……多分どこかの貴族の屋敷に連れて行かれます。屋内に連れ込まれてしまってはお終い、ですのでーー」
呪文を唱えると、思い切ってイザベルはエイっと自分の耳たぶを傷つけた。
「っ‼︎ 何をなさ……」
「お静かに。念の為に障壁を張っていますが、気づかれたくありません」
「ですが……」
うまくピアスが外れた。耳からの出血は止まらないが、一刻も早くこれをセシリアにつけてもらわないと。
術者にしか外せないピアスを皮膚ごと無理やり外したが、生体反応を察知する魔法が起動する前にと、イザベルは震える手でピアスをパニック目のセシリアの耳に素早く嵌めた。カチッと嵌ったピアスはこれで絶対に外れない。
イグナスも愛する人と繋がっていれば安心だろう。
「このピアスは、持ち主の安全を術者に伝える魔導具です。嵌めていれば、気配を辿ってこれるはず。馬車のスピードが落ちたら、ゼダル様は飛び降りて逃げてください」
「っ……メローズ様は? 一緒に逃げましょう!」
出血を見かねたセシリアが治癒魔法をかけてくれる。
「ーーそれは出来ません。途中で逃げだしたと気付かれたら、追手がかかるでしょう。それよりも私が幻惑魔法でゼダル様の幻影を作り出しますわ。私は魔導士ですから、ご心配なく。時間稼ぎにはなるはずです」
「そんな、それではメローズ様ご自身の身がーー」
「相手の全容が掴めない以上、これが最善策なのです」
セシリアの身体が細かく震え出した。
「言い争いをしている余裕はありませんわ。準備はよろしいですか?」
イザベルの硬い声にセシリアは震える声で頷いた。
「っ……はい、わかりました。必ずや逃げ切って見せます。そして助けを呼んできますわ。ここまでしてくださるメローズ様のためにも」
ーーあぁ、こんなに勇敢な人なら……愛されるのも当然だわ……
運命だと諦観の極地に達したイザベルは手早く首飾りを外した。「これもお持ちください……」と渡すと、セシリアは呆然とする。
「これはいったい?」
「もし辻馬車や馬を見かけたら、乗せてもらうのです。この宝石を通貨代わりに使ってください。一刻も早く王城に」
「でしたら私の宝石を使えば……」
「家宝の魔石を手放すおつもりですか? しっ、お静かに。多分カーブに近づいていますわ」
馬車が少し傾くと、がたっごとっとスピードが落ちてくる。
「今です。さあ」
「っこのご恩は、絶対に忘れません!」
扉を開くと同時に、イザベルは風魔法でセシリアを馬車から放り出した。もちろん地面との衝突から守るための障壁も抜かりない。一瞬叫びそうになったセシリアは口に手を当てて耐えてくれた。扉を閉める音も車輪の音でかき消され脱出は成功したようだ。
ーーよかった。これでよかったわ。
また元の位置に横たわったイザベルは、誰もいなくなった隣に幻惑魔法を繰り出す。これで万が一、御者に窓から覗かれても当分はごまかせるはず。
自分はやるべきことをーー宮廷魔導士として最善を尽くしたと思うと、ズキズキ痛む心がほんのちょっぴり和らいだ。
達観したイザベルが馬車に揺られて着いたのは、どこかの屋敷らしかった。
ギイと門を開く音が聞こえ、馬車の窓越しに灯りが漏れてくる。
しばらくすると扉が開き、流れ込んできたひんやりした空気で身体が震えそうだ。幻影に気づかれないかとヒヤヒヤしたが、さすがロクでもない男を惹きつける呪いーーもとい生まれ持った男運のなさは立派に健在で。御者の男は幻影のセシリアには見向きもせず、まっさきにイザベルを掴んで担ぎ出した。
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