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暗がりの逢瀬
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魔界某日某所。時刻は深夜を回る頃だった。
「……今、戻ったわ」
一人の女が、重そうな荷物と共に、玄関を開けて入ってくる。彼女は硬質なヒールの音を響かせ、リビングに踏み入ると、肩にかけていたボストンバッグをどさりと床に落とした。閉まり切らないファスナーの隙間からは、一部が破れた黒い服、顔を隠すためのゴーグル、血の滲んだ包帯などがはみ出している。
「首尾は、どうだった?」
部屋の中央に置かれたグレーのカウチに、一人の男が座っていた。青い髪をツーブロックに整え、長めに伸ばした前髪をセンターパートに分けている。彼はウィスキーのグラスを片手に、女の方を振り向くこともなく問うた。
「さっき電話で報告したじゃない」
女は半ばうんざりした調子で、纏った黒いコートを脱ぎながら、彼の質問に答える。ところが、相手は静かに頭を振った。
「直接聞かせろ。お前の口から」
彼女のコートの下から現れたのは、光沢のある生地で出来た、赤いタイトなドレスだった。深いスリットの隙間から、白くきめ細かい肌に覆われた、細い足が覗いている。華奢ではあるが筋肉がついた身体はしなやかに伸び、天から吊るされたかのように真っ直ぐに保たれていた。男は彼女の美しさを、グラスの煌めき越しにじっくりと堪能する。女は彼の眼差しに気付いていないふりをして、ヒールを放り捨て、縛った髪を解いた。
「任務には失敗したわ。あの男を捕らえることは出来なかった……雇った人たちも、多分全員死んだでしょうね」
「そうか」
自分から言わせたくせに、男は至極つまらなさそうに端的に応じる。そのまま黙って酒を楽しむ彼を、女はちらりとだけ一瞥し、足早に横を行き過ぎようとした。しかし、突然彼は体を捻り、カウチ越しに手を伸ばしてきたかと思うと、女の二の腕を思い切り掴む。包帯の上から強い力で押されて、新たな血が滲み出すのが分かった。
「っ……」
「誰にやられた?」
痛みに眉を顰める女に、男はあくまで淡々とした、氷のような口調で尋ねた。女は無視をしようとしたが、相手が手を離さないので諦め、渋々と打ち明ける。
「仲間の男よ。金髪で眼鏡の……確か、ムーンとか呼ばれていた」
「どうせ偽名だろう。それよりも、何故電話で報告しなかった?」
「する必要があるの?痛いから、離してほしいんだけど」
男は嘲るような声音で返し、尋問じみた会話を続ける。だが、今度は女も、彼の言いなりにはならなかった。ぴしゃりと冷たい眼差しを浴びせかけ、男を沈黙させようとする。
それは最初の数秒間だけ上手くいった。ところがそのすぐ後、男の肩が動いたかと思うと、黒いジャケットの下で、薄くて柔靭な筋肉が盛り上がる。彼の腕がしなった直後、投擲されたクリスタルのグラスが、コンクリートの壁に激突し粉々に砕けた。わずかに底に残っていた琥珀色の液体が、周囲に飛散し、モノトーンのカーペットに点々と染みを作る。
突然の暴力行為に出た彼を、女は無言で立ち尽くしたまま見つめていた。男は彼女の手を引いて、自分の上に座らせると、その細い顎を強引に持ち上げる。女の栗色の瞳と、男の冷酷な視線とが、至近距離で絡み合った。
「お前は、自分の物が他人に壊されても、何も思わないのか?怒り、悲しみ、原因となった者を拷問にかけたいとは……?必ず、どんな手を使ってでも復讐し、奴らの愚行に対する罰を、死んでも尚生ぬるい後悔を、その肉体に刻み付けてやりたいとは、思わないのか」
彼はグレーの目に狂気的な残酷さを湛えながら、まるで病的な妄想に浸っているかのように、恍惚とした輝きを放っていた。その指は空中に浮かぶ見えない敵を狙って、禍々しく邪悪に曲げられている。手入れの行き届いた青い髪が、彼の身体の動きに合わせてかすかに揺れていた。
「俺は、思う。だから、お前がどこの誰とも知れない奴に傷を付けられ、剰えそれを報告もせずに帰ってくるのは……非常に不愉快だ」
「……申し訳、ありません」
男は丁寧に整えられた爪を齧り、口先のみで憤懣を示す。しかし、その熱の入り方とは裏腹に、表情は鉄で出来ているかのような無機質な能面から崩れなかった。彼の冷たさに臆したのか、女はわずかに頬を引き攣らせ、消沈した声音で謝罪する。すると、男は煩わしそうに眉根を寄せ、彼女の肩を突き飛ばして、膝の上から無理矢理退かした。
「分かったらさっさと行け。シャワーでも浴びて、その汚れをどうにかしろ。俺の所有物なら、いつも、いつでも、完璧な形であるべきだ」
女は不平一つこぼさずに、彼に従いシャワールームに向かう。その背中に、男は指を突き付け、抑揚のないトーンで言い足した。
「それと……次はないぞ。アデレード」
女はピタリと歩みを止め、豊かな金髪を波打たせながら、ゆっくりと振り返る。彼女はカウチに腰掛けたまま、彫像のように身動きしない男を眺め、それからおもむろに艶やかな唇を開いた。
「分かっているわ、セイガ」
必要最低限の物しかないモダンな部屋に、彼女の凛として決意に満ちた、強かな声が通った。
「……今、戻ったわ」
一人の女が、重そうな荷物と共に、玄関を開けて入ってくる。彼女は硬質なヒールの音を響かせ、リビングに踏み入ると、肩にかけていたボストンバッグをどさりと床に落とした。閉まり切らないファスナーの隙間からは、一部が破れた黒い服、顔を隠すためのゴーグル、血の滲んだ包帯などがはみ出している。
「首尾は、どうだった?」
部屋の中央に置かれたグレーのカウチに、一人の男が座っていた。青い髪をツーブロックに整え、長めに伸ばした前髪をセンターパートに分けている。彼はウィスキーのグラスを片手に、女の方を振り向くこともなく問うた。
「さっき電話で報告したじゃない」
女は半ばうんざりした調子で、纏った黒いコートを脱ぎながら、彼の質問に答える。ところが、相手は静かに頭を振った。
「直接聞かせろ。お前の口から」
彼女のコートの下から現れたのは、光沢のある生地で出来た、赤いタイトなドレスだった。深いスリットの隙間から、白くきめ細かい肌に覆われた、細い足が覗いている。華奢ではあるが筋肉がついた身体はしなやかに伸び、天から吊るされたかのように真っ直ぐに保たれていた。男は彼女の美しさを、グラスの煌めき越しにじっくりと堪能する。女は彼の眼差しに気付いていないふりをして、ヒールを放り捨て、縛った髪を解いた。
「任務には失敗したわ。あの男を捕らえることは出来なかった……雇った人たちも、多分全員死んだでしょうね」
「そうか」
自分から言わせたくせに、男は至極つまらなさそうに端的に応じる。そのまま黙って酒を楽しむ彼を、女はちらりとだけ一瞥し、足早に横を行き過ぎようとした。しかし、突然彼は体を捻り、カウチ越しに手を伸ばしてきたかと思うと、女の二の腕を思い切り掴む。包帯の上から強い力で押されて、新たな血が滲み出すのが分かった。
「っ……」
「誰にやられた?」
痛みに眉を顰める女に、男はあくまで淡々とした、氷のような口調で尋ねた。女は無視をしようとしたが、相手が手を離さないので諦め、渋々と打ち明ける。
「仲間の男よ。金髪で眼鏡の……確か、ムーンとか呼ばれていた」
「どうせ偽名だろう。それよりも、何故電話で報告しなかった?」
「する必要があるの?痛いから、離してほしいんだけど」
男は嘲るような声音で返し、尋問じみた会話を続ける。だが、今度は女も、彼の言いなりにはならなかった。ぴしゃりと冷たい眼差しを浴びせかけ、男を沈黙させようとする。
それは最初の数秒間だけ上手くいった。ところがそのすぐ後、男の肩が動いたかと思うと、黒いジャケットの下で、薄くて柔靭な筋肉が盛り上がる。彼の腕がしなった直後、投擲されたクリスタルのグラスが、コンクリートの壁に激突し粉々に砕けた。わずかに底に残っていた琥珀色の液体が、周囲に飛散し、モノトーンのカーペットに点々と染みを作る。
突然の暴力行為に出た彼を、女は無言で立ち尽くしたまま見つめていた。男は彼女の手を引いて、自分の上に座らせると、その細い顎を強引に持ち上げる。女の栗色の瞳と、男の冷酷な視線とが、至近距離で絡み合った。
「お前は、自分の物が他人に壊されても、何も思わないのか?怒り、悲しみ、原因となった者を拷問にかけたいとは……?必ず、どんな手を使ってでも復讐し、奴らの愚行に対する罰を、死んでも尚生ぬるい後悔を、その肉体に刻み付けてやりたいとは、思わないのか」
彼はグレーの目に狂気的な残酷さを湛えながら、まるで病的な妄想に浸っているかのように、恍惚とした輝きを放っていた。その指は空中に浮かぶ見えない敵を狙って、禍々しく邪悪に曲げられている。手入れの行き届いた青い髪が、彼の身体の動きに合わせてかすかに揺れていた。
「俺は、思う。だから、お前がどこの誰とも知れない奴に傷を付けられ、剰えそれを報告もせずに帰ってくるのは……非常に不愉快だ」
「……申し訳、ありません」
男は丁寧に整えられた爪を齧り、口先のみで憤懣を示す。しかし、その熱の入り方とは裏腹に、表情は鉄で出来ているかのような無機質な能面から崩れなかった。彼の冷たさに臆したのか、女はわずかに頬を引き攣らせ、消沈した声音で謝罪する。すると、男は煩わしそうに眉根を寄せ、彼女の肩を突き飛ばして、膝の上から無理矢理退かした。
「分かったらさっさと行け。シャワーでも浴びて、その汚れをどうにかしろ。俺の所有物なら、いつも、いつでも、完璧な形であるべきだ」
女は不平一つこぼさずに、彼に従いシャワールームに向かう。その背中に、男は指を突き付け、抑揚のないトーンで言い足した。
「それと……次はないぞ。アデレード」
女はピタリと歩みを止め、豊かな金髪を波打たせながら、ゆっくりと振り返る。彼女はカウチに腰掛けたまま、彫像のように身動きしない男を眺め、それからおもむろに艶やかな唇を開いた。
「分かっているわ、セイガ」
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