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春
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しおりを挟む春もそろそろ終わりを迎える三月。
フリンダルの家に訪問したあの日から、もう一ヶ月が過ぎようとしている。
彼女はあの日以降研究室に顔を出さなくなった。
勿論、理由はあった。その理由は私の頭では到底理解出来ない物だったが、了承するしか無かった。
そしてビクトールも、甥のライルに魔力制御を週に一度教えに来ていたが、忙しくなる為対応出来ないと言って、後任を連れて来た日以来会ってはいなかった。
とある麗らかな月曜日。フォンラードとビクトールの共通の知人から、普段は王都に滞在する事の無いビクトールが、大学近くにある元伯爵邸を買ったと言う話を聞いてフォンラードは驚いた。だが、授業や会議、学会準備で忙殺されていた彼は、ビクトールにも何か心境の変化があったのだろう。落ち着いたら連絡を多分寄越す筈。そう納得して、彼はその事をビクトールには尋ねなかった。だが、心の中では『何かが大きく変わろうとしている』そんな漠然とした焦燥感を感じていた。
変化。と言えば、熱にうなされていたのも嘘の様に、私もフォルヤード夫人もフリンダルを養子にする。そんな考えを持つのをやめた。夫人は完全には諦めてはいないのだろうが、少なくとも私の前ではその事を話題にしなくなり、それまで2日に1度は此処に来ていたが今はもう来ていない。
フリンダルの居ない日々は、まるで毎日が雨の日様に気分が晴れない。
それは研究室の学生達も同様のようだ。
何か新しい事を思いついても、『フリンならなんて反応するかな?』そんな事を皆言っている。
彼女は戻って来るだろうか?あの日母親の言った言葉が頭から離れない私は、気が付けばいつもフリンダルの事を考えているな。
『私達の元から離れ、ある人の元で暮らす』
あの言葉がどう言う事なのか、今でもさっぱり皆目検討も付かない。彼女の母や兄、弟妹はこれからどうなるのだろう?そもそも何故彼等はフリンダルを育てていたのか。神の加護とは一体……。
「考えても答えが出ない難問ばかりだ」
フォンラードは授業を終えて、舞い散る花びらの中を歩いて溜息を溢した。
春の終わりは別れの始まり。
誰が言ったのかは忘れてしまったけど、私はそれを聞いてから、理由は分からないけれど春が嫌いになっちゃった。でも、その理由が今なら少しわかるんだ。
だって、私に家族以外の〈大切〉が出来たから。
先生、ビクトールおじちゃん、そして研究室のお兄さんとお姉さんに夫人。もしもこの中の誰かとお別れしないといけなくなったら……とても悲しい。だから、雪が降らなくなってからは毎日神様にお願いしたんだ。『皆んなの側にまだ居させて下さい』って。
でも、やっぱりそれは私の我儘で、みんな何処かに行ってしまうんだわ。
学校を飛び出したあの日から、フリンダルは学校へは行っていなかった。気不味くて行けなかった訳では無く、母親から止められたからだった。そして、フォンラードも母親から直接その事情を聞くと『分かった』といって彼女が学校を休む事を了承した。
「フリンダル、良くお聞き。神様の輪が回り始めたんだよ……分かっているね?」
穏やかな母の言葉に、フリンダルは願いが神には届かなかったのだと俯いた。
「……やだなぁ。もっと母さんと兄さん達と……アロ達と一緒に居たかったな」
「何を言ってるんだい。この姿で側には居られないけどね、ずっと、ずぅーーっと一緒だよ?」
「分かってるけど……」
「フリン!大丈夫だ。兄ちゃん達はちゃんとお前の側に居られる方法を見つけたんだ!まだ秘密だけどな、これだけは言えるぞ!……ずっと一緒だ」
満面の笑みを浮かべる兄達とは反対に、私の為に嘘を吐いている、そんなのは気休めだと、フリンダルは俯いていた。
「さぁ、行きましょう」
母親はフリンダルをその背に乗せると、兄弟達と共に夜の街を駆け抜け、グレース神を祀る森の中の神殿へと向かった。木々の騒めきに合わせて歌う星々。風のコーラスが、悲しみで俯くフリンダルの心に〈空を見上げてごらん〉と歌っている。流れ星、一等星、星雲、月、大いなる自然の中に生まれた不思議にフリンダルは溶けて行き、不安は新たな日々への希望に変わった。
「母さん、本当にまた一緒に暮らせる?」
「えぇ。直ぐにとはいかなくても、必ずいつか」
「俺達は絶対にお前の側に行くから!待ってろ!」
弟達を乗せたメロは並走しながらフリンダルに笑って見せた。兄が有言実行なのを知っているフリンダルはその言葉を信じて風の中頷き前を見た。
いつもは静けさに包まれている神殿は、今日に限って多くの神に仕える信徒達が集まっている。
3月の満月の日は、神が地上に降りて来ると信徒は信じていて、その祝いの祭が催されていた。
祭りと言いつつ、ただ神殿に灯りを灯し、花々で神体であるグレース神を囲い飾り、讃美歌を歌い夜通し祈りを捧げる、と言った信仰に寄った物であった。
「母さん、どこに行くの?」
「神殿の奥の泉だよ」
祈りに夢中で気付かないのか、フリンダル達が彼等の背後を歩いていても、誰も何も言わずただ歌っている。何故、そんな言葉を発しそうになったが、フリンダルは口を手で押さえると黙って母の後を着いて行った。暫く歩くと大きな白い扉があり、母はそれをギィと音を立てて開くとフリンダルを中に入れた。
「ここから先はお前だけで行くんだよ。大丈夫、怖く無いからね」
「え……でもっ」
母は穏やかな笑みをフリンダルに向け、鼻先で背中を押した。
静かに閉まる扉。期待と興奮。そして少しの不安がフリンダルを歩ませる。天窓から差し込む光は泉の中心に建つ硝子で出来たグレース神像を照らしていた。
「何をどうしたら良いんだろう?ここで待っていればいいのかな?」
泉を囲う石の縁石に腰を下ろし、フリンダルはグレース神像を見上げた。不思議と恐怖は無く、まるでフォンラードと居る時の様な安らぎを感じていた。
「グレース様。世界は不思議ね?ずっと、変わらないことなんて何も無いのに、変わる事はずっと続いているわ……変わらないがずっとだといいのに」
「不変とは、変わらない事では無いのです。フリンダル」
気付けば目の前には、漆黒のドレスを身に纏う美しい女性が立っていて、優しい笑みでフリンダルを見ている。突然の邂逅、だが必然であったこの日。フリンダルの中で何かが剥がれて行く。生まれ落ちた恐怖、悪意による拒絶、特異だからと目を逸らされた悲しみ。ただ人の営みを慈しみ、守る為に生まれた。その記憶がフリンダルのまだ小さな身体に満ちて行く。
「グレース様…私は人になりたいって思ってた」
「えぇ…知っていますとも」
「父様は私の所為で死んでしまったの?」
「いいえ、貴女を抱き締める為に死んだのです」
「いつか会える?」
「もう、貴女は知っている筈です。父が誰で、母が誰なのかを」
フリンダルは記憶を辿る。遠く何百年も巡り合ってきた全ての者達を。ある時は青年、またある時は皇女。そしてある時は猫。全ての命を彼女は知っていた。
「私は父様を探す為に生まれたの?」
「いいえ、貴女と言う一つの魂を作る為に貴女の父は世界に生命の欠片を残した。貴女が幾度と無く生まれては死す。それを繰り返したのはその欠片を集める為です」
「良く分からない。グレース様」
「では、見せましょう……さぁこちらへ」
導かれるまま、フリンダルはグレース神の手を取り泉の中に入って行った。
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