いと高きところに

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壱 Agnus Dei(神の子羊)

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1.


「信仰心の厚い者ほど堕ちる時は速い」


 どこかで聞いた様な陳腐なセリフ。真由はそれは違うと思う。逆説的に我が身を振り返ればわかる。信仰心など皆無なのに、自慢にならないが堕ちる速度は誰にも負けない。

 そう思いながら降誕祭のミサに出席したのは数日前の事だった。学校行事として行われるクリスマスミサなので、クリスマスでもイブでもない平日の昼日中に行われる。
 併設されている中学との合同ミサとなり、聖歌は中学生がメインとなって歌われた。伸びやかな若い歌声はそれは美しく、「奉げ物」としての面目躍如であると彼女は皮肉気に考える。教会の聖歌隊ではないので、正確には正当な信者による賛美歌には相当しない。しかし、その歌声は厳かな雰囲気と相まって、まるで天上の国に招き入れられようとしている気分に聞くものを錯覚させる。
 聖歌に併せて伴奏を弾くシスターの酔いしれたような大振りなジェスチャーは滑稽で興醒めするので、オルガンが設置されている場所はなるべく見ないように気をつけて真由は聖歌を口ずさむ。


 主よ、あわれみたまえ。
 キリストよ、あわれみたまえ。
 主よ、あわれみたまえ。


 彼女は自分に課せられた役割を淡々とこなす。聖書朗読は比較的ミサの頭で行われるので、注目度は高い。しかし、早々に義務から解放される事を考えると、それは喜ばしい事だろう。
 居並ぶシスター達は敬虔なクリスチャンの顔で卒なく朗読をこなす彼女を満足そうに眺めているが、もし真由の心中を読み取れたらさぞや眉を顰める事だろう。
 信仰心など形骸のみしか持ち合わせていない自分が物心付かない頃からクリスチャンネームと共に神の恩寵を賜っているなんて喜劇以外の何ものであろうか。手の中に握りこんでいるロザリオに目を落としながら彼女は虚ろに考える。

(早く終わらないかしら? こんな茶番……)

 聖体拝領の為に神父様からキリストの肉と血である、パンとぶどう酒をいただく為に席を立つ。実際に学校のミサで「御血」であるぶどう酒が用いられる事は無いが、「御体」に相当するホスチアと呼ばれるうすいウェハースが供される。
 数少ない信者である生徒は残りの生徒達の晒し者になりながら自分の順番を待つ。神父様から直接舌の上に乗せられるホスチアは味気ないのに僅かな塩気が感じられ、とても気持ち悪い物だった。幼い頃から何度も拝領しているそれが、まるで本当の肉の様に厭わしく感じられたのは初めてだった。

2.


「真由お姉さま、お待ちになって」
(私はいつから妹を持ったのかしら?)

 足を止めた真由は左足を軸にしてに声が聞こえた方向を振り向く。名前を聞いたからには知らない振りは出来ない。周りを歩いていた生徒達は皆ゆっくりと移動しているので、そっと立ち止まり振り向いた真由の動きに惑わされる事なく、ぶつからない様、自然に避けて移動していく。この学校では一事が万事、この様な流儀で何事も執り行われる。

 一学年下の井上真澄が少し小走りに彼女に追いついてきた。善良であどけない表情を持つその娘は生徒会の書記としてこの秋に真由と知り合った後輩だった。
「真澄さん、ごきげんよう。どうなさいましたか?」
「お姉さま、ごきげんよう。先日の朗読は素敵でしたわ」
「クリスマスミサですか? リップサービスをおっしゃっても何も出ませんよ」
「とんでもない。本当に素晴らしいお声で、私、うっとりしてしまいました」
 少し意地悪く対応したにも関わらず、真澄は全く動じずに賞賛の眼差しで見つめてくる。真由は少し居心地が悪い気分になった。
「それで、何か御用ですか? 朗読のご感想だけではないでしょう?」
 水を向けるように尋ねると、彼女は「あっ」と小さく声を上げた。
「はい、生徒会ですが、本日の放課後に徴集がかかっておりましたが、会長のご都合で来週に持ち越しになるとの事です」
「そうなの?」
 真由は思わず眉を顰めた。知らせが来るのが遅すぎる。
「はい、会長も急な御用という事で……。他の方には既にご連絡済みだそうです」
「来週のいつになるのかは真澄さんはご存知かしら?」
「いいえ。その事を決めたいので、お昼にお姉さまに話しに伺うとの事です。申し訳ないですが、お姉さまはお昼にご自身の教室でお待ちいただく様、言付かりました」
「そう」
 彼女は少し落胆した。来週は期末考査だ。誰でも試験勉強に集中したい事を考えると、考査終了日あたりが持ち越される日に指定されそうだ。年末も近いこの時期にコロコロとスケジュールが変更になるのは出来れば避けたい事態だが、仕方がない事なのだろう。変更になった理由も併せて、昼休みにしっかりと文句を言ってやろう。

「それで……それとは別ですが、お姉さま?」
「?」
 後輩のおずおずとした上目遣いに気付いて真由は彼女の目を覗きこんだ。
「何かしら? おっしゃって」
「本日、学校帰りにご一緒したいところがあるのですが……宜しいでしょうか?」
「校則に反していないようでしたら。生徒会の集まりがキャンセルになりましたので1時間弱ぐらいでしたらお付き合いできますわよ」
 学校帰りに制服に身を包んだ状態で飲食店などに立ち寄る行為は校則で禁じられている。勿論、見つからなければいいと考え、気軽にお茶などに立ち寄る生徒も居る事は知っているが、真由はわざわざその様な安易な違反行為を率先して行うつもりは無い。
 では、私服だったらいいのかという疑問が出てくるだろうが、基本的に私服でもアルコールを嗜む様な場所への保護者を同伴しない立ち寄りは禁じられている。要は固い校風に則していない行動は禁止されていると考えるのが無難だろう。

「それは大丈夫です。家族へのクリスマスプレゼントで少し悩んでます。お姉さまのご意見をいただければと考えまして」
 場所を聞くと、駅前の百貨店の中との事。さほど、怪しげな場所でもないので、了解して一旦教室に戻った。

(家族へのクリスマスプレゼント!?)

 自分の意見なんて参考になるのかしらと、真由は苦笑した。毎年、大して代わり映えのない品を家族に義理で渡している自分に訊くなんて!


 そう考えながら、教室に戻った彼女は次の授業の為に鞄の中から教科書、ノート等を取り出した。

(本日の日直は阿部さんね)

 年代物の黒板に書き込まれた氏名を読み取りながら阿部を眺める。彼女は必要な事は全て済ませた上で教師が来るのを待っている。その様子を確認しながら、真由は箱庭の中の良き子羊達を想像する。「disciple」という単語が頭の中に浮かんだ。門弟、弟子、又はキリスト教の12使徒を意味するラテン語を語源とする英単語。元々は「学ぶ者」という意味だ。

3.


「真由さん、明日、栄治さんがいらっしゃるそうよ。必要があるのならお勉強を見てもらいなさい」

 夕食の味がしなくなった。何も知らない母親の一言で彼女の気分は重く沈んだ。なぜ、あの従兄弟が「また」来るんだろう? 彼の来訪の知らせは真由の気分を一気に叩き落とした。地方の私立大学の助教授を務めている田村栄治が短期間の内に何度も都内に用事が果たしてあるのだろうか。来ない時は何年も足が遠のく癖に。

 その理由に心当たりがある彼女はほうれん草のおひたしを口に運びながら考えを巡らせる。
「つい2週間前にもいらっしゃったのに、またですか? お仕事かしら?」
「さあ? 詳しくは伺ってないけれど、いらっしゃるからには何かあるのでしょうね。明日から週末まで二泊して九州にお戻りになるそうよ」
「この時期にとんぼ返りですの?」
 栄治の実家は都内ではないが、同じ関東である。これから、冬季休暇だというのに、忙しい事だ。しかし、問題は考査前に二泊もされる事だ。あの男が居る家の中だなんて、想像するだけで気詰まりになりそうだ。
 家の中には料理を作ったり、掃除をしてくれる有田など、家族以外の人間もいる。2人っきりになる事はないかもしれないが、通いの人間がいなくなる深夜などが怖い。級友の家に泊まりに行くには考査前の慌しい時期だから難しいだろう。

「お母様、私、お友達と一緒にお勉強する予定がありますの。泊まりになると思いますが……」
「バカな事をおっしゃらないの。考査前のこんな時期にそんな悠長な事してたら、お友達の邪魔になるわよ。それこそ、判らない箇所があれば栄治さんに見てもらえばいいわ。優しい方だからお時間があれば二つ返事で見ていただけるわよ」
 試しに足掻いてみたが、あっさりと真由の計画性の無い逃亡案は却下された。挙句の果てに、勉強を見てもらえと2週間前と全く同じ事を言われた。

 そのせいで、自分はとんでもない目に遭ったのだ。お母様、ご冗談はよして……と、実際に起こった事を伝える事が出来ればいいのだが、結局、言い出せなかった。
 あの従兄弟があの様な狂気を隠し持っていたなんてと、真由は唇を噛む。口惜しいのは弱い自分に対してだろうか、それとも卑怯な従兄弟に対してだろうか?

 彼女が初めてだったと知った時のあの男の得意そうな表情が忘れられない。こんな悔しい想いをする事なら、処女なんてさっさと、どこかに捨てておけばよかった。

4.


「真由ちゃんは彼氏居ないの?」

 従兄弟の栄治がそう囁いてきた時、彼女は彼の口から漂う口臭に気付きぞっとした。いつの間にか背後に立ち、教科書を覗き込みながら思ったよりも近い位置から話し掛けられた。
 その位置は「西出和彦が提案する対人距離の定義」によると、完全に「排他域」である。50cm 以下、つまり絶対的に他人を入れたくない範囲で、会話などは通常こんなに近づいては行わない。

「栄治さん? それはプライバシーですのでお答えしかねます」
 即座に立ち上がって、彼から距離をとりたかったが、今のポジションでそれをすると、立ち上がった時に彼と触れ合ってしまう。それを嫌い、穏便に「言葉」で退かせようとした真由の選択は更に男をつけこませる結果を招いた。
 父のすぐ上の姉の息子である栄治は現在27歳。気楽な次男らしく、大学の助教授を勤めながら、結婚もしないで気ままに生活している。真由とは丁度10歳離れている。上背は無いが、がっしりとした身体つきだった。
「冷たいな。僕は真由ちゃんが大好きだから色々と心配してるだけなのに」
 彼の大きな手がそっと彼女の両肩に乗せられた時、あまりの気持ち悪さに真由は悪寒を感じた。彼の口は先ほどよりもっと近づいている。強まる口臭に耐えられず、真由は息を止めた。臭い。こんなに臭いなんて今まで思いもしなかった。
「今やっていますお勉強とは関係ない事と存じますが?」
 気持ち悪さに震えそうになる。肩に置かれた手はマッサージをする様な揉み解す動作を始めた。栄治のすらりとした長い指が付いた手が気持ち悪い。がっしりとした彼の身体に似つかわしくない女の様な細くて長い指がついたその手を真由は美しいなどと考えた事は一度として無かった。幼い頃から、彼が無意識に自分の指を労わる様に触る手癖を目にする度におぞましく感じたものである。

「栄治さん、先ほどの問題についてですが……」
「僕の事が怖い?」
「え?」
「真由ちゃんに彼氏が居ないのなら、僕、立候補しようかな?」

 先ほどまで説明を受けていた問題に関して質問しようとした時、予想もしていなかった事を告げられて真由は固まった。この従兄弟が何を考えているのか、さっぱり理解出来ない。
「僕は君のお婿さん候補でもあるんだよ? 従兄弟との婚姻は可能だからね」
 蒼褪めた真由の肩を包むように、栄治は肩の上に乗せていた両手をそっと腕に落としてきた。家の中に誰も居ないのだろうか?


 その日、真由は比較的わかりにくい数学の問題に取り組んでいた。2年になり、文理分けで彼女は文系のコースに進んだが、数学の様な必修科目は必ず付いて廻る。理解できない箇所をそのままにしていても何も始まらない。どうしてもわからない問題と取り組み、悪戦苦闘の最中だった。
 そもそも説明してあげるという誘い文句で従兄弟は彼女の部屋に入り込んだ。それなのに、彼の説明は理解不能な言葉を繰返すのみである。更に混乱を増幅するわけではなかったが、もしかしたら、彼もちゃんと問題自体を把握していないのではないだろうかと考え始めた矢先だった。


「栄治さん、その様な事をこの状況でおっしゃるのは筋違いではございませんでしょうか? 手順を踏んで、正式にお話を通していただかないと……」
 堪らずに彼の手をやんわりと払い、真由は席を立った。振り向こうとした途端に後ろから抱きすくめられてギョッとした。
「真由ちゃん、前から憎からず思ってたよ。綺麗になったよね」
「栄治さん? 離していただけますか?」
 冗談ではなく、危機感が募ってきた。まさか家の中でこの様な暴挙に出るとは思ってもいなかった。栄治は彼女の言葉を無視すると、そのままベッドの方向に彼女の身体を引き摺り、彼女を驚かせた。
「ちょ! ……」
 信じられないが、口を塞がれた。頭を力の限りに振ったが外せない。その時になって漸く真由は家の中が静まり返って居る事に気付いた。

「ごめん。真由ちゃんが可愛いのがいけないんだ」
 いけないってなぜ彼女が悪いのだろう。混乱した真由を抱いたまま、栄治はベッドに身を横たえ、彼女の身体の上に乗り上げた。
 より大きな男性が、まるで当然の様な顔で彼女を組み敷いている。目の前数センチの場所に彼の顔があった。近すぎて焦点が合わない。臭い。
「ああ、やはり可愛いよ。真由ちゃん。口を塞いでいるから接吻出来ないな。キスはした事あるかい?」
 彼が吐くセリフと息が醜悪で耐えられない。でも、どんなに暴れようとしても、彼の拘束は外れない。真由は泣き出したと思う。目から何か出てきた。でもこれは断じて悲しいからではない。悪臭に耐えられなくて、目を保護する為に出てきた涙だ。
 その涙は栄治を更に有頂天にさせたようだった。彼は己の勝利を確信した様に笑った。
「うわっ。鼻水垂らして、恥ずかしい子だな」
 蔑むようにせせら笑い、真由の口を塞いでいる手に鼻水が垂れてきたと嘲笑する。悔しくて彼の顔を睨んだ真由の涙と鼻水を伸ばした舌で舐めとってきた。あまりの気持ち悪さに彼女は失神しそうだった。


 その後は地獄だった。彼は真由のスカートに手を突っ込み、脱がせた下着を彼女の口に詰め込むと自分のベルトで猿轡を施した。その上で、勃起しているペニスを取り出すと、そのままこじ開けた彼女の脚の間に腰を進めてきた。目の前に取り出されたペニスがあまりにもグロテスクだったので彼女は悲鳴を上げたが、猿轡の為に声にならない。垣間見たそれはテラテラと粘液で光った頭部とそれに被さる皮の皺が昔のホラー映画に出てきた怪物を彷彿とさせた。
 気持ち悪い。その醜い物が彼女の身体に触り、入り込もうとしていると考えるだけで冷や汗が出てきて、吐き気がした。

「不感症なのか? 未成熟だな」
 そう罵られながらも、膣の中に無理やり挿入した上で、数回抜き差しをすると彼は呆気なく中に射精した。処女膜が破られたと感じる痛みはあった。しかし、その前、その後のあまりにも乱暴な所作と気色悪さに処女膜の心配などどこかに吹っ飛んでいた。
「やはり処女だったのか。だから締め付けがきつかったんだな」

 事が終わると、猿轡は取り除かれた。遠くの音に気付いた栄治は慌てて自分の身支度を整えると、無情に真由に言い放つ。
「家政婦のおばさんが戻ってきたようだ。真由ちゃんも身支度は整えた方がいいよ。だらしない格好してるから」
「栄治さん、何でこんな事をされたのですか?」
 この様な格好に誰がしたと怒鳴りたかった。それなのに、この様な時にも言葉を選び、言いたい事の半分も言えない自分を情けなく感じる。震える声音の真由の言葉を聞いた従兄弟は鼻先で笑った。
「何を今更。婚姻を結んでもいいと思ってたんだし、早いか遅いかだけの話だよ。この家に婿養子に入ってやれる人間は限られてるんだからね」
 彼は薄笑いを浮かべながら、彼女の顔を覗き込んできた。信じられない事に堂々と顎の下に手を差し込み、真由の顔を仰向けさせながら顔を寄せてきた。

パン!

 思わず、彼の頬を叩いていた。この男は何をしようとしたのだろう。どう考えても真由に口付けようとしていた。
「なんとまあ、凶暴な女性だな」
 彼は自分の頬を押さえながら、呆れたような言葉を投げかけてきた。
「もうお前は僕のものだという事がわからないのか?」
「出てって!」
「なに?」
「出てけー!」
 真由は近くにあった手提げ鞄を握ってそれを彼に対して叩き付けた。一気に怒りが噴出してきた。何故彼女が栄治に「お前」呼ばわりされなくてはいけないのだ?
「おい、乱暴だな……」

 トントントン……と軽い足音が遠くに聞こえる。

 この部屋で起こっている騒音に気付いたのだろうか、スタッカートの様な足音が階段を上ってくる。有田は痩せているせいか家の中で動く時も身軽だ。焦った様に栄治は真由から離れ、部屋のドアを開けた。部屋を出る前に彼女の顔を見て、苦笑いをした。その余裕を感じさせる態度が更に彼女の絶望を煽った。

「どうされたのですか?」
「いや、急に怒り出してね。まだまだ真由ちゃんは子供だね」
 部屋の外の声が聞こえる。有田の声も聞こえた。

 震える身体を抱きしめながら、真由は二つの選択肢がある事を強く実感した。騒ぎ立てて、彼に暴行されたと訴える道。もしくは黙って自分で何とかする道。栄治が言った様な未来は選択肢の中には存在していない。彼の物である未来だけは絶対に認めない。しかし、真由の頭の中で栄治のおぞましい言葉が踊っていた。彼は自分の花婿候補?
 もし、彼に犯されたという事が露見したら、これ幸いと婚姻が決まってしまうのではないかとの怖れが彼女を躊躇させた。彼によって傷物となってしまったと判断されたら、今日起こった事は「婚前交渉」として処理されてしまう恐怖。ほんの数瞬の間に多くの事が頭をよぎった。

 結局、真由は外からの呼びかけに応じなかった。
「お嬢様?」
 外から呼びかける有田の声を聞きながら、彼女は気分がすぐれないからと部屋のドアを開けなかった。

5.


 真由が最初に行った事はトイレに付属しているビデにて膣の洗浄を丹念に行う事だった。比較的裕福な家に生まれ育ち、自分の部屋に隣接して専用の洗面所やお手洗いまで備わっている事にこの日初めて彼女は感謝した。破瓜の痛みより妊娠の方が余程怖い。血液と精液と思われるものが自分の身体からこぼれ出てきたのを見た時はゾッとした。ウオッシュレットの水圧を一番強くして、時間をかけて洗ったが、それでも不安は付きまとう。

 インターネットで検索できる限りのサイトを確認して、妊娠の可能性について調べてみた。その手の知識はあまり持ち合わせていなかったが、真由はその日が自分にとって危険日である事を知りゾッとした。
 同時に「モーニングアフターピル」という経口避妊薬がある事も知った。避妊措置に失敗した、または避妊措置を講じなかった性行為後に緊急的に用いるものであるらしい。
 出来る事は全て試したかった。何が何でも妊娠だけは避けたい。あの男の子供だなんて、想像しただけでも気味悪い。
 まだ夕方である事を幸いに身支度をした彼女は外出した。週末だが、開いてる婦人科を調べ、携帯から診察の予約を入れた自分の行動力には、我ながら驚く。

 夕方の空を目にしながら駅への道を急ぐ。晴れ続きのこの冬は肌寒いが暗くない空の色が印象的だった。しかし、真由の心は曇天の様に曇っていた。地下鉄と山手線を乗り継いで病院に向かう道すがら、悔しくて涙ぐみそうになった。彼女は戦慄く唇を噛んでしばらく俯き、そして、電車の乗り換え時には平常心を取り戻していた。

(マリア様……)


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