いと高きところに

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伍 Sancto Spiritu (聖霊)

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1.


 左ハンドルのその古い車に置かれていた車内消臭剤は「爽やかミントの香り」と表記されていたが、既に取替え時期を過ぎてるらしく、ミントの臭いは欠片も漂っていなかった。狭い車内の中には本革、煙草の臭い、そして僅かな汗の臭いがこびり付いている。

 ドライバーズシートでスムーズに運転をしている男の横顔を盗み見ながら、真由は不思議な気分になった。彼女は自分が他人の体臭や口臭などに対して強烈な嫌悪感を持ち、それを隠すのに苦労する潔癖症気味な性格である事を自覚していた。それ故に学校など外の世界では体臭がきつい人には必要以上に近寄らない様に気をつけている。
 しかし、不思議なもので敦の臭いは気にならない。彼には抱きしめられたり、口付けをされたりしたばかりなので、無臭ではない事は当然理解している。
 何を食べてきたのか、キスされた時にはにんにく臭にさえも気付いた。若干だが汗臭さにも気付いた。これが他の人間なら耐えられずに疾うに逃げ出している所だ。

(私はこの男の毒気に当てられたのかもしれない)

 視界の隅に入る彼の手も気になって盗み見る。骨ばった指は長いけれど、指先が硬い男性の手である。所々硬くなった美しくもない手なのに、どうしようもなく官能的に見えるのは、あの手で悪戯をされた後遺症かもしれない。

「道はこっちで大丈夫?」
「はい?」

 突然話しかけられて、飛び上がった。自分の考えに深くのめりこんでいた彼女は慌てて外を眺める。隣で口元を綻ばせて苦笑する敦の気配に気付き、頬が熱くなった。絶対に自分は赤面している。しばらくは外を眺める振りで顔を逸らしておかなければいけない。道路を見ながら、何気ない風を装って案内を口にする。タクシーなどを使用する際に家への道順を説明をする為の言い慣れた定型文だ。
「もう少し直進しますと、角に○○マートがある交差点が見えてきますので、そこを左折して坂を上がればすぐです」
「OK」

 今夜はとんでもない目に遭った。無事に危機から逃げ仰せ、見知った街角に戻ってきたというのに嬉しくない。うっすらとその理由はわかっている。ただ、認めたくないだけだ。
「とんだ山の手だな。この区にこんな地域がある事さえ気付かなかったな」
 感心したような敦の声が聞こえてくる。
「まじでお嬢様だったんだな。あまり柄の良くない地域に繰り出したら駄目ジャン。親が泣くぞ」
「そんな事、両親は気付いてもいません」
 当たり前の様な常識論を彼の口から聞きたくない。真由は硬い言葉を返した。
「ふーん?」
 ちらっと振り向いて彼を見るとこちらを眺めていた。カチカチと左折のウィンカーが点滅している。信号で止まった車は左折レーンに居た。真由が説明した○○マートが角にある交差点だ。
「ここで左折ね?」
「はい」
 ここを曲がれば、自宅は車でなら目と鼻の先だ。少しだけ惨めな気分で彼女は外を眺めた。すでに深夜を廻った時間帯なので、車の通りもこの界隈は多くない。すぐに到着する事だろう。

「左折しますと、直線距離にしたら500メートルほどです。停まる場所を申し上げますので、あまりスピードは出さないで下さい」
「了解」
 信号が変わり、左折した車は真由の指示通りゆっくりと進み、停めるべき場所に停止した。
「おやおや、こりゃすごい。とんだ資産家だな」
 山辺の家屋を目にした敦は可笑しそうに笑い、サイドブレーキを引いて真由に向き直った。
「金が欲しい時はマユを誘拐したらよさそうだ」
「そうですね」
 真由は苦笑した。
「今夜は本当にありがとうございました。助けていただいて感謝してます」
「それ皮肉? 俺が代わりに襲いかけたんだけど?」
「存じてます。小娘の色香に血迷ってくださったんですよね」
「変な子。何だか感謝されてる気分」
 敦は苦笑いしながら手を伸ばして真由の頬を撫でた。撫でられた箇所が熱い。

 敦に捕まって性的な愛撫を受けた事は確かにショックだった。しかし、この人は彼女の反応を見て、止めてくれたし、軽口の様だったけれど謝罪もしてくれた。
 こちらの気持ちをおもんばかって、自分が真由の色香に血迷ったという体裁まで整えてくれた。見てくれや態度はきついし、言葉は乱暴なのに、優しい人だ。

「そうそう、これ忘れないようにしないとね」
 彼は自分の財布から紙幣を1枚取り出すと、真由の上着のポケットに乱暴に突っ込んだ。
「敦さん、携帯の番号とメアド教えていただけますでしょうか?」
「何で?」
 話の流れで気軽さを装いながらお願いすると理由を訊かれ、真由は肩を落とした。
「また、ご一緒できればと考えたのですが……」
 そう言い淀んでいると、顎を掴まれた。
「あんな治安が悪い場所は徘徊しないほうがいい。今夜みたいな事がまたあるかもしれないし、マユは器用そうじゃないから、次は逃げ損なうよ」
「そんな事は敦さんに指摘されなくてもわかっております」
 悔しくて思わず彼を睨み返した。お前の様な温室育ちは来るなと拒絶されている様で哀しかった。彼女を見ている敦の目にからかう様な影が差した。指先に圧力が生じ、彼女の顎を引き寄せると唇に舌を這わせてきた。慌てたように彼の手から逃れて赤くなった娘を眺めながら、敦はニヤニヤ笑う。
「俺みたいなチンピラがウヨウヨしてんだよ。マユなんて、あっという間に穴だらけにされる」

 狭い車内では逃げようもなく、敦の息遣いに気付かされ、彼が纏っている香水にも気付かされて頭がくらくらする。あっという間に再度伸びてきた手が真由の胸倉を掴み、彼女はドライバーズシートに強引に引き寄せられた。男性用香水の香りに混じる、若い男の体臭がきつくなった。
「マユ、くち」
 抗えなかった。明確ではない命令なのに、正確に彼が求めているものに気付いた真由は自動的に唇を開き、敦を深く受け入れた。何度も、何度も、執拗に唇を重ねられ、侵入してきた肉厚な舌に絡まれた真由の舌が痙攣する。
 口付けられている最中、否が応にも視界に入ってくる敦の手は彼女の後頭部を押さえ、もう片方は真由の左胸を下着の上からやわやわと揉み解してくる。飲み屋の個室の中で破かれたキャミソールは脱いできたが、ブラジャーは無事だったので再度装着しなおしていた。その上から揉まれたのに、彼の指に反応した身体は必要以上に感じすぎてしまい、真由を戸惑わせた。

「エロい、マユ。やっぱ、止めんじゃなかったな」
 僅かばかりの後悔を口にした彼はしばらく貪った末に真由を放した。やっと開放された彼女は身体から力が抜けてガクガクする体で後ろのドアに寄りかかる。
 その彼女の様子を眺め、敦は彼女を追いやるように手を動かした。車から出ろというサインだろう。今まで彼女に行っていた行為自体、錯覚だったのではと思わせるほどに素っ気無く冷たい態度だった。
「こんな遅くなって、家の人に怒られないの?」
「いえ」
 やっとドアを開け、俯いて車外に出た真由に世間話をする体で敦が話しかける。普段通りのふざけた様な口調だった。

 夜中は訓練された番犬が3頭庭に放される。しかし、当然の事ながら彼女に懐いている。無駄吠えの少ない大型犬なので、家の敷地に入っても騒がない。家人に気取られる心配は少ない。
「犬が居ますが吼えない犬なので」
「何それ? おっかねーな。んじゃ、金に困ってもマユの家にだけは盗みには入らない様にしよう。吼えない犬に追っかけられたくないや」

 冗談の様な話でお茶を濁すと、敦は車を発進させた。結局、携番もメアドも取り交わしていない。自宅近くの道路を利用してUターンをしたその古い外車が走り去った後、真由は暗証番号を打ち込んで勝手口から家の敷地内に入った。勝手口の内側には3頭の犬が尾を振りながら待っていた。黙って入ってくる年若い主人がいつもの様に自分達に声を掛けず、頭だけ撫でてくるので戸惑った様に見上げる。

 彼らは声を出さずに零れ落ちた涙の臭いを嗅ぐと、玄関に向かう彼女を不安そうに見送った。

2.


 その週末、真由は意識的に今までの様に過ごした。家の近くで買い物をし、家の近くにある教会に顔を出し、新学期に備えて教科書に目を通し、生徒会について話し合う為に会長に電話を掛けた。母親から新学期に対する抱負を問われ、当たり障りの無い事を答える。父親は正月には居たが、今週末には早速出張で居ない。

 ふと、彼女の頭に自分の両親は今も性の営みがあるのだろうかという疑問が沸いてきた。しかし、その疑問のおぞましさに慌てて頭の中で打ち消した。身近な家族の性生活など、想像するものではない。勿論、そういった行いをしたからこそ、自分が生を受けたのだと頭では理解出来るが、感情面では受け入れがたい。いっその事、聖母マリア様のように聖霊によりて身ごもっていて欲しかった。
 真由は唇を歪めて自嘲する。リアリストな彼女はとっくの昔にマリア様の処女性など信じていなかったのに、自分の身内にはそれを求める。大いなる矛盾である。

 自分が栄治に暴行されて、経験させられた事を母親が知ったらどう考えるだろうか?

 どの様な顔をするのか見てみたい様な気がする。でも、その悪戯心を満足させるだけの為に話す気は毛頭ない。こういう風に考えるなんて、自分は歪んでいると真由は思ったが、その様に感じることが滑稽で止められなかった。
 真由は栄治との成り行きについて、以前より平気でいる自分に不思議な物を感じる。セックスは正真正銘、あの時の一度だけだったが、以前の様に狼狽したり、慌てたりする事が減った。はっきりとした形はまだ形成されてないが、きっと自分は寄って立つ物を見つけかかっているのではないかと思う。まだ、確固とした物ではないが、異性に対する絶望以外の物を掴みかかっている。そんな気がする。


 日曜の夜、自室で音楽を聞きながら真由は庭を見ていた。明日は「成人の日」で祝日だ。先ほど、電話で話した生徒会会長は珍しくも彼氏について惚気られた。真由相手にその様なプライベートな話題を持ち出すのは殆ど初めてではないだろうか。真由も驚いたが、会長自身もかなり驚いている様子だった。

「可笑しいわ。以前は山辺さん相手にこの様な話題なんて話そうとも思わなかったのに」
「初めてですよね?」

 ふふふと笑いながら彼女は何故か今の真由は以前より話し易くなったと告げてきた。どこか変わったのだろうかと真由は首を傾げる。以前と違う点といえば喋るつもりはないが、せいぜい「非処女」になった事ぐらいだろう。それ以外の点では以前とそれほど変わったつもりはないので、もしかしたら会長の方に変化があったのではないだろうかとも考えた。

 会長と会長の彼氏のお話はとても興味深かった。近所にいる幼馴染というところが恋愛小説みたいで素敵だと感じた。他人事のせいかもしれないが、生々しいものは感じられない。
 そんな事を考えながらも、脳裏に浮かんでくる男の面影を真由は必死に打ち消そうとしていた。山辺さんの異性のお好みを教えてと尋ねられた時は、それこそ、具体的な身体の特徴を言いそうになった自分に当惑して狼狽えた。
 あんな冷たい人に会いたいなんて、とても考えられない。いやらしくて、乱暴で、下品なのに会いたいなんて、ありえない。きっとこれは「ストックストックホルム症候群」や「吊り橋効果」等に通ずる心理的効果に違いない。

 そう自分に言い聞かせているのに、気付いたらあの手を思い出している。なぜ自分は泣き出したんだろう。もし、彼がやめなければどの様になってしまった事だろう。
 真由の反応を見るようなあの触り方を真似て、自分の顎や唇に無意識に這わせた己の指に気付いた時は一人赤面した。自分はどうなってしまったのだろう?
 考えない様に頑張っても考えてしまう。あの男に会いたい。会って何をしたいのかはわからない。でも、これ程、赤の他人に会いたいと望む事は彼女の今までの人生には無い事だった。イライラと庭を見下ろしながら、自分はなぜ大人しくここに居るんだろうと自問する。

 来るなと言われて「はいそうですか」なんて……、全くもって自分らしくない。

3.


「こんばんは」
「こんばんは、マユちゃん」

 真由はあの飲み屋に1人で足を踏み入れた。時間は夜の9時を廻っている。店内はそこそこの客で賑わっていた。暗めの照明に絞られた店内を素早く見回したが、敦は居なかった。いつもここにいるとは限らないと真由は少し落胆する。カウンターに腰掛けると、顔見知りになったバーテンダーが注文を取りに来た。軽めのカクテルを頼んで、彼女は言いにくそうに敦がどこにいるのか尋ねた。

「んー? 敦さんはマユちゃんを送っていった後、車返しに来た時以来見てないな。まあ、あの人、いつも来るとは限らないしね。携帯に連絡したら?」
「残念ながら、教えてもらってないので」
「ええ? まじ?」
 辰巳は眉を顰めた。とっくの昔にそんなものは取り交わし済みと思ってたのだ。今更ながら敦が何を考えてるのかよくわからない。
「俺、知ってるよ。教えてやろうか?」
「いえ、それは結構です」
 マユは生真面目に断る。その様な物は本人に教えて貰えないのなら、意味が無い。本当は知りたいけれど、彼女の感情のどこかが「それはいや」と拒んでいる。

 物慣れない真由の様子を眺めながら辰巳は少々焦っていた。ただでさえ、忙しい週末の夜だ。祝日の為に三連休の中日なので、客も多い。普段と違って自分も余裕が無いので、ずっと真由に付いていてあげる事も出来ない。
 見目の良い女性客が1人で居るのだ。こうしてバーテンダーである自分と喋っていても、秋波を送ってくる男性客は既に数人確認している。このままここに居させるのもまずい気がする。

(敦さん、こんな時に限って、どこにいんだよー?)


「1人?」
「一緒にどう?」
「何、飲んでるの?」

 思ったよりも頻繁に声を掛けられる。真由は少し意外に思った。考えてみたら、年を誤魔化してこんな店で飲んでるのだ。化粧のせいで、大人だと思われてるのだろう。
 せっかく声を掛けていただいて申し訳ないけれどと、丁寧にお断りを入れるのにいい加減疲れてきた。そろそろ他の場所を探すか帰るか考えた方が良さそうだ。

 敦を以前見かけたクラブの事を考える。あの店は暗いし、うるさい場所だったけど、もしかしたらと考える。店に入るのにお金を支払わなければいけなかったが、そんなに高くなかった。中を確認してすぐに出たら大丈夫だろうと彼女は考えた。
 問題は場所だ。一度だけ人に連れて行ってもらっただけなので、正確な場所を覚えていない。彼女は店の名前を思い出そうと、考え込んだ。

「マユちゃん、お代わりは?」
「いえ、もう止めておきます。酔っ払い過ぎたら困りますので。それより」
 真由はバーテンダーにクラブの説明をして場所を知っているか尋ねた。
「ああ、それなら多分あそこだな」
 真由の説明を聞いた彼はあっさりと場所を特定した。
「でも、週末はかなりうるさいし、アップテンポの曲ばかりになるよ。純粋に踊る為なら悪くないけど、それでも女の子1人で行くのはお勧めできないなー」
「店中をあらためるだけですから。場所を教えていただけますか?」
 渋る彼にお願いして、大体の場所を教えて貰う。その上で彼女は丁寧に彼に礼を告げると、席を立った。

「あれ? マユちゃん、帰るの?」
 先ほどから頻繁に声を掛けていた男が真由を引き止めた。
「はい、失礼しますね」
 おっとりと答える彼女を追いかける様に彼も席を立つ。
「駅まで送るよ」
「いえ、結構です」
 やんわりと拒否されても引き下がらない男を従えて店を出て行く真由の後姿を見ながら、辰巳は頭を抱える。
「やばいって……」
 忙しいけど、仕方ないとカウンターの中で身を屈めて自分の携帯を取り出した。こんな事ならもっと早めに連絡すれば良かった。呼び出し音を聞きながら、彼は臍を噛む。なんとまあ、育ちの良さそうなお嬢さんだろう。危なっかしくてハラハラする。

4.


 そのクラブはすぐに見つかった。バーテンダーの彼の説明は的確で、非常にわかりやすかった。厚めのドアの外まで中の音楽が聞こえてくる。重低音の弦楽器の音とドラムの音が特に響いている。

「ここかい? すごく元気そうな店だね」
 計算違いはこの男性だろう。真由は彼に気付かれないように溜息をついた。駅まで送ると言いながら、ずっとついてくる。電車に乗る振りをしようかと考えたが、殆ど同じ電車に自分も乗る勢いだったので誤魔化しきれなかった。仕方が無いので、諦めてもらおうとダンスクラブに行く旨を正直に告げた。
 一見したところ、その男性は彼女の両親に年齢が近そうなので若者が行きそうなクラブへは遠慮すると考えた自分は短慮だったのだろう。その様な場所に若いお嬢さん一人で行かせるなんて出来ないと言い張り、奇妙な騎士道精神を発揮してここまで付いてきてしまったのだ。知り合いを探しているだけだからと説明しても、それなら尚の事、付いていってあげるよと諦めない。真由は少々困ってしまった。

 クラブへ入るための入場料は女性には安く、男性にはその倍以上を設定されていた。これは真由は知らなかった事でその男性に対して申し訳なく思ったが、彼は全く気にせず支払った。ついでに真由の分まで支払おうとしたので少々揉めたが、何とか彼女は自分の分を支払う事が出来た。
「大丈夫。僕はこう見えても踊りは好きなんだ」
 真由と共に店内に入ろうとしながら、軽いジョークを飛ばしてくる。少々、しつこいが良い人のようだ。その時、後ろから2人に声が掛かった。
「おいおい、すっげー組み合わせだな」
 真由達の後ろにいつの間にか5人の男性グループが入場の為に立っていた。
「おっさんと一緒になるには若すぎない? もしかしてパパ?」
 からかう声に悪意が感じられる。真由はムッとして彼らを睨んだ。
「貴方達には関係ない事です。放っておいてください」
 同伴している男性の手を握るとさっさと店内に入った。
「マユちゃん、おじさんの為にわざわざ……あり……」
 あまりの音量に真由はびっくりした。隣の男性の声もまともに聞こえない。彼が何か言ったので、見上げたが、よく聞こえない。彼は大声で喋っている様に見える。
「なにか……こよう…ね……ちに行けば……」
 店内の奥にカウンターの様な場所があるのが見えた。多分、そちらでドリンクを受け取れる仕組みの様だ。入場料を支払った際に、ワンドリンク券という物を握らされたので、あの金額にドリンク1杯分が含まれているのだろう。

 人がごった返している店内で男性が急に真由の手を握った。ドキッとしたが、人ごみではぐれないようにという彼の心づくしだろう。彼女の手を握ると、彼はフロアを横切ってカウンターがある方向に歩き出した。正直、真由はドリンク券など使わなくてよい。それより、当初の目的である敦探しに取り掛かりたかった。
 しかし、思いの外しっかりと握られた手を振る払うには、ここに至る様々な状況ですまなく思っていた相手だ。故に、結果的に連れられてカウンターにたどり着き、一緒にドリンクを手にとる羽目となってしまった。

5.


「だれ?」
 不機嫌そうな声が携帯から聞こえてきた。辰巳は内心(やべ)と思った。
「敦さん、辰巳です。ばんわ」
「ああ……、たっちゃん。俺さ、寝てんの。どっかのバカが土日に引越ししやがって……、シフトでもないのに、そのヘルプに駆り出されてたのよ。くそ……、オメーがしつこく鳴らすから起きちゃったじゃない? まだ4時間しか寝てないっつーの」
(超絶機嫌わりー。でも……もう起こしちゃったし、用件言わずに切ったらもっと怒りそう)
 辰巳は諦めて、話を続ける事にした。
「マユちゃん、敦さんを探してたっぽい。さっきまでうちん店にいたけど、[クラD] に行った。妙なおっさん、ついてったよ」
「あ?」
 予想通り、思いっきりご機嫌斜めになった。
「あに考えてんだ、あのガキ。治安わりーとこにもうくんなって言ったのに……」
 言葉は悪いけど、結構まともな内容に辰巳は驚いた。
「どこって?」
「クラD」
「日曜日ならおとなしめだったかな?」
「連休だから盛り上がってるよ。多分」
「……うざ……」
 電話の向こうでしばらく沈黙が広がった。カウンターの頭の上で、客が何か喚いてる。二重にまずいと焦った頃に、電話からボソッと声が聞こえた。
「わーった。情報あんがと」
「じゃ、俺仕事に戻るから」
「OK……」
 辰巳はどっと疲れた。とにかく、義理は果たした。


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