いと高きところに

カードット

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拾八b 近くて遠い 後

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3.


 真澄と真由の身長差は殆ど無い。2人とも160センチ台のごく平均的な背の高さだった。真澄は真由の指先を顎に感じて思わず目を見開き、至近距離にある大好きな先輩の顔に驚いて再度眼を閉じた。目を閉じた途端に柔らかいものが自分の唇に押し付けられた。

(これって?)

 その温かいものは、動いて角度を変え、そしてもっと温かく濡れたものが自分の唇の上を這っていったのに気付いた。その正体に思い当たった真澄は緊張で身体が固まった。押し付けられていたものが真澄の唇から離れると低い囁きが耳に落とされた。訝る様な、思いやる様な小さい声だった。

「初めてですか?」
「……」

 口を開けることが出来ずにただ頷いた真澄の身体を抱き締めると、真由は後悔する様に呟いた。もしかしたらとは思ったが、自分の推測が裏づけされた真由は目を伏せた。軽い気持ちで乞われるままに行った己の浅はかな行為に急に嫌悪を覚えた。

「ごめんなさい」
「いえ、いいえ、お姉さま。ありがとうございます」

 やっと言葉を発した真澄は泣きそうな擦れ声だった。

「望んだのは私です」

 目を開けて、真由を見つめた。彼女の唇を目の当たりにすると真澄は少し目を逸らした。「あの唇で……」と考えると頭の中が煮えたぎってくる。
「後悔は無いのですか?」
「1ミリたりともございません。逆に嬉しさで有頂天になっております」
「そう?」
 真由の表情にうっすらと喜悦が混じる。
「リクエストは敦さんと交わした様な接吻でしたね?」
「え?」
「中途半端で終わらせるつもりはございません。昨日、ご覧になられた接吻を再現いたしましょう。真澄さんがお嫌でなければですが」
 嫌でない事を身振りで示す真澄の後頭部に手を差し込んで、引き寄せながら不可思議な微笑を真由は見せる。
「その代わり、これ一度きりとさせて頂きます。真澄さんは大好きですが、恋人として愛しているわけではございません。わかってくださいますね?」
「はい、お姉さま」
 夢見るような表情で開いた真澄の唇の間に真由の舌が割って入れられた。唾液を交換する様な濃厚な口付けは真澄の思考回路を倒壊させたが、彼女は一度として気持ち悪いとは思わなかった。

4.


「こんばんは、辰巳さん」
 開店して間もない時間帯だった。
「マユちゃん、お久しぶり」
 カウンターの止まり木の上にちょこっと座った彼女の前におつまみのピーナッツを入れたガラス器を置きながら辰巳は朗らかに話しかける。土曜日の宵である。夜遊びをする人間にとっては活動準備期間の様な時間帯だろう。以前、この界隈に遊びに来ていた時の様に顔を作り、装っているが、真由は結構若いだろうと辰巳は考える。
「敦さんと待ち合わせ?」
「いいえ、別の方とのお約束の帰りなのです」
 以前、遊んでもらった女子大生の1人に誘われて食事を一緒にする為に出てきたのだったが、体のいい合コンへの誘いだった。それが判った時点でその女性には「彼がいるのでごめんなさい」と伝え、辞去してきたのだ。行く前に判っていたら最初から断っていただろう。
 彼氏には黙っていればわからない。数合わせの為に出席してくれと熱心に誘われたが、それは不誠実だと振り切った。あの様なセリフを言う女性だとは思っていなかったので、真由は哀しい気分になってしまった。それとも自分が固すぎるのだろうか?

 そのまま電車に乗って帰宅しようと考えたが、駅の近くのこの飲み屋を思い出して立ち寄った次第だ。敦は今週末にシフトが入り、忙しい筈だ。彼とは会いたいが、顔を見たら帰宅したくなくなりそうだし、連続で外泊する事には少々危険を感じている。今週末は父親が珍しく在宅している。勘のよさは母親より遥かに上な相手なので、気をつけるに越した事は無いだろう。
「これから帰宅しますので、出来ましたらソフトドリンクを頂きたいのですが?」
「えー? 飲み屋に来てそりゃないだろ? 軽めに作るから何かカクテルどう?」
 真由は首を傾げた。あまりカクテルの名前は知らないのだ。気を利かせた辰巳がカクテルの種類と簡単な紹介が記載されたメニューの一部を取り出して、彼女の前に置いた。「以前、敦さんが飲まれていた……あれは? ジン、んー」
「ジントニック? マユちゃんがぶちまけた奴?」
 カクテルと言われ、咄嗟に思いついたのが自虐ネタだったので、恥ずかしさで顔を赤らめながら真由は頷いた。
(思い出しましたわ。そう言えば、敦さんはあの時ここに腰掛けていましたわね)
 懐かしい気分で真由は辺りを見回した。出会いから1ヶ月経った。考えてみたら、短い間にかなり多くの事が起こったものだ。

「はい、どうぞ。ジンは少なめだよ」
「ありがとうございます」
 にっこり微笑んで、グラスに口を付ける。すっきりした飲み心地だ。
「おいしいです」
「弱めに作ってるけど、一応アルコール入ってるからゆっくりと飲んでね。夕食は済んでるでしょ?」
「いえ、まだです」
「あっちゃ。時間が時間だから済んでるとばかり思ってた。ノンアルコールカクテルにするべきだったかな?」
 辰巳は少し困って宙を見た。手元にはツマミ程度のものしかない。ポテトの袋を開けながら、その中身を器に盛って真由の前に置く。
「無いよりはまし。こんなものしかないけど、なるべく食べながら飲んで」
「まあ、お気遣いありがとうございます」
(敦さんのハニーを酔い潰したり、気分を悪くさせたくないだけだよ)
 心の中で独りごちながら辰巳は自嘲気味に笑う。お客様の調子を気遣うのは客商売の基本だが、個人的に真由を気に入ってるので特に彼女には優しくしたくなる。敦のものではなく、彼女に見合う器量が自分にあると思ったら迷わず口説き落としたくなる様な相手だ。
 しかし、大変遺憾ながら彼女は敦のお手つきだ。器量云々を真剣に検討する必要も無い。辰巳は負け戦は挑まない主義である。目の前で上品に微笑みながら、グラスに口を付けている真由を少し残念な気分で眺めた。


 店のドアが不意に開いた。開店したばかりの時間に複数の客も珍しい。こういった場合、大概は顔見知りだったりする。

「いらっしゃいませ……何だ、岸本さんか」
「ちっす」

 その名前に聞き覚えがある。思わず真由は振り向いて固まった。かなり腫れは引いたが、ところどころ引き攣った様な痣が残る岸本の惨状に驚いたのだ。何より、彼の右耳が何かに噛み裂かれた様に傷ついている。その傷は生々しく真由の目に映った。
 この様な傷は見覚えがある。幼い頃から複数の大型犬を飼っている家に住んでいるのだ。犬同士の喧嘩で耳を食い千切られる負傷は時々起こる。今居る3頭は皆メスで仲が良いが、昔居た犬の中で気性が荒いオスが居た。血統が良く繁殖に適したマスティフは国内に少ない。繁殖に精通している愛犬家の場合、余程の事が無い限り去勢や避妊手術は避けて機会があれば繁殖する。その犬も去勢していないオスだった。彼が庭に放たれる夜は他の犬は放たず、その流儀で何年も問題なく過ごしてきたが、何かの折に他の犬と大喧嘩をした。真由は被害を受けた犬の耳が大きく切り裂かれていたのを覚えている。丁度、今の岸本の耳の様な惨状だった。

 頭が良く、堂々とした体格のその犬は多頭飼いには向かないという事で他の繁殖家に譲り、家から出されてしまった。幼かった真由のお気に入りの犬だったので、ひどく泣いたのを覚えている。

5.


「あれ? チョウチョちゃん?」
「?」
 店に入ってきた岸本は真由に気付いて近寄ってきた。
「あー。チョウチョじゃなくて、何て言ったっけ?」
「こんばんは。山辺真由と申します。いつぞやは危険な状況から救って頂き、大変感謝しております」
「あ? そんな事あったっけ?」
「はい。この店に引き上げてきて、その後敦さんが家まで送ってくださいました」
「ホラ。公園近くの工事現場の……2~3週前」
 横から辰巳が口を出す。岸本はその事を思い出して、「あれか」と呟いた。肩を竦めて真由を見つめる。あの時、泥まみれの工事現場で叩き落されたチョウチョみたいに地面に縫い付けられていた少女は和やかな優しい眼差しで今は目の前に居る。慣れない薄化粧の下にあどけない年相応な表情を浮かべている。あの時は何とも思っていない相手だったが、こうやって見ると助け甲斐がある麗質を備えた娘だ。
「礼を言われる様な事は何もしてない」
「いえ、そんな事はございません。あの折にはまともにお礼も言わず、申し訳ございませんでした」
 隣の止まり木に座った男に向かって深々とお辞儀をする真由を岸本は奇妙な目付きで眺める。岸本が個人的に真由と言葉を交わすのは今夜が初めてだろう。彼女は礼儀正しい真面目な性格らしい。真由が使う上品な口調は普段なら岸本の癇に障るところなのだが、真由に限って言えば、取ってつけたような厭らしさも鼻につく気負いも感じられない。自然な品の良さで心の底から信じている言葉を口にしているせいだろう。
「わざわざ頭下げんな。まじで何もやってないって」

 2人の会話を聞きながら、辰巳はカウンターの中で自分の足をつねった。岸本は感情表現が少なく、常に醒めた様な半眼で他人を見ている男だ。滅多に表情を崩さないので、怒った時も嬉しい時も本人からの申告がないと分かりづらい。だから、彼とあまり親交の無い人間や初対面の人間は男女関係無く、岸本を怖がる。
(すげ、マユちゃん。岸本さんと普通に喋ってるよ……)

 その一点だけでも賞賛に値する事を知らない真由は敦の友人を不思議な気分で眺めていた。彼は真由の目には寡黙で穏やかそうな人に見えた。他に客が居ない店内で辰巳と岸本と3人で穏やかに会話する時間は心地よかった。
 ここに敦も居たら良かったのにと、少しだけ真由は考える。敦は今週末、再度、他に人が居ないという理由で急遽仕事に駆り出された。「何で、引越しを1月にすんだよ? ぜってー有給休暇、まとめてとってやる!」と電話口で騒いでいた彼を気の毒に思いながらも、笑ってしまったのは昨夜の事だ。
 木曜に会いに来てくれて助かった。もし、あれがなければ真由は欲求不満でグルグルになっていた事だろう。次にいつ会えるだろう?

「ねえ、マユちゃん。聞いてよ」
「はい?」
 敦の事を考えていた真由は夢から醒めた気分で2人を見た。もうそろそろ店を出た方がいいかもしれない。
「岸本さん、月曜の夜はかなりやばかったって」
「やばかった?」
 首を傾げて2人を見ると、岸本が低く笑った。
「あっちゃんには参ったよ。自分の腕、切り落とそうとしたのを見た時はさすがに血の気が引いたわ」
「え?」
 少しアルコールが入って口の滑りが良くなっている岸本はふと真由の顔を見て眉を寄せた。カウンターの中に居た辰巳も「あっ……」なんて、間の抜けた声を上げている。
「どういう意味でしょうか?」
 聞こえてきたセリフがよく理解できなかったので、真由は岸本の腕を掴んだ。敦に良く似た筋肉質の腕だった。
「いや、気にしないで」
「敦さんが何をしようとされたのですか?」
「……ごめん。忘れて」
「岸本さん?」
「だから、口が滑っただけだから」
「バカ……」
 辰巳が自分の額に手を翳して呟くと、「んだと?」と岸本が彼を振り返る。だが、今夜の岸本はなぜか怖くない。呆れた様に彼を眺め、辰巳は両手を開いて掌を天井に向けながら頭を振った。「処置なし」と外国人がよくやるあのポーズだ。
「岸本さん、墓穴掘ってる」
「岸本さん、ご説明してくださいませ」
 辰巳のセリフに被せる様に真由の毅然とした頑固そうな声が聞こえてきた。


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