いと高きところに

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弐拾四 画策

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1.


 その巨大な犬達を目にした時、敦は単純に感心した。
「でかい犬だなー」
 庭に放たれていた山辺邸の番犬達は家の玄関が開き、人が外に出るとその気配を察して集まってきた。がっしりとした体格の割には俊敏な動きだった。よく訓練され、運動量も充分とっている事が窺われる。
「この子達は皆女の子なので、そんなに大柄ではないのです。でも、この子は」
 真由は一番大きい犬を「ケイト、come」と言いながら呼び寄せて、敦に示した。
「雌としては大柄な方です。少し小柄な雄なら打ち負かしてしまいます」
「すげー体格。俺、触っていい?」
 敦は地面に膝を付いて犬の目を覗き込んだ。
「どうぞ。ただ、完全に懐くまではお1人では近づかないで下さい」
「OK、OK。名前なんていったっけ?」
「その子はケイトという愛称です。一番、若い子です」
「へー? ケイト。俺よりでかくない? すっげー、かっけー」
 犬の鼻先に自分の手を差し出して臭いを嗅がせながら、朗らかに喋る。充分に臭いを嗅いだケイトが敦の手を舐めると、我慢できないように自分の顔を犬の眼前に持っていく。敦の顔をフンフンと嗅ぎまわったケイトは、そのまま舌を出して敦の顔を舐め、頭をこすり付けてきた。
「何? こいつ、人懐こい奴だなー」
 敦は相好を崩すと、手を伸ばして犬の頭を撫でた。気付いたら、他の犬も敦の周りに近寄って臭いを嗅いでいる。真由は少し驚きながら声を掛けた。
「他の子も紹介させて下さい。どうやらみんな、敦さんとお友達になりたい様です」
「お!? 大歓迎だよ」
 ケイトの頭を両手でユサユサ撫でていた敦は目を輝かせて振り向いた。その姿を眺めながら、真由は不思議な気分になった。人間より犬を紹介している時の方が余程優しい顔をしている。同時にケイトの態度にも少し驚いた。初対面であそこまでガードを外している姿は見た事が無い。

「敦さんの丁度後ろにいる子はミュンヘンという愛称です。彼女がこの3頭の中では一番年上となります」
「ん? ミュンヘン? それって都市の名前だったよね?」
「そうです。この子だけはドイツで繁殖された子なんです」
「へえ? ドイツ生まれ?」
「はい。代々、我が家に来る子犬は国産かイギリス産が主流ですので、ドイツ産というのは大変珍しい。故に、愛称もドイツの都市名から頂きました」
「マユ先生、質問」
 急に敦が手を上げる。
「はい。何ですか? 敦君?」
 まるで小学校の先生の様なノリで答える。敦は真由の拙いノリが気に入ったらしく、ニヤニヤしながら真由を見上げる。
「愛称ってさっきから言ってるけど、それって名前じゃねーの?」
 真由は苦笑した。
「そうですね、単純に名前と言えばよかったですね。この子達は皆、長い名前を持っていますが、便宜上、使いづらいので短くした名前、又は血統書に記されている名前以外で呼びやすい名前をつけて使用していると言ったらわかりますでしょうか?」
「ああ、だから愛称って言ってたのね。ま、普通の家じゃそれを名前って呼ぶところだね」
 そんな会話を交わしながらも、いつの間にかミュンヘンとも仲良くなっている。頭を敦の懐に押し込んで、尻尾を振っている気難しい犬を真由は呆れて眺めた。
「んで? 最後の可愛い子ちゃんの愛称を教えて」
 彼の視線は3頭目のがっしりとした犬を探して移っていく。他の2頭が金色がかった色で、わずかに黒の差し毛の混ざったフォーンと呼ばれる毛並みであるのに対し、3頭目だけは黒っぽい毛並みで闇に紛れると見つけにくくなる。ブリンドルという主とする地色に他の色の差し毛がまんべんなく混じった毛色だった。地色が黒で差し毛が白なので、全体的に黒っぽいのだ。

 3頭目の犬に視線を移そうとしている敦の気配に気付いたミュンヘンが彼の視線を邪魔するように身体を動かす。その身体を優しく叩きながらも脇に押しやった敦は最後の犬を見つけて正面から覗き込む。
「その子はカスガと申します」
「カスガ? 当ててみようか。この子とケイトは日本生まれ」
「残念、外れました。カスガは国内で生まれましたが、ケイトはイギリス産です」
「そっか……」
 敦の目は熱心にカスガの全身を見ている。それに応える様にカスガが尻尾を振りながら近づこうとした時にミュンヘンが唸った。
「No!」
 鋭い命令が飛び、ミュンヘンの唸りが止んだ。敦はカスガに目を合わせながら、「どしたの?」と軽く聞く。
「私の失敗ですね。犬達が全員敦さんに良い意味で興味を示すとは思っても居なかったので、紹介する順番を間違えました」
「順番?」
 カスガがそっと敦の手を舐めた。尻尾を振って彼の目を見返している。
「カスガも人懐こい子だなー」
 そっと手を伸ばして、カスガの頭を撫でる。敦の傍らでは先程真由に叱られて、シュンとしていたミュンヘンが思い出した様に頭を彼の脇腹に押し付けていた。
「はい、この子達には序列があるのです。この家に来た順番が古い順と考えて宜しいでしょう。ミュンヘン、カスガ、ケイトの順です。エサを与える時や、挨拶する時など、3頭揃っているのなら、この順番は狂わせないようにしないと、不協和の原因となります」
「へえ? ワンワン達の掟の様なもの?」
「そうですね。一種の社会性です。犬というだけではなく、限られたエリアに共存する際に平和を維持する為の取り決めの様なものと考えて頂ければ宜しいかと存じます」
「うーん、まじで先生みたい。マユ」
 からかう敦に苦笑を漏らしながら真由は説明を続ける。
「ミュンヘンをまず最初に紹介するべきでした。順序が狂ったので、自分の正当性に不安を覚えた彼女が敦さんの独占に走ろうとしたのです」
「ええっ?」
 敦はびっくりして真由を見上げた。
「俺って犬の賞品か何か? すっげーマユってばさ、犬の心理に詳しいのね」
「正直、ここまで初対面で気に入られる人を始めて見ました。この子達、実は気難しいのですよ」
「まじ?」
 驚く敦を見ながら、真由も同様に驚嘆したい気分だった。そもそも、この3頭を目の当たりにして全く怖がらない人は始めて見た。あまり吼えない大きい番犬が居るという前知識があるとしても、視覚から受けるインパクトを考えたら冷静で居る事は難しい。自分より身体が大きい動物というものは、それだけで十分に脅威となる。もっと緊張してしかるべきなのだ。幼い頃から大型犬に頻繁に接していた真由でさえ、成犬のマスティフとの初対面は緊張する。

「ところで、これ何ていう犬? 土佐犬じゃないよね」
「イングリッシュ・マスティフです。通常マスティフと呼ばれている種類です。土佐犬を作る時に使用された犬種の一つでもあります。でも、土佐犬ほど攻撃的ではございません」
「これがマスティフかぁ」
 敦は感心した様に呟く。
「猛犬の代表みたいなイメージがあるけど、この子達を見る限りそうじゃないね」
「甘えん坊で優しい性格です。見知らぬ人には警戒心が強く無愛想ですが、決して乱暴ではありません。ただ、体格が良く、力が強いので、万が一の為にしっかりとした訓練が必要となります」
「へえ……」
 敦はニヤニヤしながら立ち上がった。
「マユって犬博士だね。好きなんだ」
「親の影響かもしれません」
 少し赤面して早口に告げる。ペラペラ喋っていたのが急に恥ずかしくなった。
「元治君、犬好きなのかー」
「違います」
 真由は敦の誤解は解いておこうと考えた。
「犬好きは母です。この子達も母の犬です」

2.


 その日の夕食は終始和やかだった。その半時間前に敦と薫の間で緊迫したやり取りがあったなどとは信じられない程平和だった。

 真由の両親はどちらも温和に話を進め、敦に対する攻撃も無かった。2人の交際についても、あれこれ煩く口を挟まないので真由を安堵させた。

「先程の話ではございませんが、よろしければお泊り頂けませんでしょうか? 前もってお伝えしておき忘れた事についてはご容赦頂ければ幸いでございます」

 薫の口調も和やかなものだ。真由も目を輝かせて敦を窺う。その様子を目を細めて眺めていた敦は、機嫌よさ気に薫を振り返った。

「やっぱ、やめとくわ。俺のお気に入りのテディーベアを持ってくんの忘れたし。あれが無いと安眠できないんだ。心遣いだけ受け取っておくよ」
 視界の端に落胆した真由の様子が見える。
(ナイーブな子だね)
 世慣れていない娘の反応を好ましく感じながらも、彼女のご機嫌取りは別の機会にしようと考える。
「ま、広田様はご冗談がお好きなようですわね」
 薫が手を口の上に翳してコロコロ笑っている。その目が敦の目を食卓を挟んで覗き込んでくる。
「そのご年齢の殿方が縫いぐるみを抱いて寝るなんてあまり想像できませんわ」
「想像できないのはそちらさんの勝手だけどね」
 挑発に乗らずに涼しい顔で嘯いた敦は内心笑う。
(マユって名前の抱き枕だけどね。今夜のところは撤退した方がよさそう)
「敦さん、残念ですわ」
 母親の言葉に裏を感じない初心な娘が本当に残念そうに俯く。
「悪い。でも、ご両親への挨拶に伺っただけなのに、ずうずうしく出来ないよ」
 彼は改めて姿勢を正して元治と薫に頭を下げる。
「本日はご招待頂き、ありがとうございました。俺の様な礼儀知らずな若輩者にもご厚情賜り、感謝します」

 敦らしからぬ、丁寧な物言いだった。微かな違和感を感じた真由は隣の敦を窺ったが、両親は満足そうにその口上を聴いていた。

3.


「敦さんはお泊りになると思っていました」

 犬3頭を従えて、敦と真由は門戸までぶらぶらと歩いていた。帰宅の為に腰を上げた敦を送りがてら、共に外に出てきたのだ。犬達の紹介という役割もあった。
 真由は少し不満そうに敦を睨んだ。

「縫いぐるみなど必要無いくせに」
「拗ねるなよ、マユ」
 敦は笑って隣を歩く真由の腰を抱き寄せた。
「マユといい事したかったけど、やっぱご両親が在宅している同じ家の中では問題あるっしょ?」
「嘘。敦さんはそんな事など気にしないのを存じておりますわ」
 真由は赤レンガの道から少し外れた方向を示す。どうやら勝手口の方に案内している様だ。犬達には何も命令を出していないが、2人に付かず離れずという距離で付いて来る。
「何? 俺が泊まる事をそこまで期待してたの?」
 敦はニヤニヤしながら、手を這わせている真由の腰を撫でる。赤くなった真由を引っ張って近くの木の幹に押し付ける。その敦の背中に近寄ってきたミュンヘンが頭を擦り付けてきた。
「おい、邪魔すんな。俺も気に入られたもんだなー」
 口では文句を言いながらも、敦は手を伸ばして犬の目の間を撫でる。その優しい横顔が真由の癇に障った。
「嫌ですわ。ミュンヘン、stay!」
 口を尖らせた真由に命令された犬はその場に凍りついた。そして、真由は敦の腕を握ってその場から離れる。
「マユ。可哀そうな事すんな」
「敦さんとは初対面なのに、何であんなに懐くのかしら? おかしいです」
 敦を引っ張っていた真由は振り向いて、眉を顰めた。その表情を眺めながら、敦は彼女に引っ張られている腕を使って真由を引き寄せた。
「マユ?」
 引っ張られていない手を伸ばして真由の頭を撫でる。
「もしかして可愛がって欲しかった? この雌犬ちゃんは」
 その言葉を聞いた真由は固まり、そして意味を理解した途端に目を吊り上げた。
「失礼ですよ、敦さん」
「どの様にして可愛がって欲しい?」
 真由の怒りを受け流しながら、敦は薄く笑った。腕の中に抱き込んだ娘の耳に口を付けながら囁く。
「木の陰で背後から立ったままでどう?」
「敦さん!」
 とうとう癇癪を起こした真由が拳を振り上げた。
「うわ。こりゃ敵わん。許してくれ、マユ」
「ダメです。悪い子です。敦さんは」
 ポカポカと殴られながら敦は足早に真由から離れる。2人が遊んでいると感じたカスガとケイトが嬉しそうに走ってくる。ミュンヘンだけ動かない。
「ミュンヘン、カム!」
 敦が真由の真似をして命令すると、いきなり走り出したミュンヘンが身を屈めた敦の懐に体当たりをしてきた。その犬の頭を受け止めて、ワシワシ撫でながら彼は真由に話しかける。
「俺の言う事聞いてくれた。見た? マユ?」
「拝見いたしましたわ。もう! 敦さんって犬に好かれる方なんですね。ご実家でも犬を飼ってらっしゃいますか?」
「いんや。犬も猫も居なかったよ。でもまー、犬飼ってる友達多かったしな。遊びに行くと殆ど犬の相手ばっかしてたなー」


 勝手口を開けると、後ろから彼女は敦に抱きすくめられた。
「このまんま、お持ち帰りしたいなー」
「敦さん……」
「でもまー、今夜のとこは大人しく退却するわ。こいつらともやっと会えたしな」
 真由への抱擁を解いて、膝をつくと順を追って犬に別れの挨拶をしている男を目を和ませて真由は眺めた。
「また連絡するよ」
「お待ちしております」
 立ち上がると、真由の唇を舐める。犬の様な挨拶に真由は苦笑した。
「じゃ」
 手を上げて、ドアの向こうに滑り出て行った男の臭いを嗅ぐように犬が鼻面を彷徨わせる。この3頭がこれ程懐くのは珍しい。犬は狼を嫌うと訳もなく思い込んでいたのに気付いて真由は苦笑いをした。

 嫌うのではなく、怖れるのだろう。相手の野生に、属している陣営に、近いようで遠い自分の上位種に……、怖れながらも惹かれる。身体の中を駆け抜けていく、切なくなるようなざわめきはきっと彼のせいだろう。

4.


 そもそも彼らにとって自分は異分子の様な物である事は明白だ。先日は元治からは真由とは別れるように言われ、金まで与えられようとした。この基本姿勢をそう簡単に覆すような材料は無い筈だ。それなのに今夜は全面的に歓迎された。
 真由を抱きたかったので誘いに乗ってお泊りしようかと考えたが、どうしても外れない喉につかえた小骨の様な違和感は拭えなかった。

 明確にどの言葉、どの状況とは言えないが、夕食時、敦は薫の態度の中に敦が真由に話した内容をまるで知っているかの様な匂いを嗅ぎつけた。
(もしかしたら何か仕込まれてるかもね)
 まさかとは思った。娘の部屋や客室に何か仕込もうとしたら、それが充分に出来る環境である事は否めない。人の親として、人間としてどうかと思うが、やってはいけない事の境界線が曖昧な人間が居る事を敦は知っている。薫がそのタイプかどうかはわからないが、用心するに越した事は無いだろう。

 相手が用意した罠にわざと掛かるという選択肢もある事はわかっているが、この場合、引っ掛かる対象は敦だけではない。真由を巻き込む怖れがあるのなら、問題は回避しておくべきだろう。

 山辺邸を出た後、最寄駅までテクテク歩きながら、その様な事を敦は頭の中でまとめていた。彼の推測が正しければ、近いうちに真由抜きで薫サイドから呼び出しが掛かるだろう。

(あの母ちゃんはお姫様の割りに少々腹黒そうだからなー)

 彼は苦笑する。腹黒は嫌いじゃない。相手や内容にもよりけりだが、半端ない程腹黒い人間と長年付き合ってきた。はっきり言うと、時々ハラハラさせられるが基本的に大変面白い、飽きが来ない相手だ。鬼が出るか、蛇が出るか、非常に興味深い所だ。

(そう言えば、犬好きな母ちゃんだったな)
 真由がそれを口にした時には敦は内心驚いた。普通の女性が選択する犬としてはマスティフは骨が太すぎる。この一点だけでも、薫が決して見かけ通りの線が細いお姫様ではない事が窺われる。

 相手としては不足がない気分だ。

5.


 敦がその店のドアを開けた時、店の中で一斉に笑いが弾けた。
「何で笑われる?」
「だって……」
 岸本の憮然とした声が聞こえた。

 最寄り駅に到着した敦は自宅に帰らず、辰巳が居る飲み屋に足を向けた。
「あ? 敦さん、いらっしゃいませ」
「うっす、たっちゃん。何の騒ぎ?」
 カウンターに近寄りながら尋ねる。近くに居た岸本が視線で挨拶してきたので、視線で返す。
「岸本さんがね……」
 辰巳の声が震えている。笑いすぎで涙まで浮かべている。
「辰巳、ペラペラ喋らなくていい」
 苦虫を噛み潰したような表情で岸本が低く恫喝する。
「おいおい、仲間はずれは止めてよ。じゃ、オメーから教えて、岸本」
 岸本はそっぽを向いた。敦は口を歪めて辰巳を見やった。辰巳は「えー?」という表情で顔を顰めている。辰巳の救済措置は別の方向から飛んできた。

「敦さん、この駅の線路を挟んだ反対側に新しいパティシエがオープンした事は知ってる?」
「あれ? 信二もいたんか。新しいパティシエ? 知らん」
「敦さん、甘いもの結構いけるから押さえているかと思ってた。とにかく去年のクリスマス前にオープンした店なんだけど、そこが予約販売でバレンタインチョコを販売するんすよ。本店は表参道にある有名な店らしいんですけどね、この店のチョコが結構評価高いらしいんです」
「ほう」
「そして、予約の為に並んだお嬢さん方の中に何故か岸本さんがいらっしゃった。それを目撃したうちの弟分が教えてくれた。そしてその話を俺がここで話したって事が物語の全貌っす」
 敦は無表情に岸本を眺めた。何考えてるんだ、こいつ?
「信二、すっげーわかりやすい解説、ありがとよ」
 そもそも甘いものが苦手なこの男がどこからその様な情報を入手したのか気になるところだ。しかし、問題はその目的の方だろう。

「岸本? 評判がいいパティシエのバレンタインチョコ片手にどこに行くつもりかな?」
 懲りない男が何を考えているのかぐらい敦にも察する事が出来る。以前、足立で作られている [元祖・東京 長崎バウムクーヘン] について敦に意見を求められた事がある。菓子折り持参でご挨拶とは結構な事だが、問題は対象の傍に控えている性悪な番犬だ。ピリピリしたナーバスな狂犬だと敦は自分の事を棚に上げて考えた。
「あっちゃんとは関係ない事だ」
「あ? 何、寝ぼけてんの? オメー、性懲りもなく、西に遊びにいくつもりだろう?」
「あー……」
「いい加減にしないと、命落とすぞ、こら。冗談じゃねーや」
「この前ので、吉川さんは気が済んだと思う」
「んなの、オメーが何でわかる? 無神経に刺激すると、また怒りが再沸騰……なんてなったらどうする?」
「その時はその時だ」
 そっぽを向いたまま嘯く岸本の態度に敦がカチンときた。即座に岸本の胸倉を掴むと、彼の顔を無理矢理自分に向かせて至近距離で吼える。
「ちゃんと人の話、聞け! このヤロー」
「うっせ。色ボケが偉そーに」
「んだと? このクソが!」
「あの……2人とも、他のお客様もいるんですけど」
 横から辰巳が恐る恐る声を掛ける。いつの間にか店の中が静まり返っていた。
 信二がボソリと「傍迷惑な連中だな。ヤクザより性質が悪い」と奇妙なフォローをしてくれている。ヤクザが口にするにはシュールで滑稽なセリフだった。しかし、信二は普段ヤクザに見えない。彼がヤクザとは知らない一般の客からしてみたら、安堵する様なセリフである。どこから見てもヤクザに見える敦と岸本が、ヤクザではないと知った客は少々安心した様子だった。
「営業妨害だから2人とも外で話し合えば?」

 きっと辰巳にとって信二は今夜「神」となった事だろう。


 店の外で話は続いた。

「そもそも、バレンタインって女から意中の男にチョコあげるんだろ? オメーはいつから女になった?」
「デフォルトでどうだって話なんてどうでもいい。俺はイベントに乗って押しかけるのみだ」
「落ち着け、岸本。どうしてもチョコ上げたいのなら郵送か宅配便という選択肢もあるぞ」
「それこそ、意味ねー。俺はチョコにかこつけてお会いしたいんだ!」
 岸本の本音を大音声で叩きつけられた敦は力が抜け落ちていく気分だ。
「俺の事は放っておいてくれ」
「嫌だ。オメーは大事な友達だ。こんな事でなくしたくねー」
「感動した。遺書を書き換えて、俺の愛車をオメーに遺そう」
「遺書なんて書いた事もないくせに、何ほざいてる? オメーのケツ垢まみれの単車なんていらねー」
「あっちゃん、俺は今猛烈に哀しい。俺の一大決心を冷たい言葉で葬ってくれたな」
「やかましい。とにかく、西に挨拶に行くなんていう世迷いごとは諦めろ」
「フン」
 再度、そっぽを向いた岸本に苛ついた敦が思わず先に手を出した。ボカッとグーで殴られた岸本は一発で沸騰した。

 大通りでないのが幸いした。力自慢な猛獣同士の殴り合いは路上であるにも関わらず物を壊し、人を巻き込みかねない。しかし、裏口の通路であるせいか、壊れて不味いものは付近になく、せいぜい仕舞い忘れた空のゴミ箱が吹っ飛ばされて隣のビルに叩きつけられたぐらいだった。空き瓶のケースも置かれていたが、2人ともそれを武器代わりに使うような無粋な真似はしない。物騒な音に驚いて顔を出した人間は2人が素手で殴り合っているのを見ると、肩を竦めて引っ込んだ。警察に通報する様な人間が近くに居ない事は2人にとっては幸せな事だったかもしれない。
 時々、信二や辰巳等が様子を窺いに顔を出したが、「体力あるなー」と感心して又引っ込んだ。

 しばらくして、片頬を腫らし、結構な量のボディーブローを受けてしまった敦のスマホにメールの着信音が鳴った。近くで岸本が「いたた」と力なく呟いている。痛む身体を庇いながら、上着のポケットから取り出し、中を見た敦は「ビンゴー」と力なく笑った。

 メールは会いたい旨と、場所と日時を知らせる薫からのものだった。


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