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第52話 彼女の手を
しおりを挟む「良いところだねぇー」
両手を空に向けて、大きく息を吸い込む彼女。
まるで、肺の中の空気を入れ替えるみたいだった。
時折ステップを踏んだり僕の周りをくるりと回ったりして、抑えきれないそわそわを発散させているようだ。
落ち着きのない彼女は気に留めないことにし、僕は一定の動作で歩みを続け箱根の町並みを楽しんだ。
駅前の大通りは、木造を中心とした昔ながらの家屋が広がっていた。
その光景には風情があって、都会のコンクリートとは違う温かみを感じさせる。
遠くを見渡せば、色の薄くなった冬の山々が連なっているのが見え、耳を澄ませば穏やかな川のせせらぎが聞こえてくる。
澄んだ空気で肺を満たすと、都会の喧騒で縮こまっていた心にささやかな余裕をもたらした。
「歩きも悪くないでしょ?」
のんびり風景を堪能していると、不意に彼女が覗き込んでくる。
「これで足を動かさないでいいなら、最高だね」
「じゃあ、台車に望月くんを乗せて私が運んであげればいいんだ!」
「恐ろしい事を思いつくね」
彼女は笑った。
僕は笑わなかった。
台車に乗せられ17歳に押される21歳。
どんな羞恥プレイだ。
それと同じようなレベルで中身のない会話を交わしながら歩く。
彼女が自発的に降ってくる話題を、僕が淡々と受け答えるうちに町を抜けた。
橋を渡り、塗装の剥がれたアスファルトの道を進む。
だんだんと建造物が少なくなってきたあたりで、足が止まった。
「ねえ」
「なーに?」
「この先、ちょっとシャレにならない坂道になってない?」
「私もそれ思った」
「あのさ」
「ちょっと待って、調べてみる!」
立ち止まり、イマドキの子らしくスマホをポチポチし始めた彼女を尻目に冷静な思考で考える。
そもそもなぜ、駅から温泉までバスが出ているのか。
その理由を、もっと真面目に考察するべきだった。
距離的な理由もあるだろうが、おそらく、
「ありゃー、温泉、ちょっと坂登ったところにあるみたい」
「ちょっとってどれくらい?」
「800mくらい?」
無言で、踵を返そうとする。
僕の行動を予測していた彼女が、腕をガシッと掴んできた。
「離して」
「どこに行くつもり?」
「駅に……」
「だめー! ここまできたらこのまま行こうよ。ゴーグルマップも、あと10分で着くって言ってるし」
「それは平坦な道での計算でしょ」
「この先ずっと坂ってわけでもないじゃん。大丈夫、絶対に登りきれるよ!」
拳を力強く握り、熱いエールを送ってくる彼女。
こんな状況下でもポジティブを欠かさないのは素直にすごいと思うが、生憎それに応える情熱を僕は持ち合わせていない。
さて、どうしようか。
逆境にこそ真価を発揮する彼女のバイタリティと、何事にも労力を使いたくない僕の信条は相反する。
故に、どちらかが折れなければいけない。
とはいえ僕が彼女を説得し、駅に戻るというビジョンは皆無だった。
現状、このまま進むか戻るかの二択だとしたら、後者はあまりにも分が悪い。
思考を冷やして考えると、今から駅に戻るのは非効率すぎる。
彼女の言うように、残りの道程に急斜面が少ないことを祈って、先に進む方が合理的に思えた。
魂が溢れてしまいそうなため息をつく。
自分の中で落とし所を見つけてしまうと、もう先に進むしかない。
またあの地獄が繰り返されるのかと、足と気が一気に重くなった。
今回は事前のリサーチ不足ということで、致し方がない。
次に同じ失敗を繰り返さぬよう教訓にするほか無かった。
強く自分に言い聞かせ、腹を括る。
「行くなら早く行こう」
「おおっ? ついに望月くんも、汗を流す素晴らしさに」
「目覚めてないから。先に進んだ方が合理的、という判断を下したまで」
決して流されたわけではなく、あくまでも自分の意思で、というニュアンスを強調する。
彼女は、ぬふぬふと上機嫌な笑みを浮かべていた。
坂に差し掛かる。
山の急斜を無理やり整備した結果なのか、やけに角度が高い。
下手すれば高尾山以上だ。
10歩も歩けば太ももが痺れてきて、僕は表情を苦痛に歪ませた。
身体の芯が熱を帯び、じんわりと汗が滲み出てくる。
堪らず、僕はコートを脱いだ。
少しはマシになったが、この坂が続くようであればシャツのボタンも外す必要があるかもしれない。
「死にそうな顔してるね」
「なんで、君は……平気そうなの」
「んー、体育の授業のおかげかな?」
「最近の体育は……軍事教練か何かなの?」
おそらく、体力にそこまでの差はない。
あるとしたら、気合いの差だろう。
前向きな思考というものは、身体に疲れを感じさせない作用でもあるのだろうか。
いや、感じさせないというより、気づかないといった方が適切か。
彼女の言った通り、ちゃんと平坦な道もあった。
徒歩で来る観光客を想定したインターバル区間なのかもしれない。
ありがたい。
僕は砂漠でオアシスを発見したような気になる。
と思うも束の間、またすぐ道に角度がついた。
それも、さっきよりきつい。
一歩一歩足を踏み出すごとに、乳酸が両足に溜まっていく。
癒しの温泉ツアーだったはずなのに、どうして地獄の登山パックが追加されてるのか。
「ちょっと……休憩」
ついに足が止まる。
息は荒く、肺が悲鳴を上げていた。
このまま歩みを続けてたら身体がバラバラになってしまうんじゃないかという恐怖すらあった。
「運動不足、ここに極まれりだね」
「動くことを想定した人生を送ってるわけじゃないから、良いんだよ」
「運動部にいたことは?」
「あると思う?」
「無い!」
「断定したね。……まあ、当たってるけど」
「やりぃ」
勝ち誇った笑みを浮かべた彼女が、綺麗な手を差し出してきた。
「正解したから賞品を寄越せと?」
「違うよっ」
心外だ! とでも言うように大仰なリアクションをとる彼女。
「良かったら手、貸してあげようかなって」
言われて、言葉の意図を汲み取って、差し出された手を見やる。
白くて繊細で、柔らかそうな手のひら。
綺麗だな、と思った。
「いい」
猫の手は借りたいが、彼女の手を借りたいとは思わなかった。
僕の中にあるなけなしのプライドと、手助けとはいえ彼女と手を繋ぐことに対する気恥ずかしさがそうさせた。
ざーんねんと、彼女が手を引っ込める。
僕は歩みを再開した。
彼女の提案を断った手前、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
休憩していたはずなのになぜか上昇した体温を不思議に思いながら、残りの坂道を一気に登りきった。
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