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第99話 ぎゅーしたくなっちゃって
しおりを挟む「んっ」
夕食後。
食器を洗っていつもの定位置に腰掛けると、日和がなんの前触れもなく両腕を広げてきた。
本当に何の前触れもなかったもんだから、返答にツーテンポ遅れてしまう。
「どうしたの」
訊くと、日和は一度僅かに口を開いて、閉じ、頬に少しだけ赤を塗ってから、こう応えた。
「なんか、ぎゅーしたくなっちゃった」
論理的な返答ではない。
しかし、全くと言っていいほど気にならなかった。
行動の全てに意味があるわけではないと、目の前の女の子から学んだ。
感情がベースとなったものを、いちいち理屈で考えるのは無粋というやつだ。
ただひとつ問題点を挙げるとするなら……日和の言葉の破壊力が非常に高かった事くらいか。
「そっか」
素っ気なく聞こえる返答だが、心臓は暴れていた。
日和に対する「好き」を自覚した今、身体の広範囲を彼女と密着させると一体、どうなってしまうのだろう。
一抹の好奇心と、恥ずかしさと緊張で頭が爆発してしまうんじゃないかという不安。
とはいえ、抵抗感はなかった。
むしろ好きな人とハグできるなんて素晴らしい事なのでは、とすら思った。
頭の中で「日和とハグをしたい」という結論が出る前に、両腕がひとりでに動いていた。
日和の身体を、壊れ物を扱うような力加減で抱き締める。
「んぁっ……」
短い嬌声。
僕から抱き締めてくるとは思ってなかったのか。
背中に腕を回した際、小さな体躯から僅かな強張りを感じた。
しかしそれは、徐々に解れていく。
日和の身体から、力が抜ける気配が伝わってきた。
僕の背中にも、細い腕が回される。
そしてまるで僕に身を任せるかのように、日和は僕の肩に顎を乗せてきた。
僕も、同じように顎を乗せる。
……ああ、あの時と同じ五感情報だ。
抱き締め心地は柔らかくて、温かい。
甘ったるい匂いが、綺麗な首筋から強く漂ってくる。
繊細な髪先が鼻先を撫でてくすぐったい。
刺激の強い情報が、脳に次々と流れ込んできた。
しかし不思議と、僕の心は平穏を保っていた。
言葉にできない多幸感が、じんわりと全身を満たしていた。
僕の騒がしい鼓動を聞かれてないだろうか。
それだけが、唯一気がかりだった。
「心臓の音、すごいね」
なんということか。
僕の憂慮事を、日和はなんの躊躇いもなく口にした。
気恥ずかしさが急上昇する。
返答を誤魔化すように、腕に力を込めた。
すると日和の方からも、ぎゅっと力が伝わってきた。
負けないぞーと、張り合ってるみたいに。
それが妙に可笑しく思えて、表情だけで笑ってしまう。
顔は見えていないだろうから、遠慮はしなかった。
時計が秒針を刻む音。
空気洗浄機の音。
僕以外の吐息。
普段は気にも留めない微かな音が、やけにはっきりと聞こえる。
このリビングが一時的に世界と切り離されたかのように、ゆったり、ゆったりと時間が流れていく。
あぁ……好きだ。
日和を抱き締めたまま頭を空っぽにしていると、自然に言葉が頭に浮かんだ。
理屈ではなく、感情から溢れ出た言葉。
それがそのまま口から溢れそうになって、慌てて呑み込む。
流れと勢いに任せても今言っても……と一瞬考えたけど、我慢しようと思った。
ちゃんとした場所、ちゃんとしたタイミングで想いを告げたい。
その瞬間を、強く印象に残したい。
そう思ったから。
どういう思考プロセスだろう。
理屈の道筋は見えなかったが、考えはしなかった。
僕の感情がそうしたいと言っているなら、それでいいじゃないか。
これまで事あるごとに脳を回転させていたのを、意図的に放棄する。
案外、心地良い感覚だった。
軽くなった心に身を委ねて、腕に再び力を入れる。
しばらく、お互いの奏でる心音に耳をすました。
「足、大丈夫?」
随分長いこと同じ体勢でいたもんだから心配になって、尋ねる。
「ん……らいじょうぶ、ありがとう」
「……?」
気のせいだろうか。
日和の語調が、妙におぼつかないような。
「おさむくんは、しんどくない?」
「だいじょう……いや、少しだけ、太ももあたりが痺れてきたかも」
「わわ、それはたいへん……とりゃー」
「うおっ」
突然、重力が反転した。
日和が僕を後ろ方向に体重をかけてきたから。
突然の事で為す術もなく、僕はソファに押し倒された。
確かな重み、さっきよりも熱い体温、甘い匂い。
日和の背中に回していた手を思わず解く。
なにするのと、抗議の声を上げようとすると、
「これなら、しんどくないでしょう?」
至近距離、僕の胸の上で、日和がにへらっと笑う。
フレンチトーストみたいにほんのりと甘い表情。
わずかに乱れた髪が、妙に色っぽい。
「いきなり、どうしたの?」
声が上擦りそうになるのを抑えて、尋ねる。
すると日和は、少しだけ目元を伏せた。
しかし、なにも応えない。
「なんか、変だよ」
思い返せば、最初のハグの要求から変だったかもしれない。
『なんか、ぎゅーしたくなった』と日和は言ったが、本当にそうなのだろうか。
確かめようもないけど、どこか明確な意思が含まれているような気がした。
僕の問いかけに、日和は僅かに黙考した後、
「来週、実家に帰るんでしょう?」
ぽつりと言葉を漏らし、少しだけ、表情を崩したかと思うと、
「2日も治くんと会えないって思ったら、なんか、その……」
ぽふんと、顔を僕の胸に埋めて、答えを口にした。
「……寂しいなあって」
鼓膜が揺れた途端、胸が、きゅううっと締まった。
喜怒哀楽の感情を、ハンドミキサーでごちゃまぜにされたかのような衝撃。
胸の中で疼いていた愛おしさが何倍にも膨れ上がる。
抑えきれない激情が、再び日和を抱き締めるという選択を取った。
先ほどよりも、強く、強く。
「どうしたの?」
日和が面(おもて)をあげて、優しい声色で訊いてくる。
すぐ目の前に、温かな陽だまりのような笑顔。
目にした途端、心が裏返りそうになった。
「僕も」
言葉が、意思に反して零れ落ちる。
「僕も、寂しい」
言ってすぐ、僕は日和の肩口に顔を埋めた。
今、表情を見られなくはなかった。
絶対に絶対、りんごに負けないくらい真っ赤になっているから。
しばらく、時間にして10秒くらい、日和からのレスポンスは無かった。
不意に、くすり。
小さな笑い声と共に、僕の上に乗っかっていた身体がばっと持ち上がる。
次の瞬きが済んだ時には、両腕を伸ばしきった日和に見下ろされる体勢に変わっていた。
急に視界が開けて、反射的に上を見る。
逆光で影が差しててもわかるくらい、慈しさと愛おしさが合わさった極上の笑顔がそこにあった。
重力に引かれて垂れ下がった長髪は天鵞絨(びろうど)のように美しく、微かに上気する吐息は思わず息を呑んでしまうほど艶っぽい。
綺麗だ、と反射的に言おうとするも、キャパオーバーを起こしショート寸前になった脳回路が、視線を日和から背ける方を優先させた。
「うれしい」
慈愛に満ち溢れた声と一緒に腕を曲げて、僕の胸に帰ってくる日和。
甘えんぼうな子猫のように顔を埋めてきたかと思うと、ゆさゆさと僕の身体を揺らし始めた。
「どうしたの」
「気にしないで。嬉しすぎなうなだけだから」
「なうって」
よくよく観察してみると、揺らしているのではない。
日和の身体が、左右に揺れているのだ。
嬉しみが溢れ過ぎて止まらないと言わんばかりに。
そんな小さな頭に、そっと手を乗せる。
そのまま宝物を扱うように撫でると、日和は動きをぴたり止めた。
僕は僕で日和を愛おしいと思う感情が、溢れ出て止まらなかった。
僕の不在をそんな風に思ってくれて、本当に嬉しかった。
でも同時に、日和に寂しい思いを抱かせてしまったことを、非常に申し訳なく思った。
日和との繋がりを、確かなものにしたい。
そう、思った。
固められた意思を乗せて、口を開く。
「今週、土曜日の予定は?」
ふるふると、日和が首を横に振る。
「最近の土日は、予定を入れないようにしてるんだ」
「どうして?」
返答の内容に心当たりがありつつも、尋ねる。
「治くんと、少しでも一緒にいたくて」
また胸が詰まりそうになる。
そろそろ内臓が身体の内側から破裂するんじゃないだろうか。
「土曜日、一緒に出かけない?」
ぱっと日和が顔を上げる。
明るくて暖かい、春の太陽のような笑顔を浮かべて、
「もちろん」
こくんと、頷いた。
決意する。
今週の土曜日、日和に告白しよう。
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