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第3章
アニス、灰都へ行く②
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「う……頭が痛ェ……」
ふたりが目を覚ましたとき、そこはさっきと同じビルの一室のようだった。
窓から、工場の灯りが規則的に点滅するのが見える。見回すと、折りたたみ椅子やダンボールの山。どうやら、物置に使われている部屋のようだ。
「……おれら、何か薬で眠らされた?」
こめかみをおさえるツバキに、アニスはくんくんと鼻を鳴らす。
「吸入麻酔薬イソフルラン。エーテルの匂いがします。副作用は頭痛、嘔吐。化学式は」
「いい、いい、余計頭痛くなるから。つーか詳しいな、あんた。やっぱ『博士』なんだな」
ツバキは眉間をつまみながら苦笑する。
「あーいう薬、作ったりすんの?」
「はい。昨日、痴漢行為をなさったリクドウさんに使用したものとか」
「だから痴漢じゃねェって……てか、アレ、あんたが作ったの!?」
「こういうのもありますけど」
アニスはうなずいて、ポケットから水鉄砲式の護身用具を取り出した。
「……マジか。昨日めいっぱい浴びたやつ、劇薬じゃないだろうな」
「有害なものではありません。原材料は、トウガラシとオリーブオイルですから」
ツバキはいささか理不尽な気持ちでつぶやいた。
「……それフツー、キッチンで使うのが正しいんじゃないかね。まあいいや、これ使えるぞ。あいつらはどこだ?」
「となりから話し声がします」
アニスは落ちていた紙コップを壁に当て、じっと耳をすました。
「何か食うって言ってますけど」
「はは。ウサギはニンジン食っとけって」
「わたし、だそうです」
「誰が言ってる!?」
「みんな。白くておいしそうって……食うなんて冗談ですよね?」
不安な表情のアニスに、ツバキは青くなった。
「い、いやそういう意味じゃなくて──とにかく逃げるぞ」
ツバキは急いで窓から外を見た。大窓が片壁全面を覆っている。だが本来外にあるべきベランダは崩れ、ほぼ断崖だ。しかもさっきとは向きが違う部屋らしく、隣接する建物は見当たらない。
どのみち、今度は跳べる状況ではなかった。動くたび、じゃらじゃらという金属音がふたりにつき纏う。
ふたりの手首は、仲よく手錠で繋がれていた。
突然がちゃりとドアが開き、さっきの長袍の男を筆頭に、がらの悪い面々が入って来た。めいめい手に鉈や鉄パイプを、耳障りな音を立て引きずっている。
「ほんとだ、かわいーねぇ」
「くんくん、おいしそう」
強面な男たちの、ウサギとは思えない肉食獣な発言に、アニスは思わず後退りした。鉈男が、長袍の男ににやついた目線を送る。
「どうする? イチイ」
「野郎はいらねぇや。手錠はずぜ」
「めんどくせ、それじゃ手首ごと──」
ツバキ目がけて鉈が大きくふり上がる。アニスの悲鳴が響く前に、男たちから叫び声があがった。
「ぐわあぁ! 痛ぇ!」「目があぁぁ!」
ツバキがトウガラシエキスの水鉄砲を手に、アニスの手を引き出口へ向かう。だが──
「!」
後頭部を鉄パイプが襲い、ツバキは床に転倒した。
「ガキが! ナメたマネしやがって、何使いやがった!」
男は腫れた目をこすりながら、ツバキの胸部を刺突のようにパイプで撃つ。
「ぐはっ……」
骨が軋む鈍い音を聞き、アニスはツバキの前に立ちはだかって叫んだ。
「──や、やめなさい、それを作ったのはわたしです!」
「あァ? なんだと?」
男の視線がアニスへと矛先を変える。ツバキは身を起こし声を荒げた。
「やめろ! こいつは──」
そのとき、破砕音が部屋を突き抜け、窓ガラスが一斉に割れた。
一瞬、その場にいた者は何が起きたかわからず、黒のロングブーツが窓を蹴破って入って来るのを唖然と見ていた。
特殊部隊よろしく、頭にバンダナを巻いた大柄な男が、ハーネスのロープを慣れた手つきではずす。棒つきキャンディなどくわえてはいるが、獣のような鋭い眼つきに、思わず数人が数歩退った。
場を奪われた一同におかまいなしに、男はだるそうにこきこきと肩を鳴らす。
「あーらら、ここ倒壊寸前とはいえウチのビルなんだけど……兄さん方、使うならショバ代払ってもらわないと」
「ンだとコラァ! ここはハイイロウサギの……!」
鉈男が我に返り勢い込む。
「だから、ウチのビルだって言ってんだろ」
戯けた声色が急に冷気を帯び、全員が思わず息を呑んだ。男のむき出しの肩に彫られたウサギのタトゥーを見咎め、イチイの顔がみるみる青ざめる。
「あんたまさか……」
動揺を隠せないイチイの様子に、アニスは男を返す返す見た。どこかで見たことのある顔だ。それも、ついさっき。
「あっ、リクドウさん、このひと──」
アニスがツバキにささやいたほんの一瞬の出来事だった。イチイは突然、アニスを開いた窓へと大きく突き飛ばした。
「アニス博士!」
ツバキがとっさにアニスの手をつかむ。だが支えられるはずもなく、ふたりはまとめて三階から落下した。
バンダナの男があわてて窓際へ駆けよる。
「……おいおい、マジかよ」
呆れたように笑みを浮かべた先には、植え込みの繁みに絡まって沈んでいるふたりがいた。
「運のいいやつ」
ふたりが目を覚ましたとき、そこはさっきと同じビルの一室のようだった。
窓から、工場の灯りが規則的に点滅するのが見える。見回すと、折りたたみ椅子やダンボールの山。どうやら、物置に使われている部屋のようだ。
「……おれら、何か薬で眠らされた?」
こめかみをおさえるツバキに、アニスはくんくんと鼻を鳴らす。
「吸入麻酔薬イソフルラン。エーテルの匂いがします。副作用は頭痛、嘔吐。化学式は」
「いい、いい、余計頭痛くなるから。つーか詳しいな、あんた。やっぱ『博士』なんだな」
ツバキは眉間をつまみながら苦笑する。
「あーいう薬、作ったりすんの?」
「はい。昨日、痴漢行為をなさったリクドウさんに使用したものとか」
「だから痴漢じゃねェって……てか、アレ、あんたが作ったの!?」
「こういうのもありますけど」
アニスはうなずいて、ポケットから水鉄砲式の護身用具を取り出した。
「……マジか。昨日めいっぱい浴びたやつ、劇薬じゃないだろうな」
「有害なものではありません。原材料は、トウガラシとオリーブオイルですから」
ツバキはいささか理不尽な気持ちでつぶやいた。
「……それフツー、キッチンで使うのが正しいんじゃないかね。まあいいや、これ使えるぞ。あいつらはどこだ?」
「となりから話し声がします」
アニスは落ちていた紙コップを壁に当て、じっと耳をすました。
「何か食うって言ってますけど」
「はは。ウサギはニンジン食っとけって」
「わたし、だそうです」
「誰が言ってる!?」
「みんな。白くておいしそうって……食うなんて冗談ですよね?」
不安な表情のアニスに、ツバキは青くなった。
「い、いやそういう意味じゃなくて──とにかく逃げるぞ」
ツバキは急いで窓から外を見た。大窓が片壁全面を覆っている。だが本来外にあるべきベランダは崩れ、ほぼ断崖だ。しかもさっきとは向きが違う部屋らしく、隣接する建物は見当たらない。
どのみち、今度は跳べる状況ではなかった。動くたび、じゃらじゃらという金属音がふたりにつき纏う。
ふたりの手首は、仲よく手錠で繋がれていた。
突然がちゃりとドアが開き、さっきの長袍の男を筆頭に、がらの悪い面々が入って来た。めいめい手に鉈や鉄パイプを、耳障りな音を立て引きずっている。
「ほんとだ、かわいーねぇ」
「くんくん、おいしそう」
強面な男たちの、ウサギとは思えない肉食獣な発言に、アニスは思わず後退りした。鉈男が、長袍の男ににやついた目線を送る。
「どうする? イチイ」
「野郎はいらねぇや。手錠はずぜ」
「めんどくせ、それじゃ手首ごと──」
ツバキ目がけて鉈が大きくふり上がる。アニスの悲鳴が響く前に、男たちから叫び声があがった。
「ぐわあぁ! 痛ぇ!」「目があぁぁ!」
ツバキがトウガラシエキスの水鉄砲を手に、アニスの手を引き出口へ向かう。だが──
「!」
後頭部を鉄パイプが襲い、ツバキは床に転倒した。
「ガキが! ナメたマネしやがって、何使いやがった!」
男は腫れた目をこすりながら、ツバキの胸部を刺突のようにパイプで撃つ。
「ぐはっ……」
骨が軋む鈍い音を聞き、アニスはツバキの前に立ちはだかって叫んだ。
「──や、やめなさい、それを作ったのはわたしです!」
「あァ? なんだと?」
男の視線がアニスへと矛先を変える。ツバキは身を起こし声を荒げた。
「やめろ! こいつは──」
そのとき、破砕音が部屋を突き抜け、窓ガラスが一斉に割れた。
一瞬、その場にいた者は何が起きたかわからず、黒のロングブーツが窓を蹴破って入って来るのを唖然と見ていた。
特殊部隊よろしく、頭にバンダナを巻いた大柄な男が、ハーネスのロープを慣れた手つきではずす。棒つきキャンディなどくわえてはいるが、獣のような鋭い眼つきに、思わず数人が数歩退った。
場を奪われた一同におかまいなしに、男はだるそうにこきこきと肩を鳴らす。
「あーらら、ここ倒壊寸前とはいえウチのビルなんだけど……兄さん方、使うならショバ代払ってもらわないと」
「ンだとコラァ! ここはハイイロウサギの……!」
鉈男が我に返り勢い込む。
「だから、ウチのビルだって言ってんだろ」
戯けた声色が急に冷気を帯び、全員が思わず息を呑んだ。男のむき出しの肩に彫られたウサギのタトゥーを見咎め、イチイの顔がみるみる青ざめる。
「あんたまさか……」
動揺を隠せないイチイの様子に、アニスは男を返す返す見た。どこかで見たことのある顔だ。それも、ついさっき。
「あっ、リクドウさん、このひと──」
アニスがツバキにささやいたほんの一瞬の出来事だった。イチイは突然、アニスを開いた窓へと大きく突き飛ばした。
「アニス博士!」
ツバキがとっさにアニスの手をつかむ。だが支えられるはずもなく、ふたりはまとめて三階から落下した。
バンダナの男があわてて窓際へ駆けよる。
「……おいおい、マジかよ」
呆れたように笑みを浮かべた先には、植え込みの繁みに絡まって沈んでいるふたりがいた。
「運のいいやつ」
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