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1 婚約破棄
しおりを挟む「セニエ伯爵令嬢アニエス・バラデュール、我が婚約者よ」
カルナック侯爵家の嫡男ディオン・ル・ベルは、大広間のど真ん中で、男爵令嬢ヴァネッサの肩を引き寄せた。
そして、婚約者に向けて人差し指を突きつける。
「貴様のことは愛せぬ! 婚約破棄だ、このメス豚め!」
王宮で行われていた春の舞踏会の最中だった。
ちょうど楽団の音が止んだ瞬間と重なり、その声は場内に大きく響き渡る。
多くの招待客が談笑を忘れ、凍りついた。
「よくぞおっしゃってくださいましたわ、ディオン様」
ヴァネッサが、煉瓦色の瞳を潤ませながら、うっとりとディオンを見上げる。
「俺は真実の愛に目覚めた。ヴァネッサこそ、最愛の人だ」
アニエスは小さく首をかしげた。
姿勢は正しく、身のこなしには一切の無駄がない。銀色の髪は乱れひとつなく後ろでまとめられ、光を弾くように艶めいている。
透き通る薄紫の瞳は揺らぎを見せず、ただ静かに婚約者を見据えていた。
隙のなさと知性がそのまま形になったような彼女は、思わず話しかけるのをためらわせるほど近寄りがたい。
それでも──否、だからこそか──目を奪われるほどに美しい。
ディオンは一瞬、この選択は誤りだったのではないかと後悔しかけた。
しかし、彼女が赤く整った唇を開いたとき、その後悔は霧散する。
「愚かなことを。場を騒がせて、陛下に申し訳が立たないと思いませんの?」
冷ややかな声は、取り乱した様子もなく落ち着いていた。
(ほらな。いくら美しくても、氷の女神像には可愛げがまったく無いんだ)
いらだつディオンをよそに、彼女は淡々と続ける。
「なぜ両家の話し合いの場を設けないのです? 衆目の中でわたくしを辱める理由を、おっしゃってくださいませ」
燕尾服やイブニングドレスに身を包んだ貴族たちは、ディオンの父──カルナック侯爵のほうへおそるおそる視線を向けた。
侯爵は渋い顔で息子を見ているだけで、特に何も言わない。
アニエスの父セニエ伯爵もまた、娘と同じく感情の読めない目で、三者を見つめるだけだった。
今日は春祝の宴である。
昼には王宮の庭園が解放され、青紫のアイリスやアネモネ、早咲きのラベンダーがほのかに香る植栽を、皆が楽しんだばかりだ。
夜の舞踏会は、共に高位の貴族であるディオンとアニエスの婚約を祝うため、国王が用意した趣向だった。
本来なら幸せになるはずの二人が、なぜこんなことになってしまったのか。
戸惑う貴族たちの間に、ヒソヒソと憶測の声が飛び交った。
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