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思い出したくなどなかったのに。
──本当に?
思い出してはいけなかったのに。
あなたへの、この想いは、記憶の底に。
あのお茶会の席で、私にだけ出された色の違う紅茶。
ううん、あれは紅茶ですらなかった。
『あなたが、素直にそれを飲めば、これまでのあなたの行いについて不問にして差し上げるわ』
『おっしゃる意味が分かりません』
『いやね。頭が良い事だけが貴女の取柄なのでしょうに。聞き分けのない子は嫌いなの。貴女が受け入れないというなら、それでもいいわ。ただし』
パチン。公爵令嬢が手にした扇を音を立てて開く。
そうして口元を隠して目だけで微笑んだ。
『貴女のご実家が、どうなっても知りませんわよ?』
楽しそうに、歌うように。
美しい令嬢は、死の宣告をした。
『なんでですか!』
ガタン。思わず音を立てて椅子から立ち上がった私の肩を、公爵家の侍女たちが掴んで椅子へと強引に座り直させられた。
『ふふ。そんな風に睨みつけては駄目。その侍女たちは皆、我が家門の子爵家以上の令嬢たちよ? 貴女より爵位も上なの。弁えなさい』
黙って話の続きを促す。
『身の程知らずの男爵令嬢。確かに貴女はお勉強をしに王都へやってきたようね。きちんと勉学に励み、優秀な成績を収めた』
パチン、パチンと開け閉めされる扇の音が耳につく。
『そうして、図らずも、貴女は高位貴族の令息の心を手に入れる事まで成功してしまった』
『高位貴族、ですか?』
心当たりがなくて顔を何度も横に振る。
しかし、にこやかな表情のまま視線に怒りと憎しみを乗せて、公爵令嬢が私を射貫いた。
『ダルトン先生は、わたくしの婚約者候補です。貴女のような木っ端地方貴族の男爵令嬢に心を奪われるなど、赦せるわけがないでしょう?』
『! ダルトン先生は、婚約者も恋人もいないと仰っていました。私は先生を信じます』
ぎゅっと、制服の下に身に着けてきたペンダントを握りしめた。
『なんて不敬な!』
周囲から上がる声を、公爵令嬢はその視線だけで諫める。
そうして、握りしめた手の中にあるペンダントまでを見透かすように軽く視線を合わせた後、鼻先で笑い飛ばした。
『ふん。そのような安物に興味はないわ。取り上げたりしないから安心なさって。私にとって安物でも、貴女にとっては高価でしょう。売ればすこしは慰謝料代わりになるのではなくって?』
『私はこれを売り払ったりしません。それで……私に、どうしろとおっしゃるのですか?』
『何度も言わせないで頂戴。私は貴女に、それを飲み干しなさいと言ったのよ』
それは、淀んだ池の水のような色をしていた。濁りきった汚水のよう。
『これを飲むと、どうなりますか?』
『別に死んだりしないわ。大丈夫。わたくしは優しいの。媚薬を飲ませて男たちの中に放り込んだりもしないわ。安心して飲んで頂戴』
比較として上げられた内容が、想定していたより非道で怯む。
それでも、私には飲まないという選択肢は用意されていなかった。
『飲んだら、私の家族……寄親の侯爵家にも手出しはされないとお約束いただけますか?』
『いいわね、用心深く内容をきちんと確認できる賢い子。わたくし、賢い子は好きよ。でも、ねぇ、ここで口約束をしたとして、貴女はそれで安心できるの?』
『……なにも、確認できないまま飲むより覚悟が決まり易いです』
『ホホホ。それはそうね。えぇ、そうでしょう。いいわ、約束して上げましょう。ここにいるわたくしのお友達たちにも手出しはさせないと。私のこの美しさとプライドに賭けて。貴女がそれを飲み干した暁には、貴女のご実家にも寄親の侯爵家にも手出し無用とさせましょう』
『そんな!』『それでいいのですか』
周囲から次々と上がる声を、令嬢は完璧に無視した。
ほっそりとした美しい手に、さぁ、と促されるままに。
私は、瀟洒なカップに注がれた、濁った泥水のようなものを、飲み干した。
視界が昏くなり、頭の中を直接手でかき混ぜられているような不快感に頭を押さえる。
『ふふ。本当に飲んだのね。凄いわ、貴女。わたくしには死んでも無理だわ。そうね、ご褒美に教えてあげる。貴女は死なないわ。お勉強に関する記憶も失ったりしない、筈よ。この辺りはよく分からないの。ごめんなさいね。貴女が確実に失うのは、ひとつだけ』
ずっと対面の席に座っていた公爵令嬢が、今はすぐ横に立っていた。
首元へと手が伸びてくる。
避けたいのに、身体が言うことを聞かない。
ぷちっ。小さな音を立てて、瀟洒なチェーンが奪われていく。
『う、ばわないって……いった、のに』
『大丈夫。これは、いつか見つかるように、返してあげる。私が貴女から奪うものはひとつだけ』
『?』
『あの御方への、恋心よ』
公爵令嬢が、美しい顔を歪めて、嗤った。
思い出したくなどなかったのに。
──本当に?
思い出してはいけなかったのに。
あなたへの、この想いは、記憶の底に。
あのお茶会の席で、私にだけ出された色の違う紅茶。
ううん、あれは紅茶ですらなかった。
『あなたが、素直にそれを飲めば、これまでのあなたの行いについて不問にして差し上げるわ』
『おっしゃる意味が分かりません』
『いやね。頭が良い事だけが貴女の取柄なのでしょうに。聞き分けのない子は嫌いなの。貴女が受け入れないというなら、それでもいいわ。ただし』
パチン。公爵令嬢が手にした扇を音を立てて開く。
そうして口元を隠して目だけで微笑んだ。
『貴女のご実家が、どうなっても知りませんわよ?』
楽しそうに、歌うように。
美しい令嬢は、死の宣告をした。
『なんでですか!』
ガタン。思わず音を立てて椅子から立ち上がった私の肩を、公爵家の侍女たちが掴んで椅子へと強引に座り直させられた。
『ふふ。そんな風に睨みつけては駄目。その侍女たちは皆、我が家門の子爵家以上の令嬢たちよ? 貴女より爵位も上なの。弁えなさい』
黙って話の続きを促す。
『身の程知らずの男爵令嬢。確かに貴女はお勉強をしに王都へやってきたようね。きちんと勉学に励み、優秀な成績を収めた』
パチン、パチンと開け閉めされる扇の音が耳につく。
『そうして、図らずも、貴女は高位貴族の令息の心を手に入れる事まで成功してしまった』
『高位貴族、ですか?』
心当たりがなくて顔を何度も横に振る。
しかし、にこやかな表情のまま視線に怒りと憎しみを乗せて、公爵令嬢が私を射貫いた。
『ダルトン先生は、わたくしの婚約者候補です。貴女のような木っ端地方貴族の男爵令嬢に心を奪われるなど、赦せるわけがないでしょう?』
『! ダルトン先生は、婚約者も恋人もいないと仰っていました。私は先生を信じます』
ぎゅっと、制服の下に身に着けてきたペンダントを握りしめた。
『なんて不敬な!』
周囲から上がる声を、公爵令嬢はその視線だけで諫める。
そうして、握りしめた手の中にあるペンダントまでを見透かすように軽く視線を合わせた後、鼻先で笑い飛ばした。
『ふん。そのような安物に興味はないわ。取り上げたりしないから安心なさって。私にとって安物でも、貴女にとっては高価でしょう。売ればすこしは慰謝料代わりになるのではなくって?』
『私はこれを売り払ったりしません。それで……私に、どうしろとおっしゃるのですか?』
『何度も言わせないで頂戴。私は貴女に、それを飲み干しなさいと言ったのよ』
それは、淀んだ池の水のような色をしていた。濁りきった汚水のよう。
『これを飲むと、どうなりますか?』
『別に死んだりしないわ。大丈夫。わたくしは優しいの。媚薬を飲ませて男たちの中に放り込んだりもしないわ。安心して飲んで頂戴』
比較として上げられた内容が、想定していたより非道で怯む。
それでも、私には飲まないという選択肢は用意されていなかった。
『飲んだら、私の家族……寄親の侯爵家にも手出しはされないとお約束いただけますか?』
『いいわね、用心深く内容をきちんと確認できる賢い子。わたくし、賢い子は好きよ。でも、ねぇ、ここで口約束をしたとして、貴女はそれで安心できるの?』
『……なにも、確認できないまま飲むより覚悟が決まり易いです』
『ホホホ。それはそうね。えぇ、そうでしょう。いいわ、約束して上げましょう。ここにいるわたくしのお友達たちにも手出しはさせないと。私のこの美しさとプライドに賭けて。貴女がそれを飲み干した暁には、貴女のご実家にも寄親の侯爵家にも手出し無用とさせましょう』
『そんな!』『それでいいのですか』
周囲から次々と上がる声を、令嬢は完璧に無視した。
ほっそりとした美しい手に、さぁ、と促されるままに。
私は、瀟洒なカップに注がれた、濁った泥水のようなものを、飲み干した。
視界が昏くなり、頭の中を直接手でかき混ぜられているような不快感に頭を押さえる。
『ふふ。本当に飲んだのね。凄いわ、貴女。わたくしには死んでも無理だわ。そうね、ご褒美に教えてあげる。貴女は死なないわ。お勉強に関する記憶も失ったりしない、筈よ。この辺りはよく分からないの。ごめんなさいね。貴女が確実に失うのは、ひとつだけ』
ずっと対面の席に座っていた公爵令嬢が、今はすぐ横に立っていた。
首元へと手が伸びてくる。
避けたいのに、身体が言うことを聞かない。
ぷちっ。小さな音を立てて、瀟洒なチェーンが奪われていく。
『う、ばわないって……いった、のに』
『大丈夫。これは、いつか見つかるように、返してあげる。私が貴女から奪うものはひとつだけ』
『?』
『あの御方への、恋心よ』
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