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3.英雄ジークとプレッツェル係

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 罪人の如く両側から騎士たちに抑え込まれたままでいる男の前で、リンデは立ち止まると、まるでその男以外は誰もいないかのように、ふんわりと嬉しそうに挨拶をした。

「はじめまして、ハンス(偽名)さま。こうしてお言葉を交わせる日が来ることを夢見て参りました。本日、今この瞬間を持ちまして、あなた様は私のものとなりました。お優しくも寛大なヘルイム王国の国王陛下が私の願いを許諾くださいましたものです。よって、これは陛下からあなた様へ勅命となります。謹んで受け入れて戴きますわ」

 柔らかな笑顔で言いきった言葉の内容の不穏さに、言われた本人のみならずその言葉が聞き取れたすべての人間の頬が引き攣る。

「偽名じゃない。『初めまして、リンデ将軍』……此処へ連れてこられる道中、散々あんたとの関係を訊かれたけど、やっぱり初めましてでいいんじゃねぇか。おい、放せよ。俺が嘘を吐いてなかったって事は、たった今証明されただろ!」

 男が両肩を押しつけている腕を拒むように身体を捩る。
 押さえつけていた騎士は、尊敬する上司でもあるリンデにもの問いたげな視線を投げ掛けた。それを受けてリンデがにっこりと笑って頷いてみせると、渋々といった風情でその肩を放した。
「おい、縄も解いてくれよ」
 身体を揺すって抗議したが、返ってきたのはリンデからのハンスへの疑惑を深めるような言葉だけだった。
「でも、実際にハンス(偽名)様にお会いして言葉を交わしたのは『初めまして』ですけれど、私はあなた様を知っていましたわ。その偽名だけでなく、ね」
 そのわざとらしくも言葉に含みを持たせるような言葉を選んだリンデに、ハンスの視線が鋭くなる。ぎりっと苛立たしげに奥歯を噛み締めた。
 手を離した騎士たちも、再び捕らえるべきかと距離を詰める。
 しかし、再び高まり始めていたその場の緊張を解いたのも、リンデだった。

「祖父から、あなた様の作るプレッツェルの美味しさについて何度も語られました。『絶品だ』といって、いつも嬉しそうに頬張られておりました」
 固く焼き締められたプレッツェルは、日持ちがするので軍では非常食として推奨されていた。つやつやのそれが1個でもポケットに入っていれば口に含んで唾液を出すのにも役立つので喉の渇きを誤魔化すこともでき、ふやかしきった後はそのまま食べれば腹持ちもするのだ。ちなみに、そのまま食べると腹の中でかなり膨れてしまうので頬張るのは推奨されてはいない。
 
「そう。もう2年以上も前になりますか。ハンス(偽名)様が、祖父のプレッツェル係になられたのは」
 その言葉に、一旦は緩んだ緊張がみたび高まる。

 リンデの祖父、つまりはヘルイム王国が英雄ジーク伯を喪ったのは、食事に混ぜられた毒だという噂がまことしやかに流れていたからだ。
 公式な発表では、病死、ということになっている。
 ただし、その前日まで元気に敵を蹴散らしていた姿が確認されていたし、翌朝、床の中で苦しみ抜いた形跡も顕わに遺体となって発見されたという証言もあって、誰もがその真なる死因は隠されているのだと信じていた。ただ、戦時中の幕舎で毒殺などということになったら戦意に関わると秘匿されているのだと。
 この場に居並ぶヘルイムの騎士で、英雄ジーク伯へ憧れを抱いたことのない者などいない。
 誰よりも強く、豪快で、そして温かかった。
 甘いものが好きで、そのポケットにいつも菓子を持っているような人だった。
 手を抜いたり失敗をすれば、洒落にならないほど怒られたし扱かれもしたが、終わった後にその大切に食べている菓子を分けてくれるのも嬉しかった。
 甘いものは高価なので自身が「少しずつしか食べない」と言っていたにも関わらず、本気で凹んでいる時はそっと差し出してくれるのだ。甘いものが好きではない騎士であろうと、ジーク伯から渡された菓子だけは別だと喜んで食べた。

 その、甘いものが好きだということ。それ自体が標的とされたのかもしれない。

 リンデの言葉の中に、その可能性を見つけた者たちの視線が厳しさを増す。
 敬愛する英雄を死に至らしめた原因かもしれないそれを作っていたという、偽名を名乗る怪しい人物。
 その怪しい人物が、それに毒を仕込んで食べさせた可能性は決して低くないと誰もが考えていた。
 誰も気が付いていなかったその男を、新たに自分たちの尊敬を勝ち得た新たなる英雄、それも先の英雄の孫娘が、この場に呼びつけたという事実が、より一層の疑惑を生んでいた。


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