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過去と今
第18話
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優雨の父は警察官だった。
どちらかと言えば寡黙な性分だったが、妻の晴子を亡くしてからは一念発起し、男手一つで息子を育てる決意をしてからは以前よりも喋るようになった。晴子が健在だった頃は、彼女のように上手く息子を扱えるかどうか不安で任せきりにしていたものの、今やすっかり優雨にべったりの子煩悩といったところだ。
それも再婚してからは落ち着いてきたが、優雨の方も父親を支えようと無理に気負うことはなくなったようだった。その点、この選択は正解だったようにも思う。
優雨の父はかつて警察官だった。
その職を辞するきっかけとなった事件が起きたのは優雨がまだ小学生だった頃で、当時は晴子も存命だった。だからか、言葉数が少ないのをいいことに、コミュニケーションが足らない分は自分の生き様を見せることで都合よく補えればいいと、いわゆる「背中で語る」というやつを実践するつもりだった。しかし、結果としてはそれが裏目に出てしまったようだ。
*
ある日、若い女性が優雨の父・邦彦が勤務する交番に駆け込んできた。彼女は「灰谷夏芽」と名乗ると、ストーカーに追われて困っていると邦彦に話した。
夏芽は新人のアイドルとして芸能活動をしているのだという。ストーカーと思しき相手は彼女の熱心なファンだったらしいが、今や自覚のない迷惑行為を働く輩と化してしまったようだ。
被害に気付いた当初、仕事を終えて帰宅する際などに、人気のない場所でストーカーの気配を感じることがあったのだという。そんなときは人混みに紛れたり、飲食店などに入って友人や家族と連絡を取り合って難を逃れていたようだ。しかし、今日に限ってすぐに都合のつく知人が見つからなかった。
「そしたら、その、急に知らない人が声を掛けてきて。見覚えのある人だったから、そこでファンの人だって気づいて」
そうして、自分に付きまとっていた男が普段はステージの上から見下ろすだけのファンクラブの人間であると察せられた。
「食事に誘われたから、お断りしたんですけど。なんか逃げ出す感じになっちゃって」
困り果てた彼女が、そこでたまたま目に付いたこの交番に逃げ込んだというわけか―――夏芽の話に納得すると、邦彦は彼女と今後の対応について話し合うことにした。
夏芽が落ち着いてきたところで、その日は邦彦が彼女を自宅まで送り届けることとなった。しかし、その様子を恨みがましく目にしていた男が彼らの背後にいたことを、二人は気づいていなかったのである。
後日、再び夏芽が邦彦の勤める交番に訪ねてきた。当然、相談の内容は件のストーカー被害についてである。以前にも増して警戒心を強めていた夏芽とその周囲だったが、今回の件を大事にしたくないというのが彼女の所属する事務所側の意向だった。
それでも、なんとか事務所の協力を取り付けることができた邦彦は、ストーカー犯と思しき男を特定して注意を促していた。しかし、現にこうして夏芽が邦彦の元へやって来たということは、状況は芳しくないということなのだろう。
「またあの人に後をつけられているような気がして。でも、前みたいに声を掛けられることもないし。事務所からは何もするなって」
彼女が不安に思うのも当然だ。相手が大口の太客だと分かったからといって、事務所側が日和見な態度を取り続けている以上、身近に相談できる相手も限られていることだろう。
犯人と思われる件の男は夏芽を食事に誘ったことは認めているものの、ストーカー疑惑については否定していた。それでも、夏芽自身が不安を抱えた原因の一つとして、邦彦は近年施行されたストーカー規制法に則って彼に警告を行っている。後は彼女に付きまとっている証拠さえ掴めれば、男を処罰することができるはずだった。
「私、もう、どうしたらいいか」
すっかり意気消沈した様子の夏芽に同情した邦彦は、万が一に備えて自分が非番の日でも連絡を取れるようプライベートな連絡先を彼女と交換した。今にしてみれば非常に軽率な行いだったのだが、当時抱いていた過剰な正義感が視界を曇らせていたとしか言いようがない。妻子ある身でありながら、後先を考えない性質をこれまで改めることがなかったのである。
数日後、悲惨な事件が起きた。
背後に気配を感じたという夏芽が、遂に犯人の顔を確認したと言うのである。電話口の震える声で邦彦にそのことを伝えると、非番にも関わらず彼は自宅を飛び出して助けを求める夏芽の元へと向かった。
当然、その日の邦彦は制服など着ておらずラフな私服姿であった。そんな彼に声を掛けられた夏芽がほっとした表情を浮かべたのも束の間、帰路で事件は起きた。後に全国的なニュースとなり、それは広く世間に知れ渡ることになる。
夏芽を自宅まで送り届けた後、邦彦は同僚と連絡を取って犯人を捕まえる手筈を整えるつもりだった。彼女の証言から、街中にある監視カメラの映像を辿ればきっと件の男に捜査はいきつくはずだ。
ストーカー犯罪に世間の関心が高まっている昨今、何かが起きてからでは遅いという認識は当然のことである。しかし、当時の邦彦には慎重さが足りなかった。夏芽を救うことに急く余り、最悪の事態を想定していなかったことが仇となったのだ。
喫茶店で落ち合った二人は、これまで夏芽が友人らとそうしてきたように、ごくごく自然な付き合いを装って道中を過ごした。とは言っても、彼女の気分が落ち着くまで喫茶店で一服した後にタクシー乗り場まで連れ立っただけなのだが。
邦彦が駅前でタクシーを呼び止めた。夏芽に運賃を渡して帰宅してもらおうと、彼女に乗車を促そうとしたとき、何者かがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。その手に握られているものが何であるか察して、邦彦は咄嗟に傍らの夏芽を庇おうとする。
突如として襲われた激痛に悶絶しながらも、邦彦は相手の顔をしっかりと確かめた。夏芽のファンを名乗る件の男で間違いない。彼の手に握られていた刃物は、邦彦の腹に深々と刺し込まれていた。
後になって聞いた話によると、件の男は夏芽に誘いを断られた原因を「彼氏がいるからだ」と思い込んでいたらしい―――パートナーさえ排除できれば自分の恋が成就するに違いないという発想は余りにも短絡的だが、そこまで正気を失うほどに熱を上げていたということか。
額に脂汗を滲ませながら、歯を食いしばった邦彦が犯人に掴みかかる。男が思わずたじろいだ拍子に刃物が抜けると、傷口からどっと血が溢れた。邦彦がその痛みに耐えながら目前の男を組み伏せたときには、辺り一面は彼の血で染まっていた。
その光景を目の当たりにした夏芽が悲鳴を上げると、背後で只ならぬ事態が起きていることを察したタクシー運転手が直ちに警察へと通報した。その間も邦彦は自分の傷も顧みることなく犯人の男を締め上げ、それは彼が意識を失う直前まで続いたという。
*
邦彦は大量の失血からくる後遺症で、激しい運動が困難になった。その結果、悩んだ末に彼は職を辞する決断を下した。自分の迂闊さを悔い改めるとともに、晴子と優雨にこれ以上の心配を掛けさせまいとしたのだ。
入院中、彼が手慰みに書き上げた小説をネット上に掲載したことがあった。邦彦が幼少期に憧れた刑事ドラマの主人公や、実体験をもとにしたクライムサスペンスがとある出版社の目に留まると、彼の人生の再出発は意外なところから始まった。
「アイドルをストーカー被害から守った警官」として一躍時の人となっていた邦彦の知名度に目を付けた出版社は、彼の素性を知って掲載されていたネット小説の書籍化を推し進めたのだ。邦彦に意外な文才があったこともあり、ブラッシュアップされた作品は後に十分に衆目へと晒しうる出来となった。そうして、彼の小説家としての人生が始まったのである。
*
携わる仕事は変わっても、彼の意思は書き記した文字に宿っている。優雨の目には以前と変わらず父の背中は大きく映っていた。だからこそ彼の生き方に倣おうとしたし、母の死後も彼女に代わって父を支え続けた。
「灰谷夏芽」の名前を目にする度、優雨は内心で父の存在を誇りに思う。女優となった夏芽の活躍がメディアに取り上げられるときもそうなのだが、彼女から季節毎の挨拶状が我が家に届く度に、それを気恥しそうに手に取る父の様子を目にするときの方がより強く実感させられたものだ。
蘭子の自宅で配信の準備を整えながら、ふと優雨はそんなことを思い返していた。自分の中にあった正義感など、とうに枯れ果てたものと思っていたが、こうして手を動かしていると流歌の助けになりたいという意欲が沸々と湧いてくる。
「お、来たみたいだな」
インターホンの音が聞こえてくると、暇を持て余していた蘭子が玄関までぱたぱたとスリッパの音を鳴らしながら駆けて行った。
「お邪魔します」
客人を居間に通すと、にわかに家の中が活気づいた。女三人寄れば、と言うがその内の一人はれっきとした男性である。どう見ても女の子にしか見えないが。
「お疲れ、お稲荷」
「どうも」
作業の手を止めて優雨が挨拶に向かうと、真っ先にそれに気がついた流歌が声を掛けてきた。今日は千歳も一緒に来ている。
「期待しましたか?」
千歳が含みのある言い方をすると、優雨はすぐにピンと来た。流歌の服装だ。
「何のことです」
図星を突かれた優雨が頬を引きつらせると、千歳が口元を手で覆いながらくすくすと笑った。その横で流歌が訳も分からずきょとんとしている。
当然ながら今日の流歌はボーイッシュな普段着姿である。しかし、優雨が密かに彼の女装姿を期待していたことは千歳に見透かされていたらしい。彼女に指摘されるまではそのことをはっきりとは意識していなかったのだが、流歌に対して未だに歪んだ劣情を抱いていたことは自分でも驚きだった。
このまま後戻りできなくなってしまうのだろうか―――そんな言い知れない不安が胸中にわだかまる。しかし、
「準備の方はどう?」
そんなことはどうでもいいな、と。流歌本人を目の前にするとそう思えてしまう。それだけの魅力が彼にはあった。
「順調ですよ。後で大佐と通話繋ぐので、そこで細かい調整が済んだらテスト放送しましょう」
「わかった」
流歌が珍しく見せる硬い表情で頷く。そんな彼の緊張をなんとかほぐそうと、優雨は努めて明るく振舞おうとした。
「こうなったらとことん楽しみましょう。新しいことに挑戦するのは、とても有意義なことだと思います」
「うん、そうだね」
*
優雨の気持ちに応えようと、流歌は不安を押し隠すように笑顔を作った。ここまでお膳立てさせておいて、今更怖気づいたからといって後には引けない。それに、やると決めたのは間違いなく自分なのだから。
「ボク、頑張るよ」
胸の前で両拳を握ってみせると、優雨の厳めしい顔が柔和な笑みを作った。それを見ているだけで不思議と胸の内が温かくなる。普段の仏頂面とのギャップが凄まじいのも、友人であるからこそ目にすることができる一面と思えば喜ばしい点だ。
「その意気です」
こうやって彼に励まされるのも、もう何度目だろうか。一緒にゲームをしているときも、優雨は常にこちらのプレイングに対して称賛できるポイントを見つけてはモチベーションに繋げようとしてくれる。そんな年下とは思えない気配りの仕方に感心したし、見習いたいとも思った。
祖母は「愛は無償のもの」であるからこそ、返さなければいけないと教えてくれた。受け取った分の愛に、感謝の気持ちを伝えることで応えるのだと―――果たして自分は、優雨にこれ以上何を返せるのだろう。きっと彼は「何もいらない」と言うに違いない。それでも。
「あのさ、お稲荷」
初配信を成功させること。現状、自分が優雨のためにしてやれることといえばそれだけだ。最高の成果を残して、協力してくれたみんなに報いたい。
「はい」
何故だか優雨の正視に耐えられなくなって、目を泳がせてしまう。続く言葉も見つけられず、思わずしどろもどろになった。
「あのね」
優雨が顔に疑問符を浮かべているのをちらと見やると、いよいよ緊張の度合いが増した。「あー」とか「うー」とか意味を成さない響きを口から漏らしていると、思わぬ方向から助け舟が来た。
「そういえば、リクエストがあったら教えてほしいと仰ってましたね」
「えっ」
千歳が唐突にそんなことを言うので、顔を見合わせていた二人が声を揃えた。それから、
「何のリクエストですか」
優雨がおずおずと正面の流歌とその隣にいる千歳の顔を交互に窺いながら聞いた。すると、
「決まってんだろ」
それまで三人の様子をにやにやしながら眺めていた蘭子が口を挟んだ。
「お前好みの格好で配信してくれるってよ。良かったな」
*
そのとき、秋山優雨に電流走る(無論、比喩表現ではあるが)。あまりの衝撃に愕然とさせられたものの、すぐに気を取り直すと流歌に対して蘭子の言葉の真偽を確かめた。
「マジですか」
彼は頬をかきながら、もじもじした様子で「ええと」と言葉を詰まらせる。後ろで蘭子が「がっつきすぎ」と呆れているようだが、この際恥も外聞もあったものではない。
「お稲荷さえ良ければ、だけど」
そう言って流歌が照れたように笑うと、その可憐さに優雨の胸が締め付けられた。思わず言葉を失ってしまうほどに。
「まずはきっちりとした格好で挨拶を撮ってからですけどね」
予想以上に食いつきの良いリアクションを見られて満足したのか、千歳が笑いを堪えながら優雨に釘を刺した。
「そ、そうっすね」
優雨は努めて平静を装いながら、作業に戻るタイミングを窺った。わざわざ流歌にここまで来てもらったのは、SNSに投稿する宣伝用の動画を撮るためでもあるのだ。
「面白そうだから」という理由でそれについてきたらしい千歳だが、騒ぎを起こした張本人として流歌を助けたい気持ちもあったのだろう。実際、彼女の存在は場を和ませるのに一役買っている。
「この間の水着とかいいと思うんだけど」
「却下です」
ここで蘭子が自分の要求を通そうとするのも訳が分からないが、千歳にその決定権があるのも充分おかしい。
「あっそうだ、ボク作ってみたい衣装があるんだけど」
遂には本人まで話の輪に加わり始めたので、思わずいたたまれなくなった優雨はその場をこっそりと退散することにした。
優雨の父は警察官だった。
どちらかと言えば寡黙な性分だったが、妻の晴子を亡くしてからは一念発起し、男手一つで息子を育てる決意をしてからは以前よりも喋るようになった。晴子が健在だった頃は、彼女のように上手く息子を扱えるかどうか不安で任せきりにしていたものの、今やすっかり優雨にべったりの子煩悩といったところだ。
それも再婚してからは落ち着いてきたが、優雨の方も父親を支えようと無理に気負うことはなくなったようだった。その点、この選択は正解だったようにも思う。
優雨の父はかつて警察官だった。
その職を辞するきっかけとなった事件が起きたのは優雨がまだ小学生だった頃で、当時は晴子も存命だった。だからか、言葉数が少ないのをいいことに、コミュニケーションが足らない分は自分の生き様を見せることで都合よく補えればいいと、いわゆる「背中で語る」というやつを実践するつもりだった。しかし、結果としてはそれが裏目に出てしまったようだ。
*
ある日、若い女性が優雨の父・邦彦が勤務する交番に駆け込んできた。彼女は「灰谷夏芽」と名乗ると、ストーカーに追われて困っていると邦彦に話した。
夏芽は新人のアイドルとして芸能活動をしているのだという。ストーカーと思しき相手は彼女の熱心なファンだったらしいが、今や自覚のない迷惑行為を働く輩と化してしまったようだ。
被害に気付いた当初、仕事を終えて帰宅する際などに、人気のない場所でストーカーの気配を感じることがあったのだという。そんなときは人混みに紛れたり、飲食店などに入って友人や家族と連絡を取り合って難を逃れていたようだ。しかし、今日に限ってすぐに都合のつく知人が見つからなかった。
「そしたら、その、急に知らない人が声を掛けてきて。見覚えのある人だったから、そこでファンの人だって気づいて」
そうして、自分に付きまとっていた男が普段はステージの上から見下ろすだけのファンクラブの人間であると察せられた。
「食事に誘われたから、お断りしたんですけど。なんか逃げ出す感じになっちゃって」
困り果てた彼女が、そこでたまたま目に付いたこの交番に逃げ込んだというわけか―――夏芽の話に納得すると、邦彦は彼女と今後の対応について話し合うことにした。
夏芽が落ち着いてきたところで、その日は邦彦が彼女を自宅まで送り届けることとなった。しかし、その様子を恨みがましく目にしていた男が彼らの背後にいたことを、二人は気づいていなかったのである。
後日、再び夏芽が邦彦の勤める交番に訪ねてきた。当然、相談の内容は件のストーカー被害についてである。以前にも増して警戒心を強めていた夏芽とその周囲だったが、今回の件を大事にしたくないというのが彼女の所属する事務所側の意向だった。
それでも、なんとか事務所の協力を取り付けることができた邦彦は、ストーカー犯と思しき男を特定して注意を促していた。しかし、現にこうして夏芽が邦彦の元へやって来たということは、状況は芳しくないということなのだろう。
「またあの人に後をつけられているような気がして。でも、前みたいに声を掛けられることもないし。事務所からは何もするなって」
彼女が不安に思うのも当然だ。相手が大口の太客だと分かったからといって、事務所側が日和見な態度を取り続けている以上、身近に相談できる相手も限られていることだろう。
犯人と思われる件の男は夏芽を食事に誘ったことは認めているものの、ストーカー疑惑については否定していた。それでも、夏芽自身が不安を抱えた原因の一つとして、邦彦は近年施行されたストーカー規制法に則って彼に警告を行っている。後は彼女に付きまとっている証拠さえ掴めれば、男を処罰することができるはずだった。
「私、もう、どうしたらいいか」
すっかり意気消沈した様子の夏芽に同情した邦彦は、万が一に備えて自分が非番の日でも連絡を取れるようプライベートな連絡先を彼女と交換した。今にしてみれば非常に軽率な行いだったのだが、当時抱いていた過剰な正義感が視界を曇らせていたとしか言いようがない。妻子ある身でありながら、後先を考えない性質をこれまで改めることがなかったのである。
数日後、悲惨な事件が起きた。
背後に気配を感じたという夏芽が、遂に犯人の顔を確認したと言うのである。電話口の震える声で邦彦にそのことを伝えると、非番にも関わらず彼は自宅を飛び出して助けを求める夏芽の元へと向かった。
当然、その日の邦彦は制服など着ておらずラフな私服姿であった。そんな彼に声を掛けられた夏芽がほっとした表情を浮かべたのも束の間、帰路で事件は起きた。後に全国的なニュースとなり、それは広く世間に知れ渡ることになる。
夏芽を自宅まで送り届けた後、邦彦は同僚と連絡を取って犯人を捕まえる手筈を整えるつもりだった。彼女の証言から、街中にある監視カメラの映像を辿ればきっと件の男に捜査はいきつくはずだ。
ストーカー犯罪に世間の関心が高まっている昨今、何かが起きてからでは遅いという認識は当然のことである。しかし、当時の邦彦には慎重さが足りなかった。夏芽を救うことに急く余り、最悪の事態を想定していなかったことが仇となったのだ。
喫茶店で落ち合った二人は、これまで夏芽が友人らとそうしてきたように、ごくごく自然な付き合いを装って道中を過ごした。とは言っても、彼女の気分が落ち着くまで喫茶店で一服した後にタクシー乗り場まで連れ立っただけなのだが。
邦彦が駅前でタクシーを呼び止めた。夏芽に運賃を渡して帰宅してもらおうと、彼女に乗車を促そうとしたとき、何者かがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。その手に握られているものが何であるか察して、邦彦は咄嗟に傍らの夏芽を庇おうとする。
突如として襲われた激痛に悶絶しながらも、邦彦は相手の顔をしっかりと確かめた。夏芽のファンを名乗る件の男で間違いない。彼の手に握られていた刃物は、邦彦の腹に深々と刺し込まれていた。
後になって聞いた話によると、件の男は夏芽に誘いを断られた原因を「彼氏がいるからだ」と思い込んでいたらしい―――パートナーさえ排除できれば自分の恋が成就するに違いないという発想は余りにも短絡的だが、そこまで正気を失うほどに熱を上げていたということか。
額に脂汗を滲ませながら、歯を食いしばった邦彦が犯人に掴みかかる。男が思わずたじろいだ拍子に刃物が抜けると、傷口からどっと血が溢れた。邦彦がその痛みに耐えながら目前の男を組み伏せたときには、辺り一面は彼の血で染まっていた。
その光景を目の当たりにした夏芽が悲鳴を上げると、背後で只ならぬ事態が起きていることを察したタクシー運転手が直ちに警察へと通報した。その間も邦彦は自分の傷も顧みることなく犯人の男を締め上げ、それは彼が意識を失う直前まで続いたという。
*
邦彦は大量の失血からくる後遺症で、激しい運動が困難になった。その結果、悩んだ末に彼は職を辞する決断を下した。自分の迂闊さを悔い改めるとともに、晴子と優雨にこれ以上の心配を掛けさせまいとしたのだ。
入院中、彼が手慰みに書き上げた小説をネット上に掲載したことがあった。邦彦が幼少期に憧れた刑事ドラマの主人公や、実体験をもとにしたクライムサスペンスがとある出版社の目に留まると、彼の人生の再出発は意外なところから始まった。
「アイドルをストーカー被害から守った警官」として一躍時の人となっていた邦彦の知名度に目を付けた出版社は、彼の素性を知って掲載されていたネット小説の書籍化を推し進めたのだ。邦彦に意外な文才があったこともあり、ブラッシュアップされた作品は後に十分に衆目へと晒しうる出来となった。そうして、彼の小説家としての人生が始まったのである。
*
携わる仕事は変わっても、彼の意思は書き記した文字に宿っている。優雨の目には以前と変わらず父の背中は大きく映っていた。だからこそ彼の生き方に倣おうとしたし、母の死後も彼女に代わって父を支え続けた。
「灰谷夏芽」の名前を目にする度、優雨は内心で父の存在を誇りに思う。女優となった夏芽の活躍がメディアに取り上げられるときもそうなのだが、彼女から季節毎の挨拶状が我が家に届く度に、それを気恥しそうに手に取る父の様子を目にするときの方がより強く実感させられたものだ。
蘭子の自宅で配信の準備を整えながら、ふと優雨はそんなことを思い返していた。自分の中にあった正義感など、とうに枯れ果てたものと思っていたが、こうして手を動かしていると流歌の助けになりたいという意欲が沸々と湧いてくる。
「お、来たみたいだな」
インターホンの音が聞こえてくると、暇を持て余していた蘭子が玄関までぱたぱたとスリッパの音を鳴らしながら駆けて行った。
「お邪魔します」
客人を居間に通すと、にわかに家の中が活気づいた。女三人寄れば、と言うがその内の一人はれっきとした男性である。どう見ても女の子にしか見えないが。
「お疲れ、お稲荷」
「どうも」
作業の手を止めて優雨が挨拶に向かうと、真っ先にそれに気がついた流歌が声を掛けてきた。今日は千歳も一緒に来ている。
「期待しましたか?」
千歳が含みのある言い方をすると、優雨はすぐにピンと来た。流歌の服装だ。
「何のことです」
図星を突かれた優雨が頬を引きつらせると、千歳が口元を手で覆いながらくすくすと笑った。その横で流歌が訳も分からずきょとんとしている。
当然ながら今日の流歌はボーイッシュな普段着姿である。しかし、優雨が密かに彼の女装姿を期待していたことは千歳に見透かされていたらしい。彼女に指摘されるまではそのことをはっきりとは意識していなかったのだが、流歌に対して未だに歪んだ劣情を抱いていたことは自分でも驚きだった。
このまま後戻りできなくなってしまうのだろうか―――そんな言い知れない不安が胸中にわだかまる。しかし、
「準備の方はどう?」
そんなことはどうでもいいな、と。流歌本人を目の前にするとそう思えてしまう。それだけの魅力が彼にはあった。
「順調ですよ。後で大佐と通話繋ぐので、そこで細かい調整が済んだらテスト放送しましょう」
「わかった」
流歌が珍しく見せる硬い表情で頷く。そんな彼の緊張をなんとかほぐそうと、優雨は努めて明るく振舞おうとした。
「こうなったらとことん楽しみましょう。新しいことに挑戦するのは、とても有意義なことだと思います」
「うん、そうだね」
*
優雨の気持ちに応えようと、流歌は不安を押し隠すように笑顔を作った。ここまでお膳立てさせておいて、今更怖気づいたからといって後には引けない。それに、やると決めたのは間違いなく自分なのだから。
「ボク、頑張るよ」
胸の前で両拳を握ってみせると、優雨の厳めしい顔が柔和な笑みを作った。それを見ているだけで不思議と胸の内が温かくなる。普段の仏頂面とのギャップが凄まじいのも、友人であるからこそ目にすることができる一面と思えば喜ばしい点だ。
「その意気です」
こうやって彼に励まされるのも、もう何度目だろうか。一緒にゲームをしているときも、優雨は常にこちらのプレイングに対して称賛できるポイントを見つけてはモチベーションに繋げようとしてくれる。そんな年下とは思えない気配りの仕方に感心したし、見習いたいとも思った。
祖母は「愛は無償のもの」であるからこそ、返さなければいけないと教えてくれた。受け取った分の愛に、感謝の気持ちを伝えることで応えるのだと―――果たして自分は、優雨にこれ以上何を返せるのだろう。きっと彼は「何もいらない」と言うに違いない。それでも。
「あのさ、お稲荷」
初配信を成功させること。現状、自分が優雨のためにしてやれることといえばそれだけだ。最高の成果を残して、協力してくれたみんなに報いたい。
「はい」
何故だか優雨の正視に耐えられなくなって、目を泳がせてしまう。続く言葉も見つけられず、思わずしどろもどろになった。
「あのね」
優雨が顔に疑問符を浮かべているのをちらと見やると、いよいよ緊張の度合いが増した。「あー」とか「うー」とか意味を成さない響きを口から漏らしていると、思わぬ方向から助け舟が来た。
「そういえば、リクエストがあったら教えてほしいと仰ってましたね」
「えっ」
千歳が唐突にそんなことを言うので、顔を見合わせていた二人が声を揃えた。それから、
「何のリクエストですか」
優雨がおずおずと正面の流歌とその隣にいる千歳の顔を交互に窺いながら聞いた。すると、
「決まってんだろ」
それまで三人の様子をにやにやしながら眺めていた蘭子が口を挟んだ。
「お前好みの格好で配信してくれるってよ。良かったな」
*
そのとき、秋山優雨に電流走る(無論、比喩表現ではあるが)。あまりの衝撃に愕然とさせられたものの、すぐに気を取り直すと流歌に対して蘭子の言葉の真偽を確かめた。
「マジですか」
彼は頬をかきながら、もじもじした様子で「ええと」と言葉を詰まらせる。後ろで蘭子が「がっつきすぎ」と呆れているようだが、この際恥も外聞もあったものではない。
「お稲荷さえ良ければ、だけど」
そう言って流歌が照れたように笑うと、その可憐さに優雨の胸が締め付けられた。思わず言葉を失ってしまうほどに。
「まずはきっちりとした格好で挨拶を撮ってからですけどね」
予想以上に食いつきの良いリアクションを見られて満足したのか、千歳が笑いを堪えながら優雨に釘を刺した。
「そ、そうっすね」
優雨は努めて平静を装いながら、作業に戻るタイミングを窺った。わざわざ流歌にここまで来てもらったのは、SNSに投稿する宣伝用の動画を撮るためでもあるのだ。
「面白そうだから」という理由でそれについてきたらしい千歳だが、騒ぎを起こした張本人として流歌を助けたい気持ちもあったのだろう。実際、彼女の存在は場を和ませるのに一役買っている。
「この間の水着とかいいと思うんだけど」
「却下です」
ここで蘭子が自分の要求を通そうとするのも訳が分からないが、千歳にその決定権があるのも充分おかしい。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
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