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第九章|蔵の才人と傾奇ブルワー、時を超えた仕込み
蔵の才人と傾奇ブルワー、時を超えた仕込み 其ノ伍
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摺れよ摺れ摺れ 酛摺れよ
伊丹の蔵に 朝が来る
そいとせ そいとせ
米は新米 水は井の水
職の手のひら 言葉なく
摺ればしずかに 音がする
酒の命が 目を覚ます
初めて聞く酛摺り唄は、単調でありながらも力強く、静かに何かが整っていくような響きだった。
喜兵寿とつるにあわせ、直も「そいとせ そいとせ」と声をあげる。
大釜の中の液体は、櫂(かい)の動きに合わせ柔らかくその表情を変える。米の甘い匂い、そしてその中にふわりと青草のようなホップの香りが漂う。
――どうか無事に酒の命が目を覚ましますように
その時、遠くで鐘の音が鳴った。
「火を!火をとめてくれ!」
直はつるに叫ぶ。甘酒の濾液のボイル終了の時間、そして最後のホップ投入のタイミングだ。
直は袋の中を覗き込むと、残ったホップをすべて大釜の中へと投入した。乾燥ホップは、ゆっくりとゆっくりと沈んでいく。
直は祈るような気持ちで、その姿を見送った。もうこれで手元にホップはない。もしも失敗をしたとしたら、ゲームオーバー確定だ。
「この最後のホップが“アロマホップ”。ビールに香りをつけるという役割を担ってくれるはずだ」
煮沸がはじまったタイミングの苦み付けのためのホップ、30分ほど経過した後の苦みと香り付けのホップ、そして火を消した後にいれる香り付けのホップ。
大釜の中をゆるりと漂うそれらは、明日の朝には鍋の底に静かに沈んでいるだろう。そして、ビールに新たな息吹を与えてくれているはずだ。
「同じほっぷなのに、いついれるかで役割が変わるのだな。実に興味深い」
袋の底に残った小さなホップの欠片をつまみ上げると、小西はつぶやいた。
「清からの薬草に、このような使い道があるなど思ってもみなかった。いつかこの啤酒花をを日本酒にも使ってみたいものだ」
その言葉に、喜兵寿が目を輝かせた。
「確かにそれ、おもしろそうですね!ぜひ醸造の際には、ご一緒させてください!」
「いいな。では清より多めに啤酒花を仕入れておこう。でもまずは……」
小西はふうっと息を吐き出す。
「まずはびいるを成功させなければな。びいるが出来なければ、お主たちは座敷牢行き。そうなれば酒造りはおろか、冬を超えることすらできないのだろう?」
その言葉に、蔵内の空気がぴりっと張り詰める。村岡との約束から早2か月強。残された時間はあとわずかだ。
もしもこのビールが失敗してしまったら……再び頭に浮かんだ黒い不安を拭い去るよう、直はぶるぶると大きく首を振った。
「そうそう!まずはこのビールを最高においしく仕上げて、村岡の野郎をぎゃふんと言わせてやろうぜ」
醸造の第一段階は終わった。あとは一晩放置し冷却、自然酵母が下りてくるのを待つという工程だ。
直は喜兵寿、小西で協力をし、大釜の中身を半切り桶へと移していく。もうもうと上がる湯気に交じって、蔵の中に充満するホップの香り。
あまい、あおい、深い、あまい……
直はその匂いの粒ひとつひとつを確認し、そこに「焦げ」がないことに胸を撫でおろした。もちろん後ほど舌でも確認をするが、恐らく焦げによる影響はほぼないといって大丈夫だろう。
大釜の中身を移し終えると、半切り桶たっぷり2つ分ほどだった。それを外気の入る小窓の下へと置く。
「最近、朝晩は冷え込むようになってきたからな。明日の朝には十分に冷えているだろう。心配なのは……」
直は頭上を見上げ、見えないものを見ようとするように目を細める。
「無事酵母が下りてきてくれるか、だな。ま、酒蔵だから大丈夫だと思うけど……」
「こうぼ、とは確か“酒の神”のことだったよな?」
喜兵寿も同じく上を見上げると、大きく2つ柏手を打った。
「祈ろう。きっと酒の神は俺たちのことを見てくれているはずだ」
そう言って深く頭を下げる。それに従うように、小西、つる、直も順に頭を下げた。
「俺はまだ生きて、いろんな酒を飲みたい。それに……酒を造りたい」
伊丹の蔵に 朝が来る
そいとせ そいとせ
米は新米 水は井の水
職の手のひら 言葉なく
摺ればしずかに 音がする
酒の命が 目を覚ます
初めて聞く酛摺り唄は、単調でありながらも力強く、静かに何かが整っていくような響きだった。
喜兵寿とつるにあわせ、直も「そいとせ そいとせ」と声をあげる。
大釜の中の液体は、櫂(かい)の動きに合わせ柔らかくその表情を変える。米の甘い匂い、そしてその中にふわりと青草のようなホップの香りが漂う。
――どうか無事に酒の命が目を覚ましますように
その時、遠くで鐘の音が鳴った。
「火を!火をとめてくれ!」
直はつるに叫ぶ。甘酒の濾液のボイル終了の時間、そして最後のホップ投入のタイミングだ。
直は袋の中を覗き込むと、残ったホップをすべて大釜の中へと投入した。乾燥ホップは、ゆっくりとゆっくりと沈んでいく。
直は祈るような気持ちで、その姿を見送った。もうこれで手元にホップはない。もしも失敗をしたとしたら、ゲームオーバー確定だ。
「この最後のホップが“アロマホップ”。ビールに香りをつけるという役割を担ってくれるはずだ」
煮沸がはじまったタイミングの苦み付けのためのホップ、30分ほど経過した後の苦みと香り付けのホップ、そして火を消した後にいれる香り付けのホップ。
大釜の中をゆるりと漂うそれらは、明日の朝には鍋の底に静かに沈んでいるだろう。そして、ビールに新たな息吹を与えてくれているはずだ。
「同じほっぷなのに、いついれるかで役割が変わるのだな。実に興味深い」
袋の底に残った小さなホップの欠片をつまみ上げると、小西はつぶやいた。
「清からの薬草に、このような使い道があるなど思ってもみなかった。いつかこの啤酒花をを日本酒にも使ってみたいものだ」
その言葉に、喜兵寿が目を輝かせた。
「確かにそれ、おもしろそうですね!ぜひ醸造の際には、ご一緒させてください!」
「いいな。では清より多めに啤酒花を仕入れておこう。でもまずは……」
小西はふうっと息を吐き出す。
「まずはびいるを成功させなければな。びいるが出来なければ、お主たちは座敷牢行き。そうなれば酒造りはおろか、冬を超えることすらできないのだろう?」
その言葉に、蔵内の空気がぴりっと張り詰める。村岡との約束から早2か月強。残された時間はあとわずかだ。
もしもこのビールが失敗してしまったら……再び頭に浮かんだ黒い不安を拭い去るよう、直はぶるぶると大きく首を振った。
「そうそう!まずはこのビールを最高においしく仕上げて、村岡の野郎をぎゃふんと言わせてやろうぜ」
醸造の第一段階は終わった。あとは一晩放置し冷却、自然酵母が下りてくるのを待つという工程だ。
直は喜兵寿、小西で協力をし、大釜の中身を半切り桶へと移していく。もうもうと上がる湯気に交じって、蔵の中に充満するホップの香り。
あまい、あおい、深い、あまい……
直はその匂いの粒ひとつひとつを確認し、そこに「焦げ」がないことに胸を撫でおろした。もちろん後ほど舌でも確認をするが、恐らく焦げによる影響はほぼないといって大丈夫だろう。
大釜の中身を移し終えると、半切り桶たっぷり2つ分ほどだった。それを外気の入る小窓の下へと置く。
「最近、朝晩は冷え込むようになってきたからな。明日の朝には十分に冷えているだろう。心配なのは……」
直は頭上を見上げ、見えないものを見ようとするように目を細める。
「無事酵母が下りてきてくれるか、だな。ま、酒蔵だから大丈夫だと思うけど……」
「こうぼ、とは確か“酒の神”のことだったよな?」
喜兵寿も同じく上を見上げると、大きく2つ柏手を打った。
「祈ろう。きっと酒の神は俺たちのことを見てくれているはずだ」
そう言って深く頭を下げる。それに従うように、小西、つる、直も順に頭を下げた。
「俺はまだ生きて、いろんな酒を飲みたい。それに……酒を造りたい」
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