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学生時代からモテていた自覚はある、今もその気になれば相手に不自由しない自信はあるが………臭いと言われては凹む
シャワーを浴びて念入りに歯を磨き、こんどこそ煙草をやめる決意をした、もう数度目の禁煙だが今度は必ずやり遂げるつもりだった
渡辺法律事務所に詰めている石川にTOWA関係の仕事を頼み、急いで雪斗のマンションに戻ると………玄関に溜まっていた大量の靴にあ然とした
「何だ………これは……」
豪華な個人宅に複数のスーツ……
マンションの室内はTOWA社員出溢れ、まるでVシネマに出てくる怪しいサロンのようになっていた
深川に松本、木下、柳川、最悪な事に佐鳥までしれっといる
野島部長と緑川以外営業が殆どいる、何故か江川までいる……
「どういう事ですか!社長は怪我人なんです!どうしてこんなに集まっているんですか!」
「渡辺さん、すいません……社長が資料を持って来いと会社に電話したみたいで…」
皆巳が牛乳の入った……いや……コーヒーの入った牛乳を手に持ち、申し訳なさそうに頭を下げた
「みんないったいどういうつもりですか!ここにいる殆ど全員が昨日の社長を見ているんでしょう、常識をわきまえてください」
「それは……わかっているんですが社長に頼まれて……」
松本が会社を出ようとすると、会社に置いてあるパソコンと資料を持ってこいと雪斗から電話がかかってきた
それを聞いた深川が社長に用があると言って付いてきた
最初は二人だったが、マンションに入ると顧客の情報教えて欲しいと柳川と保坂から深川に連絡が入り…………それならついでに豪華なマンション(深川談)を見てやろうと芋づる式に人数が増えていった
何よりTOWAから徒歩圏内なのも悪かった
「俺は深川さんを止めたんですけど……」
「とにかく!帰ってください、そんな長居するような用は無い筈です」
「今順番待ちなんです、もうちょっとだけ時間を下さい」
「深川さん、あなたね!」
「渡辺さん、そんな慌てなくても用が済んだら帰ります」
柳川がほらっと頭で指した先で佐鳥が雪斗からUSBメモリを受け取りポケットに入れた
「社長!何をやってるんですそれは何ですか」
「浄水機の使用説明書、昨日やり残しただろう」
「そうですけど、どうして今なんですか」
確かに昼前に手をつけていたが今体調を押してまでやる事じゃない、みんな血を流して気を失っていた雪斗より、暴れた雪斗の方が印象に残り軽症だと勘違いしている
佐鳥は佐鳥で全部知ってるくせに相変わらず何も考えてない
「社長、こっちにも目を通して下さい」
怒りをぶち撒ける渡辺を尻目にいつでもどこでもマイペースを崩さない深川が少年ジャンプくらいある書類の束をニュッと出すと………
渡辺から何かがプチッと断絶する音が聞こえ、雪斗を囲んで床に座り込っていた黒いスーツの間にドスッと足を出した
「うわ!!おい!何?!渡辺?」
怪我人に無理をさせるなと喚いていたが理性のリミッターが振り切れている、無言で雪斗を抱え荷物のように持ち上げた
「口で言ってもわからないようですから、実力行使です」
「離せよ!渡辺!痛い!」
「腹が切れてるんです、当たり前でしょう」
「痛いって!痛い痛い痛い!おい!」
誰もが軽症だと思ってしまうのはもう仕方がない、渡辺は元気に暴れる雪斗をものともせずズンズン進み奥の寝室に放り込んでしまった
「みんな帰ってください!」
背中でドアを抑えている渡辺の体がドンっと揺れた
………多分雪斗が寝室の中から蹴ってる
「でも社長が……」
「もう一回言いますここにいる殆どが昨日見ていたでしょう、皆さんはどんな怪我だったのか知らないのかもしれませんが社長は昨日死にかけたんです、まあ知ってる人もいますけどね」
ギロッと渡辺に睨まれた佐鳥が慌てて立ち上がった
「そうですね……みんな……もう帰った方がいい」
「じゃあこれは置いて帰るから……」
「深川さん、それは鞄にしまって持って帰ってください、置いて帰れば今すぐ処分します」
渡辺の遠慮ない剣幕に深川が渋々と少年ジャンプを鞄にしまうと、全員が申し合わせたようにモソモソと立ち上がった
床には資料やコーヒーカップが散らかり……知らない間にリビングの真ん中にあった筈のガラステーブルが無い………
「俺はここを……」
「松本さん、片付けは私がやります」
せめて簡単な片付けだけでもと松本がコーヒーカップを手をかけると、渡辺に連動した皆巳が松本だけにピントを合わせてさっさと帰れとリビングのドアを開けた
「社長に用がある時はどうしたらいいんですか?」
「社長の復帰は怪我が治るまで、と云うことで未定です、是非自重して頂きたい」
「じゃあ後で電話を……」
「深川さん、社長はああ見えて重症なんです、治るまで休むと今言いましたよね」
「そうなんでしょうけど……」
雪斗は頭の中で立てたプランを文書化してはくれない、社長決済が無ければ前になる進まない事がいつの間にか増え、いてくれないと困るが……渡辺の視線に押さえつけられ続きは言えなくなった
元々雪斗に呼び出されたのは佐鳥と松本だけ
怒られてまで長居する必要もなく、避難訓練に向かう小学生のようにゾロゾロと並んで出て行き、最後になった佐鳥が足を止めて振り返った
「何か用ですか?早く帰ってください」
今度こそ佐鳥を殴り倒したいが今ドアを離れるとまだドアを蹴ってる雪斗が飛び出てくる
「仕事がありますから言われなくても帰ります」
「佐鳥くん………雪斗はああ言ったが……出来れば自分から辞めてくれませんか?君の為でもある」
「………俺が昨日言った事は本気ですよ」
「……本気って………」
ただの勘違いなのに真剣になってる佐鳥が馬鹿みたいで笑いが込み上げてきた
「いかがわしい目付きで雪斗を見ているうちに嵌っただけでしょう、そんな奴は何人もいた」
「それは………」
………言われてみれば渡辺の言う通りだが……そんな浅い関係じゃないと信じたい
「そんなんじゃないんです、俺達は……」
「俺達って何ですか、佐鳥くん、はっきり言えばこれはあなただけの問題です、雪斗が同意したとは思えない、あの人はあなたなんかいなくても前に進みますよ」
「……少なくとも必要としてくれた事はあります」
「雪斗の中には誰もいない、誰も必要としていない、私はこの十年ずっと見てきた」
誰も寄せ付けずずっと側にいた渡辺ですら一歩も中には立ち入ることは出来ないでいる
「………中に入って………見せます」
やれるものならやればいい……
本当の雪斗が見えて来る頃にわかるだろう
「私は忠告しました、それでもいいと言うならさっさと仕事に行ったらどうですか」
「そうしますよ」
何でもいいから早く出て行けと待ち構えていた皆巳は、佐鳥が足を踏み出すと封印するようにドアを締めた
「渡辺さん、申し訳ありませんでした」
頭を下げられても笑って"大丈夫です"とは言えない、出来ればお茶など出す暇があるなら追い出して欲しかった
「あなたのせいじゃ無いとわかっています………」
八つ当たりが顔に出そうで………誤魔化す為に静かになった寝室のドアを覗くと、ふてくされたように毛布に潜り込んだ雪斗がベッドの上で丸くなっていた
大学に行っても何の足しにもならない、とビジネス専門学校に入って英語をみっちり勉強した
中堅の専門学校には遊びたいだけの奴も含め、色んな目的を持った学生がいたが松本は何が何でも英語力を磨き大手に就職するつもりでいた
しかしそれは甘かった、学歴社会は依然と就職戦線に大きく立ちはだかり、闘いの舞台にすら上がれない、妥協とまでは言えないが中小企業の中でも給料が高いTOWAを受けたのはふるい落とされ、流されたからだった
だからと言って舐めていたつもりは無かったが舐めていた、TOWAを舐めていたというより社会人として働く事を舐めていた
利益率が良く業績が安定していた為か入社した頃のTOWAは怖かった社長を除き他の重役陣に覇気が無く(野島部長を除く)のんびりした社風だった(と思う)
そのTOWAを雪斗が全部混ぜ返し環境がガラリと変わってしまった
人手が足りなくなり突然最前線に加われと担当を割り振られたが、ただ注文を聞いてくるだけの仕事がこんなにも難しいとは思わなかった
初めて挨拶に向った先の担当者に酸化防止剤の種類と利益分布を聞かれたが即座に答えらず、たった2日でクビになってしまった
「あそこの担当は待たないんだ、お前のせいじゃない」
「深川さんなら答えられましたか?」
「俺なら言い方を変えて誤魔化す、そんなもん賞味期限2ヶ月か二週間かどっちが儲かるかなんて誰にわかる、ほらこれに社長の判子を貰って来てくれ」
「はあ……」
情けないことに………"松本にはまだ無理"と屈辱の判断を下され営業補助に舞い戻っていた
あの騒動は何だったのか…………退院(?)して3日、つまり怪我をしてまだ3日しか経っていないのに一度渡辺に一掃された雪斗のマンションは今TOWAの別社屋のようになっていた
携帯を持たない雪斗にみんな困っていたのに今度は携帯を渡せと渡辺が詰め寄っても離そうとせずに、止められようが怒られようがバンバン呼び出しの電話がかかってる
しかもかけてくるのはいいがこっちからかけても出てくれない
そのせいでマンションの暗証番号はもう既にTOWAの公共物となり誰彼が自由に出入りしている
「社長のマンション……怖いんですよね」
「ああ、鉄仮面な、お前は超激レアなトランスフォーム見てるからな」
「うん、皆巳さんも怖いんですけどね……」
事故のあった日から毎日直接雪斗のマンションに"出社"している皆巳は社長の呼び出しならと何も言わないが当りがきつい
自業自得だからそれは仕方がないが、雪斗の個人宅に行く事自体が怖かった
木下にホモ呼ばわりされて自分のした事が"そういう意味を持つ"と初めて気付き、もしかして時分にはその毛があるのだろうか考え込んでしまった
佐鳥と緑川の独特な仲の良さを羨ましいと思ったが、どっちかとチューしたいかと言えばそれはない、ってか絶対無理……
当たり前だが、どう考えても男に性的な興味はないのに雪斗なら行けると思ってしまう自分が怖い
雪斗も雪斗でちょっとくらい用心してくれたらいいのに、これを見ろと手元に呼んで平気で頭を寄せる
今この世で一番信用出来ない奴が自分自身だなんて笑えない
「俺はホモじゃない……ちょっと憧れただけだ……」
そう歳は変わらないのに大金を動かし、一癖も二癖もあるベテランを手玉に取る雪斗はかっこいい、怪我をしても平気な顔で仕事をする雪斗はかっこいい、血を流してバク宙とか女に刺されるとか………
………効かない呪文を唱えながら歩いているとあっという間にマンションに着いた、この近さもTOWA別棟になっている原因だった
雪斗には勝手に入って来いと言われているがそんな訳にもいかない、皆巳が出て来ない事を祈りながらインターフォンを押すとドアから顔を出したのは木下だった
「何だ松本、またお前か」
「俺は今使いっ走り専門ですからね、木下さんは?何してるんですか?」
「俺は今昼休憩」
「え?ここで?」
営業に出ている人種はそれぞれが本当に図太い、木下はソファの下に座り仕事をしている雪斗の横でコンビニ弁当を広げて食べていた
社長の自宅にフラリと立ち寄り休憩所にするなんて社会構造的にもどこか変だ
「あれ?松本産が来たんですか?深川さんはどうしたんですか?」
足に乗せたノートパソコンを閉じて雪斗が顔を上げた
「すいません、深川さんは身体検査の予約があって俺が代わりに来ました」
「お前も社長が好きだな……」
木下がからかい口調でボソッと呟くと、ダイニングテーブルに座っていた皆巳から黒い瘴気がドロドロと流れ込んで体に巻き付いた
「木下さん、やめてください、今は仕事中なんで遊んでる暇は無いんです」
「通訳の事か?」
「はい、深川さんの渡航先は高等教育を受けた一部の高官しか英語が通じないらしいんです、フランス語が一般的な筈ですが電話した深川さんによるとドワーフと話してるみたいだったって」
「今から勉強したら間に合うんじゃないですか?」
「無理ですよ……社長じゃあるまいし……それに教材はどこにあるんです……」
「……何語?ドワーフってアフリカ人なのか?」
「……さあ……」
今から勉強しろって……本気くさい所が怖いが現実的じゃ無い、まったく馴染みの無い現地語を、出来れば日本語かせめて英語に通訳してくれる人材を連れて行くのが一番手っ取り早い
「現地出身の人間が同行してくれたらいいんですが……出稼ぎにでも来ていないか探してリクルートしてもいいですか?」
「こんな名前も聞いたことない国から誰か来てるかな…………どっかのビルに大使館があるって契約書に書いてあったな……」
足に乗っていたパソコンを横に置いて立ち上がろうとした雪斗が膝が伸び切る直前でピタリと動きを止めた
「社長?…………」
「松本……ちょっと支えてろ……」
「え?……」
木下のように図々しく座り込む事が出来ないで立ったまま話していた松本の耳元を囁き声が撫でた
「……あの女にバレないように……頼む…」
「あ……あの……」
ふいっと雪斗が頭を動かせばふわふわふわ揺れる髪………駄目だとわかっていても目が離せなかった
色々怖くて近くには寄れなかったが、ずっと視線だけで追っていたからわかる………雪斗はちょっと体を撚るだけでもくっと歯を食いしばる
「痛むん……ですか?」
「違う……暗くて目が見えない…………すぐ直るから……」
「俺は、大丈夫です……」
本当なら支えるか、座らせた方がいいが腕が固まって上がらない
ちょっとでも動いたら必死で保っている均衡が崩れ落ちてしまいそうで肩を貸したまま待っていた
「何をしてるんです」
背中から皆巳の低い声が聞こえてギクッとした
慌てて振り返ると………手にまたダスキンモップを持っていた
「いや!あの!違います!しゃ!社長が……」
皆巳がこんなにすぐヒートアップするタイプだなんて誰も知らなかったのに雪斗が来てから急に顕著になっている、言い訳も事情も聞かずに問答無用で振り上がったモップを避けたいが……残念ながら今は無理だった
往復で2回……それくらいなら殴られてやろうと目を閉じると、振り下ろされる寸前だったモップは雪斗の様子に気付いてピタリと動きを止めた
「社長?」
「何だよ松本……また社長を襲ってるのか?」
「違いますよ!!俺は……」
弁当を食べ終わりソファに座ってスマホをいじっていた木下に気を取られるとドスッと脇腹に肘鉄を食らい言いかけた言葉が咽た咳に取って変わった
「社長、座って下さい」
「何でもない………」
「嘘ばっかり、木下さん、社長が貧血を起こしてます、ちょっと頼めますか?」
皆巳は一番近くにいる松本を無視して木下が座るソファに雪斗を預け、タオルを絞りに走っていった
「すいません、木下さん……」
「やっぱりまだ無理してるんですね、まあ…あれだけ血が出てたし……当然ですかね…」
皆巳に押し付けられた雪斗の体が木下の太腿に半分乗っていた
トンっと肩に凭れた雪斗との構図は多分ソファに座ってイチャイチャしているラブラブカップル………甘える女の肩を抱き寄せているみたいだが雪斗は嫌がりもせず木下の腕の中に収まっていた
「だ……大丈夫ですか?」
「…………」
ふうっと息を付いた雪斗が焦点の鈍い目を細めて近い所で木下を見上げた
「木下さん……いつまでここにいる気ですか?」
「あ…………はは……バレてました?」
「まさか誤魔化せてると思ってたんですか?サボり過ぎです」
色が白いなと思った事はあったがドアップで見る雪斗は仕事を通し何気なしに見ていた顔と全然違った
冷たい汗に濡れた額に皺を刻み、ニッと形を歪めた唇が妙に透明だった
「俺!戻ります………仕事に……松本、行くぞ」
「はい!木下さん!そうしましょう!社長!さっきの話は深川さんと相談してこっちで進めます、皆巳さんすいませんが後はよろしくお願いします!」
松本は木下がタイミングよく帰ろうと言ってくれて死ぬ程ホッとした
信用出来ないのは自分の手だと思っていたが、無警戒だった変な場所が暴走した
どう見ても男相手なのに……貧血を起こし青白くなった額に浮かんだ玉の汗、力を抜いてソファに投げ出した体、虚ろな瞳を見て………いつのまにかハァハァ言ってる
ハッと正気に戻ると前が元気になっていた
皆巳に気付かれると今度はモップで叩き出されるだけじゃ済まない
グイッとジャケットの前を閉じ、前屈みになって玄関まで急いだ
「松本さん、大使館への問合わせと一緒に江川さんに言ってSNSとかにも拡散して貰ってください」
「はい!はい!直ぐやります、このまま大使館に行きます!連絡先します!」
靴を履くのももどかしい、買ったばかりの革靴だが踵を踏んでマンションから飛び出した
「やっと帰ってくれた……全く…困ったもんだわ………」
水で絞った冷たいタオルを首に当てると雪斗は自分で抑えてすぐにパソコンを拾い上げた
「社長もあまり困らせないでください、無理ばかりして」
「言われた通り部屋でじっとしているだろ、これ以上文句言うな」
「休んでいないでしょう」
雪斗を止めても聞かないともうわかっている
そんなに早く回復出来る訳ないのにパソコンの画面はもうモロッコ周辺、ザンジバル諸島の言語、通訳、と検索をかけていた
心配された感染症や発熱は落ち着いたが今度は貧血が酷くなって来ている、長野医師は抗生物質以外の薬は出してくれず、今の所食事療法以外手は無かった
「社長、私は少し出ますが大丈夫ですか?」
「俺は何とも無い、皆巳さんもこんな所に張り付いてないで自分の仕事をしてください、秘書にご飯の面倒まで見させてるなんて俺が労働局に怒られる」
「じゃあ自重してください、私は"ご飯"の買い物に行ってきます、帰ってくるまでお昼寝をしてくださると助かります」
ソファの横に畳んで置いてあった毛布を雪斗の頭に被せ、消化の良い鉄分メニューを考えながらタクシーを呼んだ
ボリュームのある付け睫毛が大好きだった
二重シールを瞼に貼り付けマスカラをたっぷり付けると別人に……本当の自分になれる
水谷は更衣室にあるロッカーの前で念入りに睫毛を増量して意気揚々と外出した
社長のマンションに行くチャンスをようやく手に入れた、経理上で収支を測っていた未回収金リストを頑張って午前中だけで仕上げたのだ、誰にも文句は言わせない
マンションの暗証番号は知っている、少なくとも玄関先までは行ける筈だった
エントランスで皆巳にバッタリ会わなければ………
「後で私が回収しますからポストに入れておいて下さい」
そう言われてマンションに足を踏み入れる前に追い払われてしまった
「タイミング最悪………」
あわよくば長居してやろうと目論んで鞄ごと持ってきたのに悔しいが帰るしかない
その辺でサボってやろうかと殊更ゆっくり歩いていると、背が高くてパリッとしたスーツを着たイケメンと目が合った
「すいません、TOWAの方ですか?」
「はい?……はい!そうです!」
ニッコリ笑った口元からは清潔感溢れる真っ白な歯が覗き………胸には弁護士バッチが光っている
今TOWAの社員証を外しかけていた所だった、誰かは知らないがこんなタイミングはもう運命と言える
「良かった……ちょっと迷ってしまって……」
「何かご用ですか?」
「社長と渡辺弁護士に会いに来たんですけど場所がわからなくて困っていたんです」
「私も丁度会社に戻る所なんです、ご案内しますよ」
口の両端を上げて瞬きの回数を増やす、なるべく近くから目だけで相手を見上げる
かわいいポーズは毎日鏡相手に練習してる
全力で自演した
「出来れば社長とお会いしたいんですが今いらっしゃいますか?」
「社長は……不在ですが渡辺弁護士は今出社していらっしゃいます」
「社長は外出中なんですか?」
「いえ………今出社を控えていて……」
イケメン弁護士の隣に並ぶと高そうな香水の匂いがする、歳は40前くらいだろうか、少し年上だがある意味理想的だった、同じ職業だからなのか知性溢れる落ち着いた雰囲気がちょっと渡辺と似ている
たくましい胸に組んだ筋の浮く男っぽい手が、困ったな…と口元に伸びた
「あの!今社長のマンションは会社の第二社屋みたいになっているんです、直接行かれてはどうですか?」
「マンション?ご自宅ですか?」
「はい、良かったらご案内しますけど」
その男は満面の笑みを浮かべて白い歯を見せた
シャワーを浴びて念入りに歯を磨き、こんどこそ煙草をやめる決意をした、もう数度目の禁煙だが今度は必ずやり遂げるつもりだった
渡辺法律事務所に詰めている石川にTOWA関係の仕事を頼み、急いで雪斗のマンションに戻ると………玄関に溜まっていた大量の靴にあ然とした
「何だ………これは……」
豪華な個人宅に複数のスーツ……
マンションの室内はTOWA社員出溢れ、まるでVシネマに出てくる怪しいサロンのようになっていた
深川に松本、木下、柳川、最悪な事に佐鳥までしれっといる
野島部長と緑川以外営業が殆どいる、何故か江川までいる……
「どういう事ですか!社長は怪我人なんです!どうしてこんなに集まっているんですか!」
「渡辺さん、すいません……社長が資料を持って来いと会社に電話したみたいで…」
皆巳が牛乳の入った……いや……コーヒーの入った牛乳を手に持ち、申し訳なさそうに頭を下げた
「みんないったいどういうつもりですか!ここにいる殆ど全員が昨日の社長を見ているんでしょう、常識をわきまえてください」
「それは……わかっているんですが社長に頼まれて……」
松本が会社を出ようとすると、会社に置いてあるパソコンと資料を持ってこいと雪斗から電話がかかってきた
それを聞いた深川が社長に用があると言って付いてきた
最初は二人だったが、マンションに入ると顧客の情報教えて欲しいと柳川と保坂から深川に連絡が入り…………それならついでに豪華なマンション(深川談)を見てやろうと芋づる式に人数が増えていった
何よりTOWAから徒歩圏内なのも悪かった
「俺は深川さんを止めたんですけど……」
「とにかく!帰ってください、そんな長居するような用は無い筈です」
「今順番待ちなんです、もうちょっとだけ時間を下さい」
「深川さん、あなたね!」
「渡辺さん、そんな慌てなくても用が済んだら帰ります」
柳川がほらっと頭で指した先で佐鳥が雪斗からUSBメモリを受け取りポケットに入れた
「社長!何をやってるんですそれは何ですか」
「浄水機の使用説明書、昨日やり残しただろう」
「そうですけど、どうして今なんですか」
確かに昼前に手をつけていたが今体調を押してまでやる事じゃない、みんな血を流して気を失っていた雪斗より、暴れた雪斗の方が印象に残り軽症だと勘違いしている
佐鳥は佐鳥で全部知ってるくせに相変わらず何も考えてない
「社長、こっちにも目を通して下さい」
怒りをぶち撒ける渡辺を尻目にいつでもどこでもマイペースを崩さない深川が少年ジャンプくらいある書類の束をニュッと出すと………
渡辺から何かがプチッと断絶する音が聞こえ、雪斗を囲んで床に座り込っていた黒いスーツの間にドスッと足を出した
「うわ!!おい!何?!渡辺?」
怪我人に無理をさせるなと喚いていたが理性のリミッターが振り切れている、無言で雪斗を抱え荷物のように持ち上げた
「口で言ってもわからないようですから、実力行使です」
「離せよ!渡辺!痛い!」
「腹が切れてるんです、当たり前でしょう」
「痛いって!痛い痛い痛い!おい!」
誰もが軽症だと思ってしまうのはもう仕方がない、渡辺は元気に暴れる雪斗をものともせずズンズン進み奥の寝室に放り込んでしまった
「みんな帰ってください!」
背中でドアを抑えている渡辺の体がドンっと揺れた
………多分雪斗が寝室の中から蹴ってる
「でも社長が……」
「もう一回言いますここにいる殆どが昨日見ていたでしょう、皆さんはどんな怪我だったのか知らないのかもしれませんが社長は昨日死にかけたんです、まあ知ってる人もいますけどね」
ギロッと渡辺に睨まれた佐鳥が慌てて立ち上がった
「そうですね……みんな……もう帰った方がいい」
「じゃあこれは置いて帰るから……」
「深川さん、それは鞄にしまって持って帰ってください、置いて帰れば今すぐ処分します」
渡辺の遠慮ない剣幕に深川が渋々と少年ジャンプを鞄にしまうと、全員が申し合わせたようにモソモソと立ち上がった
床には資料やコーヒーカップが散らかり……知らない間にリビングの真ん中にあった筈のガラステーブルが無い………
「俺はここを……」
「松本さん、片付けは私がやります」
せめて簡単な片付けだけでもと松本がコーヒーカップを手をかけると、渡辺に連動した皆巳が松本だけにピントを合わせてさっさと帰れとリビングのドアを開けた
「社長に用がある時はどうしたらいいんですか?」
「社長の復帰は怪我が治るまで、と云うことで未定です、是非自重して頂きたい」
「じゃあ後で電話を……」
「深川さん、社長はああ見えて重症なんです、治るまで休むと今言いましたよね」
「そうなんでしょうけど……」
雪斗は頭の中で立てたプランを文書化してはくれない、社長決済が無ければ前になる進まない事がいつの間にか増え、いてくれないと困るが……渡辺の視線に押さえつけられ続きは言えなくなった
元々雪斗に呼び出されたのは佐鳥と松本だけ
怒られてまで長居する必要もなく、避難訓練に向かう小学生のようにゾロゾロと並んで出て行き、最後になった佐鳥が足を止めて振り返った
「何か用ですか?早く帰ってください」
今度こそ佐鳥を殴り倒したいが今ドアを離れるとまだドアを蹴ってる雪斗が飛び出てくる
「仕事がありますから言われなくても帰ります」
「佐鳥くん………雪斗はああ言ったが……出来れば自分から辞めてくれませんか?君の為でもある」
「………俺が昨日言った事は本気ですよ」
「……本気って………」
ただの勘違いなのに真剣になってる佐鳥が馬鹿みたいで笑いが込み上げてきた
「いかがわしい目付きで雪斗を見ているうちに嵌っただけでしょう、そんな奴は何人もいた」
「それは………」
………言われてみれば渡辺の言う通りだが……そんな浅い関係じゃないと信じたい
「そんなんじゃないんです、俺達は……」
「俺達って何ですか、佐鳥くん、はっきり言えばこれはあなただけの問題です、雪斗が同意したとは思えない、あの人はあなたなんかいなくても前に進みますよ」
「……少なくとも必要としてくれた事はあります」
「雪斗の中には誰もいない、誰も必要としていない、私はこの十年ずっと見てきた」
誰も寄せ付けずずっと側にいた渡辺ですら一歩も中には立ち入ることは出来ないでいる
「………中に入って………見せます」
やれるものならやればいい……
本当の雪斗が見えて来る頃にわかるだろう
「私は忠告しました、それでもいいと言うならさっさと仕事に行ったらどうですか」
「そうしますよ」
何でもいいから早く出て行けと待ち構えていた皆巳は、佐鳥が足を踏み出すと封印するようにドアを締めた
「渡辺さん、申し訳ありませんでした」
頭を下げられても笑って"大丈夫です"とは言えない、出来ればお茶など出す暇があるなら追い出して欲しかった
「あなたのせいじゃ無いとわかっています………」
八つ当たりが顔に出そうで………誤魔化す為に静かになった寝室のドアを覗くと、ふてくされたように毛布に潜り込んだ雪斗がベッドの上で丸くなっていた
大学に行っても何の足しにもならない、とビジネス専門学校に入って英語をみっちり勉強した
中堅の専門学校には遊びたいだけの奴も含め、色んな目的を持った学生がいたが松本は何が何でも英語力を磨き大手に就職するつもりでいた
しかしそれは甘かった、学歴社会は依然と就職戦線に大きく立ちはだかり、闘いの舞台にすら上がれない、妥協とまでは言えないが中小企業の中でも給料が高いTOWAを受けたのはふるい落とされ、流されたからだった
だからと言って舐めていたつもりは無かったが舐めていた、TOWAを舐めていたというより社会人として働く事を舐めていた
利益率が良く業績が安定していた為か入社した頃のTOWAは怖かった社長を除き他の重役陣に覇気が無く(野島部長を除く)のんびりした社風だった(と思う)
そのTOWAを雪斗が全部混ぜ返し環境がガラリと変わってしまった
人手が足りなくなり突然最前線に加われと担当を割り振られたが、ただ注文を聞いてくるだけの仕事がこんなにも難しいとは思わなかった
初めて挨拶に向った先の担当者に酸化防止剤の種類と利益分布を聞かれたが即座に答えらず、たった2日でクビになってしまった
「あそこの担当は待たないんだ、お前のせいじゃない」
「深川さんなら答えられましたか?」
「俺なら言い方を変えて誤魔化す、そんなもん賞味期限2ヶ月か二週間かどっちが儲かるかなんて誰にわかる、ほらこれに社長の判子を貰って来てくれ」
「はあ……」
情けないことに………"松本にはまだ無理"と屈辱の判断を下され営業補助に舞い戻っていた
あの騒動は何だったのか…………退院(?)して3日、つまり怪我をしてまだ3日しか経っていないのに一度渡辺に一掃された雪斗のマンションは今TOWAの別社屋のようになっていた
携帯を持たない雪斗にみんな困っていたのに今度は携帯を渡せと渡辺が詰め寄っても離そうとせずに、止められようが怒られようがバンバン呼び出しの電話がかかってる
しかもかけてくるのはいいがこっちからかけても出てくれない
そのせいでマンションの暗証番号はもう既にTOWAの公共物となり誰彼が自由に出入りしている
「社長のマンション……怖いんですよね」
「ああ、鉄仮面な、お前は超激レアなトランスフォーム見てるからな」
「うん、皆巳さんも怖いんですけどね……」
事故のあった日から毎日直接雪斗のマンションに"出社"している皆巳は社長の呼び出しならと何も言わないが当りがきつい
自業自得だからそれは仕方がないが、雪斗の個人宅に行く事自体が怖かった
木下にホモ呼ばわりされて自分のした事が"そういう意味を持つ"と初めて気付き、もしかして時分にはその毛があるのだろうか考え込んでしまった
佐鳥と緑川の独特な仲の良さを羨ましいと思ったが、どっちかとチューしたいかと言えばそれはない、ってか絶対無理……
当たり前だが、どう考えても男に性的な興味はないのに雪斗なら行けると思ってしまう自分が怖い
雪斗も雪斗でちょっとくらい用心してくれたらいいのに、これを見ろと手元に呼んで平気で頭を寄せる
今この世で一番信用出来ない奴が自分自身だなんて笑えない
「俺はホモじゃない……ちょっと憧れただけだ……」
そう歳は変わらないのに大金を動かし、一癖も二癖もあるベテランを手玉に取る雪斗はかっこいい、怪我をしても平気な顔で仕事をする雪斗はかっこいい、血を流してバク宙とか女に刺されるとか………
………効かない呪文を唱えながら歩いているとあっという間にマンションに着いた、この近さもTOWA別棟になっている原因だった
雪斗には勝手に入って来いと言われているがそんな訳にもいかない、皆巳が出て来ない事を祈りながらインターフォンを押すとドアから顔を出したのは木下だった
「何だ松本、またお前か」
「俺は今使いっ走り専門ですからね、木下さんは?何してるんですか?」
「俺は今昼休憩」
「え?ここで?」
営業に出ている人種はそれぞれが本当に図太い、木下はソファの下に座り仕事をしている雪斗の横でコンビニ弁当を広げて食べていた
社長の自宅にフラリと立ち寄り休憩所にするなんて社会構造的にもどこか変だ
「あれ?松本産が来たんですか?深川さんはどうしたんですか?」
足に乗せたノートパソコンを閉じて雪斗が顔を上げた
「すいません、深川さんは身体検査の予約があって俺が代わりに来ました」
「お前も社長が好きだな……」
木下がからかい口調でボソッと呟くと、ダイニングテーブルに座っていた皆巳から黒い瘴気がドロドロと流れ込んで体に巻き付いた
「木下さん、やめてください、今は仕事中なんで遊んでる暇は無いんです」
「通訳の事か?」
「はい、深川さんの渡航先は高等教育を受けた一部の高官しか英語が通じないらしいんです、フランス語が一般的な筈ですが電話した深川さんによるとドワーフと話してるみたいだったって」
「今から勉強したら間に合うんじゃないですか?」
「無理ですよ……社長じゃあるまいし……それに教材はどこにあるんです……」
「……何語?ドワーフってアフリカ人なのか?」
「……さあ……」
今から勉強しろって……本気くさい所が怖いが現実的じゃ無い、まったく馴染みの無い現地語を、出来れば日本語かせめて英語に通訳してくれる人材を連れて行くのが一番手っ取り早い
「現地出身の人間が同行してくれたらいいんですが……出稼ぎにでも来ていないか探してリクルートしてもいいですか?」
「こんな名前も聞いたことない国から誰か来てるかな…………どっかのビルに大使館があるって契約書に書いてあったな……」
足に乗っていたパソコンを横に置いて立ち上がろうとした雪斗が膝が伸び切る直前でピタリと動きを止めた
「社長?…………」
「松本……ちょっと支えてろ……」
「え?……」
木下のように図々しく座り込む事が出来ないで立ったまま話していた松本の耳元を囁き声が撫でた
「……あの女にバレないように……頼む…」
「あ……あの……」
ふいっと雪斗が頭を動かせばふわふわふわ揺れる髪………駄目だとわかっていても目が離せなかった
色々怖くて近くには寄れなかったが、ずっと視線だけで追っていたからわかる………雪斗はちょっと体を撚るだけでもくっと歯を食いしばる
「痛むん……ですか?」
「違う……暗くて目が見えない…………すぐ直るから……」
「俺は、大丈夫です……」
本当なら支えるか、座らせた方がいいが腕が固まって上がらない
ちょっとでも動いたら必死で保っている均衡が崩れ落ちてしまいそうで肩を貸したまま待っていた
「何をしてるんです」
背中から皆巳の低い声が聞こえてギクッとした
慌てて振り返ると………手にまたダスキンモップを持っていた
「いや!あの!違います!しゃ!社長が……」
皆巳がこんなにすぐヒートアップするタイプだなんて誰も知らなかったのに雪斗が来てから急に顕著になっている、言い訳も事情も聞かずに問答無用で振り上がったモップを避けたいが……残念ながら今は無理だった
往復で2回……それくらいなら殴られてやろうと目を閉じると、振り下ろされる寸前だったモップは雪斗の様子に気付いてピタリと動きを止めた
「社長?」
「何だよ松本……また社長を襲ってるのか?」
「違いますよ!!俺は……」
弁当を食べ終わりソファに座ってスマホをいじっていた木下に気を取られるとドスッと脇腹に肘鉄を食らい言いかけた言葉が咽た咳に取って変わった
「社長、座って下さい」
「何でもない………」
「嘘ばっかり、木下さん、社長が貧血を起こしてます、ちょっと頼めますか?」
皆巳は一番近くにいる松本を無視して木下が座るソファに雪斗を預け、タオルを絞りに走っていった
「すいません、木下さん……」
「やっぱりまだ無理してるんですね、まあ…あれだけ血が出てたし……当然ですかね…」
皆巳に押し付けられた雪斗の体が木下の太腿に半分乗っていた
トンっと肩に凭れた雪斗との構図は多分ソファに座ってイチャイチャしているラブラブカップル………甘える女の肩を抱き寄せているみたいだが雪斗は嫌がりもせず木下の腕の中に収まっていた
「だ……大丈夫ですか?」
「…………」
ふうっと息を付いた雪斗が焦点の鈍い目を細めて近い所で木下を見上げた
「木下さん……いつまでここにいる気ですか?」
「あ…………はは……バレてました?」
「まさか誤魔化せてると思ってたんですか?サボり過ぎです」
色が白いなと思った事はあったがドアップで見る雪斗は仕事を通し何気なしに見ていた顔と全然違った
冷たい汗に濡れた額に皺を刻み、ニッと形を歪めた唇が妙に透明だった
「俺!戻ります………仕事に……松本、行くぞ」
「はい!木下さん!そうしましょう!社長!さっきの話は深川さんと相談してこっちで進めます、皆巳さんすいませんが後はよろしくお願いします!」
松本は木下がタイミングよく帰ろうと言ってくれて死ぬ程ホッとした
信用出来ないのは自分の手だと思っていたが、無警戒だった変な場所が暴走した
どう見ても男相手なのに……貧血を起こし青白くなった額に浮かんだ玉の汗、力を抜いてソファに投げ出した体、虚ろな瞳を見て………いつのまにかハァハァ言ってる
ハッと正気に戻ると前が元気になっていた
皆巳に気付かれると今度はモップで叩き出されるだけじゃ済まない
グイッとジャケットの前を閉じ、前屈みになって玄関まで急いだ
「松本さん、大使館への問合わせと一緒に江川さんに言ってSNSとかにも拡散して貰ってください」
「はい!はい!直ぐやります、このまま大使館に行きます!連絡先します!」
靴を履くのももどかしい、買ったばかりの革靴だが踵を踏んでマンションから飛び出した
「やっと帰ってくれた……全く…困ったもんだわ………」
水で絞った冷たいタオルを首に当てると雪斗は自分で抑えてすぐにパソコンを拾い上げた
「社長もあまり困らせないでください、無理ばかりして」
「言われた通り部屋でじっとしているだろ、これ以上文句言うな」
「休んでいないでしょう」
雪斗を止めても聞かないともうわかっている
そんなに早く回復出来る訳ないのにパソコンの画面はもうモロッコ周辺、ザンジバル諸島の言語、通訳、と検索をかけていた
心配された感染症や発熱は落ち着いたが今度は貧血が酷くなって来ている、長野医師は抗生物質以外の薬は出してくれず、今の所食事療法以外手は無かった
「社長、私は少し出ますが大丈夫ですか?」
「俺は何とも無い、皆巳さんもこんな所に張り付いてないで自分の仕事をしてください、秘書にご飯の面倒まで見させてるなんて俺が労働局に怒られる」
「じゃあ自重してください、私は"ご飯"の買い物に行ってきます、帰ってくるまでお昼寝をしてくださると助かります」
ソファの横に畳んで置いてあった毛布を雪斗の頭に被せ、消化の良い鉄分メニューを考えながらタクシーを呼んだ
ボリュームのある付け睫毛が大好きだった
二重シールを瞼に貼り付けマスカラをたっぷり付けると別人に……本当の自分になれる
水谷は更衣室にあるロッカーの前で念入りに睫毛を増量して意気揚々と外出した
社長のマンションに行くチャンスをようやく手に入れた、経理上で収支を測っていた未回収金リストを頑張って午前中だけで仕上げたのだ、誰にも文句は言わせない
マンションの暗証番号は知っている、少なくとも玄関先までは行ける筈だった
エントランスで皆巳にバッタリ会わなければ………
「後で私が回収しますからポストに入れておいて下さい」
そう言われてマンションに足を踏み入れる前に追い払われてしまった
「タイミング最悪………」
あわよくば長居してやろうと目論んで鞄ごと持ってきたのに悔しいが帰るしかない
その辺でサボってやろうかと殊更ゆっくり歩いていると、背が高くてパリッとしたスーツを着たイケメンと目が合った
「すいません、TOWAの方ですか?」
「はい?……はい!そうです!」
ニッコリ笑った口元からは清潔感溢れる真っ白な歯が覗き………胸には弁護士バッチが光っている
今TOWAの社員証を外しかけていた所だった、誰かは知らないがこんなタイミングはもう運命と言える
「良かった……ちょっと迷ってしまって……」
「何かご用ですか?」
「社長と渡辺弁護士に会いに来たんですけど場所がわからなくて困っていたんです」
「私も丁度会社に戻る所なんです、ご案内しますよ」
口の両端を上げて瞬きの回数を増やす、なるべく近くから目だけで相手を見上げる
かわいいポーズは毎日鏡相手に練習してる
全力で自演した
「出来れば社長とお会いしたいんですが今いらっしゃいますか?」
「社長は……不在ですが渡辺弁護士は今出社していらっしゃいます」
「社長は外出中なんですか?」
「いえ………今出社を控えていて……」
イケメン弁護士の隣に並ぶと高そうな香水の匂いがする、歳は40前くらいだろうか、少し年上だがある意味理想的だった、同じ職業だからなのか知性溢れる落ち着いた雰囲気がちょっと渡辺と似ている
たくましい胸に組んだ筋の浮く男っぽい手が、困ったな…と口元に伸びた
「あの!今社長のマンションは会社の第二社屋みたいになっているんです、直接行かれてはどうですか?」
「マンション?ご自宅ですか?」
「はい、良かったらご案内しますけど」
その男は満面の笑みを浮かべて白い歯を見せた
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