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ろくろくろく

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湖の底

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黒江はいつ、どんな時でも大人だった。
料金が掛かっている筈のレンタルスタジオをものの5分で逃げ出しても文句一つ言われた事は無い。
大人が相手なのだから何をしても許されると思っている幼稚な思い込みの正体は黒江がいつも笑ってすませてくれていたからだとわかっている。

だからあんな黒江を見るのは初めてだった。
何をしてしまったのかがわからない所が最大の問題なのであろうが、真城にもよく言われるように人を苛つかせるのは得意らしい。

音が邪魔だった。
何をしていても体に纏わりついて来る音が無ければこんな事にはならない。

「寒い……」

今すぐ折り返してログハウスに戻れば黒江はきっといつものように笑って許してくれるだろう。
しかし、もう少しだけ混乱した頭を冷やしたかった。
どこに向かっているのか定まらないまま歩いて、歩いて、気が付いたら薮の中にいた。

鼻の先と耳たぶが痛む程冷え切り、指が悴んで感覚が無い。しかもいつの間にか空に立ち込めていた厚い雲が闇に隠れて見えなくなっている。
このままではじきに日が暮れてしまう事に気が付いて慌てて引き返そうとしたら……誰かに足首を掴まれた。

「痛ったぁ~……」

足元に張った枯れ蔦に足を取られて薮の中に頭から突っ込んだらしい。

見た目はフカフカなのに倒れ込むとモロに地面だ。立ちあがろうと手近な蔦を掴むとブチブチと音がするだけで手繰っても、手繰っても切れはしない、かと言ってつかまる事も出来ない。
仕方が無いから足に絡み付く枯れ草を蹴って立ち上がろうとしたが……

手を付いた場所には草しか無かった。

「うわ?…あ」

突然襲われた浮遊感に内臓がヒヤリと浮いた。
バサバサと耳元を打つ枯れた音と共に、グルンと空が回って上とか下かわからなくなっている。

「うわっ…ぶふ…」

どれくらい滑り落ちたのか……目を閉じたまま転がって、転がって、気が付いたら足を空の方に向けて止まっていた。

多分だけどどこから転げ落ちてしまったらしい。
生い茂った薮のクッションに受け止められたから体は何ともないが帰るのはより厄介になってしまった。

しかし、黒江のいるログハウスからは数分走って数分歩いただけの場所なのだ。
少し休んでから登ればすぐに帰れると思っていた。

「……………あれ?手が……見えない?」

白っぽいウォームグレーのコートも見えない。
ハッと顔を上げると空も木も区別が付かない程真っ暗だった。
カーテンを締め切った部屋の中だろうと、一度だけ入った遊園地のお化け屋敷だろうとどんなに暗い場所でも真の闇など生まれて初めてだ。

しかし、音はある。
この葉を撫でるように降り続く霧雨が耳鳴りのように続いている。
遠くから、近くから、身を寄せ合い大きくなった水滴がパタタと音を立てて落ちていた。

「本当に……湖の底に来たみたいだよ、黒江さん」

どんな顔をすればいいのかわからなくて出て来たがきっと心配しているだろう。
分刻みで増して行く寒さの中、もしも雨が本格的に降り出したら酷い目にあうことはわかっているのに立ち上がる気にはなれなかった。

体が消えてしまったような暗闇が心地いい。
ずっと……何度も消えてしまいたいと思っていた願いが叶ったかのようにも思える。

風が揺らす木の葉が擦れ合う音がさざめく水の呼吸のように聞こえた。
余程気温が低いのか耳たぶがちぎれるように痛んでいる。おまけに転んだ時に濡れた服から水が染みて来ていて冷たいのに、そのまま眠れてしまうくらい馴染んでいた。

立ち上がれば嫌でもなんでも悴んだ感覚の無い手で草や木の根を掴み、濡れた斜面を登らなければならない。
もう少しだけ暗く静かな水の中にいたいと座り直し、膝の上に片耳を付けて耳を澄ました。

真っ暗だった。
真っ暗なのに……不思議なものだ、奥行きのある黒だった。

音かな。

耳の側でパランと葉の弾ける音が聞こえたと思ったら遠くからもパタタと聞こえる。

手を伸ばせば水が搔けそうだ。

少しだけ残念なのは少しだけ、ほんの少しでいいから青が混ざっていればな……なんて思う。

今、自分がどんな場所に蹲っているのかはわからないが上手く雨を避けているようだった。
もっと近くに寄ってこないかな……と思ったら耳の横にボタンッと大きな水滴が落ちて来た。

「冷た…」

思わず声を上げた時だった。
もう片方の耳が斜面の上でポキンと枝を踏む微かな音を拾った。

「黒江さん?」

呼んでみたが返事はない。
酷く怒らせたのだからそれも当然だろう。

「もうちょっとしたら帰るから先に戻ってて、心配しなくても俺は大丈夫、帰ったらお風呂に入って暖まったら……さっきの続きをやろう」

黒江の事だからきっともういつもの大人に戻っているだろう。それでも「大丈夫」と告げたつもりだったのだが………返事はボキボキボキと何かを砕く音だ。

「え?枯れ木を食ってる?何してんの?」

もしかして黒江では無いのか?
また返事の代わりにポキンと枯れ枝を折る音が聞こえた。続いてザザッと草が揺れたものだから思わず手足を丸めて小さくなった。

「え?…誰?」

黒江だと思い込んで話しかけていたが、もしも黒江なら散々文句を言いながらデカい体躯を活かして問答無用でログハウスに連れて行かれるだろう。

では何なのか、確かに人の気配はするのに何も言わない。咄嗟に頭の中に浮かんだのは熊だったのだが空気を伝う雰囲気はやはり人だと思えた。

誰でも……何でもよかったのだ、見えない空でも、葉の上で丸くなっている滴でも何でもいいからいいから話しかけた。

「ねぇ、もし暇なら湖の底に連れて行ってくれない?きっとここよりは暖かいと思うんだ。」

刺すように寒かった早い朝の凪いだ湖面からふわふわと立ち上る水蒸気は湯気そのものだった。
山の方から顔を出した太陽の光を受けてキラキラと瞬く水面は美しくて水の上を歩いて行きたいと思ったのだ。

話しかけている相手が誰でもよかったのだが、ミシリミシリと枯れ枝を踏む音が近づいて来ると突然気付いた。
真っ暗で本当に何も見えない中、声で居場所を確かめているらしい。

「あの……悪いけど…返事をして貰えると助かるんだけど……誰?」

もしかして口のきけない人なのかもしれないが耳は聞こえていると思える。
さっきのように枝を折るなり枯れ木を食うなりしてくれれば会話になる筈だと思ったら、頭の上からフワリと落ちて来た柔らかい感触にビクっと体が跳ねた。
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