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悪役令嬢は悪徳商人に拐われる
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「メル!」
飛び込んだ寝室で、メイヴィスはいまだ夜着のまま窓の近くで青い顔をしていた。
「ヴィンス…!」
抱き締めると懸命に縋りついてくる。
小さな手をヴィンセントの顔のあちこちに滑らせて「大丈夫?」と眉を下げる。
「何もされてない?嫌なことも言われてない?大丈夫?」
「大丈夫だよ。不愉快だったが何もなかった。ちゃんと追い返した」
メイヴィスはこくこくと忙しく頷く。
「見てたわ。王子が屋敷を出ていくところ。一緒にいたご令嬢が、新しい方…?」
「そうだよ」
しかしメイヴィスはサラのことなどどうでもいいようで、伸び上がってヴィンセントの首に腕を巻きつけると「怖かった…っ」と震えながらしがみついた。
「ヴィンスが連れて行かれちゃうのかと思った、怖かった…!」
「大丈夫。ここにいる」
突然ジュリアスが押し掛けてきたことはメイヴィスにとって大変な恐怖だった。
マヤが付き添ってくれていたとはいえ、ずっと恐慌状態だったようで、ヴィンセントは彼女の背中を何度も撫で擦る。
「殿下のご用事はなんだったの…?」
揺れる瞳で問いかけられ、簡単に説明した。
「協力するの?」
「うちの商会では手に負えないから、断ったよ」
メイヴィスはほっと息をつく。それから「ねぇ、ヴィンス?」と囁いた。
「…わたくし、このままでいいのかしら。あなたの迷惑になっているんじゃない?」
メイヴィスは、メイヴェルの名を捨てたことも、ヴィンセントと結婚したことも、後悔していない。けれど負い目ではあった。もしメイヴェルを匿うことで、ヴィンセントが王家に目をつけられてしまったら――。
「ずっと隠しておかないといけない女なんて面倒でしょう…?ヴィンスは有能だけど、わたくしはいつか必ずあなたの足を引っ張る日が来るわ。今のわたくしは侯爵令嬢という肩書きも、王子の婚約者という付加価値もない、ただの世間知らずの娘です」
メイヴィスはヴィンセントを見上げる。
「わたくしはあなたの為にならない。そうでしょう?」
「ああ、メル……!!」
ヴィンセントは愕然とした。
悲しみに染まった表情の中、瞳だけが理知的に澄んでいる。思い詰めたメイヴィスがすでに心を決めていることを感じる。
「いまからでもバーネット家に戻れば、きっと…」
「駄目だ!」
ヴィンセントが叫んだ。
「それは駄目だ、メル。メイヴィスは渡さない」
メイヴィスは目を見開いた。
「メルはこのままでいい、頼むからメイヴィスのままでいてくれ…!!」
ヴィンセントが声を荒げたからではない。その声があまりにも悲痛な色だったから。
「ヴィンス……」
「ああくそ…っ、全部あの王子のせいだ」
ヴィンセントはメイヴィスから離れて背中を向けた。
「…すまない。けれど、オレはメルを手放す気はない。そのことで悩む必要はないんだ」
頭を抱えて長く息を吐く。それからくるりと振り返った。メイヴィスを見て、少し笑う。
「メル、王都を出ないか」
「え……?」
「目的はほぼ達成したし、元々そろそろ戻ろうと思ってたんだ」
「目的…?」
「ちょうど領からも連絡があって、近々領主の代替わりがあるらしい。共に祝いに行こう」
「お祝い…でも…商会はいいの?」
「王都の店は支店なんだ。本店はレアード領にあるから問題ない」
ヴィンセントが困ったように微笑む。
「動けなくなる前に動いておきたい」
「動けなくなるというのは、わたくしが原因で、ですか…?」
「メルを安全に移動させたいのもひとつだな」
どうだろう、と下手に御伺いを立てられて。
「メルを家族に紹介したいと思ったんだ。ダメか?」
「だめ、じゃ、ないわ……」
メイヴィスはおずおずと頷いた。
「大丈夫、誰にもなにも言わせないよ」
―――もっとももう戻ってくることもないと思うが。
ヴィンセントはにっこり笑ってメイヴィスの両手をきゅっと握った。
***
「ごきげんよう、奥様。道中よろしくお願い致します」
「よろしくね、ラニー」
レアード商会の副会頭であるラニーは赤髪の爽やかな好青年だ。メイヴィスもにこりと笑みを返す。
「しかしずいぶんと急ぎましたね。奥様と二人で優雅に移動するかと思っていたのに」
「事情が変わったんだ」
ラニーの言う通り、ヴィンセントははじめ観光を兼ねてゆっくり時間をかけて移動するつもりだった。
ところがジュリアスがレアード商会どころか、ヴィンセントの屋敷にまで押し掛けてきた以上、いつ厄介事に巻き込まれるか知れない。
そのため商会の行商隊に相乗する形でレアード領に向かうことになった。
ラニーにもこの辺りの事情は伝えている。
大きな箱のような形をした黒い荷車が何台も続く様子は圧巻だった。レアード商会の隊商はすべて黒い。車体も車輪も馬もすべて。
メイヴィスは圧倒された。
「すごいわ…」
「レアード領は海沿いの国境地帯にある。かなり距離がある上、行商隊だから各領を巡って行く。長い旅路になるが堪えてほしい」
「大丈夫。がんばるわ」
「それぞれの街では宿を取る。負担はなるべくかけないようにするから」
「ありがとう、ヴィンス」
夜営の準備もしているというが、馬車そのものがかなり大きく、さらに座面を変形させればメイヴィスとマヤくらいなら十分横になれると説明された。
長距離移動に耐えられるよう、なるべく振動が伝わらないように作られているとも。
商会の行商というものは様々な工夫がされているのね――とメイヴィスは驚いたが、これはもちろん隣国から特殊技術を取り入れたレアード商会が、ひいては、ヴィンセントが特別なだけだ。
メイヴィスと同じ馬車には、ヴィンセントとマヤ、それからラニーが乗ることになった。
執事はじめ屋敷の使用人たちの半分は他の馬車に、残りの半分は別ルートでレアード領に向かう手筈になっている。
同様に、王都の商会の従業員たちが一部この行商隊に同行していた。そのため今回の隊商はいつになく壮大なものとなったが、メイヴィスはそれを知らない。普段からこの規模だと思っている。
飛び込んだ寝室で、メイヴィスはいまだ夜着のまま窓の近くで青い顔をしていた。
「ヴィンス…!」
抱き締めると懸命に縋りついてくる。
小さな手をヴィンセントの顔のあちこちに滑らせて「大丈夫?」と眉を下げる。
「何もされてない?嫌なことも言われてない?大丈夫?」
「大丈夫だよ。不愉快だったが何もなかった。ちゃんと追い返した」
メイヴィスはこくこくと忙しく頷く。
「見てたわ。王子が屋敷を出ていくところ。一緒にいたご令嬢が、新しい方…?」
「そうだよ」
しかしメイヴィスはサラのことなどどうでもいいようで、伸び上がってヴィンセントの首に腕を巻きつけると「怖かった…っ」と震えながらしがみついた。
「ヴィンスが連れて行かれちゃうのかと思った、怖かった…!」
「大丈夫。ここにいる」
突然ジュリアスが押し掛けてきたことはメイヴィスにとって大変な恐怖だった。
マヤが付き添ってくれていたとはいえ、ずっと恐慌状態だったようで、ヴィンセントは彼女の背中を何度も撫で擦る。
「殿下のご用事はなんだったの…?」
揺れる瞳で問いかけられ、簡単に説明した。
「協力するの?」
「うちの商会では手に負えないから、断ったよ」
メイヴィスはほっと息をつく。それから「ねぇ、ヴィンス?」と囁いた。
「…わたくし、このままでいいのかしら。あなたの迷惑になっているんじゃない?」
メイヴィスは、メイヴェルの名を捨てたことも、ヴィンセントと結婚したことも、後悔していない。けれど負い目ではあった。もしメイヴェルを匿うことで、ヴィンセントが王家に目をつけられてしまったら――。
「ずっと隠しておかないといけない女なんて面倒でしょう…?ヴィンスは有能だけど、わたくしはいつか必ずあなたの足を引っ張る日が来るわ。今のわたくしは侯爵令嬢という肩書きも、王子の婚約者という付加価値もない、ただの世間知らずの娘です」
メイヴィスはヴィンセントを見上げる。
「わたくしはあなたの為にならない。そうでしょう?」
「ああ、メル……!!」
ヴィンセントは愕然とした。
悲しみに染まった表情の中、瞳だけが理知的に澄んでいる。思い詰めたメイヴィスがすでに心を決めていることを感じる。
「いまからでもバーネット家に戻れば、きっと…」
「駄目だ!」
ヴィンセントが叫んだ。
「それは駄目だ、メル。メイヴィスは渡さない」
メイヴィスは目を見開いた。
「メルはこのままでいい、頼むからメイヴィスのままでいてくれ…!!」
ヴィンセントが声を荒げたからではない。その声があまりにも悲痛な色だったから。
「ヴィンス……」
「ああくそ…っ、全部あの王子のせいだ」
ヴィンセントはメイヴィスから離れて背中を向けた。
「…すまない。けれど、オレはメルを手放す気はない。そのことで悩む必要はないんだ」
頭を抱えて長く息を吐く。それからくるりと振り返った。メイヴィスを見て、少し笑う。
「メル、王都を出ないか」
「え……?」
「目的はほぼ達成したし、元々そろそろ戻ろうと思ってたんだ」
「目的…?」
「ちょうど領からも連絡があって、近々領主の代替わりがあるらしい。共に祝いに行こう」
「お祝い…でも…商会はいいの?」
「王都の店は支店なんだ。本店はレアード領にあるから問題ない」
ヴィンセントが困ったように微笑む。
「動けなくなる前に動いておきたい」
「動けなくなるというのは、わたくしが原因で、ですか…?」
「メルを安全に移動させたいのもひとつだな」
どうだろう、と下手に御伺いを立てられて。
「メルを家族に紹介したいと思ったんだ。ダメか?」
「だめ、じゃ、ないわ……」
メイヴィスはおずおずと頷いた。
「大丈夫、誰にもなにも言わせないよ」
―――もっとももう戻ってくることもないと思うが。
ヴィンセントはにっこり笑ってメイヴィスの両手をきゅっと握った。
***
「ごきげんよう、奥様。道中よろしくお願い致します」
「よろしくね、ラニー」
レアード商会の副会頭であるラニーは赤髪の爽やかな好青年だ。メイヴィスもにこりと笑みを返す。
「しかしずいぶんと急ぎましたね。奥様と二人で優雅に移動するかと思っていたのに」
「事情が変わったんだ」
ラニーの言う通り、ヴィンセントははじめ観光を兼ねてゆっくり時間をかけて移動するつもりだった。
ところがジュリアスがレアード商会どころか、ヴィンセントの屋敷にまで押し掛けてきた以上、いつ厄介事に巻き込まれるか知れない。
そのため商会の行商隊に相乗する形でレアード領に向かうことになった。
ラニーにもこの辺りの事情は伝えている。
大きな箱のような形をした黒い荷車が何台も続く様子は圧巻だった。レアード商会の隊商はすべて黒い。車体も車輪も馬もすべて。
メイヴィスは圧倒された。
「すごいわ…」
「レアード領は海沿いの国境地帯にある。かなり距離がある上、行商隊だから各領を巡って行く。長い旅路になるが堪えてほしい」
「大丈夫。がんばるわ」
「それぞれの街では宿を取る。負担はなるべくかけないようにするから」
「ありがとう、ヴィンス」
夜営の準備もしているというが、馬車そのものがかなり大きく、さらに座面を変形させればメイヴィスとマヤくらいなら十分横になれると説明された。
長距離移動に耐えられるよう、なるべく振動が伝わらないように作られているとも。
商会の行商というものは様々な工夫がされているのね――とメイヴィスは驚いたが、これはもちろん隣国から特殊技術を取り入れたレアード商会が、ひいては、ヴィンセントが特別なだけだ。
メイヴィスと同じ馬車には、ヴィンセントとマヤ、それからラニーが乗ることになった。
執事はじめ屋敷の使用人たちの半分は他の馬車に、残りの半分は別ルートでレアード領に向かう手筈になっている。
同様に、王都の商会の従業員たちが一部この行商隊に同行していた。そのため今回の隊商はいつになく壮大なものとなったが、メイヴィスはそれを知らない。普段からこの規模だと思っている。
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