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第二章:南北に見た景色
二話 ※R
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白い天井。ぼやけた視界が、徐々に明るさを取り戻す。
柔らかなシーツに沈んだ身体は、鉛のように重く動かない。首だけを少し傾け探ると、見憶えのない部屋にいた。木造のドアは閉じており、金属の樋のような部品が着いている。手前には小ぎれいな円卓と、その上に灰皿。真新しい煙草からはまだ、細い煙が昇る。
──と、横から伸びた手が煙草殻を掴み、灰皿に押し付けた。
「ああ、起きた」
声の主が、ジュノーの顔を覗き込んだ。面識のない少年だ。
「驚いたな。三日はかかるだろうって、医者が言うには、さ」
少しくせの付いた、透き通る銀色の髪。吸い込まれそうな藍色の瞳。おそらく歳は近いだろう。
ジュノーは肘に力を入れ、起き上がろうと試みた。しかし途端に、鈍い痛みが全身に走り、小さく呻いた。
「まあ、しばらく無理だろうな」
「ここは……」
諦めて脱力したジュノーは、情報を求めた。
「どこか、って意味なら、城」
城。思わぬ返答に、先の言葉が見付からない。
困惑した様子を読み取った少年は、おかしそうに笑った。そして徐に立ち上がり、着崩したコートを脱いで、椅子の背に掛ける。
その瞬間──ジュノーの表情が凍り付く。少年のシャツの襟元に、紋章の刺繍を見留めたからだ。
北ガラハン軍。
「腹へってんなら、なんか食う? 水は?」
ジュノーの脳裏に、昏睡する以前の記憶が蘇る。
国境際の教会へ出動し、偵察に当たっていたはずだ。仲間と共に屋内へ踏み入り、原因不明の爆発に巻き込まれた。最後に聞こえた声は、はっきりとは思い出せない。その時の衝撃でおそらく気を失い、なぜかここにいる。
あれから何があった?
他の影たちは?
彼らを率いていた、国境警備隊は──?
「おい」
不意に降った声とともに、手の温もりが顎に掛かる。少年の指が、無遠慮に唇を押し開いた。
「舌、あるんだろ。しゃべんねえの?」
ジュノーは顔を逸らし、その手から逃れた。相手を睨む。目の前にいるのは敵だ。
へえ、と少年は口端を歪めて笑んだ。
突如、視界が強引に上へ引き戻された。頬に爪が喰い込み、急な衝撃で切れた口内に、鉄の味が滲んだ。ジュノーは、少年の瞳に映る自身と目が合った。
拷問には、ひたすら耐えろ。赦しを乞うな。──テオの教えだ。
ジュノーの額に、じわりと嫌な汗が浮く。恐怖はある。しかしそれを振り払うように、固く瞼を閉じた。
「黒猫はずいぶんと、見慣れてるけどさ」
少年の手は頬を離れ、首筋に触れた。鎖骨に沿って伝い、するりと肌を下りる。そして二本の指が曲がり、胸の突起を緩く摘まんだ。
「乳首は、オレらと同じ色してんのな」
「やめろ……ッ」
ジュノーは咄嗟に叫び、腕で少年を押し退ける。それが捕らわれ、シーツに縫い付けられた。激痛に堪え切れず、悲鳴を上げる。
「は、無理に動くなって。傷が開くぜ」
痛い。怖い。動悸は治まらず、どうにかして逃げ場を探す。
少年の好奇の眼は、標的を捕らえて放さない。それは動いていた手と共に、毛布に隠れた、ジュノーの下腹へと下がった。
「……なあ、性器も黒いの?」
ジュノーの表情から、血の気が引く。滑り込んだ手が股間を掴む、ぐにゃりとした衝撃がした。下衣を隔てた嫌な感触に、思わず身をよじった。
「南の軍人はみんな、聖職者みたいな生活してんだろ? 溜まったらどうすんの。女?」
「何を……」
「んなわけねえか。知らなそうな、堅物な顔だもんな。自分では、したことあんの?」
少年はジュノーの身体を跨ぎ、ベッドが軋む音がした。挑発的な顔が近付く。
ジュノーは眉を歪め、不快に動く腕を制したが、びくともしない。投げられた言葉も、少年の行動の意味も分からない。しかし気分は最悪だ。
少年の手が下衣を潜り、そこに触れる寸前──
「何、やってんの」
ため息の混じった、第三の声が響いた。
視線をずらすと、ドアにもたれかかるように人影が立つ。赤く長い髪を後頭で結い、怪訝な色を顔に貼り付けた少女だ。腕を組んだまま、二人の様子を窺っている。
「何って、火遊び」
少年は平然と答えた。
「やめなよ。捕虜だよ、そいつ」
「だから?」
「はあ? あんた、ふざけてんの? だいたいそいつ、なんで連れてきてんの」
「見りゃあ、分かるだろ。治療受けてたんだよ」
少年は半身を起こし、少女と向き合った。
温もりが離れたことに、ジュノーは少しの安堵を覚えた。そして二人の会話から、自身の負った傷に、手当てが施されていることに気付いた。
「もう、最悪。こんなの、報告できないじゃん」
「すれば? お前が勝手に入って、勝手に騒いでんだろ」
「なんて? 男とやってました、って?」
「……やってねえよ。それはお前じゃん」
「何よ」
「靴職人の倅と。あ、見習いだっけ?」
少女はぎっと睨んだ。
気にする素振りをしない少年は、コートのポケットから煙草を抜く。
「本当、勘弁してよ、ジャックス。ばかは、治せば治るから」
「あっそ」
「分隊長がこんなの、あたし嫌だよ」
分隊長。ジャックス。ジュノーは頭の中で反芻する。聞き憶えはないが、この空間で初めて出た名だ。
少年──ジャックスは何かを探し、煙草を咥えたまま辺りを見回す。おそらく火だろう。
「で、何? 召集か?」
「……そう」
「鐘、鳴ってねえけど。オレが逃したんかな」
「緊急。その……」
少女はちらりとジュノーを見た。
「また、地下牢で一人。まだ持ってた」
意味深な報告だったが、ジャックスは真意を悟り、思わず振り返る。落ちそうになった煙草を、コートに戻した。
「まじか……理解できねえな。分かった」
「なるべく早くね」
話を切り上げると、少女は出ていった。
ジャックスも身支度を整える。動作を目で追うジュノーに、一度だけ笑みを向けた。そして足早に、少女の後に続いた。
残されたジュノーは、陽の射し込む窓を眺める。
鐘の音が届かないと、今がいつか判断できない。明るさから、日中であることは読み取れる。ただそれだけだ。
緊張が解け、ジュノーは押し寄せる疲労を感じた。
柔らかなシーツに沈んだ身体は、鉛のように重く動かない。首だけを少し傾け探ると、見憶えのない部屋にいた。木造のドアは閉じており、金属の樋のような部品が着いている。手前には小ぎれいな円卓と、その上に灰皿。真新しい煙草からはまだ、細い煙が昇る。
──と、横から伸びた手が煙草殻を掴み、灰皿に押し付けた。
「ああ、起きた」
声の主が、ジュノーの顔を覗き込んだ。面識のない少年だ。
「驚いたな。三日はかかるだろうって、医者が言うには、さ」
少しくせの付いた、透き通る銀色の髪。吸い込まれそうな藍色の瞳。おそらく歳は近いだろう。
ジュノーは肘に力を入れ、起き上がろうと試みた。しかし途端に、鈍い痛みが全身に走り、小さく呻いた。
「まあ、しばらく無理だろうな」
「ここは……」
諦めて脱力したジュノーは、情報を求めた。
「どこか、って意味なら、城」
城。思わぬ返答に、先の言葉が見付からない。
困惑した様子を読み取った少年は、おかしそうに笑った。そして徐に立ち上がり、着崩したコートを脱いで、椅子の背に掛ける。
その瞬間──ジュノーの表情が凍り付く。少年のシャツの襟元に、紋章の刺繍を見留めたからだ。
北ガラハン軍。
「腹へってんなら、なんか食う? 水は?」
ジュノーの脳裏に、昏睡する以前の記憶が蘇る。
国境際の教会へ出動し、偵察に当たっていたはずだ。仲間と共に屋内へ踏み入り、原因不明の爆発に巻き込まれた。最後に聞こえた声は、はっきりとは思い出せない。その時の衝撃でおそらく気を失い、なぜかここにいる。
あれから何があった?
他の影たちは?
彼らを率いていた、国境警備隊は──?
「おい」
不意に降った声とともに、手の温もりが顎に掛かる。少年の指が、無遠慮に唇を押し開いた。
「舌、あるんだろ。しゃべんねえの?」
ジュノーは顔を逸らし、その手から逃れた。相手を睨む。目の前にいるのは敵だ。
へえ、と少年は口端を歪めて笑んだ。
突如、視界が強引に上へ引き戻された。頬に爪が喰い込み、急な衝撃で切れた口内に、鉄の味が滲んだ。ジュノーは、少年の瞳に映る自身と目が合った。
拷問には、ひたすら耐えろ。赦しを乞うな。──テオの教えだ。
ジュノーの額に、じわりと嫌な汗が浮く。恐怖はある。しかしそれを振り払うように、固く瞼を閉じた。
「黒猫はずいぶんと、見慣れてるけどさ」
少年の手は頬を離れ、首筋に触れた。鎖骨に沿って伝い、するりと肌を下りる。そして二本の指が曲がり、胸の突起を緩く摘まんだ。
「乳首は、オレらと同じ色してんのな」
「やめろ……ッ」
ジュノーは咄嗟に叫び、腕で少年を押し退ける。それが捕らわれ、シーツに縫い付けられた。激痛に堪え切れず、悲鳴を上げる。
「は、無理に動くなって。傷が開くぜ」
痛い。怖い。動悸は治まらず、どうにかして逃げ場を探す。
少年の好奇の眼は、標的を捕らえて放さない。それは動いていた手と共に、毛布に隠れた、ジュノーの下腹へと下がった。
「……なあ、性器も黒いの?」
ジュノーの表情から、血の気が引く。滑り込んだ手が股間を掴む、ぐにゃりとした衝撃がした。下衣を隔てた嫌な感触に、思わず身をよじった。
「南の軍人はみんな、聖職者みたいな生活してんだろ? 溜まったらどうすんの。女?」
「何を……」
「んなわけねえか。知らなそうな、堅物な顔だもんな。自分では、したことあんの?」
少年はジュノーの身体を跨ぎ、ベッドが軋む音がした。挑発的な顔が近付く。
ジュノーは眉を歪め、不快に動く腕を制したが、びくともしない。投げられた言葉も、少年の行動の意味も分からない。しかし気分は最悪だ。
少年の手が下衣を潜り、そこに触れる寸前──
「何、やってんの」
ため息の混じった、第三の声が響いた。
視線をずらすと、ドアにもたれかかるように人影が立つ。赤く長い髪を後頭で結い、怪訝な色を顔に貼り付けた少女だ。腕を組んだまま、二人の様子を窺っている。
「何って、火遊び」
少年は平然と答えた。
「やめなよ。捕虜だよ、そいつ」
「だから?」
「はあ? あんた、ふざけてんの? だいたいそいつ、なんで連れてきてんの」
「見りゃあ、分かるだろ。治療受けてたんだよ」
少年は半身を起こし、少女と向き合った。
温もりが離れたことに、ジュノーは少しの安堵を覚えた。そして二人の会話から、自身の負った傷に、手当てが施されていることに気付いた。
「もう、最悪。こんなの、報告できないじゃん」
「すれば? お前が勝手に入って、勝手に騒いでんだろ」
「なんて? 男とやってました、って?」
「……やってねえよ。それはお前じゃん」
「何よ」
「靴職人の倅と。あ、見習いだっけ?」
少女はぎっと睨んだ。
気にする素振りをしない少年は、コートのポケットから煙草を抜く。
「本当、勘弁してよ、ジャックス。ばかは、治せば治るから」
「あっそ」
「分隊長がこんなの、あたし嫌だよ」
分隊長。ジャックス。ジュノーは頭の中で反芻する。聞き憶えはないが、この空間で初めて出た名だ。
少年──ジャックスは何かを探し、煙草を咥えたまま辺りを見回す。おそらく火だろう。
「で、何? 召集か?」
「……そう」
「鐘、鳴ってねえけど。オレが逃したんかな」
「緊急。その……」
少女はちらりとジュノーを見た。
「また、地下牢で一人。まだ持ってた」
意味深な報告だったが、ジャックスは真意を悟り、思わず振り返る。落ちそうになった煙草を、コートに戻した。
「まじか……理解できねえな。分かった」
「なるべく早くね」
話を切り上げると、少女は出ていった。
ジャックスも身支度を整える。動作を目で追うジュノーに、一度だけ笑みを向けた。そして足早に、少女の後に続いた。
残されたジュノーは、陽の射し込む窓を眺める。
鐘の音が届かないと、今がいつか判断できない。明るさから、日中であることは読み取れる。ただそれだけだ。
緊張が解け、ジュノーは押し寄せる疲労を感じた。
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